H・G・ウェルズ著

世界文化小史

第一章 宇宙空間のなかの世界

われわれの世界の物語は、いまだきわめて不完全にしか知られていない。二百年ほど前まで、人類が知っていた歴史は、せいぜい過去三千年余りにすぎなかった。それ以前の出来事は、伝説と憶測の領域だった。文明世界の大部分では、世界は紀元前四〇〇四年に突如として創造されたと信じられ、そう教えられていた。ただし、それがその年の春だったか秋だったかについては、権威者の間でも意見が分かれていた。この異様なまでに精密な誤解は、ヘブライ聖書をあまりに字義どおりに解釈し、それにまつわる神学上の仮定をかなり恣意的に組み立てた結果である。こうした考えは、宗教の教師たちによってもとうに捨て去られた。今では、われわれの住む宇宙が、見かけのうえでは途方もなく長い期間、おそらくは永遠に存在してきたことが広く認められている。もちろん、部屋の両端に鏡を向かい合わせれば果てしなく続くように見えるのと同じく、この見かけ自体が欺瞞である可能性はある。だが、われわれの宇宙がわずか六、七千年しか存在していないという説は、完全に葬り去られたと考えてよい。

今日では誰もが知るとおり、地球は回転楕円体、すなわちオレンジのようにわずかに押しつぶされた球体で、直径は約八千マイル(約一万二千九百キロメートル)ある。その球形は、少なくとも一部の知識人には二千五百年近く前から知られていたが、それ以前には平らだと考えられ、空や恒星、惑星との関係について、今では奇想天外に思えるさまざまな説が唱えられていた。現在では、地球が二十四時間ごとに自転軸――赤道直径より約二十四マイル(約三十九キロメートル)短い――を中心に回転し、それが昼夜の交替を生むこと、また一年をかけて、わずかに歪み、ゆっくり変化する楕円軌道を描いて太陽の周囲を回ることが分かっている。太陽との距離は、最も近いときで九千百五十万マイル(約一億四千七百万キロメートル)、最も遠いときで九千四百五十万マイル(約一億五千二百万キロメートル)である。

「物質からなる発光する渦巻雲」(一九一〇年撮影の星雲)

写真:G・W・リッチー

地球の周囲を、より小さな球体である月が、平均二十三万九千マイル(約三十八万五千キロメートル)の距離で回っている。太陽の周囲を巡る天体は地球と月だけではない。三千六百万マイル(約五千八百万キロメートル)と六千七百万マイル(約一億八百万キロメートル)の距離には、それぞれ水星と金星がある。地球軌道の外側には、無数の小天体からなる小惑星帯をひとまず別にすれば、火星、木星、土星、天王星、海王星があり、その平均距離はそれぞれ一億四千百万、四億八千三百万、八億八千六百万、十七億八千二百万、十七億九千三百万マイル(約二億二千七百万、七億七千七百万、十四億二千六百万、二十八億六千八百万、二十八億八千五百万キロメートル)である。何億マイルという数字は、頭で実感するのが難しい。そこで太陽と惑星を、もっと小さく想像しやすい尺度に縮めてみよう。

真横から見た星雲 数百万年をかけて冷却し、固体へと変わりつつある中心核に注目

写真:G・W・リッチー

地球を直径一インチ(約二・五センチメートル)の小球で表すなら、太陽は直径九フィート(約二・七メートル)の大球となり、三百二十三ヤード(約二百九十五メートル)先にある。およそ五分の一マイル(約三百二十メートル)、歩いて四、五分の距離だ。月は小さなエンドウ豆ほどで、地球から二フィート半(約七十六センチメートル)のところにある。地球と太陽の間には内惑星の水星と金星があり、太陽からそれぞれ百二十五ヤード(約百十四メートル)、二百五十ヤード(約二百二十九メートル)離れている。その周囲には何もなく、地球より百七十五フィート(約五十三メートル)外側で、ようやく火星に達する。木星は太陽からほぼ一マイル(約一・六キロメートル)離れ、直径一フィート(約三十センチメートル)。それより少し小さい土星は二マイル(約三・二キロメートル)、天王星は四マイル(約六・四キロメートル)、海王星は六マイル(約九・七キロメートル)先にある。その彼方は、何千マイルにもわたって虚無また虚無であり、わずかな粒子と、希薄な蒸気の切れ端が漂うだけだ。この尺度では、地球に最も近い恒星さえ四万マイル(約六万四千キロメートル)先にある。

これらの数字から、生命の劇が演じられている宇宙空間が、どれほど巨大な空虚であるか、いくらか想像できるだろう。

この途方もない空虚のなかで、生命が確実に存在すると分かっているのは、地球の表面だけである。生命は、地表から地球中心までの四千マイル(約六千四百キロメートル)のうち、せいぜい三マイル(約四・八キロメートル)ほどしか地下へ入り込んでおらず、地表から上にも五マイル(約八キロメートル)を超えては達しない。見渡すかぎり、無限の空間の残りはすべて空虚で、死んでいる。

