W. K. マリオットによる英訳

*ニコロ・マキアヴェッリ、一四六九年五月三日、フィレンツェに生まれる。一四九四年から一五一二年までフィレンツェで公職にあり、その職務にはヨーロッパ各地の宮廷への外交使節も含まれていた。一五一二年、フィレンツェで投獄。のちに追放され、サン・カシャーノへ戻る。一五二七年六月二十二日、フィレンツェにて死去。*

序論

ニコロ・マキアヴェッリは一四六九年五月三日、フィレンツェに生まれた。父は、相応の名声を得ていた法律家ベルナルド・ディ・ニコロ・マキアヴェッリ、母はその妻バルトロメア・ディ・ステファノ・ネッリである。両親はいずれも、古くからのフィレンツェ貴族の家柄に属していた。

マキアヴェッリの生涯は、おのずと三つの時期に分かれる。そして不思議なことに、そのそれぞれがフィレンツェ史における独立した重要時代と重なっている。若き日は、ロレンツォ・デ・メディチ、イル・マニフィコ[訳注:「豪華王」の意で知られるロレンツォの称号]の指導のもと、イタリアの一大勢力としてフィレンツェが栄華をきわめた時代と並行していた。フィレンツェにおけるメディチ家の没落は一四九四年に起こり、その年にマキアヴェッリは公職に就いた。在職中のフィレンツェは共和国のもとで自由を保っており、その体制は一五一二年、メディチ家が権力の座に返り咲くまで続いた。そしてこのとき、マキアヴェッリは職を失った。その後メディチ家は一五一二年から一五二七年まで再びフィレンツェを支配し、やがてもう一度追放される。この時期こそ、マキアヴェッリが文学活動を展開し、その影響力をいっそう強めていった時代である。だが本人は、メディチ家追放からわずか数週間後の一五二七年六月二十二日、五十八歳で、ついに官職を取り戻すことなく世を去った。

青年時代 ―― 二十五歳まで――一四六九‐九四年

マキアヴェッリの若き日について記録は多く残っていない。だが当時のフィレンツェについてはよく知られているため、この代表的市民がどのような空気の中で育ったかは、たやすく想像できる。あのころのフィレンツェは、正反対の二つの生の潮流がせめぎ合う都市だったといわれる。一つは熱烈で峻厳なサヴォナローラに導かれ、もう一つは華麗さを愛するロレンツォに導かれていた。若きマキアヴェッリに対するサヴォナローラの影響は、さほど大きくなかったに違いない。たしかに一時はフィレンツェの運命を左右するほどの大権を振るった人物だったが、マキアヴェッリにとっては、君主論の中で「武装なき預言者」の末路を示す嘲りの種を一つ提供したにすぎないからである。それに対して、ロレンツォ存命中のメディチ家支配の壮麗さは、マキアヴェッリに強い印象を刻みつけたように見える。彼はそのことを著作の中で繰り返し想起しており、しかも君主論を献じた相手はロレンツォの孫なのである。

マキアヴェッリは『フィレンツェ史』の中で、自身が青春をともにした若者たちの姿を描いている。こう書いている。「彼らは服装にも暮らしぶりにも父祖の時代よりはるかに放縦で、その他さまざまな過剰にもより多く金を費やし、怠惰と賭博と女に時と金を食いつぶしていた。最大の関心は、身なりのよさを見せつけ、機知と鋭さをもって語ることにあり、しかも、他人を最も巧みに傷つけることのできる者こそ最も賢いと思われていた。」

息子グイドに宛てた手紙の中で、マキアヴェッリは、若者が学問の機会をどう生かすべきかを語っている。そしてそこから逆に、自身の青春もまたそのように費やされたのだろうとうかがわせる。彼はこう書く。「お前の手紙を受け取った。ことのほかうれしかった。とりわけ、すっかり健康を取り戻したと知らせてくれたからだ。これ以上によい知らせはあるまい。神が、お前にも私にも命を与えてくださるなら、お前が自分の務めを果たす気さえあれば、私はお前を立派な人間にしてみせるつもりだ。」

そして新たな後援者のことに触れつつ、こう続ける。「これはお前にとってよい結果になるだろう。だが、そのためには勉強が必要だ。もう病気を言い訳にはできないのだから、学問と音楽にしっかり励みなさい。私のわずかな才覚のおかげで、どれほどの敬意を受けているか、お前も見ているはずだ。だから、息子よ、私を喜ばせたいのなら、そして自分自身の成功と名誉を望むのなら、正しく生き、学びなさい。自らを助ける者は、他人にも助けられるのだから。」

官職時代 ―― 二十五歳から四十三歳まで――一四九四‐一五一二年

マキアヴェッリの生涯の第二期は、自由なフィレンツェ共和国への奉仕に捧げられた。この共和国は、すでに述べたとおり、一四九四年のメディチ家追放から一五一二年の復帰まで栄えていた。ある公職に四年勤めたのち、彼は第二書記局、自由と平和の十人委員会の書記長兼書記に任命された。ここから先のマキアヴェッリの生涯については、私たちは確かな地盤の上に立つことができる。この時期、彼は共和国の政務において指導的な役割を果たしており、その法令、記録、外交文書が残されているうえ、彼自身の著作もあるからだ。同時代の政治家や軍人たちと交わった彼の仕事をいくつか拾い上げるだけでも、その活動ぶりは十分にうかがえるし、君主論を彩る経験や人物像がどこから引き出されたかも見えてくる。

最初の使節任務は一四九九年、カテリーナ・スフォルツァ――君主論にいう「我がフォルリの貴婦人」――のもとへ赴いたものであった。彼女の振る舞いとその運命から、マキアヴェッリは、要塞に頼るよりも人民の信頼を得るほうがはるかにまさる、という教訓を引き出した。これはマキアヴェッリにきわめて顕著な原理であり、君主にとって死活的な重要事として、さまざまな形で繰り返し説かれている。

一五〇〇年には、ピサとの戦争継続についてルイ十二世から条件を引き出すため、フランスへ派遣された。イタリア政策を進めるにあたって、この王こそが君主論で要約される国家運営上の五つの致命的失策を犯し、その結果、イタリアから追い払われることになった人物である。また、教皇アレクサンデル六世の支援を得る条件として自らの婚姻の解消を持ち出したのもこの王であり、そのことからマキアヴェッリは、「約束は守られるべきだ」と主張する人々に対し、君主の信義について自分が書いた箇所を参照せよと促している。

マキアヴェッリの公的生涯は、教皇アレクサンデル六世とその子チェーザレ・ボルジア、すなわちヴァレンティーノ公の野望から生じた出来事に大きく占められていた。そしてこの二人、とりわけ後者は、君主論の中で大きな位置を占めている。奪い取った国家を維持したいと望む簒奪者たちの教訓として、マキアヴェッリはヴァレンティーノ公の行動をためらいなく引き合いに出す。実際、チェーザレ・ボルジアのふるまいほど見本として適した教えはほかにないとすら考えているようであり、そのため一部の批評家はチェーザレを君主論の「主人公」とまで呼んでいる。だが実際のところ、君主論における公爵は、他人の運によって成り上がり、またそれとともに没落する人物の典型として示されている。慎慮ある人間に期待される手立てはほとんどすべて講じながら、自分を救うただ一つの道だけは採らなかった者。あらゆる事態には備えながら、実際に起こるその一事にだけは備えていなかった者。そして持てる能力のすべてでも難局を切り抜けられなくなったとき、「悪いのは自分ではない、異常で予見しえぬ宿命のせいだ」と叫ぶ者――その典型なのである。

一五〇三年、ピウス三世の死去に際して、後継教皇の選出を見届けるためマキアヴェッリはローマへ送られた。そこで彼は、チェーザレ・ボルジアがだまされて、枢機卿会議の選択をジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス二世)に委ねてしまう場面を目撃した。しかもその人物こそ、公爵が最も警戒すべき理由を持つ枢機卿の一人だったのである。この選挙について論じるにあたり、マキアヴェッリは、新たな恩恵によって有力者が古い恨みを忘れると考える者は自らを欺いているのだと言う。ユリウスはチェーザレを滅ぼすまで手を休めなかった。

一五〇六年、マキアヴェッリが派遣された先もまたユリウス二世のもとであった。このとき教皇はボローニャ攻略に着手したばかりで、のちに他の多くの冒険と同じく、主としてその猪突猛進の気性ゆえに成功を収めることになる。マキアヴェッリが「運命は女に似ている」と説き、両者を勝ち取り保つのは慎重な男よりも大胆な男だと結論するのは、まさにこの教皇ユリウスに関してである。

一五〇七年のイタリア諸国の栄枯盛衰をここで逐一たどることはできない。当時、それらはフランス、スペイン、ドイツによって左右されており、その影響は今日にまで及んでいる。だがここで私たちに関係があるのは、それらの出来事そのものというより、それに関与した三人の大立者がマキアヴェッリという人物にどう触れているか、その点に限られる。彼はフランス王ルイ十二世と何度か会見しており、その性格評価についてはすでに触れた。マキアヴェッリはアラゴン王フェルナンドを、宗教の外衣をまとって大事業を成し遂げた男として描く。だが実際には慈悲も信義も人間味も誠実さもなく、もしそうした動機に左右されていたなら、破滅していたに違いない人物としてである。皇帝マクシミリアンは当代でもっとも興味深い人物の一人であり、その性格は多くの人の筆によって描かれてきた。だが、一五〇七年から〇八年にかけてその宮廷に使節として赴いたマキアヴェッリは、幾多の失敗の秘密を見抜いている。すなわち、計画を実行に移すために必要な人間的手段を顧みず、自らの望みの実現を断固として押し通すこともない、内向的で気力に欠けた人物――そう描くことである。

マキアヴェッリの公職生活の残る年月は、主として一五〇八年に結ばれたカンブレー同盟に端を発する事件によって埋め尽くされた。この同盟は、すでに述べたヨーロッパ三大国と教皇が、ヴェネツィア共和国を打ち砕くことを目的に結んだものであった。その目的はヴァイラの戦いで達せられ、ヴェネツィアは一日で、八百年かけて築いたもののすべてを失った。この一連の出来事の中でフィレンツェが担わねばならなかった役割は難しかった。というのも、教皇とフランスのあいだに生じた確執が事態をさらに複雑にし、その一方でフランスとの友好こそが共和国の政策全体を規定していたからである。一五一一年、ユリウス二世がついにフランスに対抗する神聖同盟を結成し、スイス人の助力を得てフランス勢をイタリアから追い払うと、フィレンツェは教皇の意のままになり、その条件を受け入れざるをえなくなった。その条件の一つが、メディチ家の復帰であった。一五一二年九月一日にメディチ家がフィレンツェへ戻り、それに伴って共和国が崩壊すると、マキアヴェッリとその友人たちはたちまち罷免された。こうして彼の公的生涯は幕を閉じたのである。すでに見たとおり、彼はついに官職を回復することなく死んだからだ。

文学と死 ―― 四十三歳から五十八歳まで――一五一二‐二七年

メディチ家が戻ると、マキアヴェッリは数週間のあいだ、フィレンツェの新たな支配者のもとでも職を保てるのではないかとむなしく望んでいたが、一五一二年十一月七日付の決議によって罷免された。その後まもなく、彼はメディチ家に対する未遂の陰謀への関与を疑われ、投獄され、拷問にかけられた。新たに即位したメディチ家出身の教皇レオ十世がその釈放を取り計らい、彼はフィレンツェ近郊サン・カシャーノの小さな領地へ退き、文学に身を捧げた。一五一三年十二月十三日付のフランチェスコ・ヴェットーリ宛書簡には、この時期の生活についてきわめて興味深い記述が残されており、それによって君主論執筆の方法と動機が明らかになる。家族や近隣の人々と過ごす日々の営みを述べたあと、彼はこう書いている。「夕方になると、私は家に帰って書斎へ入る。入口で、埃と泥にまみれた百姓服を脱ぎ、宮廷にふさわしい貴人の衣をまとう。そうしてしかるべき身なりに着替えると、いにしえの人々の古い宮廷へと足を踏み入れる。そこでは彼らにあたたかく迎えられ、私だけの糧を与えられる。私はためらわず彼らと言葉を交わし、その行為の理由を問い、彼らはその寛容さをもって答えてくれる。四時間のあいだ、私は少しも倦まず、あらゆる苦しみを忘れ、貧困にもひるまず、死にもおびえない。すっかり彼ら偉大な人々に取り憑かれてしまうのだ。そしてダンテがこう言っているので――

知は、よく保たれた学びより生まれ来る、

さもなくば実りなし、

私は彼らとの対話から得たものを書き留め、『君主国について』という小さな著作をまとめた。そこではこの主題について、できるかぎり深く思索を注ぎ込み、君主国とは何か、どのような種類があるか、いかにして獲得されるか、いかにして維持されるか、なぜ失われるかを論じている。もし私の思いつきがこれまで少しでもあなたの気に入ったことがあるなら、これはあなたのお気に召さぬはずはない。そして君主に、ことに新たな君主には、歓迎されるべきものだろう。ゆえに私はこれを、尊きジュリアーノ閣下に献じる。フィリッポ・カザヴェッキオはこれを見ているから、中身についても、私が彼と交わした議論についても、あなたに話してくれるだろう。とはいえ、私はまだこれに手を入れ、磨きをかけているところだ。」

この「小さな書物」は、今日私たちが知るかたちに落ち着くまでに、じつに多くの曲折を経た。執筆中にはさまざまな精神的影響が働き、題名も献呈相手も変更された。そして理由は不明だが、最終的にはロレンツォ・デ・メディチに献じられることになった。マキアヴェッリはカザヴェッキオと、この書物を後援者へ送るべきか、それとも自ら持参すべきかを相談していたが、ロレンツォがこれを受け取った、あるいは読んだことを示す証拠はない。少なくとも、彼がマキアヴェッリに職を与えたことは一度もなかった。しかも君主論はマキアヴェッリの存命中に盗用されながらも、本人の手で刊行されることはなく、その本文はいまなお異同の余地を残している。

マキアヴェッリはヴェットーリへの手紙をこう結んでいる。「そしてこの小さなもの[自著]について言えば、これが読まれれば、私が国家技術の研究に捧げた十五年間、眠ってもいなければ怠けてもいなかったことがわかるだろう。人はつねに、他人の犠牲のうえに経験を積んだ者に仕えてもらうことを望むべきだ。そして私の忠誠を疑う者はいないはずだ。つねに信義を守ってきた以上、いまさらそれを破る術など学べるはずもないからである。私のように忠実で正直に生きてきた者は、その本性を変えられない。そして私の貧しさこそ、私の誠実さの証人である。」

マキアヴェッリは君主論を手放す前に、すでに『ティトゥス・リウィウス論』の執筆に取りかかっていた。これは君主論と併せて読むべき書物である。これらに加えていくつかの小品が、一五一八年まで彼を忙しくさせた。この年、彼はジェノヴァにいるフィレンツェ商人たちの案件を処理する小さな委任を引き受けている。一五一九年には、フィレンツェのメディチ家政権が市民にいくつかの政治的譲歩を与え、復活されるべき大評議会を柱とする新憲法について、マキアヴェッリも他の者たちとともに意見を求められた。だが、何かと理由をつけて、それは公布されなかった。

一五二〇年、フィレンツェ商人たちは再びマキアヴェッリに頼り、ルッカとの紛争の調停にあたらせた。だがこの年を何より特徴づけるのは、彼がフィレンツェの文学社会に返り咲いたことであり、そこで大いに求められる存在となったこと、そして『戦術論』を世に出したことである。

同じ年、メディチ枢機卿の働きかけにより、『フィレンツェ史』を執筆する委嘱も受けた。この仕事は一五二五年まで彼を占めた。民衆の人気が再び高まっていたことが、メディチ家にこの仕事を与えようと決意させたのかもしれない。ある古い著述家はこう言っている。「有能な政治家が仕事もなく放っておかれると、巨大な鯨のように船を転覆させようとするものだ。空っぽの樽でも与えて遊ばせておかないかぎり。」

『フィレンツェ史』が完成すると、マキアヴェッリはそれを後援者ジュリアーノ・デ・メディチに献呈するためローマへ持参した。だがその間にジュリアーノはクレメンス七世の名で教皇となっていた。ここにはいささか注目すべき符合がある。一五一三年、メディチ家がフィレンツェで権力を回復したばかりのとき、その教訓のために君主論を書いたマキアヴェッリは、一五二五年、今度はその家門の破滅が目前に迫った時期に、その長へ『フィレンツェ史』を献じているのである。この年、パヴィアの戦いによってイタリアにおけるフランスの支配は打ち砕かれ、フランソワ一世は宿敵カール五世の手に囚われの身となった。続いてローマ劫掠[訳注:一五二七年、皇帝軍によるローマ占領と大規模な略奪]が起こり、その報が届くや、フィレンツェの民衆派はメディチ家の軛を振り払い、彼らは再び追放された。