海洋の浚渫調査で到達した最深部は五マイル(約八キロメートル)。飛行機の最高飛行記録は四マイル(約六・四キロメートル)をわずかに超える程度である。人間は気球で七マイル(約十一キロメートル)の高度に達したが、激しい苦痛を代償とした。五マイルの高さを飛べる鳥はおらず、飛行機によって運び上げられた小鳥や昆虫も、その高度よりはるか下で意識を失い、落下する。

第二章 時間のなかの世界

この五十年間、地球の年齢と起源をめぐって、科学者たちはきわめて精緻で興味深い推論を重ねてきた。だが、それには非常に微妙な数学的・物理学的考察が関わるため、ここでその要約すら示すことはできない。実のところ、物理学も天文学もまだ十分には発達しておらず、この種の議論は、理解を助けるための推測以上のものにはなり得ない。全体として、地球の推定年齢はしだいに長く見積もられるようになってきた。現在では、地球は自転しながら太陽の周囲を巡る独立した惑星として、二十億年以上存在してきた可能性が高いと考えられている。それよりはるかに長いかもしれない。想像力を完全に圧倒するほどの時間である。

独立した天体となる以前、太陽と地球、そして太陽を巡る他の惑星は、宇宙空間に拡散した物質の巨大な渦だったのかもしれない。望遠鏡を通すと、天空の各所に、中心を軸に回転しているように見える発光物質の渦巻雲、すなわち渦巻星雲が見える。多くの天文学者は、太陽とその惑星もかつてはそのような渦巻であり、物質が凝集して現在の姿になったと考えている。荘厳なほど長い歳月をかけて凝集が進み、先に数字で示したほど遠い過去に、ようやく地球と月とを区別できるようになった。当時はどちらも今よりはるかに速く自転し、太陽との距離も近く、太陽の周囲をはるかに速く回っていた。表面はおそらく白熱しているか、融けていた。太陽そのものも、天空では今よりずっと巨大な炎として輝いていた。

大渦巻星雲

写真:G・W・リッチー

その無限とも思える時間を遡り、歴史の初期段階にある地球を見ることができたなら、目にするのは、今日のいかなる風景よりも溶鉱炉の内部や、冷えて固まる前の溶岩流の表面に近い光景だろう。水は一滴も見えない。水はすべて、硫黄や金属の蒸気が荒れ狂う大気中で、過熱水蒸気になっていたからだ。その下では、融けた岩石の大洋が渦巻き、煮えたぎっている。火炎の雲に覆われた空を、疾駆する太陽と月の輝きが、熱い炎の吐息のように素早く横切っていった。

暗黒星雲

一九二〇年、当時世界最大の望遠鏡を用いて撮影。ウィルソン山望遠鏡による最初期の写真の一つ。

暗黒星雲と輝線星雲がある。ヘンリー・ノリス・ラッセル教授は、イギリスの学説に反し、暗黒星雲が輝線星雲に先行したと主張している。

写真:ヘール教授

百万年がまた百万年へと続くにつれ、この炎の光景は少しずつ噴き上がる白熱を失っていった。空の蒸気は雨となって降り、頭上の大気はしだいに薄くなった。融けた海の表面には、岩石が固まりかけた巨大な鉱滓状の塊が現れ、やがて沈み、また別の浮遊塊に取って代わられた。太陽と月は、次第に遠ざかり、小さくなり、速度を落としながら天空を駆け抜けていった。月は小さいため、この頃にはすでに白熱温度をはるかに下回るまで冷え、日食と満月を繰り返しながら、交互に太陽光を遮り、反射していた。

別の渦巻星雲

写真:G・W・リッチー

こうして広大な時間のなかを途方もなくゆっくりと進み、地球は次第にわれわれの住む地球に近づいていった。そしてついに、冷えつつある大気中で水蒸気が凝結して雲となり、最初の雨が眼下の最初の岩石に、音を立てて降り注ぐ時代が訪れた。果てしない幾千年もの間、地球上の水の大部分はなお大気中で気化していたが、結晶化しつつある岩の上を熱い流れが走り、池や湖へ土砂を運び込み、沈殿させるようになった。

生命誕生以前の風景 「土の痕跡すらない、巨大な溶岩状の岩塊。」

やがて、人間が地上に立ち、周囲を見渡し、生きられるような状態に達したに違いない。当時の地球を訪れたなら、われわれは、生きた植物はおろか土の痕跡すらない巨大な溶岩状の岩塊の上に、嵐に引き裂かれた空を仰いで立っていただろう。史上最悪の竜巻をもしのぐ熱く猛烈な風と、今日の穏やかで緩慢な地球では想像もできない豪雨に襲われたはずだ。降り注いだ水は、岩から削り取った泥を巻き込み、われわれの傍らを激流となって走り抜ける。流れは合流して奔流となり、深い峡谷を刻みながら最初の海へ急ぎ、そこに土砂を堆積させる。雲間には、天空を目に見える速さで進む巨大な太陽が垣間見え、その太陽と月の後を追って、地震と隆起の潮が一日ごとに押し寄せた。今日では常に同じ面を地球へ向けている月も、当時は目に見えて自転し、今では頑として隠している裏側を見せていた。

地球は歳を重ねた。百万年の後にまた百万年が続き、一日は長くなり、太陽は遠ざかって穏やかになり、天空を進む月の速度も落ちた。雨と嵐の激しさは弱まり、最初の海々の水量は増し、やがて一つにつながって、それ以後この惑星がまとう大洋の衣となった。

しかし、地球にはまだ生命がなかった。海は死に絶え、岩は不毛だった。

第三章 生命の始まり

今日では誰もが知るとおり、人類の記憶や伝承が始まる以前の生命についての知識は、地層をなす岩石に残された生物の痕跡や化石から得られる。頁岩、粘板岩、石灰岩、砂岩のなかに、骨、殻、繊維、茎、果実、足跡、引っかき痕などが、最初の潮が残した波紋や最初の雨滴のくぼみと並んで保存されている。この「岩石の記録」を丹念に調べることで、地球上の生命の過去が少しずつ組み立てられてきた。今日ではほとんど誰もが知っていることだ。堆積岩は、地層が整然と一枚ずつ積み重なっているわけではない。何度も略奪され焼かれた図書館の本の頁さながら、しわを寄せられ、折り曲げられ、押し動かされ、歪められ、入り交じっている。その記録が整理され、読めるようになったのは、多くの人々が生涯を捧げた成果にほかならない。岩石の記録が示す時間の全幅は、現在では十六億年と推定されている。

記録にある最古の岩石は、生命の痕跡を示さないため、地質学者から無生代の岩石と呼ばれる。その広大な露出地域が北アメリカにあり、しかも非常に厚いため、地質学者たちは、地質記録全体に割り当てた十六億年のうち少なくとも半分を占める時代のものと考えている。この深い意味を持つ事実を、もう一度述べておこう。地球上で陸と海が初めて見分けられるようになってからの長大な時間、その前半には生命の痕跡が一つもない。岩には今なお波紋と雨滴の跡が見つかるが、生き物の痕跡も名残もない。

カンブリア紀の海洋生物 1、8=クラゲ、2=ヒオリテス(泳ぐ巻貝)、3=フメノカリス、4=プロトスポンギア、5=腕足貝(オボレラ)、6=オルソセラス、7=三葉虫(パラドキシデス)――十三頁の化石を参照、9=サンゴ(アーケオキアトゥス)、10=ブリオグラプトゥス、11=三葉虫(オレネルス)、12=パレステリナ

記録を上へたどっていくと、過去の生命の徴候が現れ、しだいに増えていく。こうした痕跡が見つかる地球史上の時代を、地質学者は古生代前期と呼ぶ。生命が活動を始めた最初の徴候は、比較的単純で下等な生物の名残である。小さな貝類の殻、植虫類の茎や花に似た頭部、海藻、海生の虫や甲殻類の這い跡と遺骸などだ。かなり早い時期に、ワラジムシにやや似て、同じように体を丸めて球状になれる這行生物、三葉虫が現れる。それから数百万年ほど後、それまで世界に存在したどの生物よりも敏捷で強力なウミサソリの仲間が登場する。

三葉虫の化石(やや拡大)

写真:ジョン・J・ウォード、F.E.S.

これらの生物は、いずれもさほど巨大ではなかった。最大級は一部のウミサソリで、体長九フィート(約二・七メートル)に達した。植物であれ動物であれ、陸上生物の痕跡はまったくない。この部分の記録には、魚も脊椎動物もいない。地球史のこの時代から痕跡を残した動植物は、基本的にすべて浅海や潮間帯の生物である。現在の地球上で古生代前期の動植物相に似たものを探すなら、大きさを別にすれば、岩礁の潮だまりや泡の浮いた水たまりから一滴の水を採り、顕微鏡で観察するのがいちばんよい。そこに見つかる小さな甲殻類、貝類、植虫類、藻類は、かつて地球上の生命の頂点に立った、不格好で大きな原型と驚くほどよく似ている。

古生代前期のさまざまなシャミセンガイ属の化石 この最古級の貝類の仲間は、今日も生きている

(ロンドン自然史博物館所蔵)

ただし、古生代前期の岩石が、地球における生命の真の始まりを代表するものではないことを心に留めておくべきだ。骨やその他の硬い部分を持たず、殻もなく、泥に特徴的な足跡や這い跡を残せるほど大きくも重くもない生物は、その存在を示す化石を残しにくい。今日の世界にも、柔らかな体を持つ小型生物が何十万種もいるが、未来の地質学者が発見できる痕跡を残すとは到底考えられない。過去の世界では、そうした生物が何兆種も生き、繁殖し、栄え、何一つ痕跡を残さず消えていったかもしれない。いわゆる無生代にも、温かく浅い湖や海には、ゼリー状で殻も骨もない無数の下等生物が満ち、陽光の当たる潮間帯の岩や浜を、緑色のぬめった植物が覆っていた可能性がある。「岩石の記録」が過去の生命をすべて記していないのは、銀行の帳簿が近隣住民すべての存在を記録していないのと同じだ。ある種が殻、骨針、甲皮、石灰質に支えられた茎などを分泌し、未来へ何かを残すようになって、初めて記録に載る。しかし化石を含む岩石より古い岩のなかから、遊離炭素の一形態である黒鉛が見つかることがある。一部の権威者は、それが未知の生物の生命活動によって化合物から分離した可能性があると考えている。