このときマキアヴェッリはフィレンツェを離れていたが、かつての「自由と平和の十人委員会」書記の職を取り戻したいと願い、急ぎ帰郷した。

だが不運なことに、フィレンツェへ戻ってほどなく病に倒れ、一五二七年六月二十二日、その地で息を引き取った。

第十九章 軽蔑と憎悪を避けることについて

さて、君主が備えるべき諸性質のうち、主要なものについてはすでに述べた。残りの性質については、ここで総括的に手短に論じたい。先に触れた通り、君主は何よりもまず、臣民から憎まれたり、軽蔑されたりする事態を避けるよう細心の注意を払わなければならない。これを首尾よく成し遂げれば、君主としての役割を十分に果たしたことになり、他のいかなる非難を浴びようとも、身に危険が及ぶ心配はない。

以前にも述べたが、君主が最も憎まれる原因は、貪婪どんらんに走り、臣民の財産や妻女を奪うことである。君主はこれらを厳に慎まねばならない。財産も名誉も奪われなければ、大多数の人間は満足して暮らすものであり、君主が相手にすべきは、一握りの野心家だけとなる。こうした連中を抑え込むのは、さまざまな方法で容易に達成できる。

一方、君主が軽蔑されるのは、心が定まらず、軽薄で、軟弱なんじゃく、卑屈、あるいは優柔不断であると見なされた時である。君主はこうした評価を、航海者が暗礁を避けるがごとく全力で警戒しなければならない。そして、自らの行動を通じて、偉大さ、勇気、重厚さ、そして不屈の精神を示すよう努めるべきである。臣民との公私にわたる交渉においては、一度下した裁定は覆せないものであると示し、誰一人として君主を欺いたり、丸め込んだりできるなどという淡い期待を抱かせぬほどの威信を保たねばならない。

このような高い評価を確立した君主は、大いに尊敬される。そして、深く尊敬されている君主に対して謀反を企てる者はいない。その人物が卓越した指導者であり、民衆から敬愛されていることが周知の事実であれば、外敵も容易には攻めてこられない。したがって、君主が抱くべき恐怖には二つの種類がある。一つは、国内の臣民による内憂であり、もう一つは、国外の勢力による外患である。後者に対しては、優れた軍備と良好な同盟関係によって身を守ることができる。強力な軍備があれば、必ずや良き友邦も得られる。そして、国外からの干渉がなければ、すでに陰謀によって揺るがされていない限り、国内の情勢も常に安定を保つだろう。たとえ国外が騒がしくなっても、私が述べたような準備を整え、然るべき生き方をしてきた君主であれば、自ら絶望に陥らない限り、スパルタのナビスが示したように、いかなる攻撃をも退けることができる。

しかし、臣民について言えば、国外が平穏な時であっても、君主は彼らが密かに陰謀を企てることを恐れねばならない。これを防ぐ最も確実な手立ては、民衆から憎まれず、軽蔑されず、彼らを常に満足させておくことである。これは、先に詳しく論じた通り、君主にとって最も肝要な課題である。陰謀に対する最も強力な解毒剤の一つは、民衆の支持を失わないことにある。なぜなら、謀反を企てる者は、君主を亡き者にすれば民衆を喜ばせることができると信じて行動するからだ。もし、君主を殺すことが民衆の怒りを買うだけだと分かれば、陰謀家はそのような危険な道を選ぶ勇気を持てないだろう。陰謀を成就させるまでの困難は、文字通り無限だからである。歴史が示す通り、これまで数多くの陰謀が企てられたが、成功を収めたものは極めて少ない。謀反を企てる者は一人では行動できず、不満分子の中から仲間を探さねばならないが、不満を抱く者に計画を打ち明けた瞬間に、相手には密告という大きな見返りを与えてしまうことになる。密告すれば確実な報酬が得られる一方で、陰謀に加担すれば不確かな未来と多大な危険が待っている。このような状況で君主への忠義を裏切らない者は、よほど稀有な友人か、あるいは君主に対して徹底的な恨みを抱く宿敵だけであろう。

端的に言えば、陰謀を企てる側の手元にあるのは、恐怖と嫉妬、そして処罰への怯えだけである。対する君主の側には、国家の威光、法、友人たちによる守護、そして国家そのものの防衛力がある。これらすべての要素に、民衆の支持という強力な武器が加われば、無謀にも謀反を起こそうとする者など現れるはずがない。通常、陰謀家は計画を実行に移す前に恐怖を覚えるものだが、この場合、犯行の後にも恐怖が続くことになる。なぜなら、君主を手にかけた後、彼は民衆という敵を抱えることになり、もはやどこにも逃げ場はなくなるからである。

この点については無数の例を挙げることができるが、私たちの父の時代の記憶に新しい、ある出来事を紹介するにとどめよう。ボローニャの支配者であったメッセル・アンニバレ・ベンティヴォーリ(現在のアンニバレの祖父)は、彼を陥れようとしたカネスキ一族の陰謀によって暗殺された。ベンティヴォーリ一族で生き残ったのは、当時まだ幼子だったメッセル・ジョヴァンニただ一人であった。しかし、暗殺の直後、ボローニャの民衆は一斉に蜂起し、カネスキ一族を一人残らず殺害した。これは、当時ベンティヴォーリ家がボローニャの民衆から受けていた絶大な支持の賜物であった。その敬愛の念がいかに深かったかは、アンニバレの死後、一族に国を治める能力のある者が誰も残っていなかった時のエピソードが物語っている。ボローニャの民衆は、フィレンツェにベンティヴォーリ一族の血を引く者がいるという情報を得た。彼はそれまで鍛冶屋の息子だと信じられていた人物だったが、ボローニャ人はわざわざフィレンツェまで迎えを送り、彼に都市の統治を委ねたのである。彼はジョヴァンニが成長して統治を引き継ぐまで、見事にその任を全うした。

したがって、私はこう結論づける。民衆の支持がある限り、君主は陰謀など微塵も恐れる必要はない。しかし、もし民衆が君主に敵意を抱き、憎悪を向けているのであれば、君主はあらゆる事象、あらゆる人物に対して恐怖を抱かねばならない。秩序ある国家と賢明な君主は、貴族を絶望に追い込まず、かつ民衆を満足させ、心穏やかに保つことに細心の注意を払ってきた。これこそが、君主が追求すべき最も重要な目的の一つだからである。

現代において、最も統治が行き届いている王国の一つがフランスである。そこには、国王の自由と安全を保障するための優れた制度が数多く存在するが、その筆頭に挙げられるのが「高等法院(パルルマン)」とその権限である。フランス王国の創設者は、貴族たちの野心と傲慢さを熟知しており、彼らを制御するためには口にくつわをはめる必要があると考えた。一方で、民衆が恐怖ゆえに貴族に対して抱く憎悪も理解していた。そこで彼は民衆を保護しようとしたが、その役割を国王自身が直接担うことは避けたかった。民衆を優遇すれば貴族から恨まれ、貴族を優遇すれば民衆から不満が出るという、君主が陥りやすい非難を回避しようとしたのである。そこで彼は、国王が矢面に立つことなく、強者を抑え、弱者を救うことができる「第三の審判者」を設置した。これ以上に賢明で優れた制度、あるいは国王と王国の安全に寄与する仕組みは他にないだろう。ここから、もう一つの重要な教訓を導き出すことができる。すなわち、君主は恨みを買うような仕事は他人に任せ、恩賞を与えるような仕事は自らの手で行うべきであるということだ。さらに付け加えるならば、君主は貴族を重んじるべきではあるが、決して民衆から憎まれるような形で行ってはならない。

ローマ皇帝の生涯と最期を研究した者の中には、私の意見に反する例があるではないかと指摘する者がいるかもしれない。皇帝の中には、高潔な生涯を送り、卓越した精神の持ち主でありながら、帝位を追われたり、陰謀を企てた臣民によって殺害されたりした者が少なくないからだ。こうした反論に答えるため、私は何人かの皇帝の性格を振り返り、彼らの破滅の原因が、私の主張と矛盾するものではないことを示したい。同時に、当時の情勢を学ぶ者にとって注目に値する事柄をいくつか提示しよう。

賢人マルクスからマクシミヌスに至るまで、帝位を継承した皇帝たちを例に挙げるのが適切だろう。すなわち、マルクス、その息子コモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルス、その息子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、そしてマクシミヌスである。

まず注目すべきは、通常の君主国では貴族の野心と民衆の傲慢さだけを相手にすればよいが、ローマ皇帝には第三の困難があったという点である。それは、兵士たちの残忍さと貪欲さに耐えねばならなかったことだ。これはあまりに困難な課題であったため、多くの皇帝の破滅を招いた。兵士と民衆の両方を満足させることは、至難の業だったのである。なぜなら、民衆は平和を愛し、それゆえに野心のない穏やかな君主を好んだが、兵士たちは戦争を好み、大胆で残忍、かつ貪欲な君主を求めたからである。兵士たちは、自分たちの給料を倍増させ、己の強欲と残虐さを発散させるために、君主が民衆に対してその性質を発揮することを望んだ。その結果、生まれ持った素質や教育によって、兵士と民衆の両方を御するほどの強大な威信を備えていなかった皇帝は、常に破滅の憂き目に遭った。とりわけ、新たに帝位に就いた「新参の君主」たちは、これら二つの相反する気質の調整がいかに困難であるかを思い知り、民衆に害を及ぼしてでも兵士たちを満足させる道を選びがちであった。しかし、そうせざるを得ない事情もあった。君主は、誰からも憎まれずに済むことは不可能であるが、まず第一に、大衆すべてから憎まれることを避けねばならず、それが叶わぬならば、最も強力な集団からの憎悪を避けるために、あらん限りの努力を傾けねばならないからである。それゆえ、経験不足のために特別な後ろ盾を必要とした皇帝たちは、民衆よりも兵士に媚びることになった。それが彼らにとって吉と出るか凶と出るかは、その君主が兵士たちに対してどれだけの権威を維持できたかにかかっていた。

こうした理由から、質素な生活を送り、正義を愛し、残虐さを忌み、慈悲深く、情け深い人物であったマルクス、ペルティナクス、アレクサンデルのうち、マルクスを除いてはいずれも悲惨な末路を辿った。マルクスだけが、生涯を通じて敬意を保ち、名誉のうちに世を去ることができた。なぜなら、彼は世襲によって帝位に就き、兵士や民衆の顔色をうかがう必要がなかったからだ。さらに、彼は周囲を心服させる多くの美徳を備えていたため、在位中、両方の集団を常に分相応の場所に留め置き、憎まれることも軽蔑されることもなかった。

しかし、ペルティナクスは兵士たちの意に反して皇帝に担ぎ上げられた。コモドゥスの下で放蕩な生活に慣れきっていた兵士たちは、ペルティナクスが強いた清廉な生活に耐えることができなかった。こうして憎悪を買い、さらに高齢であったために軽蔑も加わって、彼は統治の極めて初期段階で打ち倒されてしまった。ここで留意すべきは、善行もまた、悪行と同様に憎悪を招くことがあるという事実である。だからこそ、先に述べたように、国家を維持しようとする君主は、しばしば悪に手を染めることを余儀なくされる。もし、あなたが自らの地位を保つために必要不可欠だと考える集団――それが民衆であれ、兵士であれ、貴族であれ――が腐敗しているならば、君主はその集団の機嫌を取り、満足させるために、その不純な気質に合わせなければならない。そうなれば、善行こそが君主に害をなすのである。

次にアレクサンデルについて見てみよう。彼は稀に見る人格者であり、その十四年に及ぶ治世において、裁判を経ずに処刑された者は一人もいなかったと称賛されている。しかし、彼は「母親に操られている軟弱な男」と見なされ、軽蔑を買うことになった。その結果、軍隊が陰謀を企て、彼は暗殺されてしまった。

これとは対照的な性質を持っていたコモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスの生涯を振り返れば、彼らがいかに残忍で貪欲であったかが分かる。彼らは兵士たちを満足させるために、民衆に対してあらゆる暴挙を働くことを躊躇しなかった。そしてセウェルスを除いて、全員が悲惨な死を遂げた。セウェルスだけが例外だったのは、彼に並外れた力量があったからである。彼は兵士たちとの友好関係を保ちつつ、民衆を弾圧しながらも、見事に統治を続けた。彼の力量はあまりに凄まじく、兵士たちからは畏敬の念を持って迎えられ、民衆からは驚愕と戦慄せんりつを持って眺められた。新参の君主でありながら、彼の行動は実に見事なものであった。私はここで、彼がいかに巧みに「狐」と「獅子」を演じ分けたかを手短に示したい。君主が模倣すべき性質については、先に述べた通りである。

セウェルスは、皇帝ユリアヌスの惰弱さを見抜き、自らが指揮していたスラヴォニア軍を説得した。近衛兵によって殺害されたペルティナクスの仇を討つために、ローマへ進軍すべきだと説いたのである。彼は帝位への野心など微塵も見せず、この大義名分を掲げてローマに向けて進撃を開始した。彼がイタリアに到着したという知らせは、彼の出発さえ知らなかった人々に衝撃を与えた。ローマに到着すると、恐怖に駆られた元老院は彼を皇帝に選出し、ユリアヌスを処刑した。これでセウェルスが全帝国の覇権を握るために残された障壁は二つとなった。一つはアジアで、アジア軍の司令官ニゲルが皇帝を自称していたこと。もう一つは西方で、アルビヌスが同じく帝位を狙っていたことである。両者を同時に敵に回すのは危険だと判断したセウェルスは、ニゲルを攻撃しつつ、アルビヌスを欺くことに決めた。彼はアルビヌスに手紙を書き、元老院によって皇帝に選ばれた自分は、その栄誉を分かち合いたいと考えていると伝え、「カエサル」の称号を贈った。さらに、元老院がアルビヌスを同僚の皇帝として認めたとも付け加えた。アルビヌスはこれを真に受けた。しかし、セウェルスがニゲルを打ち破り、東方の混乱を鎮めると、彼はローマに戻り、元老院にこう訴えた。アルビヌスは、これまでの恩義を忘れて卑劣にも自分を暗殺しようとした、この不届き者に報いを受けさせねばならない、と。その後、彼はフランスでアルビヌスを追い詰め、その権力と命を奪ったのである。彼の行動を克明に分析すれば、彼がいかに猛々しい獅子であり、いかに狡猾な狐であったかが分かるだろう。彼はすべての人から恐れられ、尊敬され、軍隊からも憎まれることがなかった。彼のような「新しき男」が、これほど長きにわたり広大な帝国を統治できたのは、ひとえにその圧倒的な名声が、暴力的な統治ゆえに民衆が抱いたであろう憎悪から、彼を守り抜いたからに他ならない。

一方、その息子アントニヌス(カラカラ)もまた卓越した人物であり、民衆を驚嘆させ、兵士たちを心服させる優れた資質を持っていた。彼は軍人気質で、過酷な労働に耐え、美食や贅沢を軽蔑していたため、全軍から愛された。しかし、彼の残虐さと非道さは、あまりに凄惨で類を見ないものだった。数え切れないほどの個別的な殺害に加え、ローマ市民の大部分、そしてアレクサンドリアの全住民を殺戮したのである。その結果、彼は全世界から憎まれ、側近たちからも恐れられるようになった。そしてついに、軍隊の真っ只中にいながら、一人の百人隊長によって暗殺された。ここで注意すべきは、確固たる決意を抱いた絶望的な勇気による暗殺は、君主にとって避けがたいものだということだ。死を恐れない者であれば、誰でも君主を手に掛けることができる。しかし、こうした事態は極めて稀であるため、過度に恐れる必要はない。君主が唯一警戒すべきは、身近に仕える者や国家の要職にある者に対して、重大な侮辱を与えないことである。アントニヌスはこの警戒を怠っていた。彼はその百人隊長の兄弟を屈辱的な方法で殺害し、さらにその隊長自身をも日々脅し続けながら、自らの護衛隊に留め置いていた。これは、結果が証明した通り、あまりに無謀な振る舞いであり、彼の破滅を招くこととなった。

次にコモドゥスについてだが、彼にとって帝位を維持するのは極めて容易なはずであった。マルクスの息子として帝位を世襲し、父の足跡を辿るだけで民衆も兵士も満足したからである。しかし、彼は生まれつき残忍で野蛮な性格であり、民衆を貪欲に搾取するために、兵士たちを甘やかし、堕落させた。一方で、自らの威厳を保つことを忘れ、しばしば剣闘士と戦うために劇場に降り立つなど、皇帝の尊厳にふさわしくない卑俗な行為を繰り返した。その結果、彼は兵士たちから軽蔑されるようになった。一報から憎まれ、他方から軽蔑された彼は、陰謀によって殺害された。

最後にマクシミヌスの性格について論じよう。彼は極めて戦闘的な男だった。軍隊はアレクサンデルの軟弱さに嫌気がさしていたため、彼を殺害した後、マクシミヌスを帝位につけた。しかし、彼の治世は長くは続かなかった。二つの要因が彼を憎悪と軽蔑の対象にしたからである。一つは、彼がかつてトラキアで羊飼いをしていたという卑しい出自が広く知れ渡り、それが万民にとって耐え難い侮辱と感じられたこと。もう一つは、即位の際、すぐにローマへ赴いて帝位を正式に継承することを先延ばしにしたことである。さらに、彼はローマや帝国の各地に配した部下を通じて凄惨な暴虐の限りを尽くし、冷酷無比な男としての悪名を轟かせた。こうして、彼の卑しい出自への怒りと、その残虐さへの恐怖が世界を動かした。まずアフリカが反旗を翻し、次いで元老院とローマの全市民、さらにはイタリア全土が彼に対して蜂起した。ついには、彼自身の軍隊までもがこれに加わった。アクイレイアを包囲しながら攻めあぐねていた兵士たちは、彼の残虐さに嫌気がさし、また彼に敵対する勢力の多さを見て恐怖を拭い去り、彼を暗殺したのである。

ヘリオガバルス、マクリヌス、ユリアヌスについては語るに及ばない。彼らは徹底的に軽蔑すべき存在であり、またたく間に一掃されたからである。この議論の結論として、現代の君主たちが、兵士を極端に満足させなければならないという困難に直面することは、当時よりはるかに少ないという点を強調しておきたい。もちろん、兵士をある程度は遇さなければならないが、それは容易に解決できる問題である。現代の君主は、ローマ帝国のように属州の統治や行政に深く関わる古参の軍隊を抱えていないからだ。当時は民衆よりも兵士を満足させることが不可欠であったが、現在は、トルコ(オスマン帝国)とエジプトのスルタンを除けば、すべての君主にとって、兵士よりも民衆を満足させることの方が重要である。民衆の方が、より強力な力を持っているからだ。

ここで例外としたトルコは、常に一万二千の歩兵と一万五千の騎兵を身辺に配しており、王国の安全と強さはこれらに依存している。したがって、トルコの君主は、民衆への配慮を一切脇に置いても、軍隊を味方につけておかねばならない。エジプトのスルタンの王国も同様である。その権力は完全に兵士たちの手中にあり、民衆を無視してでも兵士たちの支持を繋ぎ止める必要がある。ただし、スルタンの国家は他の君主国とは性質が異なることに注意せねばならない。それはキリスト教の教皇領に似ており、世襲の君主国とも、新参の君主国とも呼べない。先代の王の子が後継者になるのではなく、権限を持つ者たちによって選出された者がその地位に就き、王の子たちは貴族として留まるに過ぎない。これは古くからの慣習であるため、新参の君主国に見られるような困難は存在しない。君主自身は新しくとも、国家の制度は古く、あたかも世襲の領主を迎えるかのように彼を受け入れる体制が整っているからである。

さて、議論の本筋に戻ろう。これまで述べてきた皇帝たちの末路を省みれば、憎悪か軽蔑のいずれかが彼らの致命傷となったことは明白だろう。また、ある者は一つのやり方で、別の者はそれとは逆のやり方で行動しながらも、それぞれの道において一人だけが幸運な最期を遂げ、残りは悲惨な結果に終わった理由も理解できるはずだ。新参の君主であったペルティナクスやアレクサンデルが、世襲の君主であったマルクスを模倣しようとしたのは、無益であり危険なことであった。同様に、カラカラやコモドゥス、マクシミヌスがセウェルスを模倣しようとしたのも、彼の足跡を辿るだけの力量がなかった彼らにとっては破滅的な行為であった。したがって、新たに君主となった者が、マルクスの行動をそのまま模倣することは不可能であり、またセウェルスのやり方をすべて踏襲する必要もない。むしろ、国家を建設する段階ではセウェルスの優れた部分を取り入れ、すでに安定し確立された国家を維持する段階では、マルクスの称賛すべき栄光ある資質を参考にすべきなのである。

第二十章 要塞をはじめ、君主が日常的に行う諸策は有益か有害か

  1. 君主が国家を盤石にするために用いる手段はさまざまである。ある者は臣民から武器を取り上げ、ある者は征服した都市を派閥抗争によって分裂させたままにし、ある者は自らに対して敵意を抱かせ、ある者は統治の初期に疑いを抱いていた者たちを味方に引き入れようと腐心した。また、要塞を築く者もいれば、それを破壊し尽くす者もいた。これらの施策の是非を最終的に判断するには、それぞれの国家が置かれた個別の事情を知る必要があるが、ここでは事柄の性質が許す限り、包括的に論じてみたい。

  2. 新しく君主となった者が、臣民から武器を取り上げた例は一度もない。むしろ、武器を持たない臣民を見つければ、常に彼らに武装を促してきた。なぜなら、彼らを武装させることは、その武器が君主のものになることを意味するからだ。疑わしかった者は忠実な臣下となり、もともと忠実だった者はその忠誠を深め、臣民すべてが君主の支持者へと変わる。もちろん、すべての臣民を武装させることはできないが、武装させた者たちに恩恵を与えれば、それ以外の者たちをより自由に従わせることができるようになる。武装した者は待遇の差を理解し、君主への依存心を強める。武装を許されなかった者たちも、危険を冒し義務を果たす者がより多くの報いを受けるのは当然だと考え、君主を恨むことはない。しかし、逆に武器を取り上げれば、君主は彼らを侮辱することになる。臆病であるか不忠実であるかのいずれかの理由で彼らを疑っていることを露呈してしまうからだ。いずれにせよ、こうした疑念は君主に対する憎悪をかき立てる。さらに、君主は無防備でいるわけにはいかないため、結局は傭兵軍に頼らざるを得なくなる。傭兵の性質についてはすでに述べた通りである。たとえ傭兵が精強であったとしても、強力な外敵や不満を抱く臣民から君主を守るには不十分だ。ゆえに、新たな君主国の新参の君主は、常に臣民を武装させてきた。歴史はこの例で溢れている。しかし、君主が元々の領地に新しい領土を属州として加える場合は話が別である。その場合は、征服を助けてくれた協力者を除き、その土地の住民から武器を取り上げなければならない。さらに、時間をかけて彼らを軟弱なんじゃくにし、骨抜きにすべきである。そして、その新領土における武装勢力は、旧領土で君主の身辺にいた自前の兵士だけに限定されるよう、事態を差配せねばならない。

  3. 私たちの先祖、とりわけ賢明と称えられた人々は、「ピストイアは派閥抗争で、ピサは要塞で維持せよ」とよく口にしたものだ。この考えに基づき、彼らは支配下の都市を容易に保持するために、それらの都市の中で意図的に争いを煽った。イタリアの勢力均衡が保たれていた時代には、それで良かったのかもしれない。しかし、現代においてそれが有効な教訓になるとは思えない。分裂した都市に敵が攻めてくれば、瞬く間にその都市を失うことになるからだ。弱い方の派閥は必ず外敵と手を結び、残された側だけでは抵抗しきれない。ヴェネツィア人もまた、同様の理由で支配下の都市においてゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の抗争を助長した。彼らは流血の事態にまで至ることは許さなかったが、市民が互いに争うように仕向け、ヴェネツィアに対して結束する暇を与えなかった。だが、その結果は期待通りにはいかなかった。ヴァイラの戦いで敗北を喫すると、一方の派閥が即座に勢いづき、国家を奪い取ってしまったからである。こうした手法は、君主の脆弱さを露呈するだけだ。活力ある君主国であれば、このような分裂は決して許されない。派閥を利用して臣民を操るなどというやり方は、平和な時代には都合が良いかもしれないが、いざ戦争となれば、その政策の欺瞞があらわになる。

  4. 疑いようもなく、君主が偉大さを増すのは、直面する困難や障害を克服した時である。それゆえ、運命フォルトゥーナは、世襲の君主よりも名声を必要とする新参の君主を偉大にしようと望むとき、あえて敵を出現させ、彼を陥れようと企てさせる。そうすることで、君主に敵を打ち破る機会を与え、敵が用意した梯子を一段ずつ昇るかのように、より高い地位へと導くのである。だからこそ、賢明な君主は、機会さえあれば巧みに自らへの敵意を煽り、それを鎮圧することで自らの名声をさらに高めるべきだと考える者が多いのである。

  5. 君主、特に新参の君主は、統治の初期に信頼していた者たちよりも、むしろ当初疑いを抱いていた者たちの中に、より多くの忠誠と助けを見出すことが少なくない。シエナの支配者パンドルフォ・ペトルッチは、当初疑わしいと考えていた者たちを重用することで、その地位を維持した。しかし、この問題に普遍的な法則はない。状況は個々のケースによって千差万別だからだ。ただ一つ言えるのは、統治の始まりにおいて敵対していた者たちであっても、もし彼らが自分たちの地位を維持するために君主の助けを必要とする立場の人間であれば、極めて容易に味方に引き入れることができるということだ。彼らは自分たちに向けられた悪印象を払拭するために、より忠実に君主に仕えねばならないことを自覚しており、その忠誠心は盤石なものとなる。こうして、君主は彼らから、安泰な地位に胡座をかいて任務を怠るような者たちよりも、はるかに大きな利益を引き出すことができる。また、文脈上触れておかねばならないが、密かな協力者たちの助けによって新たな国家を手に入れた君主は、なぜ彼らが自分を助けてくれたのか、その動機を深く考察しなければならない。もしそれが君主への純粋な愛情ではなく、前政権への不満から生じたものであれば、彼らを繋ぎ止めておくのは至難の業となる。彼らを満足させることは不可能だからだ。古今東西の事例に照らして考えれば、前政権で満足しており、それゆえに君主の敵であった者たちを味方にする方が、前政権に不満を抱き、君主に国を奪わせようと手を貸した者たちと友好を保つよりも、はるかに容易であることに気づくはずだ。

  6. 君主が自らの地位を確実にするために、敵対する者たちへの「くつわ」とし、あるいは不意の攻撃を受けた際の避難所とするために、要塞を築くことは古くからの習慣である。かつて多くの者がこの方法を用いたので、私はこれを称賛したい。しかし、現代においても、メッセル・ニコロ・ヴィテッリはチッタ・ディ・カステッロを守るために、あえて二つの要塞を破壊した。ウルビーノ公グイド・ウバルドも、チェーザレ・ボルジアによって追放された領地に戻った際、その州のすべての要塞を根こそぎ破壊した。要塞がなければ、領地を再び失うことはより困難になると考えたからだ。ベンティヴォーリ一族がボローニャに帰還した際も、同様の決断を下した。つまり、要塞が有益か否かは状況次第であり、ある面で助けになっても、別の面で仇となることがある。この問題は次のように論理づけられる。すなわち、外国勢力よりも自国民を恐れる君主は要塞を築くべきであり、国民よりも外国勢力を恐れる君主は要塞など放っておくべきだ、と。フランチェスコ・スフォルツァが築いたミラノの城は、スフォルツァ家にとって、国内のいかなる混乱よりも大きな災いの種となった。結論を言えば、最高の要塞とは「国民から憎まれないこと」に尽きる。たとえ要塞を持っていても、国民が君主を憎んでいれば、救いにはならない。武器を取って立ち上がった国民に手を貸そうとする外国勢力は、決して後を絶たないからだ。現代において、要塞が君主の助けになった例は、フォルリの伯爵夫人のケースを除いて他に見当たらない。彼女の夫ジローラモ伯爵が殺害された際、彼女は要塞のおかげで民衆の攻撃に耐え、ミラノからの援軍を待つことができ、最終的に国家を取り戻した。当時はまだ、外国勢力が民衆を助けにくるような情勢ではなかったからだ。しかし、後にチェーザレ・ボルジアが攻めてきた際、敵対する民衆が外国勢力と手を結んだため、要塞は何の役にも立たなかった。したがって、当時においてもそれ以前においても、要塞を頼りにするよりは、民衆から憎まれないようにすることの方が、彼女にとってははるかに安全な道だったのである。これらすべてを考慮した上で、私は要塞を築く者も、築かない者も共に称賛するが、要塞を過信して国民から憎まれることを軽んじる者は、断固として非難する。

第二十一章 名声を得るために君主はいかに振る舞うべきか

君主をこれほどまでに尊敬させるものは、偉大な事業を成し遂げることと、自ら非凡な範を示すこと以外にない。現代においては、現在のスペイン王、アラゴンのフェルナンドがその好例である。彼は、しがない小国の王から、キリスト教世界で最高位の王へと、その名声と栄光によって登り詰めた「新参の君主」と呼ぶにふさわしい。彼の行動を振り返れば、そのすべてが偉大であり、中には驚天動地と言えるものもある。彼は治世の初期にグラナダを攻撃したが、この事業こそが彼の権力の礎となった。当初、彼は誰にも邪魔されることなく、静かにこの計画を進めた。カスティリャの貴族たちの関心を戦争に釘付けにすることで、彼らに国内の変革を予感させず、その隙に自らの権威と支配力を彼らの上に確立したのである。彼は教会と民衆の金を使って軍隊を維持し、長期にわたる戦争を通じて、後に彼を際立たせることになる優れた軍事技術の基礎を築き上げた。さらに、より大規模な野望を遂行するための口実として、常に宗教を盾に取った。彼は「敬虔な残虐さ」をもって、王国からモーロ人を一掃し、追放することに心血を注いだ。これほど見事で、かつ稀有な例は他にない。同じ隠れみのを使って、彼はアフリカを襲い、イタリアに侵攻し、ついにはフランスを攻撃した。このように、彼の成し遂げたことや計画したことは常に壮大であり、民衆の心を常に期待と驚嘆で満たし、その結末がどうなるかに釘付けにした。彼の行動は、次から次へと間断なく繰り出されたため、人々に反対の計画を練る隙を一切与えなかった。

また、国内政治において、世にも稀な範を示すことも、君主にとって大きな助けとなる。ミラノのメッセル・ベルナボに関する逸話のように、市民生活の中で善かれ悪しかれ並外れた事績を残した者に対し、世間の語り草になるような特別な方法で褒賞を与え、あるいは処罰を下すのである。君主は何よりも、あらゆる行動を通じて「偉大で卓越した人物である」という評判を勝ち取るよう努めなければならない。

さらに、君主が「真の友人」であるか「断固たる敵」であるかを明確にすることも、尊敬を集める要因となる。つまり、何の留保もなく、一方の勢力を支持し、他方の勢力に反対することを鮮明にするのである。中立を保つよりも、この道を選ぶ方が常に有利である。なぜなら、強力な隣国同士が争いを始めた場合、どちらが勝とうとも、勝者は君主にとって脅威になるか、ならないかのいずれかだからだ。どちらにせよ、旗幟を鮮明にして果敢に戦う方が常に賢明である。第一のケース(勝者が脅威になる場合)において中立を守れば、君主は必ず勝者の餌食となり、敗者はそれを見て快哉を叫び、満足することだろう。君主を保護したり隠したりする正当な理由も手段も残されていないからだ。勝者は、苦難の時に助けてくれなかった疑わしい友人を欲しがらないし、敗者は、自ら剣を取って運命を共にしなかった者を匿おうとはしない。

アンティオコスは、ローマ人を追い出すためにアイートーリア人に招かれてギリシャへ入った。彼はローマの友人であったアカイア人に使者を送り、中立を守るよう説得した。一方でローマ人は、アカイア人に武装して味方するよう促した。この問題がアカイア人の評議会で議論された際、アンティオコスの使節は中立の利を説いたが、ローマの使節はこう反論した。「我々の戦争に介入しないことが貴国にとって最善で有益だという主張があるが、これほど誤った考えはない。介入しなければ、貴国は恩義も敬意も得られぬまま、勝者の獲物となるだけである」。

常に、友人でない者は中立を求め、友人である者は軍事介入を求めるものだ。優柔不断な君主は、当面の危険を避けようとして中立の道を選び、その結果、破滅に至ることが多い。しかし、君主が勇敢に一方の味方を宣言し、同盟相手が勝利した場合、たとえ勝者が強力で君主を意のままにできる立場にあったとしても、勝者は君主に恩義を感じ、そこには友情の絆が生まれる。人間とは、助けてくれた者を虐げて恩を仇で返すほど、厚顔無恥な存在ではないからだ。それに、勝利というものは、勝者がいかなる正義をも無視して振る舞えるほど完璧なものではない。逆に、同盟相手が敗北したとしても、君主は彼に匿ってもらえるし、彼に力がある限り助けてもらえるだろう。こうして、いつか再び好転するかもしれない運命の伴侶となることができる。

第二のケース(どちらが勝っても脅威にならない場合)においては、同盟を結ぶことはさらに賢明な選択となる。なぜなら、一方が賢明であれば救ったであろう側を、君主はもう一方の力を借りて滅ぼす手助けをすることになるからだ。君主の助けがあれば勝利は確実であり、勝利した相手は君主の恩義に縛られることになる。ここで注意すべきは、やむを得ない場合を除き、他国を攻撃するために自分より強力な者と同盟を結んではならないということだ。勝利すれば、君主はその強力な相手のなすがままになってしまうからである。君主は、他人の意向に左右される状況を、可能な限り避けねばならない。ヴェネツィア人はミラノ公を叩くためにフランスと組んだが、この同盟が彼らの破滅を招いた。避けることができたはずの同盟であった。しかし、教皇とスペインがロンバルディアを攻撃した時のフィレンツェ人のように、どうしても避けられない状況であれば、前述の理由により、いずれか一方の陣営に加担すべきである。

いかなる政府も、常に完全に安全な道を選べるなどと思い込んではならない。むしろ、常に疑わしい道を選ばざるを得ないことを覚悟すべきだ。物事の道理として、一つの不都合を避けようとすれば、必ず別の不都合に突き当たるものだからである。思慮分別とは、不都合の性質を見極め、より小さな悪を選択することに他ならない。

また、君主は才能の保護者であることを示し、あらゆる技術に秀でた者を遇さなければならない。同時に、市民が商業や農業、その他のあらゆる職業に安心して励めるよう奨励すべきである。自分の所有物が奪われることを恐れて土地の改良を躊躇したり、重税を恐れて商売を始めるのを控えたりさせてはならない。それどころか、こうした活動に従事し、何らかの形で都市や国家を豊かにしようと志す者には、褒賞を与えるべきである。