迷歯類キロテリウムの足跡化石

(ロンドン自然史博物館所蔵)

第四章 魚類の時代

世界の歴史がわずか数千年しかないと考えられていた頃、動植物の種は固定され、最終的なものであり、各種は今日の姿のまま、個別に創造されたと信じられていた。だが人々が「岩石の記録」を発見し研究し始めると、この信念は、多くの種が長い時代を通じてゆっくり変化し発達したのではないかという疑念へ道を譲った。その疑念はさらに、有機進化と呼ばれるものへの信念へ発展した。すなわち、地球上の動植物すべての種は、はるかな昔、いわゆる無生代の海に存在した、ほとんど構造を持たない単純な生命物質から、緩慢で連続的な変化を経て生じたという考えである。

この有機進化の問題は、地球の年齢と同じく、かつて激しい論争の的となった。あまり明瞭でない理由から、有機進化を信じることは、健全なキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教義と相容れないと考えられた時代もあった。その時代は終わり、今日では最も正統的なカトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教の信者も、すべての生物が共通の起源を持つという、この新しく広い見方を自由に受け入れられる。地球上に生命が突如として出現したようには見えない。生命は成長してきたし、今も成長している。想像するだけで目がくらむ時間の淵を越え、時代から時代へと、潮間帯の泥のなかのかすかな蠢きから、自由と力と意識へ向かって成長してきたのだ。

生命は個体から成り立つ。個体は輪郭の定まった存在であり、無生物の塊や集積、あるいは果てしなく動かない結晶とは異なる。そして死物にはない二つの性質を備えている。他の物質を取り込んで自らの一部にできること、そして自らを再生産できることだ。食べ、殖えるのである。個体は別の個体を生み出す。その多くは自分によく似ているが、必ず少しずつ異なっている。親と子の間には種や家系に固有の類似があると同時に、あらゆる親とその子の間には個体差がある。これはすべての種、生命のあらゆる段階に当てはまる。

体を覆う甲皮が見えるプテリクティス・ミレリ、またはウミサソリの標本

科学者にも、なぜ子が親に似るのか、なぜ親と異なるのかは説明できない。しかし子が親に似ながら異なる以上、ある種の生息条件が変化すれば、その種にも対応する変化が生じるというのは、科学知識というより常識的な帰結である。どの世代にも、個体差によって新しい条件によりよく適応した個体がいる一方、同じ個体差のため生存しにくくなった個体もいる。全体として前者のほうが長く生き、多くの子を産み、後者より盛んに繁殖する。そのため世代を重ねるごとに、種の平均的性質は有利な方向へ変わっていく。この過程は自然選択と呼ばれるが、科学理論というより、生殖と個体差という事実から必然的に導かれる結論である。種を変化させ、滅ぼし、保存する力については、科学がまだ知らないもの、判断を下せないものも多いだろう。だが生命の始まり以来、この自然選択が作用してきたことを否定できる者は、生命の初歩的事実を知らないか、普通に考える力を欠いているかのどちらかである。

多くの科学者が生命の始まりについて推測し、その議論はしばしば非常に興味深い。だが生命がどのように始まったのかについて、確かな知識も説得力のある仮説も、まだまったく存在しない。ただし、ほぼすべての権威者は、温かく陽光の差す浅い汽水域の泥や砂の上で始まり、浜を上って潮間線へ、さらに外洋へと広がった可能性が高いという点で一致している。

デボン紀のサメ、クラドセラケの化石

自然史博物館

初期の世界は、強い潮汐と海流に支配されていた。生物は浜へ打ち上げられて干からび、あるいは沖へ流され、空気も日光も届かない深みへ沈むことで、絶えず命を失ったに違いない。初期の環境は、根を張り、しがみつこうとするあらゆる傾向を促し、漂着した個体を即座の乾燥から守る外皮や覆いの形成を後押しした。ごく初期から、味覚への感受性は個体を食物の方向へ向け、光への感受性は、海の深みや洞穴の闇から抜け出そうとしたり、危険な浅瀬の過剰な光から身をよじって逃れたりする助けになっただろう。