さらに、一年のうちの適切な時期に、祭りや見世物で民衆を楽しませることも大切だ。すべての都市はギルドや職能団体に分かれているものであるから、君主はこうした団体を尊重し、時には彼らの集まりに顔を出して、自らの寛大さと気さくな人柄を示すべきである。ただし、その際も常に君主としての威厳を保ち、自らの地位を貶めるようなことがあってはならない。

第二十二章 君主の秘書官について

君主にとって、身近に仕える者の選択は極めて重要である。彼らが有能であるかどうかは、ひとえに君主の鑑識眼にかかっている。君主の知性や判断力が初めて評価されるのは、その周囲にどのような人物を置いているかを見た時である。仕える者が有能で忠実であれば、君主は常に賢明であると見なされる。有能な者を見抜き、彼らの忠誠を繋ぎ止める術を知っているからだ。しかし、そうでなければ、君主に対して良い評価を下すことはできない。なぜなら、その選択において、彼はすでに根本的な過ちを犯しているからである。

シエナの支配者パンドルフォ・ペトルッチの家臣、メッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロを知る者で、彼を召し抱えているパンドルフォを非凡な人物だと思わない者はいなかった。知性には三つの段階がある。第一は、自ら物事の本質を理解する知性。第二は、他人が理解したことを正しく評価できる知性。第三は、自らも理解せず、他人の説明も理解できない知性である。第一の知性は最高であり、第二は優れており、第三は無用である。したがって、パンドルフォが第一の段階になかったとしても、少なくとも第二の段階にはあったに違いない。なぜなら、たとえ自ら独創的な策を練る力がなくとも、部下の言動の善し悪しを見極める判断力があれば、部下の功績を称え、過ちを正すことができるからだ。そうなれば、部下は君主を欺く望みを捨て、誠実に仕えるようになる。

君主が部下の資質を見極めるための、決して誤ることのないテストが一つある。もし、部下が君主のことよりも自分の利益を優先し、あらゆる行動の中に自らの利得を求めているのが見て取れたら、そのような男は決して良き家臣にはなり得ないし、決して信頼してはならない。他人の国家を預かる者は、決して自分のことを考えるべきではなく、常に君主のことを考え、君主に関わりのない事柄には一切関心を払ってはならないからだ。

一方で、部下を誠実に繋ぎ止めておくために、君主もまた彼を慮らねばならない。彼を尊重し、富を与え、恩恵を施し、名誉と責任を分かち合うのである。同時に、彼が自分一人では立ち行かないことを自覚させなければならない。過分な名誉を与えればさらなる名誉を欲しなくなるようにし、十分な富を与えればさらなる富を渇望しなくなるようにし、多くの重責を担わせることで、政変や事変を恐れるように仕向けるのである。君主と部下がこのような関係で結ばれていれば、互いに信頼し合うことができる。しかし、そうでなければ、結末は常にどちらかにとって悲劇的なものとなる。

第二十三章 諂い手をいかに避けるべきか

この重要なテーマを語らずに済ませるわけにはいかない。それは、君主がよほど賢明で、優れた判断力を持っていない限り、陥りやすい危険だからだ。宮廷にはびこる「へつらい手」という疫病である。人間というものは、自分の成したことに自己満足を覚え、自分自身を欺きやすいため、この害毒から身を守ることは至難の業である。しかも、これを防ごうとすれば、今度は軽蔑されるという別の危険に晒されることになる。なぜなら、諂いから身を守る唯一の方法は、「真実を告げられても、私は決して怒らない」ということを人々に理解させることにあるが、誰もが君主に真実を語れるようになれば、君主への敬意は失われてしまうからだ。

それゆえ、賢明な君主は「第三の道」を選ぶべきである。すなわち、国内から賢人を選び抜き、彼らに対してのみ、君主に真実を語る自由を許すのである。それも、君主が問いかけた事柄についてのみであり、それ以外のことを勝手に語らせてはならない。しかし、君主はあらゆる事柄について彼らに諮り、その意見に耳を傾け、その上で自分自身の結論を下すべきである。これらの顧問官たちに対して、あるいは個別であれ全体であれ、君主はこう振る舞わねばならない。「自由に語れば語るほど、より重用される」ということを彼らに知らしめるのである。そして、彼ら以外の者の言葉には耳を貸さず、一度決めたことは断固として実行し、その決意を揺るがせてはならない。そうでない君主は、諂い手によって翻弄されるか、あるいは人々の意見に流されて方針を二転三転させ、結果として軽蔑を浴びることになる。

この点について、現代の例を挙げたい。現在の皇帝マクシミリアンの側近であるフラ・ルーカは、皇帝についてこう語っている。「陛下は誰にも相談されないが、何一つ思い通りに物事を進められない」。これは、皇帝が前述の原則とは正反対のやり方をしているからだ。皇帝は秘密主義な人物で、自らの計画を誰にも打ち明けず、他人の意見も求めない。しかし、計画を実行に移そうとすれば、それは周囲に露呈し、知れ渡ることになる。すると、身近な者たちがこぞって反対し始め、皇帝はそれに屈して計画を曲げてしまう。その結果、ある日に成したことを翌日には覆すことになり、彼が何を望み、何を意図しているのか誰にも分からず、その決断を誰も頼りにできなくなるのである。

したがって、君主は常に助言を求めるべきであるが、それは「他人が望む時」ではなく「君主自身が望む時」でなければならない。求められてもいないのに助言を差し挟もうとする者があれば、それを断固として退けるべきだ。一方で、君主は飽くなき探究心を持ち、自ら問いかけた事柄については、誠実な答えを根気強く聞く姿勢を持たねばならない。もし、誰かが何らかの配慮から真実を隠していると知ったなら、烈火のごとく怒りを示すべきである。

また、周囲に優れた助言者がいるからこそ君主は賢明に見えるだけで、君主自身の能力ではないと考える者がいるが、それは間違いである。これは決して揺らぐことのない鉄則だが、「自ら賢明でない君主が、良き助言を得ることはできない」からだ。例外があるとすれば、君主が自分のすべてを一人の極めて有能な人物に委ねている場合だけだが、その場合、統治は長くは続かないだろう。その補佐役が、またたく間に国家を奪い取ってしまうからだ。

もし、経験の浅い君主が複数の人間から助言を求めたとしても、意見が一致することはなく、君主はそれらを一つにまとめる術も知らないだろう。顧問官たちはそれぞれが自分の利益を考え、君主はそれを制御することも、彼らの本心を見抜くこともできない。人間というものは、必要に迫られて誠実さを強制されない限り、常に君主に不実を働くものだからだ。したがって、結論としてこう言える。優れた助言とは、誰から発せられたものであれ、君主自身の賢明さから生まれるものであり、優れた助言から君主の賢明さが生まれるわけではないのである。

第二十四章 なぜイタリアの君主たちは国家を失ったのか

これまで述べてきた提言を忠実に守れば、新参の君主であっても、長年その地位にあった者のように安定し、確固たる統治を築くことができる。新参の君主の行動は世襲の君主よりも厳しく監視されるものだが、その行動に力量があることが分かれば、古くからの血統以上に人々を惹きつけ、強く結びつけることができる。人間は過去よりも現在に心を動かされるものであり、現在の状況が良いと思えば、それに満足し、他を求めなくなるからだ。君主が他の義務を怠らない限り、民衆はあらん限りの力で君主を守り抜くだろう。こうして、自らの手で君主国を打ち立て、優れた法、優れた軍備、優れた友邦、そして自らの範によってそれを飾り、強化した君主は、二重の栄光に包まれる。逆に、君主として生まれながら、自らの愚かさゆえに国家を失った者は、二重の不名誉を被ることになる。

ナポリ王やミラノ公など、私たちの時代にイタリアで国家を失った君主たちを観察すれば、まず第一に、軍備に関する共通の欠陥が見て取れる。その原因については、すでに詳しく論じた通りである。次に、彼らの中には、民衆を敵に回した者や、たとえ民衆を味方につけていても貴族を掌握できなかった者がいる。戦場に軍隊を留めておけるだけの力を持つ国家が、こうした欠陥なしに滅びることはないのである。

マケドニアのフィリッポス(アレクサンドロス大王の父ではなく、ティトゥス・クィンティウスに敗れた方)は、彼を攻撃したローマやギリシャの勢力に比べれば、領土はわずかなものだった。しかし、彼は戦いを知る男であり、民衆を惹きつけ、貴族を掌握する術を心得ていた。そのため、強大な敵を相手に長年戦い抜き、最終的にいくつかの都市の支配権を失いはしたものの、王国の地位は守り抜いたのである。

ゆえに、私たちのイタリアの君主たちは、長年保持してきた領地を失った際、それを運命フォルトゥーナのせいにするのではなく、自らの怠慢を恥じるべきである。平穏な時代に、彼らは事態が急変することなど考えもしなかった(嵐が来る前に備えをしないのは、人間の共通の欠陥である)。そしていざ逆境が訪れると、抵抗するよりも逃走を選び、征服者の傲慢さに嫌気がさした民衆がいつか自分たちを呼び戻してくれるだろうと、淡い期待を抱いた。他に手段がない時にはそれも一つの道かもしれないが、他のあらゆる手段を投げ打ってそんなものに頼るのは、最悪の選択である。後で誰かが拾い上げてくれることを期待して、自ら転ぶような真似をしてはならない。そんなことは滅多に起こらないし、たとえ救われたとしても、それは自らの力によるものではないから、君主の安全を保障するものではない。自らの力量に基づいた、自らの手による救済こそが、唯一信頼でき、確実で、永続的なものなのである。

第二十五章 人間事において運命はどれほどの力を持つか、そしていかにして運命に抗うべきか

世の中の出来事は、運命フォルトゥーナと神によって支配されており、人間の知恵ではどうすることもできず、誰もそれを食い止めることはできないという意見を、かつて多くの人々が持ち、今も持っていることを私は承知している。この考えに従えば、物事に心血を注ぐ必要はなく、すべてを成り行きに任せればよいということになる。現代において、人間の想像を絶するような急激な変化が日々繰り返されているのを目の当たりにすると、この意見を信じる人が増えるのも無理はない。私自身、時にこれについて思いを巡らせる時、彼らの意見に傾きそうになることがある。しかし、私たちの「自由意志」を消し去ってしまわないために、私はこう信じることにしている。運命は私たちの行動の半分を支配しているかもしれないが、残りの半分、あるいはそれより少し少ない部分は、私たち自身に委ねられているのだと。

私は運命を、荒れ狂う川に例えたい。一度氾濫すれば平野を飲み込み、木々や建物をなぎ倒し、地面を削り取って別の場所へと運んでいく。すべての生き物はその奔流の前に逃げ惑い、なすすべもなくその暴力に屈する。しかし、川がそういう性質を持っているからといって、平穏な時に人間が堤防や堰を築き、再び増水した際に水路へ誘導して、その威力を削ぎ、危険を回避する備えをしてはならないということにはならない。運命もこれと同じである。自らの力量による備えがない場所でその猛威を振るい、自分を封じ込める堤防や堰がないと見抜いた場所へ、その力を向けるのである。

もし、あなたがこの激動の舞台であるイタリアを見るならば、そこが堤防も堰もない、むき出しの平原であることに気づくだろう。ドイツやスペイン、フランスのように、ふさわしい力量によって守られていたならば、これほどの急激な変化をもたらす侵略を受けることはなかったし、そもそも侵略そのものが起こらなかっただろう。運命全般に対する抵抗については、これくらい言えば十分であろう。

より個別のケースに目を向けると、ある君主が、性格や方針を全く変えていないにもかかわらず、昨日まで栄えていたのに今日には没落しているという光景を目にする。これは、第一に、すでに詳しく述べた通り、運命に全面的に依存している君主は、運命が牙を剥いた瞬間に破滅するからである。第二に、時代の精神に合わせて行動を律する者は成功し、時代と行動が噛み合わない者は失敗するのだと私は信じている。人間が、誰もが追い求める目的――すなわち栄光と富――を手に入れるための道筋は千差万別である。ある者は慎重に、ある者は拙速に。ある者は暴力で、ある者は計略で。ある者は忍耐強く、ある者はその逆で。そして、それぞれが異なる方法で、目的地に辿り着く。また、同じように慎重な二人のうち、一人は成功し、もう一人は失敗することもある。逆に、一人は慎重、もう一人は性急という異なるやり方の二人が、共に成功を収めることもある。これらすべては、彼らの手法が「時代の精神」に合致しているか否か、ただそれ一点にかかっている。私が述べた通り、異なる行動が同じ結果をもたらし、同じ行動が異なる結果をもたらすのは、すべてこのためである。

統治の成功もここから生じる。慎重さと忍耐をもって統治を行っている者が、時代の要請や情勢の変化と一致していれば、その統治は成功し、運勢は開ける。しかし、時代や情勢が変化したときに、自らのやり方を変えられなければ、彼は破滅する。だが、変化に合わせて自分を適応させるほど賢明な人間は滅多にいない。なぜなら、人間は生まれ持った気質から逃れることができないし、また、ある一つの方法で常に成功してきた者は、その道から外れることが正しいとは信じられないからだ。慎重な男は、いざ大胆に行動すべき時が来ても、どうすればいいか分からず、結果として没落する。もし彼が時代と共に自分の性格を変えることができたなら、運命が変わることはなかっただろう。

教皇ユリウス二世は、あらゆる行動において猛烈に突き進んだが、時代の状況が彼のやり方に驚くほど合致していたため、常に成功を収めた。メッセル・ジョヴァンニ・ベンティヴォーリがまだ存命だった頃の、最初のボローニャ遠征を思い返してほしい。ヴェネツィア人は反対し、スペイン王も乗り気ではなかった。フランス王とはまだ交渉中であった。それにもかかわらず、彼は持ち前の果敢さと情熱をもって、自ら遠征を開始した。この電撃的な行動に、スペインとヴェネツィアは当惑し、身動きが取れなくなった。ヴェネツィア人は恐怖から、スペインはナポリ王国を取り戻したいという思惑から静観を決めたのである。一方で、フランス王は教皇の動きに引きずり込まれた。教皇を味方につけてヴェネツィアを叩きたいと考えたフランス王は、教皇の要請を拒むことができなかったのである。こうしてユリウス二世は、その猛進によって、他のいかなる教皇が人間の知恵を尽くしても成し得なかったことを成し遂げた。もし彼が、他の教皇たちがするように、すべてを確定させ準備を整えてからローマを出発していたら、決して成功しなかっただろう。フランス王は千の口実を設けて逃げ、他の勢力は千の恐怖を煽って彼を思い止まらせたに違いないからだ。

彼の他の行動については、すべてが同様であり、すべてが成功したため、ここで論じるまでもない。彼の人生が短かったことは、彼を失敗から救った。もし慎重に行動すべき時代が到来していたなら、彼の破滅は避けられなかっただろう。彼は、自らの天性である性急なやり方以外、決して受け入れなかったはずだからだ。

結論として、運命は気まぐれに変化し、人間はそのやり方に固執するものであるから、両者が一致している間は成功し、食い違えば失敗する。私の考えでは、慎重であるよりは、むしろ果敢である方が良い。なぜなら、運命は「女性」だからである。彼女を征服しようと思えば、打ちのめし、手荒に扱う必要がある。彼女は、冷淡に振る舞う者よりも、情熱的に挑んでくる者に身を任せるものだ。それゆえ、彼女は女性のように常に若者を好む。彼らは慎重さに欠け、より激しく、より大胆に彼女を支配するからである。

第二十六章 イタリアを蛮族から解放するための勧告

これまで述べてきたことを深く考察し、今この時が、新たな君主にふさわしい時代であるかどうかを自問してみた。知恵と力量を備えた人物が、自らに名誉をもたらし、この国の民衆に幸福をもたらすような新しい秩序を導入できる状況にあるのか。その結果、私はあまりに多くの要素が新参の君主を後押ししていると感じ、今こそがかつてないほどの好機であると確信するに至った。

かつて、モーセの力を示すためにイスラエルの民がエジプトで奴隷となっていたように、キュロスの精神の偉大さを際立たせるためにペルシャ人がメディア人に虐げられていたように、そしてテセウスの卓越した能力を証明するためにアテネ人が散り散りになっていたように――現代においても、イタリア人の精神の真価を知らしめるためには、イタリアが今のようなどん底の状態にあることが必要だったのだ。ヘブライ人よりも奴隷化され、ペルシャ人よりも抑圧され、アテネ人よりも分散し、指導者もなく、秩序もなく、打ちのめされ、略奪され、引き裂かれ、蹂躙され、あらゆる困苦を舐め尽くした状態で。

最近、ある人物の中に、神が私たちの救済のために遣わしたかのような一条の光が見えたこともあった。しかし、彼の絶頂期において、運命は彼を突き放した。こうしてイタリアは、死んだも同然の状態で、自らの傷を癒やし、ロンバルディアの略奪に終止符を打ち、ナポリ王国やトスカーナの搾取と重税を止め、長く腐爛ふらんしたままの傷口を清めてくれる者を待ち望んでいる。イタリアがいかに神に祈り、蛮族の横暴と屈辱から救い出してくれる者を求めているかは明白だ。旗を掲げる者さえ現れれば、彼女はいつでもその後に続く覚悟ができている。

今、貴方の輝かしい一族以上に、その希望を託せる対象は他にいない。力量と幸運を兼ね備え、神と教会(現在、貴家はその頂点にある)に愛でられた貴家こそが、この救済の旗頭となるにふさわしい。私が挙げた偉大な先人たちの歩みを振り返れば、これは決して不可能なことではない。彼らは確かに驚嘆すべき偉人たちであったが、彼らもまた一人の人間に過ぎなかった。そして、彼らが置かれた状況は、現在よりも恵まれていたわけではない。彼らの事業が、今これから行おうとするものより正当であったわけでも、容易であったわけでもない。そして神が、今以上に彼らの味方であったわけでもないのだ。

ここには大いなる正義がある。必要とされる戦争こそが正義であり、武器以外に希望がないとき、その武器は神聖なものとなる。ここには、比類なき覚悟がある。覚悟が定まっているところに、大きな困難などあろうはずがない。私が指し示した先人たちの範に従いさえすれば。それだけでなく、これまでになく神の奇跡が目の前で示されているではないか。海は割れ、雲が道を導き、岩からは水が溢れ、マナが降り注いだ。すべてが貴方の偉大さのために味方している。残りの仕事は、貴方が成し遂げねばならない。神はすべてを自ら行うことは望まない。私たちの自由意志を奪い、私たちに帰せられるべき栄光の一部を奪うようなことはなさらないのだ。

これまで、名だたるイタリア人たちが、貴方の輝かしい一族に期待されていることを成し遂げられなかったとしても、驚くには当たらない。イタリアで繰り返された多くの変革と戦乱の中で、軍事的な力量が尽き果てたかのように見えたのは、これまでの制度が不適切であり、誰も新しい秩序を見出せなかったからに他ならない。一人の男が立ち上がったとき、自ら新しい法と秩序を打ち立てること以上に、彼に名誉をもたらすものはない。それらが確固たる基礎を持ち、尊厳を備えていれば、彼は万民から尊敬され、驚嘆されるだろう。そしてイタリアには、あらゆる形での改革を受け入れる準備ができている。

ここでは、末端の兵士たちには優れた勇気があるが、指導者たちにそれが欠けている。決闘や少人数での格闘を見れば、イタリア人がいかに力強く、器用で、機知に富んでいるかが分かるだろう。しかし、軍隊という組織になれば、彼らは見る影もない。それはひとえに、指導者たちの無能ゆえである。有能な者は従おうとせず、誰もが自分こそが賢明であると信じている。力量においても運勢においても、他者を圧倒し、心服させるほどの人物が現れなかったからだ。その結果、この二十年にわたる戦乱の中で、イタリア人だけで構成された軍隊は、常に無残な結果に終わってきた。タロ川の戦いを筆頭に、アレッサンドリア、カプア、ジェノヴァ、ヴァイラ、ボローニャ、メストリでの敗北がそれを証明している。

それゆえ、祖国を救った偉人たちの足跡を辿ろうとする貴家がまずなすべきことは、あらゆる事業の真の基礎として、自前の軍隊を整えることである。これ以上に忠実で、誠実で、優れた兵士は存在しないからだ。一人一人が優れているだけでなく、彼らは自らの君主に率いられ、敬われ、養われていると感じた時、真に一丸となって戦うだろう。蛮族の力に対抗し、イタリアの力量で身を守るためには、こうした軍備を整えることが不可欠である。

スイス兵やスペイン兵の歩兵は恐るべき強さを誇るとされているが、両者にはそれぞれ弱点がある。その弱点を突く第三の戦術を用いれば、彼らに対抗できるだけでなく、打ち負かすことも可能だ。スペイン兵は騎兵の突撃に弱く、スイス兵は自分たちと同じくらい粘り強い歩兵との接近戦に恐怖を感じる。実際、スペイン兵がフランス騎兵を食い止められなかったことや、スイス兵がスペイン歩兵に圧倒されたことが証明されている。ラヴェンナの戦いでは、スイス兵と同じ戦術をとるドイツ兵に対し、スペイン歩兵が盾を使いながら槍の下に潜り込み、安全な位置から攻撃を加えるという光景が見られた。もし騎兵が突撃してこなければ、ドイツ兵は全滅していただろう。したがって、これらの歩兵の欠点を踏まえ、騎兵に抗し、かつ歩兵を恐れない新しい軍隊を組織することは十分に可能である。これは新しい武器を発明することではなく、既存の戦術に工夫を加えることで達成される。こうした改革こそが、新参の君主に名声と権力をもたらすのである。

この絶好の機会を逃してはならない。イタリアに、ついに救済者が現れるのをこれ以上待たせてはならない。この外国の侵略による「汚濁おだく」に苦しんできた諸州が、どれほどの愛情、どれほどの復讐心、どれほどの不屈の信仰、どれほどの献身と涙をもって彼を迎えるか、言葉に尽くすことはできない。彼の前に閉ざされる門がどこにあるだろうか。彼への服従を拒む民がどこにいるだろうか。嫉妬が彼の邪魔をできるだろうか。彼に敬意を払わないイタリア人がいるだろうか。私たちすべてにとって、この蛮族の支配は「鼻をつく悪臭」以外の何物でもない。ゆえに、貴家の勇気と希望をもって、この正義の事業を引き受けていただきたい。貴家の旗の下で祖国が高められ、貴家の導きの下で、ペトラルカのあの詩が現実のものとなるように。

力量が狂暴に対して  武器を手に取るだろう。戦いは短く終わる。  古の勇気が、  イタリア人の心の中でまだ死んではいないからだ。

(エドワード・デイカー、1640年訳に基づく)

チェーザレ・ボルジアが、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、パゴロ氏、およびグラヴィーナ公オルシーニを暗殺した際の手口に関する記述

ニコロ・マキャヴェッリ 著

チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)はロンバルディアから帰還した。彼は、アレッゾの反乱やヴァル・ディ・キアーナの諸都市に関するフィレンツェ人からの讒言ざんげんに対し、フランス王の前で身の潔白を証明しに行ったのである。彼はイモラに到着し、そこから軍を率いてボローニャの僭主ジョヴァンニ・ベンティヴォーリへの攻撃を開始するつもりであった。ボローニャを支配下に置き、そこを自らのロマーニャ公国の首都にする計画だったのである。

この動きを知ったヴィテッリ家とオルシーニ家、およびその追随者たちは、公の勢力が強大になりすぎることを危惧した。ボローニャを制圧した公は、イタリアの覇権を握るために自分たちを抹殺しにかかるのではないかと恐れたのである。そこで彼らはペルージャ近郊のマジョーネで会合を開いた。出席したのは枢機卿オルシーニ、パゴロ、グラヴィーナ公オルシーニ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、ペルージャの僭主ジャンパゴロ・バリオーニ、そしてシエナの支配者パンドルフォ・ペトルッチの代理として送られたメッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロであった。彼らは公の強大な力と野心を抑制する必要性を説き、さもなくば全員が破滅の危機にさらされると議論した。そして、ベンティヴォーリ家を見捨てず、フィレンツェ人を味方に引き入れることを決議した。彼らは各地に使者を送り、共通の敵に対抗するために協力を呼びかけた。この会合のニュースは瞬く間にイタリア全土に広まり、ウルビーノの民衆をはじめ、公の支配に不満を抱いていた者たちは革命の好機と見て色めき立った。

こうして人心が揺らぐ中、ウルビーノのある一団が、公の支配下にあったサン・レオの要塞を奪取することを決めた。彼らは、守備隊長が岩山を補強するために材木を運び込ませている隙を突いた。運び込まれる梁が橋の上に置かれ、跳ね橋が上がらなくなった瞬間を見計らって橋に飛び乗り、要塞を占拠したのである。この奪取をきっかけに州全体が反乱を起こし、以前の公を呼び戻した。彼らを勇気づけたのは、要塞の陥落以上に、マジョーネの会合からの支援という期待であった。

ウルビーノの反乱を知った他の勢力も、この好機を逃すまいと軍勢を集め、公の手に残っている町を攻め落とそうと動き出した。彼らは再びフィレンツェに使者を送り、この共通の火種を消し去るために連合に加わるよう懇願した。今こそが最大のチャンスであり、これを逃すべきではないと説いた。

しかし、フィレンツェ人はヴィテッリ家やオルシーニ家に対して積年の恨みがあったため、同盟を拒否したばかりか、書記官ニコロ・マキャヴェッリをチェーザレ・ボルジアのもとへ送り、敵対勢力に対する避難所と援助を申し出た。公はイモラで恐怖に震えていた。予想に反して自らの兵たちが次々と敵側に寝返り、無防備な状態で戦争を突きつけられたからだ。しかし、フィレンツェ人からの申し出に勇気を取り戻した彼は、手元に残ったわずかな兵で戦う前に時間を稼ぎ、和解を模索しつつ、援軍を確保することに決めた。彼はフランス王に使者を出して兵を求めると同時に、金に物を言わせて傭兵や騎兵をかき集めた。

それにもかかわらず、敵軍は公の目前に迫り、フォッソンブローネ近郊で公の軍勢と衝突し、オルシーニ家とヴィテッリ家の加勢を得てこれを撃破した。この敗北を受け、公はもはや和解の提案によって事態を収拾するしかないと決意した。希代の偽善者ぎぜんしゃである彼は、反乱軍に対し、「自分は君主という肩書きさえあれば十分であり、実質的な統治権は諸君らが持てばよい、手に入れたものはそのまま保持して構わない」と思わせるために、あらゆる策を講じた。

この芝居は見事に当たり、反乱軍は和解交渉のためにパゴロ氏を公のもとへ送り、進軍を停止させた。しかし、公はその間も着々と軍備を増強し、騎兵と歩兵を整えていた。この準備が悟られないよう、彼は部隊をバラバラにしてロマーニャ各地に分散させた。その間、フランスから五百人の重装騎兵が到着した。公は公然と戦って復讐を果たすのに十分な兵力を得たが、相手を出し抜く方が安全で確実だと考え、和解交渉を止めることはなかった。

交渉の結果、公は彼らと和平を締結した。以前の協定を再確認し、直ちに四千ドゥカートを支払い、ベンティヴォーリ家には手を出さないと約束し、ジョヴァンニと攻守同盟を結んだ。さらに、彼らが望まない限り、公の前に直接姿を見せる必要はないという条件まで認めた。一方、彼らは公にウルビーノ公国やその他の占拠地を返還し、公の遠征に従事し、公の許可なく他国と戦ったり同盟を結んだりしないことを誓った。

和解が成立すると、ウルビーノ公グイド・ウバルドは、州内のすべての要塞を破壊した上で再びヴェネツィアへ逃れた。民衆の支持を信じていた彼は、守りきれない要塞を敵に渡して友軍の足かせになることを望まなかったからだ。一方、協定を終え、兵を各地に分散させていたチェーザレ・ボルジアは、十一月末にフランス騎兵と共にイモラを出発し、チェゼーナへ向かった。そこで彼は、ウルビーノ公国に軍を集結させていたヴィテッリ家とオルシーニ家の使者と会い、次の遠征先について協議した。結論が出ない中、オリヴェロット・ダ・フェルモが送られ、公がトスカーナ遠征を望むなら準備はできているし、望まないならシニガリアを包囲すると提案した。公は、フィレンツェ人と敵対することになるトスカーナ遠征は望まないが、シニガリアへの進軍には賛成だと答えた。

その後ほどなくして、シニガリアの町は降伏したが、要塞だけは守備隊長が公本人にしか引き渡さないと言い張り、抵抗を続けた。そのため、彼らは公に現地に来るよう促した。これは公にとって絶好の機会だった。彼らに招かれて行くのであれば、疑われる心配がないからだ。さらに彼らを安心させるため、彼は義弟カンダレス氏率いる百人の騎兵を除き、ロンバルディアから連れてきたフランス騎兵をすべて帰した。十二月中旬にチェゼーナを発った公はファーノへ向かい、そこで言葉巧みにヴィテッリ家とオルシーニ家に対し、シニガリアで待つよう説得した。和解の誠実さを証明するためにも、友人たちの武力と知恵を借りたいのだと説いたのである。ヴィテロッツォだけは、兄弟を殺された経験から、一度怒らせた君主を信じるべきではないと頑なに拒んだが、公から贈物と約束で丸め込まれたパゴロ・オルシーニに説得され、ついに待機することに同意した。

一五〇二年十二月三十日、ファーノを出発する直前、公は腹心の部下八人(後に枢機卿となるドン・ミケーレやエウナ司教ら)に自らの計略を打ち明けた。ヴィテロッツォ、パゴロ、グラヴィーナ公、オリヴェロットが到着次第、部下たちが二人一組で彼らを一人ずつマークし、シニガリアに到着するまで彼らをもてなし、決して逃がさずに公の宿舎まで連行して捕縛せよ、という命令であった。

公はさらに、二千以上の騎兵と一万の歩兵からなる全軍に対し、ファーノから五マイル(約八キロメートル)離れたメタウロ川のほとりに夜明けまでに集結するよう命じた。十二月の最後の日、彼はメタウロ川で全軍と合流し、約二百の騎兵を先陣として進ませ、次いで歩兵、そして自らが率いる重装騎兵の順に進軍を開始した。

ファーノとシニガリアはアドリア海沿いのマルケ州にある二つの都市で、十五マイル(約二十四キロメートル)離れている。シニガリアに向かう途中、右手には山が迫り、場所によっては波打ち際まで山裾が届いている。シニガリアの町は山裾から矢の届く距離にあり、海岸からは一マイル(約一・六キロメートル)ほど離れている。町の反対側には小さな川が流れており、それがファーノ側の城壁を洗っている。シニガリアに近づくには、山沿いの道をしばらく進み、町を流れる川に突き当たる。そこで川沿いに左へ曲がり、矢の届く距離ほど進むと、川に架かる橋に出る。その橋を渡れば、シニガリアの門のほぼ正面に出るが、道は直線ではなく斜めに続いている。門の前には広場を囲むように家々が立ち並び、川の堤防がその一辺をなしている。

公を迎える準備を整えていたヴィテッリ家とオルシーニ家は、公の軍勢を収容するスペースを作るため、自分たちの兵をシニガリアから六マイル(約九・六キロメートル)ほど離れた近隣の城へ移動させていた。シニガリアに残っていたのは、オリヴェロット率いる千の歩兵と百五十の騎兵だけで、彼らは前述の郊外の地区に宿営していた。こうして舞台が整った中、ヴァレンティーノ公がシニガリアに到着した。騎兵の先遣隊が橋に到達したが、彼らは橋を渡らず、道を空けるように川側と内陸側の二手に分かれた。その中央を、歩兵たちが立ち止まることなく町の中へと進んでいった。

ヴィテロッツォ、パゴロ、グラヴィーナ公は、ラバに乗り、少数の騎兵を従えて公を出迎えに向かった。ヴィテロッツォは武器を持たず、緑の裏地の付いたケープを羽織り、自らの死を予感しているかのようにひどく落胆した様子だった。彼のこれまでの力量と栄光を知る者にとって、その姿は驚きであった。公に会うためにシニガリアへ向かう際、彼は部下たちに対し、これが最後の別れであるかのように振る舞ったと言われている。彼は自らの家系とその運命を部下たちに託し、甥たちには「家運に頼るのではなく、父祖の美徳を忘れるな」と説いたという。この三人が公の前に現れ、恭しく挨拶をすると、公は彼らを温かく迎えた。そして直ちに、彼らを監視する役目の者たちの間に、彼らを配置した。

公は、オリヴェロットがそこにいないことに気づいた。オリヴェロットは川沿いの広場の前で、自らの部隊を整列させ、訓練を行っていたからである。公は、オリヴェロットの監視を任せていたドン・ミケーレに目配せをし、彼を逃がさないよう合図を送った。ドン・ミケーレは馬を走らせてオリヴェロットに近づき、「兵を外に置いておくのは良くない、公の兵たちの宿舎と重なってしまう恐れがあるから、すぐに宿舎へ戻し、貴殿自身が公の出迎えに来るべきだ」と助言した。オリヴェロットはこの言葉に従い、公の前に現れた。公は彼を見ると呼びかけ、オリヴェロットは一礼して他の面々に加わった。

一行はシニガリアの町に入り、公の宿舎で馬を降りた。そして公と共に奥の秘密の部屋へ入った瞬間、公は彼らを捕縛した。公はすぐに再び馬に乗り、オリヴェロットとオルシーニ家の兵たちから武器を取り上げるよう命じた。町にいたオリヴェロットの兵たちはあっけなく制圧されたが、離れた場所にいたオルシーニ家とヴィテッリ家の兵たちは、主君の危機を察知して準備を整えた。彼らはオルシーニ家とヴィテッリ家伝統の勇猛さと規律を発揮し、一団となって敵地を脱出し、生き延びた。