生物の最初の殻や甲皮は、攻撃してくる敵よりも乾燥を防ぐためのものだった可能性が高い。だが歯と爪も、地球史のかなり早い段階で現れる。

初期のウミサソリの大きさについてはすでに述べた。長い時代、そうした生物が生命界の最高支配者だった。やがて、多くの地質学者が現在では五億年前にまで遡ると考える古生代のシルル紀に、目と歯と、はるかに強力な遊泳能力を備えた新しい型の生物が現れる。最古の既知の脊椎動物、最初期の魚類である。

デボン紀のサメ類と硬鱗魚類

アリス・ウッドワード画

次の地層区分、デボン系では、魚類が大幅に増加する。あまりに多いため、「岩石の記録」のこの時代は「魚類の時代」と呼ばれている。今では地上から消えた型の魚や、現代のサメやチョウザメに近い魚が水中を疾走し、空中へ跳ね、海藻を食み、互いを追い、食らい合い、世界の水域に新たな活気を与えた。現在の基準で見れば、極端に巨大なものはいない。大半は二、三フィート(約六十~九十センチメートル)ほどだったが、例外的に二十フィート(約六・一メートル)に達するものもあった。

こうした魚類の祖先について、地質学から分かることは何もない。それ以前の生物のどれとも近縁には見えない。動物学者はその祖先について興味深い見解を持っているが、それは現生の近縁種の卵が発達する過程や、その他の資料に基づくものだ。脊椎動物の祖先は、柔らかな体をした、おそらくごく小型の遊泳生物で、最初に口の周囲へ歯という硬い部分を発達させたらしい。エイやツノザメの歯は口腔の天井と床を覆い、唇に達すると、体の大部分を包む平らな歯状の鱗へ移行する。地質記録のなかで魚類がこの歯状の鱗を発達させると、過去の隠された闇から光のなかへ泳ぎ出し、記録上初めて目に見える脊椎動物となる。

第五章 石炭湿地の時代

「魚類の時代」の陸地には、生命がまったくなかったらしい。太陽と雨の下には、不毛な岩の断崖や高地が広がっていた。本物の土壌はなかった。土を作るミミズも、岩粒を砕いて腐植土に変える植物も、まだ存在しなかったからだ。コケや地衣類の痕跡さえない。生命は依然として海にしかなかった。

この不毛な岩の世界に、気候の大変動が繰り返し訪れた。その原因は非常に複雑で、今なお十分には評価されていない。地球軌道の形の変化、自転軸の極の緩慢な移動、大陸の形の変化、おそらくは太陽熱の変動さえが組み合わさり、地表の広大な地域を長い寒冷と氷の時代へ沈めたかと思えば、再び何百万年にもわたって温暖で均一な気候を惑星全体へ広げた。地球史には、内部活動が非常に活発な時期があったらしい。数百万年の間に蓄積した地殻の突き上げが、列をなす火山噴火と隆起となって現れ、山脈と大陸の輪郭を組み替え、海を深く、山を高くして、気候の極端さを増幅させた。それに続いて、比較的静穏な長い時代が訪れた。霜、雨、河川が山々を削り、大量の沈泥を運んで海底を埋め、押し上げ、ますます浅く広くなった海が陸地の多くを覆っていった。地球史には「高く深い」時代と、「低く平らな」時代があった。地殻が固まって以来、地表が一貫して冷え続けてきたという考えは捨てなければならない。ある程度まで冷却が進むと、内部温度は地表の状態に影響しなくなった。過剰な氷雪に覆われた「氷河時代」の痕跡は、無生代にさえ見られる。

生命が水中から陸上へ本格的に広がったのは、「魚類の時代」の末期、広大な浅海と潟湖が発達した時代になってからだった。ここで大量に現れ始める生物の初期型は、それ以前の何千万年もの間、まれで目立たぬ形ながらすでに発達していたに違いない。だが今、ようやく好機が訪れた。

石炭紀の湿地

形成されつつある炭層

陸への進出では、植物が動物に先行したに違いないが、動物もおそらくすぐ後に続いた。植物が最初に解かなければならなかったのは、浮力を与える水がなくなった後も葉を日光へ向けて支えられる、硬い支持構造の問題だった。第二は、もはや水が身近にないため、湿った地面から植物組織へ水を運ぶ方法だった。この二つの問題は、植物を支え、同時に葉へ水を運ぶ木質組織の発達によって解決された。「岩石の記録」は突如として、多種多様な木質の湿地植物で埋め尽くされる。その多くは巨大で、大型の樹木状ヒカゲノカズラ、木生シダ、巨大なトクサ類などがあった。そして時代を重ねるごとに、さまざまな動物がそれらとともに水から這い出してきた。ムカデやヤスデ、最初の原始的昆虫がいた。古代のカブトガニやウミサソリに近い生物から最初のクモと陸生サソリが生まれ、やがて脊椎動物も現れた。