しかし、公の兵たちはオリヴェロットの兵から略奪するだけでは飽き足らず、シニガリアの町そのものを略奪し始めた。公が略奪を働いた兵の何人かを処刑して鎮圧しなければ、町は完全に破壊されていただろう。夜になり、騒乱が静まると、公はヴィテロッツォとオリヴェロットの殺害を命じた。二人は一つの部屋に連行され、絞殺された。死に際して、二人はそれまでの武勇に見合うような言葉を残さなかった。ヴィテロッツォは、自分の罪に対して教皇から完全な赦しを得られるよう祈り、オリヴェロットは卑屈にも、公に対するこれまでのすべての非道はヴィテロッツォの責任であると、なすりつけた。パゴロとグラヴィーナ公は、教皇がローマで枢機卿オルシーニ、フィレンツェ大司教、およびメッセル・ヤコポ・ダ・サンタ・クローチェを捕らえたという知らせが届くまで生かされた。その知らせが届いた後、一五〇二年一月十八日、ピエーヴェの城において、彼らもまた同様に絞殺された。

ルッカの公、カストルッチョ・カストラカーニの生涯

ニコロ・マキャヴェッリ 著 親愛なる友、ザノービ・ブオンデルモンティとルイージ・アラマンニに捧ぐ

カストルッチョ・カストラカーニ(1284-1328)

親愛なるザノービとルイージよ。世の中で偉大な事業を成し遂げ、同時代の人々を圧倒した人物について深く考えてみると、その多くが卑しい身分や不遇な環境から出発していることに驚かされる。彼らはある者は野獣に捨てられ、ある者は出自を恥じて自らをジュピターや他の神々の子であると偽らねばならないほど、卑小な親から生まれている。こうした例をいちいち挙げるのは退屈であろう。皆が知っていることだし、読者にとってもそれほど有益ではないからだ。私が思うに、偉大な人物がこのような卑しい境遇から生まれるのは、運命フォルトゥーナが自らの力を世に見せつけたいからだろう。「これらの男たちが成功したのは、彼らの知恵のおかげではなく、ひとえに私の力によるものだ」と主張するために、知恵がまだ何の役にも立たないような人生の初期段階において、運命がその手を貸し始めるのである。ルッカのカストルッチョ・カストラカーニもまた、その時代の背景と彼が生まれた都市の規模から見れば、類まれなる偉業を成し遂げた一人であったが、他の多くの英雄と同様に、その出自は決して恵まれたものでも華やかなものでもなかった。彼の生涯を振り返ることは、そこに力量と運命の鮮やかな兆候が見て取れるため、人々にとって優れた範となるだろう。また、高潔な行いを何よりも好む諸君にとっても、彼の行動を紹介することは意義深いことだと信じている。

カストラカーニ家は、かつてはルッカの貴族に名を連ねていたが、私の語る時代には、世の常として家勢は衰えていた。この家にアントニオという息子が生まれ、彼はルッカのサン・ミケーレ修道会の司祭となり、メッセル・アントニオと呼ばれ尊敬されていた。彼には、ブオナッコルソ・チェナミに嫁いだ一人妹がいたが、夫を亡くして未亡人となり、再婚を望まず兄と同居していた。メッセル・アントニオの住まいの裏手には葡萄畑があり、四方を庭園に囲まれていたため、誰でも容易に立ち入ることができた。ある朝、日の出から間もなく、アントニオの妹マドンナ・ディアノーラが、料理に使うハーブを摘むためにいつものように畑へ出た。すると、葡萄の葉の間からガサガサと音がし、赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえた。彼女が音の方へ駆け寄ると、そこには葡萄の葉に包まれ、母親を呼んで泣いている赤ん坊の手と顔が見えた。彼女は驚きと不安を覚えつつも、深い慈愛に駆られて赤ん坊を抱き上げ、家へと連れ帰った。体を洗い、清潔な麻の布で包んでやった後、帰宅したメッセル・アントニオにそれを見せた。事情を聞き、子供を見たアントニオも、妹に負けず劣らずの驚きと慈しみを感じた。二人は相談の末、兄が司祭であり妹に子供がいなかったことから、この子を育てることに決めた。乳母を雇い、自分たちの本当の子供のように愛を注いだ。彼らはこの子を、父の名にちなんでカストルッチョと名付け、洗礼を施した。

歳月が流れるにつれ、カストルッチョは美しく成長し、機知と分別に富んだ姿を見せるようになった。メッセル・アントニオが教える勉強も、年齢に不釣り合いなほどの速さで吸収していった。アントニオは彼を司祭にし、いずれは自らの聖職禄や地位を継がせるつもりで教育を施していた。しかし、アントニオはやがて、カストルッチョの性格が司祭という職業に全く向いていないことに気づいた。十四歳になったカストルッチョは、アントニオやディアノーラの小言を気にしなくなり、彼らを恐れることもなくなった。彼は聖典を読むのをやめ、武器で遊ぶことに没頭した。武器の扱いを学び、他の少年たちと走り、跳び、取っ組み合いをすること以上に彼を喜ばせるものはなかった。あらゆる運動において、彼は勇気と体力で仲間たちを圧倒し、もし本を手に取ることがあっても、それは戦争や英雄の武勇伝について書かれたものだけだった。メッセル・アントニオは、これを苦々しく、また悲しく見守るしかなかった。

当時、ルッカにはグイニージ家という一族のフランチェスコという騎士がいた。彼は富と体力、そして武勇においてルッカで右に出る者はなかった。彼はミラノのヴィスコンティ家の指揮下で戦った経験もあり、ギベリン(皇帝派)のリーダーとして重きをなしていた。フランチェスコはルッカで、朝夕、市内で最も美しいサン・ミケーレ広場にあるポデスタ(長官)のバルコニーの下に仲間と集まるのが習慣だった。そこで彼は、カストルッチョが街の子供たちと混じって、例の遊びに興じているのを何度も目にした。カストルッチョが他の少年たちを遥かに凌ぎ、あたかも王のような威厳を持って彼らを従え、少年たちもまた彼を敬愛し、従っている様子を見て、フランチェスコは彼が何者であるかを知りたいと強く願うようになった。カストルッチョの生い立ちを知ると、彼を自分の側に置きたいという思いはさらに強まった。ある日、彼はカストルッチョを呼び寄せ、「騎士の家で馬の乗り方や武器の扱いを学ぶのと、司祭の家でミサや聖歌を学ぶのと、どちらがいいか」と尋ねた。フランチェスコは、馬や武器の話が出た瞬間にカストルッチョの目が輝くのを見逃さなかった。少年は恥ずかしそうに頬を染めて黙っていたが、フランチェスコに促されると、「もし主人が許してくれるなら、司祭の勉強をやめて軍人になることほど嬉しいことはありません」と答えた。この答えにフランチェスコは満足し、ほどなくしてメッセル・アントニオの同意を得た。アントニオもまた、少年の天性を悟り、これ以上彼を繋ぎ止めておくことはできないと諦めていたのである。

こうしてカストルッチョは司祭メッセル・アントニオの家を離れ、軍人メッセル・フランチェスコ・グイニージの家へと移った。驚くべきことに、彼は瞬く間に真の騎士にふさわしい美徳と立ち居振る舞いを身につけた。まず彼は熟練した騎手となり、どんなに荒い馬でも自在に操れるようになった。槍試合やトーナメントでは、まだ若年でありながら誰よりも注目を集め、力と技を要するあらゆる競技で抜きん出た才能を発揮した。何より彼の魅力を高めていたのは、言動において他人の反感を買わない慎み深さであった。目上の者には礼を尽くし、同輩には謙虚に接し、目下の者には慈しみを持って接した。こうした資質により、彼はグイニージ家の人々だけでなく、ルッカの市民すべてから愛されるようになった。カストルッチョが十八歳の時、パヴィアでゲルフ(教皇派)がギベリンを追放する事件が起き、フランチェスコはヴィスコンティ家から救援のために派遣された。カストルッチョもまた、軍勢の指揮を任されて彼に従った。この遠征で、カストルッチョは誰よりも優れた将軍としての評判を勝ち取り、その知恵と勇気はパヴィアのみならずロンバルディア全土に轟いた。

出発時よりもはるかに高い評価を得てルッカに戻ったカストルッチョは、さらに多くの友人を作るべく、必要とされるあらゆる術を駆使して努力を怠らなかった。その頃、メッセル・フランチェスコが、十三歳の息子パゴロを遺してこの世を去った。彼は死の間際、カストルッチョをパゴロの後見人および財産管理人に指名した。フランチェスコは死の床にカストルッチョを呼び寄せ、自分がこれまで彼に注いできた慈しみをパゴロにも注いでほしいこと、そして自分に返せなかった恩を息子に返してほしいと懇願した。フランチェスコの死後、カストルッチョがパゴロの後見人となったことで、彼の権力と地位は絶大なものとなった。しかし、それまで彼に寄せられていた普遍的な好意に代わって、ルッカの街には彼に対する嫉妬が芽生え始めた。彼が独裁を目論んでいるのではないかと疑う者が現れたのである。その急先鋒は、ゲルフのリーダーであるジョルジョ・デリ・オピツィであった。ジョルジョは、フランチェスコの死後、自分がルッカの第一人者になれると考えていたが、若くして頭角を現し、後見人として実権を握るカストルッチョがその邪魔になると考えた。そこで彼は、カストルッチョの失脚を目論んで策動を始めた。カストルッチョは当初これを冷笑していたが、ジョルジョがナポリ王ルベルトの代官に讒言して自分をルッカから追放させるのではないかと危惧し、警戒を強めた。

当時のピサの領主は、アレッゾのファッジュオーラ家のウグッチョーネであった。彼は当初キャプテンとして選ばれたが、後に領主の座に就いていた。フィレンツェには、ルッカを追放されたギベリンたちが亡命しており、カストルッチョは彼らと連絡を取り合い、ウグッチョーネの助けを借りて彼らを帰還させる計画を練った。カストルッチョはまた、オピツィ家の専横に耐えかねていたルッカ市内の友人たちも計画に引き入れた。計画が固まると、カストルッチョは慎重にオネスティの塔を補強し、いざという時の籠城に備えて食料と武器を運び込ませた。ウグッチョーネがピサと山々の間の平原に大軍を集結させて待機していた、あらかじめ決められた夜、合図が送られた。ウグッチョーネは誰にも気づかれずにサン・ピエロ門に近づき、門の格子に火を放った。カストルッチョは市内で大騒動を起こし、民衆に武器を取るよう呼びかけ、内側から門をこじ開けた。ウグッチョーネの軍勢がなだれ込み、街中に溢れ、メッセル・ジョルジョをその一族や支持者と共に殺害した。代官は追放され、政府はウグッチョーネの意向通りに改編されたが、これは街にとって悲劇でもあった。百以上の家族が追放の憂き目に遭ったからである。逃げ延びた者たちはフィレンツェやピストイアへ向かった。ピストイアはゲルフの本拠地であったため、ウグッチョーネとルッカにとって最大の敵対勢力となった。

フィレンツェ人やその他のゲルフたちは、トスカーナでギベリンの勢力が強まりすぎたことを危惧し、追放されたゲルフたちをルッカに戻そうと決意した。彼らはニエーヴォレ谷に大軍を集結させてモンテカティーニを占拠し、さらにルッカへの通路を確保するためにモンテカルロへと進軍した。これに対し、ウグッチョーネはピサとルッカの連合軍を招集し、さらにロンバルディアから引き抜いたドイツ騎兵を加えて、フィレンツェ軍の陣地へと向かった。敵の出現を知ったフィレンツェ軍はモンテカルロから撤退し、モンテカティーニとペーシャの間に陣を張った。ウグッチョーネはモンテカルロ近く、敵から約二マイル(約三・二キロメートル)の場所に布陣し、連日、双方の騎兵による小規模な小競り合いが続いた。ウグッチョーネが病に伏したため、ピサ・ルッカ連合軍はなかなか決戦を挑めなかった。病状の悪化を悟ったウグッチョーネは治療のためにモンテカルロへ引き上げ、軍の指揮をカストルッチョに託した。この交代がゲルフたちの破滅を招いた。彼らは、敵軍が将軍を失って頭を失ったと思い込み、過信に陥ったのである。カストルッチョはこれを見抜き、わざと数日間何もしないことで敵の油断を誘った。さらに、恐怖に怯えているふりをし、陣地の守りを固めるだけで一切手を出さなかった。ゲルフたちはますます傲慢になり、連日カストルッチョの陣の前で戦いを挑むような隊列を組んだ。敵が十分に増長し、その戦術を見切ったと判断したカストルッチョは、ついに決戦を決意した。まず彼は兵士たちを鼓舞し、命令に従いさえすれば勝利は確実だと説いた。カストルッチョは、敵が精鋭部隊を中央に配置し、信頼の置けない部隊を両翼に置いていることに気づいた。そこで彼は全く逆の布陣をとった。最も勇敢な兵を両翼に配し、中央にはあまり頼りにならない兵を置いたのである。この陣形で進軍し、傲慢にも挑発してきた敵軍と対峙した。彼は中央の部隊にゆっくり進むよう命じ、一方で両翼の部隊には急速に前進するよう命じた。こうして、接触した時には両翼の部隊だけが交戦し、中央の部隊は互いに遠く離れたまま戦うことができなかった。この計略により、カストルッチョの精鋭部隊が敵の脆弱な部隊と戦うことになり、一方で敵の精鋭部隊は戦う相手がいない状態になった。フィレンツェ軍は目の前の敵と戦うことも、味方の両翼を助けることもできなかった。こうしてカストルッチョは容易に両翼の敵を壊滅させ、中央の部隊も自分たちが包囲されるのを見て、戦わずして敗走した。勝利は完璧なものだった。トスカーナのゲルフの有力な将軍や騎士を含む一万人以上が戦死し、彼らを助けに来たナポリ王ルベルトの弟ピエロ、甥のカルロ、タラント領主フィリッポら多くの王族も命を落とした。カストルッチョ側の損害はわずか三百人ほどであったが、その中にはウグッチョーネの息子フランチェスコが含まれていた。若く血気盛んだった彼は、最初の突撃で戦死したのである。

この勝利によりカストルッチョの名声は絶大なものとなったが、一方でウグッチョーネは彼に対して嫉妬と疑念を抱くようになった。この勝利が自分に権力をもたらすどころか、むしろ自分の地位を脅かすものだと感じたのである。彼はカストルッチョを排除する機会をうかがっていた。その機会は、ルッカの名士ピエール・アニョロ・ミケーリの死によって訪れた。彼を殺害した犯人がカストルッチョの家に逃げ込んだのである。代官の役人が犯人を捕らえに向かったが、カストルッチョはこれを追い払い、犯人を逃がした。ピサにいたウグッチョーネはこの知らせを聞き、カストルッチョを処罰する絶好の好機だと考えた。彼はルッカの代官を務めていた息子ネーリを呼び、カストルッチョを宴席で捕らえて殺害するよう命じた。何も疑わずにカストルッチョは代官のもとへ赴き、食事を共にした後、そのまま牢に投げ込まれた。しかしネーリは、カストルッチョを殺せば民衆が暴動を起こすのではないかと恐れ、彼を生かしたまま父のさらなる指示を待った。ウグッチョーネは息子の優柔不断さと臆病さを罵り、直ちに四百の騎兵を率いてピサからルッカへと向かった。しかし、彼が温泉地に到着する前に、ピサで反乱が起き、代官が殺害されてガッド・デッラ・ゲラルデスカ伯爵が領主に選ばれた。ルッカに到着する前にこの報を聞いたウグッチョーネだったが、ルッカの民衆がピサの例に倣って門を閉ざすことを恐れ、そのままルッカに入った。しかしルッカの市民もまたピサの事件を知っており、ウグッチョーネがいるにもかかわらず、カストルッチョの釈放を公然と要求し始めた。最初こそ内輪の話であったが、やがて広場や通りで公然と叫ばれるようになり、ついには民衆が武器を持ってウグッチョーネに迫った。身の危険を感じたウグッチョーネは、カストルッチョを釈放せざるを得なかった。釈放されたカストルッチョは直ちに友人たちを集め、民衆の助けを得てウグッチョーネを攻撃した。逃げるしかないと悟ったウグッチョーネは仲間と共にロンバルディアのスカーラ家の領主のもとへ逃れ、そこで貧困のうちに世を去った。

こうして囚人の身から一転してルッカの事実上の統治者となったカストルッチョは、友人や民衆に対して慎重に振る舞い、一年間の軍司令官に任命された。実権を握った彼は、ウグッチョーネが去った後に反旗を翻した多くの町を奪還しようと計画し、条約を結んでいたピサ人の助けを得てセレッツァーナへ進軍した。彼はこの町を落とすために向かいにゼレッツァネッロと呼ばれる砦を築き、二ヶ月で町を陥落させた。この勝利の勢いで彼はマッサ、カッラーラ、ラヴェンツァを次々と制圧し、瞬く間にルニジャーナ地方全域を席巻した。さらに、ロンバルディアからルニジャーナへの通路を封じるためにポントレーモリを包囲し、領主メッセル・アナスタージオ・パラヴィチーニからこれを奪い取った。これらの勝利を携えてルッカに帰還した彼は、全市民から熱狂的な歓迎を受けた。もはや領主となることを先延ばしにすべきではないと考えたカストルッチョは、あらかじめ懐柔しておいたパッツィーノ・デル・ポッジョ、プッチネッロ・ダル・ポルティコ、フランチェスコ・ボッカンサッキ、チェッコ・グイニージらの助けを借りてルッカの領主となり、その後、民衆によって正式に公(プリンス)に選出された。この頃、ドイツ王バイエルン公フリードリヒが帝冠を受けるためにイタリアへ入り、カストルッチョは彼との友好を深めるために五百の騎兵を率いて出迎えた。カストルッチョはルッカの留守を、父の記憶ゆえに民衆から愛されていたパゴロ・グイニージに託した。フリードリヒはカストルッチョを最大限の礼遇で迎え、多くの特権を与え、彼をトスカーナにおける皇帝代理に任命した。当時、ピサ人は自分たちが追放したガッド・デッラ・ゲラルデスカを恐れており、フリードリヒに助けを求めた。フリードリヒはカストルッチョをピサの領主に任命し、ゲルフ、特にフィレンツェ人を恐れていたピサ人は、やむなく彼を領主として受け入れた。