迷歯類カピトサウルスの頭骨

自然史博物館

初期の昆虫には、非常に大きなものもいた。この時代には、翅を広げると二十九インチ(約七十四センチメートル)に達するトンボがいた。

こうした新しい目や属は、さまざまな方法で空気呼吸に適応した。それまで、すべての動物は水に溶けた空気を呼吸していた。実を言えば、今日もあらゆる動物がそうしなければならない。だが動物界は今や、必要な場所へ自ら水分を供給する能力を、さまざまな形で獲得しつつあった。今日の人間も、肺が完全に乾燥すれば窒息する。空気が肺の表面を通って血液へ入るには、そこが湿っていなければならない。空気呼吸への適応は、どの場合も、従来型の鰓に蒸発を防ぐ覆いを発達させるか、体内深くに管などの新しい呼吸器官を形成し、水分を含む分泌液で湿らせるかのいずれかである。脊椎動物の祖先である魚が呼吸に用いていた鰓は、陸上呼吸には適応できなかったため、この系統では、魚の浮き袋が体内深部の新しい呼吸器官、すなわち肺になった。今日のカエルやイモリなどの両生類は、水中で生まれ、鰓で呼吸する。その後、多くの魚の浮き袋と同じく、喉から袋状に突き出して発達した肺が呼吸を引き受ける。動物は陸へ上がり、鰓は退化して鰓裂も消える。(ただし一つの鰓裂から伸びた部分だけは、耳の通路と鼓膜になる。)こうして空気中でしか生きられなくなるが、産卵し繁殖するには、少なくとも水辺へ戻らなければならない。

迷歯類エリオプスの骨格

自然史博物館

湿地と植物に満ちたこの時代の空気呼吸型脊椎動物は、すべて両生類に属していた。そのほとんどは現代のイモリに近い型で、一部はかなり大きくなった。確かに陸上動物ではあったが、湿潤な場所や湿地、その周辺で暮らす必要があった。この時代の大木も同じく、習性上は両生的だった。陸へ落ち、露や雨がもたらす水分だけで発芽できる果実や種子は、まだ発達していなかった。胞子が発芽するには、すべて水中へ放出しなければならなかったらしい。

生命が空気中で生きるために遂げた複雑で驚くべき適応をたどることは、美しい科学である比較解剖学の、最も魅力的な楽しみの一つだ。植物も動物も、あらゆる生物は根本的には水の生物である。たとえば魚類より高等なすべての脊椎動物は、人間を含め、卵内または出生前の発生過程で鰓裂を持つ段階を通り、幼体が外界へ出る前にそれが消える。水に洗われ、むき出しになっていた魚の眼は、高等生物では瞼と水分を分泌する腺によって乾燥から守られる。空気中の音の振動は水中より弱いため、鼓膜が必要となる。ほぼすべての器官に、空気中の条件へ対応する同様の改変と適応、いわば補修の跡を見いだせる。

この石炭紀、両生類の時代は、湿地、潟湖、そして水辺の低い岸辺に生命が栄えた時代だった。生命が広がったのは、まだそこまでである。丘陵や高地は依然として完全に不毛で、生命を欠いていた。生命は空気を呼吸する術こそ学んだが、その根はなお故郷の水中にあり、繁殖するには水へ戻らなければならなかった。

第六章 爬虫類の時代

石炭紀の豊かな生命に続いたのは、乾燥し、厳寒に閉ざされた長大な時代だった。「岩石の記録」では、化石を比較的ほとんど含まない厚い砂岩層などによって示される。地球の気温は大きく変動し、氷河性の寒冷が長期間続いた。広大な地域で、それまで繁茂していた湿地植物が姿を消した。その上には新しい堆積物が重なり、圧縮と鉱化の過程が始まって、今日の世界にある石炭鉱床の大部分を生み出した。

しかし生命が最も急速に変化するのは変動期であり、最も厳しい教訓を学ぶのは困難のさなかである。環境が再び温暖・湿潤へ戻ると、新しい一連の動植物が定着していた。そこには、孵化後しばらく水中で暮らさねばならないオタマジャクシを産むのではなく、卵内で成体に近い段階まで発生を進め、独立生活の最初の瞬間から空気中で生きられる子を孵す脊椎動物の遺骸が見つかる。鰓は完全に省かれ、鰓裂は胚の一段階にだけ現れるようになった。

オタマジャクシの段階を持たない新しい生物が、爬虫類である。それと並行して種子をつける樹木も発達し、湿地や湖に頼らず種子を広げられるようになった。ヤシに似たソテツ類や、多くの熱帯性針葉樹が現れたが、顕花植物とイネ科植物はまだなかった。シダ類は非常に多かった。昆虫の種類も増えた。甲虫はいたが、ハチとチョウはまだ登場していない。だが厳しい巨大な時代を通じて、真の陸上動植物相を構成する基本形はすべて整った。この新しい陸上生命に必要だったのは、繁栄し優勢となるための好条件だけだった。

中生代の魚竜イクチオサウルスの化石 サマセットシャーの下部ライアス統で発見

自然史博物館

時代を重ね、幾度もの変動を経ながら、気候は緩和していった。今なお算定できない地殻運動、軌道の変化、軌道面と自転軸との傾斜の増減が相まって、広範囲に温暖な気候が長く続いた。現在では、この期間全体は二億年以上続いたと考えられている。それ以前のはるかに長大な古生代・無生代――合わせて十四億年――や、その終末から現在までの新生代と区別して、中生代と呼ばれる。また、この生物群が驚くほど優勢かつ多様だったことから「爬虫類の時代」とも呼ばれる。およそ八千万年前に終わった。

今日の世界では、爬虫類の属は比較的少なく、分布も非常に限られている。確かに、石炭紀に世界を支配した両生類の目のわずかな生き残りよりは多様である。今もヘビ、カメ類、アリゲーターとワニ、トカゲがいる。そのすべてが一年を通じて温暖さを必要とし、寒冷への曝露に耐えられない。中生代の爬虫類も、すべて同じ制約を受けていた可能性が高い。温室のような植物相のなかに暮らす、温室型の動物相だった。霜には耐えられなかった。しかし地球は、それ以前の生命最盛期に見られた泥や湿地の動植物相とは異なる、真の乾燥陸地の動植物相を、少なくとも獲得していた。

翼竜

自然史博物館

現在知られているあらゆる爬虫類――巨大なカメ、大型のワニ、多種のトカゲやヘビ――が、当時ははるかに豊富に存在した。さらに、今では地球上から完全に消えた驚異的な生物の系統が数多くあった。恐竜と呼ばれる、きわめて多様な生物である。アシやシダの茂みなどの植物が、世界の低地へ広がっていた。その豊富な植物を食べるため、無数の草食爬虫類が現れ、中生代が最盛期へ向かうにつれて大型化した。一部は、史上いかなる陸上動物よりも巨大で、クジラほどの大きさだった。たとえばディプロドクス・カルネギイは鼻先から尾まで八十四フィート(約二十五・六メートル)、ギガントサウルスはさらに大きく、百フィート(約三十・五メートル)に達した。これらの怪物を餌に、相応の大きさを持つ肉食恐竜の群れが生きていた。その一つティラノサウルスは、爬虫類の恐ろしさの極致として、多くの書物に図示され、描写されている。

湿地に住む巨大恐竜ディプロドクス、鼻先から尾端まで八十フィート(約二十四メートル)以上

自然史博物館

これらの巨大生物が中生代の密林で葉や常緑樹を食み、互いを追いかけていた頃、今では消滅した別の爬虫類の一族が、コウモリのように発達した前肢を使って昆虫や仲間を追っていた。最初は跳躍し、滑空し、やがて森の葉や枝の間を飛ぶようになった。翼竜である。脊椎を持つ最初の飛翔生物であり、増大を続ける脊椎動物の能力における、新たな達成を示している。

また、一部の爬虫類は海へ戻りつつあった。祖先が来た海へ、大型遊泳生物の三群――モササウルス類、プレシオサウルス類、イクチオサウルス類――が侵入した。このなかにも現代のクジラに近い大きさのものがいた。イクチオサウルス類は完全な海洋生物だったらしいが、プレシオサウルス類は今日では近縁の形態が存在しない型だった。体は太く大きく、櫂状の肢を備え、泳ぐことにも、沼地や浅瀬の底を這うことにも適していた。比較的小さな頭は、白鳥の首さえ問題にならないほど巨大な蛇のような首の先に載っていた。水中を泳ぎ、白鳥のように餌を探して食べたか、あるいは水中に潜み、通りかかる魚や獣に襲いかかったのだろう。

中生代を通じて優勢だった陸上生命は、そのようなものだった。人間の基準で見れば、それ以前のすべてに対する進歩だった。世界がかつて見たどの生物よりも、体格、行動範囲、力、活動性に優れ、いわゆる「生命力」に満ちた陸上動物を生み出した。海では同様の進歩はなかったが、新しい生命形態が大繁栄した。浅海には、隔壁を備えた殻を持つ、イカに似た生物が驚くほど多様に現れた。殻の大半は巻いており、これがアンモナイトである。古生代の海にも祖先はいたが、今こそその栄光の時代だった。今日では一種も生き残っておらず、最も近い仲間は熱帯海域に住むオウムガイである。また、それまで主流だった板状・歯状の覆いより軽く細かな鱗を持つ、新しく繁殖力の高い魚類が海や河川で優勢となり、以来その地位を保っている。

第七章 最初の鳥類と最初の哺乳類

生命最初の大いなる夏である中生代、その豊かな植物と群がる爬虫類の姿を、ここまで数段落で描いてきた。しかし恐竜が熱帯の密林と湿った平野に君臨し、まだ花を咲かせない低木や樹木に群がる羽音高い昆虫を翼竜が追い、羽ばたき――おそらくは甲高い叫びやしわがれ声――で森を満たしていた一方、この豊かな生命の周縁では、目立たず数も少ない生物が、ある能力を獲得し、忍耐の教訓を学びつつあった。それらは、太陽と大地の微笑むような恵みがやがて衰え始めたとき、その種族にとって計り知れない価値を持つことになる。