フリードリヒは、自らのイタリア政策を監視させるための代官をローマに置き、ドイツへ帰還した。皇帝に従っていたトスカーナやロンバルディアのすべてのギベリンたちは、カストルッチョに助けと助言を求め、自分たちの国を奪還できればカストルッチョを代官として迎えると約束した。これらの亡命者の中には、マッテオ・グイディ、ナルド・スコラーリ、ラーポ・ウベルティ、ゲロッツォ・ナルディ、ピエロ・ブオナッコルシといったフィレンツェのギベリンたちもいた。カストルッチョは、彼らの助けと自らの軍事力によってトスカーナ全土を支配下に置くという密かな野望を抱いていた。さらに影響力を強めるために、ミラノの領主メッセル・マッテオ・ヴィスコンティと同盟を結び、ルッカ市内外の軍事組織を再編した。ルッカには五つの門があったため、彼は周辺地域を五つの地区に分け、それぞれに武器を配備し、隊長と旗を置いて組織化した。これにより、ピサからの援軍を除いても、瞬時に二万の兵を動員できるようになった。こうして軍備と外交を固めていた矢先、同盟者のメッセル・マッテオ・ヴィスコンティが、フィレンツェ軍とルベルト王の支援を受けたピアチェンツァのゲルフによって攻撃された。マッテオはカストルッチョに対し、フィレンツェの領土に侵攻するよう求めた。背後を突くことで、フィレンツェ軍をロンバルディアから撤退させ、自国防衛に専念させるためである。カストルッチョはヴァルダルノに侵攻し、フチェッキオとサン・ミニアートを占領して多大な損害を与えた。これを受けてフィレンツェ軍は撤退を開始したが、彼らがトスカーナに到着する前に、カストルッチョは別の急用が生じたためルッカへ戻らざるを得なくなった。

ルッカ市内にはポッジョ家という有力な一族がいた。彼らはカストルッチョを権力の座に押し上げる力を持っていたが、自分たちの尽力に見合う報いを受けていないと感じ、他の一族を唆してカストルッチョをルッカから追放しようと企てた。ある朝、彼らは機会を得て武装し、カストルッチョが秩序維持のために残していた代官を襲撃して殺害した。彼らは民衆を扇動して反乱を起こさせようとしたが、反乱に加わっていなかった穏健な老人ステファノ・ディ・ポッジョが介入した。彼はその権威をもって一族に武器を置かせ、自分がカストルッチョとの仲裁人になり、望みを叶えてやると約束した。一族の者たちは、武器を取った時と同じくらい無計画に武器を置いた。ルッカの急報を聞いたカストルッチョは、直ちにパゴロ・グイニージに軍の指揮を任せ、自らは騎兵を連れて家路を急いだ。予想に反して反乱はすでに鎮まっていたが、彼は市内の要所に兵を配置した。ステファノは、自分がカストルッチョに多大な恩を売ったと考え、彼のもとを訪れた。自分の功績を誇るまでもないと考えた彼は、一族の若さゆえの過ちを許してほしいこと、そしてカストルッチョが自分たちの一族に負っている恩義を忘れないでほしいと懇願した。これに対し、カストルッチョは丁重に応じ、ステファノを安心させた。「反乱が起きたと聞いた時よりも、それが鎮まったと知った今の喜びの方が大きい」と語り、寛大さと慈悲を示す機会を与えてくれた神に感謝していると言って、ステファノに一族の者たちを連れてくるよう促した。ステファノとカストルッチョの言葉を信じて投降した一族の者たちは、ステファノと共に直ちに投獄され、処刑された。その間にフィレンツェ軍はサン・ミニアートを奪還していた。カストルッチョは、ルッカの足元がまだ固まっていない今、外征を続けるのは危険だと判断し、和解を模索した。彼はフィレンツェ人に休戦を申し入れ、戦争の出費に疲弊していた彼らもこれを快諾した。二年間の条約が結ばれ、双方が現在の占領地を保持することになった。外部の憂いが消えたカストルッチョは、ルッカ市内の浄化に乗り出した。二度と同じような危機に晒されないよう、さまざまな口実を設けて、将来的に領主の座を脅かす可能性のある野心家たちを一人残らず抹殺した。国外追放、財産没収、そして捕らえた者には死を与え、「誰も信用できないことを身をもって知った」と語った。さらに安全を期すため、彼は殺害したり追放したりした者たちの塔の石を使い、ルッカに巨大な要塞を築いた。

フィレンツェ人と和平を結び、ルッカでの地位を固めながらも、カストルッチョは公然たる戦争以外のあらゆる手段を使って、他地域での影響力を拡大し続けた。もしピストイアを手に入れれば、悲願であるフィレンツェ征服への足がかりになると考えた彼は、ピストイアの山岳地帯の住民たちと親交を結び、市内の両派閥が自分を頼るように仕向けた。ピストイアは例によってビアンキ党とネリ党に分裂しており、ビアンキ党の首領はバスティアーノ・ディ・ポッセンテ、ネリ党の首領はヤコポ・ダ・ジーアであった。二人はそれぞれカストルッチョと密通し、相手を追い出そうと画策し、ついには武力衝突に至った。ヤコポはフィレンツェ門を、バスティアーノはルッカ門を固めた。二人はフィレンツェ人よりもカストルッチョの方が行動が早く、頼りになると信じて、それぞれ彼に援軍を求めた。カストルッチョは双方に約束を与えた。バスティアーノには自分が直接向かうと言い、ヤコポには弟子のパゴロ・グイニージを送ると伝えた。約束の時刻、彼はパゴロをピサ経由で向かわせ、自らは直通の道でピストイアへ向かった。深夜、二人は市外で合流し、双方から「味方」として市内に迎え入れられた。市内に入ったカストルッチョが合図を送ると、一方はヤコポを、他方はバスティアーノを殺害し、両派閥の主立った者たちを捕縛または殺害した。こうして抵抗を受けることなくピストイアはカストルッチョの手に落ちた。彼はシニョーリア(統治会議)を宮殿から追い出し、民衆に対して古い借金を免除し、多くの約束を与えて服従を誓わせた。近隣の村々からも人々が新しい領主を一目見ようと集まり、皆が彼の力量に期待を寄せ、街は平穏を取り戻した。

同じ頃、教皇がアヴィニョンに不在であったため、物価の高騰によりローマで大きな暴動が起きていた。ドイツ人の代官エンリコは、連日繰り返される殺人や略奪を鎮めることができず、激しい非難を浴びていた。エンリコは、ローマ市民がナポリ王ルベルトを呼び寄せて自分たちを追い出し、教皇を連れ戻すのではないかと危惧した。彼が頼れる最も近い友人はカストルッチョだけであったため、彼はカストルッチョに援助を求め、自らローマに来てほしいと懇願した。カストルッチョは、皇帝がローマを失えば自分も安泰ではないと考え、この要請を快諾した。彼はパゴロ・グイニージにルッカを託し、六百の騎兵を率いてローマへ向かった。エンリコは最大限の敬意をもって彼を迎えた。カストルッチョが到着すると、その威厳により、流血を見ることなく秩序が回復した。彼はピサ周辺から海路で大量の穀物をローマに運び込ませ、騒乱の根本原因であった食糧不足を解消したのである。彼はローマの指導者たちの何人かを処罰し、他を戒めることで、エンリコへの自発的な服従を勝ち取った。その功績によりカストルッチョは多くの栄誉を授かり、ローマの元老院議員に任命された。その就任式において、彼は金糸で刺繍されたトガを身にまとった。その前面にはこう記されていた。「私は神が欲したもう者である」。そして背面にはこう記されていた。「神が欲したもうことは成されるであろう」。

この間にフィレンツェ人は、休戦中にピストイアを奪われたことに激怒し、カストルッチョの不在を突いてピストイアを反乱させようと画策した。フィレンツェに亡命していたピストイア人のバルド・チェッキとヤコポ・バルディーニは、危険を顧みない実力者であった。彼らは市内の友人と連絡を取り、フィレンツェ軍の助けを借りて夜間にピストイアへ侵入し、カストルッチョの役人や支持者を殺害または追放して、街の自由を回復した。この報を聞いたカストルッチョは激怒し、エンリコに暇乞いをして、猛スピードでピストイアへと急行した。フィレンツェ軍は彼の帰還を知り、時間を無駄にしない彼を迎え撃つためにニエーヴォレ谷に布陣した。そうすればピストイアへの道を封鎖できると考えたからだ。ゲルフの支持者からなる大軍を集結させたフィレンツェ軍は、ピストイア領内に侵入した。一方、カストルッチョはモンテcarloに到着した。敵軍の所在を知った彼は、ピストイアの平原やペーシャの平原で戦うことを避け、セッラヴァッレの難所であえて攻撃を仕掛けることに決めた。この計略が成功すれば勝利は間違いないと信じていた。フィレンツェ軍が三万の兵を持つのに対し、彼は一万二千しか持っていなかったからだ。自分の知恵と兵の勇猛さを信頼していたとはいえ、開けた場所で数の暴力に圧倒されることは避けたかった。セッラヴァッレはペーシャとピストイアの間にある城で、ニエーヴォレ谷を塞ぐように丘の上に建っている。難所そのものにあるわけではなく、そこから矢の届く距離に位置している。この峠は場所によっては極めて狭く急峻だが、全体としては緩やかな登りとなっており、頂上の分水嶺では二十人が並ぶのが精一杯という狭さであった。セッラヴァッレの領主はドイツ人のマンフレートであった。カストルッチョがピストイアの領主になる前、この城はルッカとピストイアの共有物のような扱いであり、どちらの側もマンフレートが中立を守り、他方に肩入れしない限り、彼を追い出そうとはしなかった。城の守りも堅かったため、彼は長年その地位を維持していた。カストルッチョはここを戦場に選んだ。ここなら少数の兵でも有利に戦えるし、敵の大軍を目にして兵が怯える心配もないと考えたからだ。フィレンツェとの紛争が起きた瞬間、カストルッチョはこの城を占拠することの絶大なる利点を見抜いた。彼は城内の住民に親しい友人がいたため、彼を通じて策を講じ、攻撃の前夜に四百の兵を密かに城内に入れさせ、城代を殺害して城を乗っ取った。

カストルッチョは準備を整えると、フィレンツェ軍がピストイアからニエーヴォレ谷へ戦場を移そうとする意欲を削がないよう、あえてモンテカルロから軍を動かさなかった。フィレンツェ軍は翌朝に峠を越えるつもりで、セッラヴァッレの麓まで進軍してきた。その夜、カストルッチョはモンテカルロを出発し、深夜の静寂の中、セッラヴァッレの麓に到達した。こうして、カストルッチョ軍とフィレンツェ軍は、朝の同じ時刻に峠の登攀を開始した。カストルッチョは歩兵を本道から、四百の騎兵を左側の城へ通じる小道から進ませた。フィレンツェ軍は、カストルッチョが峠を押さえているとも、城を占拠したとも知らず、四百の騎兵を先陣として進ませていた。山を登ってきたフィレンツェ騎兵は、目の前に突如としてカストルッチョの歩兵が現れたことに驚愕した。あまりの近さに、兜の面を閉じる余裕さえないほどだった。準備の整った兵が不意を突かれた兵を襲ったのである。フィレンツェ騎兵は激しく攻め立てられ、必死に応戦したが、一部の者を除いて道を開くことができなかった。戦いの喧騒が麓のフィレンツェ本隊に届くと、大混乱が起きた。狭い峠道で騎兵と歩兵が入り乱れ、隊長たちは兵を前に進めることも後ろに下げることもできなくなった。この騒乱の中で、何をすべきか、何ができるか分かる者は一人もいなかった。カストルッチョの歩兵と戦っていた騎兵たちは、地形の不利もあって瞬く間に蹴散らされ、殺害された。彼らは絶望的な状況下で果敢に抵抗したが、両脇は山、前方には敵、後方には味方が詰まっており、逃げ場はどこにもなかった。カストルッチョは、目の前の敵を決定的に打ち倒すために、城に潜ませていた四百の騎兵に千の歩兵を加えて敵の側面を突かせた。この猛攻にフィレンツェ軍は耐えきれず、ついに総崩れとなった。彼らは力量で負けたというより、地勢の悪さゆえに敗れたのである。後方の兵たちはピストイアの平原へと逃げ惑い、めいめいが生を求めて散り散りになった。敗北は壊滅的であり、凄惨なものだった。バンディーニ・デイ・ロッシ、フランチェスコ・ブルネレスキ、ジョヴァンニ・デッラ・トーサといったフィレンツェの貴族を含む多くの将軍たちが捕虜となり、ゲルフを助けるためにルベルト王が派遣したナポリやトスカーナの騎士たちも多く捕らえられた。ピストイアの市民はこの大敗を聞くやいなや、市内のゲルフ派を一掃してカストルッチョに降伏した。カストルッチョはさらにプラートやアルノ川両岸の平原のすべての城を占領し、フィレンツェからわずか二マイル(約三・二キロメートル)のペレトラ平原に軍を進めた。彼はそこに数日間留まり、戦利品を分配し、競馬や男女の徒競走などの催しを開いて勝利を祝った。また、フィレンツェ軍の敗北を記念するメダルを鋳造した。彼はフィレンツェの門を夜間に開かせるべく一部の市民を抱き込もうとしたが、陰謀は発覚し、トンマーゾ・ルパッチやランベルトゥッチョ・フレスコバルディらが斬首された。この敗北に絶望したフィレンツェ人は、自由を守るためにナポリ王ルベルトに使者を送り、都市の統治権を差し出した。ゲルフの勢力を維持することが死活問題であった王はこれを受け入れ、年間二十万フローリンの貢納金と引き換えに、息子カルロを四千の騎兵と共にフィレンツェへ送り込んだ。

その後間もなく、カストルッチョはフィレンツェ包囲を解き、ピサへ向かわざるを得なくなった。ピサの名士ベネデット・ランフランキによる陰謀が発覚したからである。ベネデットは、祖国がルッカの支配下にあることに耐えかね、城塞を奪取してカストルッチョの支持者を殺害し、守備隊を追い出す計画を立てていた。しかし、陰謀というものは人数が少なければ露見しにくいが実行が困難であり、人数を増やせば必ず裏切り者が出るものである。ベネデットの計画もカストルッチョの耳に入った。この裏切りにおいて、ピサに亡命していた二人のフィレンツェ人、ボニファチョ・チェルキとジョヴァンニ・グイディの名が挙げられているが、これは彼らにとって消し去り難い汚名となった。カストルッチョはベネデットを捕らえて処刑し、他の多くの有力市民を斬首し、その一族を追放した。ピサもピストイアも不穏な空気に包まれていると感じたカストルッチョは、その平定に心血を注いだ。この隙にフィレンツェ人は軍を再編し、ナポリ王の子カルロの到着を待った。カルロが到着すると、彼らは三万以上の歩兵と一万の騎兵からなる大軍を編成した。イタリア中のゲルフに呼びかけ、総力を挙げたのである。彼らはピストイアとピサのどちらを先に突くべきか議論し、ピサを落とせばピストイアも自ずと降伏すると判断して、ピサへ向かうことに決めた。

一三二八年五月初旬、フィレンツェ軍は進軍を開始し、ラストラ、シーニャ、モンテルーポ、エンポリを次々と占領し、サン・ミニアートへ達した。これほどの大軍が押し寄せていると聞いても、カストルッチョは全く動じなかった。むしろ、運命がトスカーナの覇権を自分に授ける時が来たと信じていた。ピサやセッラヴァッレの時以上に、敵に勝機があるとは思えなかったからだ。彼は二万の歩兵と四千の騎兵を集結させてフチェッキオへ向かい、一方でパゴロ・グイニージを五千の歩兵と共にピサへ送った。フチェッキオはピサ地方で最も堅固な場所に位置していた。アルノ川とグシャーナ川の間にあり、周囲の平原よりもわずかに高くなっていたからだ。敵軍がここへの補給を断つには軍を二手に分ける必要があり、またルッカ側からもピサ側からも近づくことが難しかった。カストルッチョの陣を攻めるには、川を渡るか、不利な地形で戦うしかない。もし川を渡れば、カストルッチョの本隊とパゴロの軍勢に挟み撃ちにされる危険があった。カストルッチョは敵を誘い出すために、川岸から兵を引き、フチェッキオの城壁近くまで後退して、川との間に広いスペースを空けた。

フィレンツェ軍はサン・ミニアートを占領した後、ピサを攻めるかカストルッチョの軍を叩くか軍議を開き、後者を選んだ。当時、アルノ川は浅く、歩兵は肩まで、騎兵は鞍まで浸かる程度で渡ることができた。一三二八年六月十日の朝、フィレンツェ軍は数部隊の騎兵と一万の歩兵を先行させて攻撃を開始した。カストルッチョは、敵が川から上がりきる前に五千の歩兵と三千の騎兵を率いて襲いかかった。さらに、千の軽歩兵を川の上流へ、もう千を下流へと走らせた。フィレンツェの歩兵は武器の重さと水の抵抗で堤防を登ることができず、一方で先に出た騎兵たちは川底を荒らし、泥沼と化した場所で馬が足を取られたり転倒したりして大混乱に陥った。フィレンツェの将軍たちは、状況の悪さを見て兵を引き、より渡りやすい場所を求めて上流へと移動した。しかし、そこにはカストルッチョがあらかじめ送り込んでいた部隊が待ち構えていた。彼らは盾と投げ槍を装備した軽装兵で、雄叫びを上げながら騎兵の顔や体に次々と槍を投げつけた。馬たちは騒音と傷に狂い、進むことを拒んで互いを踏みつけ合った。川を渡りきったわずかな敵とカストルッチョの兵との戦いは、凄惨を極めた。双方が死に物狂いで戦い、一歩も引かなかった。カストルッチョの兵は敵を川へ突き落とそうとし、フィレンツェ兵は後続のために足場を確保しようとした。カストルッチョは「こいつらはセッラヴァッレで負かした連中と同じだ」と兵を鼓舞し、フィレンツェの将軍たちは「数で勝る我らがなぜこれしきに負けるのか」と互いを罵り合った。戦いが長引き、双方が疲弊し、死傷者が増えていくのを見て、カストルッチョは温存していた予備の歩兵を投入した。彼は前線の兵に対し、敗走を装って左右に道を開けるよう命じた。フィレンツェ軍は好機と見てそこへなだれ込んだが、待ち構えていたカストルッチョの新鮮な部隊に衝突し、力尽きて次々と川へ押し戻された。騎兵同士の戦いはまだ決着がついていなかった。カストルッチョは騎兵の数で劣っていたため、将軍たちに防御に専念し、歩兵が勝利するまで持ち堪えるよう命じていたからだ。果たして、歩兵が敵を川の向こうへ追い払うと、カストルッチョは全歩兵に敵騎兵への攻撃を命じた。投げ槍と槍による猛攻に、自軍の騎兵も加わって襲いかかり、ついにフィレンツェ騎兵を敗走させた。フィレンツェの将軍たちは側面を突くためにさらに下流で歩兵を渡らせようとしたが、そこもすでにカストルッチョの兵によって固められていた。こうしてフィレンツェ軍は全戦線で壊滅し、生き残ったのはわずか三分の一に過ぎなかった。カストルッチョは再び栄光に包まれた。多くの将軍が捕虜となり、ルベルト王の息子カルロやミケラニョロ・ファルコーニ、タッデオ・デリ・アルビッツィらはエンポリへと逃げ延びた。戦利品も凄まじかったが、戦死者の数はそれを遥かに上回った。フィレンツェ側は二万二百三十一人が戦死し、カストルッチョ側は千五百七十人を失った。

しかし、運命フォルトゥーナはカストルッチョの栄光を妬み、彼が長年築き上げてきた壮大な計画がまさに成就しようとする瞬間に、その命を奪い去った。死以外に彼を止める術はなかったのである。カストルッチョはその日一日中、戦場の最前線にいた。戦いが終わると、彼は疲労困憊し、熱気に包まれた体でフチェッキオの門に立ち、凱旋する兵たちを自ら出迎え、一人一人に労いの言葉をかけていた。彼はまた、万が一にも敵が反撃してこないか監視を続けていた。優れた将軍とは、誰よりも先に馬に乗り、誰よりも後に馬を降りるべきだというのが彼の持論だったからだ。しかし、真昼のアルノ川沿いには、しばしば不吉で不健康な風が吹く。カストルッチョはその風に当たり、寒気を覚えた。いつもの疲れだろうと気に留めなかったが、それが彼の命取りとなった。その夜、激しい高熱に襲われ、病状は急速に悪化して医師たちも匙を投げた。死を悟ったカストルッチョはパゴロ・グイニージを枕元に呼び、次のように語りかけた。

「もし私が、これまでの成功が約束してくれたはずの栄光の途上で、運命に断ち切られると知っていたなら、これほどまでの労苦を重ねることはなかっただろう。そしてお前には、今よりは小ぶりであっても、より敵が少なく、より危険の少ない国家を遺したはずだ。ルッカとピサの統治だけで満足し、ピストイアを征服することも、フィレンツェ人をあのように辱めることもしなかっただろう。そうしていれば、両国民を友人にでき、私はより長く、少なくともより穏やかに生きられたはずだし、お前に遺す国も、規模は小さくともより安全で盤石な基礎の上に立っていたに違いない。しかし、人間事を支配しようとする運命は、私にそれを悟る知恵も、克服する時間も与えてくれなかった。お前も聞いている通り、私は少年の頃、お前の父の家に迎え入れられた。名誉を重んじる魂が抱くべき野心など何も持たない見知らぬ子供だった私を、お前の父は実の息子のように育て、慈しんでくれた。彼の下で私は勇気と、お前が目にした運命を掴み取る力を学んだのだ。お前の父が死ぬ間際、彼は幼いお前と全財産を私に託した。私は誓い通り、深い愛情を持ってお前を育て、細心の注意を持ってお前の資産を増やしてきた。お前が父の遺産だけでなく、私の力量と幸運が勝ち得たものをも受け継げるように、私は結婚さえしなかった。子供への愛によって、お前の父の子供たちへの報恩の心が揺らぐことを恐れたからだ。こうしてお前に広大な領土を遺せることを誇らしく思うが、それがまだ不安定で危うい状態であることだけが心残りだ。お前の手元にはルッカがあるが、彼らがお前の支配に心から満足することはないだろう。ピサもまた、気まぐれで信用ならない連中であり、たとえ一時的に従順であっても、ルッカ人の軍門に降ることを常に屈辱と感じている。ピストイアも不忠実であり、派閥抗争に明け暮れ、最近の我々の仕打ちを深く恨んでいる。そして隣には、我々に数え切れないほどの屈辱を舐めさせられ、怒りに燃えるフィレンツェ人がいる。彼らはまだ完全に滅びてはおらず、私の死の報を、トスカーナ全土を手に入れるよりも喜ぶだろう。皇帝やミラノの領主も頼りにはならない。彼らは遠くにあり、動きは遅く、助けが必要な時に間に合うことはない。ゆえに、お前が頼れるのは、お前自身の知恵と、私の武勇の記憶、そしてこの最後の勝利がもたらした名声だけだ。この名声を賢明に使うことができれば、大敗を喫して意気消沈しているフィレンツェ人と、有利な条件で和解することができるだろう。私は彼らを打ち倒すことで自らの力と栄光を示そうとしたが、お前は彼らと友人になることに全力を尽くすべきだ。彼らとの同盟こそがお前に利益と安全をもたらす。この世で最も重要なのは、己を知り、己の力と手段を正しく測ることだ。戦いの才がないと知る者は、平和の術をもって国を治めることを学ばねばならない。お前が私のこの忠告に従い、私の苦難と危険が勝ち取った果実を享受できるよう切に願っている。私の言葉を真実だと信じさえすれば、それは容易なことだ。そしてお前は、私が国家を遺しただけでなく、それを守る術をも教えたことに、二重の恩義を感じることになるだろう。」

この言葉の後、カストルッチョと共に戦ったピサ、ピストイア、ルッカの市民たちが集められた。彼はパゴロを後継者として彼らに託し、忠誠を誓わせた後、息を引き取った。彼は知る者すべてに幸福な記憶を残した。彼の時代、彼ほど深く献身的に愛された君主は他にいなかった。彼の葬儀は深い悲しみの中で執り行われ、ルッカのサン・フランチェスコ教会に埋葬された。しかし運命は、カストルッチョに与えたほどの恩寵をパゴロ・グイニージには与えなかった。彼にはそれを維持する力量が欠けていたのである。カストルッチョの死後まもなく、パゴロはピサを失い、次いでピストイアを失った。そしてルッカの地を維持するのさえ、至難の業であった。グイニージ家によるルッカ統治は、パゴロの曾孫の代まで続くことになる。

ここまでの記述から明らかなように、カストルッチョは同時代人の中でも、また過去の偉人たちと比べても、類まれなる能力の持ち主であった。身長は常人より高く、完璧な均衡を保っていた。その容貌は気品に満ち、誰に対しても礼儀正しく接したため、彼と話して不快な思いをする者はほとんどいなかった。髪は赤みがかり、耳の上で短く切り揃えていた。雨の日も雪の日も、彼は決して帽子を被らなかった。友人たちの間では愉快な仲間であったが、敵に対しては容赦なく恐るべき存在だった。臣民に対しては公正であったが、不実な者に対しては自らも不実を働き、計略によって敵を屈服させることを厭わなかった。「栄光をもたらすのは勝利そのものであり、その手段ではない」というのが彼の口癖だったからである。危険に対して誰よりも勇敢に立ち向かい、窮地を脱する知恵において誰よりも賢明であった。「人間はあらゆることに挑戦すべきであり、何も恐れてはならない。強者が弱者を挫くのを見れば分かる通り、神は強い者を愛したもうのだ」と彼は語っていた。また、彼の受け答えは、礼儀を保ちつつも驚くほど鋭く、痛烈であった。彼は他人から鋭い言葉を投げかけられても、それを静かに聞き流す度量を持っていた。以下に、彼の機知に富んだ逸話をいくつか紹介しよう。

ある時、カストルッチョが一個のドゥカートを払ってシャコ(鳥の一種)を買わせたところ、ある友人がそれを贅沢すぎると咎めた。カストルッチョが「お前ならいくら払う?」と聞くと、友人は「せいぜい一ペニー(約百六十分の一ドゥカート)だ」と答えた。カストルッチョは言った。「私にとっての一ドゥカートは、お前にとっての一ペニーよりも価値が低いのだ」。

ある諂い手が、公に軽蔑されていることを承知の上で、公から唾を吐きかけられた。するとその男は言った。「漁師たちは小さな魚を釣るために、海の潮水に濡れるのを厭いません。私はクジラを釣るために、あなたの唾に濡れるのを厭いません」。カストルッチョはこれを聞いて怒るどころか、その男に褒美を与えた。

ある司祭が「あなたは贅沢な暮らしをしすぎている。それは罪深いことだ」と忠告した。カストルッチョは答えた。「もしそれが罪なら、あなた方も聖人の祝日にあんな豪華な食事をするべきではないはずだ」。

街を歩いていると、置屋から出てきた若者が、カストルッチョに見られたことに気づいて赤面した。公は言った。「恥じるべきはそこから出る時ではなく、そこへ入る時だ」。

ある友人が、非常に複雑に結ばれた紐を解いてほしいと持ってきた。カストルッチョは言った。「馬鹿者、結ぶのにあれほど苦労したものを、なぜ私が解かなければならないのだ」。

自称哲学者がカストルッチョに向かって、「あなた方は、一番うまいものをくれる人の後を追う犬のようなものだ」と言った。カストルッチョは答えた。「我々はむしろ医者に似ている。一番助けを必要としている人の家へ行くのだからな」。

ピサからリヴォルノへ海路で向かっていた際、激しい嵐に見舞われ、カストルッチョはひどく動揺した。同乗者の一人が「私は何も怖くないのに、あなたは臆病ですね」と嘲笑した。カストルッチョは答えた。「それは不思議ではない。人はそれぞれ、自分の魂の価値に見合った分だけ恐れるものだからだ」。

ある男が、どうすれば尊敬を集められるかと尋ねた。カストルッチョは「宴会に行くときは、自分の尻を椅子の脚の上に重ねないよう気をつけろ」と言った。

「私は多くの本を読んだ」と自慢する男に対し、カストルッチョは言った。「多くのことを覚えていると自慢するより、本の内容を理解している方が大事だ」。

「自分はいくら酒を飲んでも酔わない」と豪語する男に、公は言った。「牛も同じだ」。

カストルッチョには深い仲の女性がいた。ある友人が「女に溺れるのは君主の威厳に関わる」と忠告すると、彼は言った。「彼女が私を溺れさせているのではない。私が彼女を溺れさせているのだ」。

「あなたは美食に金をかけすぎる」と批判された彼は言った。「お前は私ほど金を使わないのか?」。友人が「そうだ」と答えると、公は言った。「ならば、お前は私よりも強欲だということだ。私はお前よりも美食家なだけだがな」。

ルッカの豪商タッデオ・ベルナルディの晩餐に招かれた際、カストルッチョは美しい絹の壁掛けと、花や葉が精巧に描かれた見事な石床の部屋へ通された。彼は不意に唾を溜め、タッデオの顔に吐きかけた。タッデオが激怒すると、公は言った。「済まない。君を怒らせずに唾を吐ける場所が、この部屋のどこにも見当たらなかったのだ」。

「カエサルはどのように死んだか」と問われた彼は答えた。「神が許したもうなら、私も彼のように死にたい(戦場での名誉ある死を指す)」。

ある夜、家臣の家で多くの婦人たちとダンスをして楽しんでいたところ、友人が「君主としていかがなものか」と苦言を呈した。彼は言った。「昼間に賢明だと思われている男は、夜に少々羽目を外しても馬鹿だとは思われないものだ」。

ある男が嘆願に来て、カストルッチョが聞き流していると思い込み、地面に膝をついて必死に訴えた。公がそれを厳しく咎めると、男は言った。「あなたが足に耳をつけておられるから、こうするしかないのです」。カストルッチョはこれを聞いて笑い、男に望みの二倍の返事を与えた。

彼はよくこう言った。「地獄への道は下り坂だし、目隠しをしていても行けるほど簡単なものだ」。

長々と無駄話を並べて嘆願した男が「次にまたお願いに来る時は……」と言いかけると、彼は遮った。「次は別の誰かを使いに出せ」。

同じような男が延々と演説をした後、「長話をしてお疲れにさせたのでは」と聞くと、公は言った。「全く疲れていない。お前の言ったことなど一言も聞いていなかったからな」。

子供の頃は美少年で、大人になって美男子になった男について、彼はこう言った。「あいつは危険な男だ。若い頃は女から夫を奪い、今は夫から女を奪っている」。

嫉妬深い男が笑っているのを見て、公は聞いた。「お前は自分が成功したから笑っているのか、それとも他人が不幸になったから笑っているのか?」。

まだメッセル・フランチェスコ・グイニージの庇護下にあった頃、仲間の一人が「鼻を殴らせてくれたら何でもやる」と言った。カストルッチョは答えた。「兜をくれ」。

自分を権力の座に就けてくれた恩人を処刑した際、「旧友を殺すとはひどい」と批判されると、彼は答えた。「勘違いするな。私はただ、『新しい敵』を始末しただけだ」。

「これから妻を娶る」と言いながら結局やめる男たちを、彼は「海へ出ると言いながら、いざとなると怖気付く男たちのようだ」と称賛した。

「土鍋やガラス器を買うときは叩いて音を確かめるのに、なぜ妻を選ぶときは顔を見るだけで満足するのか、不思議でならない」と彼は語っていた。

死を目前にして、どのような埋葬を望むか聞かれると、彼は答えた。「顔を伏せて埋めてくれ。私が死んだ後、この国はきっと天地がひっくり返るような大騒ぎになるだろうからな」。

「魂を救うために修道士にならないか」と誘われると、彼は言った。「断る。天国にラゼロネ修道士がいて、地獄にウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラがいるなんて、そんなおかしな場所へは行きたくない」。

「健康のためにいつ食事をすべきか」と問われ、彼は答えた。「金持ちなら腹が減ったときだ。貧乏人なら食い物があるときだ」。

家臣が自分の召使に靴の紐を結ばせているのを見て、彼は言った。「お前が食事まであいつに食べさせてもらわずに済むよう、神に祈っているよ」。

ある家の門にラテン語で「神よ、この家を悪しき者から守りたまえ」と書かれているのを見て、彼は言った。「ならば主人は二度と中に入れないな」。

小さな家に不釣り合いなほど大きな門がついているのを見て、彼は言った。「あの家は門から飛んでいってしまうぞ」。

ナポリ王の使節と追放された貴族の財産について議論していた際、激しい口論になった。使節が「王が怖くないのか」と詰め寄ると、公は聞いた。「お前の王は善人か、悪人か?」。使節が「善人だ」と答えると、公は言った。「ならばなぜ、善人を怖がらなければならないのだ?」。

彼の機知に富んだ、あるいは含蓄のある逸話はまだまだ尽きないが、これらだけでも彼の優れた資質を証明するには十分だろう。彼は四十四歳で世を去り、その生涯は隅々まで君主そのものであった。そして、彼は幸運に恵まれていた一方で、自らの不遇な時代のことも決して忘れなかった。彼がかつて囚われの身となった時に繋がれていた鉄枷は、今日に至るまで彼の居城の塔に掲げられている。逆境の日々を永遠に記憶に留めるために、彼自らが置いたものである。その生涯において、彼はマケドニアのフィリッポス二世やローマのスキピオにも劣らぬ力量を示し、同じ年齢でこの世を去った。もし彼がルッカではなく、マケドニアやローマに生まれていたならば、間違いなく彼らをも凌駕していたことであろう。

公開日: 2025-05-29