跳躍する小型爬虫類、恐竜型の生物からなるいくつかの族や属は、競争と敵の追跡に追われ、絶滅するか、高山や海辺の寒冷な環境へ適応するかの選択を迫られたらしい。苦境に立ったこれらの一族に、新しい型の鱗が発達した。羽軸のように細長くなり、やがて枝分かれして、粗末な羽毛の原型となった鱗である。この羽軸状の鱗は重なり合い、それまでの爬虫類の覆いより効率よく熱を保つ被覆を形成した。そのため、他の生物が住まない寒冷地へ進出できた。おそらくこうした変化と同時に、卵へより深い配慮を示すようになった。大半の爬虫類は卵にほとんど関心を払わず、太陽と季節に孵化を委ねる。だが生命の樹のこの新しい枝に属する一部は、卵を守り、自らの体温で温める習性を身につけつつあった。

寒さへの適応とともに体内でも変化が進み、原始的な鳥類は恒温動物となって、日光浴に頼らなくなった。最初期の鳥類は魚を食べる海鳥で、前肢は翼ではなく、ペンギン型の櫂だったらしい。ニュージーランドの非常に原始的な鳥キーウィは、きわめて単純な羽毛を持ち、飛ぶこともなければ、飛翔する祖先から派生したようにも見えない。鳥類の発達では、羽毛が翼に先行した。しかし羽毛がひとたび発達すると、それを軽く広げることが可能になり、必然的に翼へつながった。少なくとも一種、顎に爬虫類の歯と長い爬虫類型の尾を持ちながら、真の鳥の翼も備え、確実に飛翔して中生代の翼竜と渡り合った鳥の化石が知られている。それでも中生代の鳥類は、種類も個体数も少なかった。当時の典型的な土地へ人間が行けたなら、葉やアシの間に翼竜と昆虫を無数に見かけながら、鳥というものを何日歩いても見聞きしなかったかもしれない。

最初期の鳥類の一つ、始祖鳥の化石

自然史博物館

そしてもう一つ、おそらく決して目にできなかったものがある。哺乳類の徴候だ。最初の哺乳類は、鳥と呼べる最初の生物より何百万年も前から存在していた可能性が高いが、あまりにも小さく、目立たず、辺鄙な場所にいたため、注目されなかった。

故郷の海にいるヘスペロルニス

最初期の哺乳類も最初期の鳥類と同じく、競争と追跡に追われて困難な生活へ追い込まれ、寒さへ適応した生物だった。哺乳類でも鱗が羽軸状になり、保温性のある覆いへ発達した。また細部は異なるものの同種の変化を経て恒温動物となり、日光浴から独立した。羽毛の代わりに毛を発達させ、卵を守って抱く代わりに、ほぼ成熟するまで体内に保持して、温かく安全に守った。大半は完全な胎生となり、生きた子を産むようになった。出産後も子との保護的・栄養的な結びつきを保つ傾向があった。今日の哺乳類は、大半が乳房を持ち、子に乳を与える。ただしすべてではない。今も卵を産み、真の乳房を持たず、腹部の皮膚から栄養分を含む分泌液を出して子を養う哺乳類が二種いる。カモノハシとハリモグラである。ハリモグラは革質の卵を産むと腹の袋へ入れ、孵化するまで温かく安全に持ち運ぶ。

しかし中生代を訪れた者が鳥を見つけるまで数日、数週間も探したかもしれないのと同じく、正確な場所を知らなければ、哺乳類の痕跡も見つけられなかっただろう。鳥類も哺乳類も、中生代にはひどく風変わりで、二次的な、取るに足りない生物に見えたはずだ。

ニュージーランドに今も生息するキーウィ、アプテリクス

写真:オートタイプ・ファイン・アート社

下部鮮新世の泥灰岩板 ギリシャで発見。初期哺乳類の骨化石を豊富に含む

現在の推定では、「爬虫類の時代」は八千万年続いた。人間に似た知性が、その想像も及ばぬ時間を通じて世界を観察していたなら、日光と豊かさはなんと安泰で永遠に見え、恐竜が泥のなかをのたうつ繁栄と、飛翔爬虫類が羽ばたく豊かさは、なんと確かなものに思えただろう。ところが宇宙の神秘的な律動と蓄積する力が、その半永久的な安定に逆らい始めた。生命の幸運は尽きかけていた。時代から時代へ、無数の年月からさらに無数の年月へ、もちろん停滞や逆行を挟みながら、環境は困難と極端さへ向かい、地表の高度は大きく変わり、山と海の配置も大規模に組み替えられた。繁栄した長い中生代が衰退する頃、「岩石の記録」には環境の継続的な変化を強く物語る現象が一つ見られる。生物形態の激しい変動と、新奇な種の出現である。迫り来る絶滅の脅威の下、古い目や属は変異と適応の能力を極限まで発揮していた。たとえばアンモナイトは、中生代という章の末尾で無数の奇怪な形を示す。環境が安定していれば、新奇なものは奨励されず、発達せず、抑え込まれる。すでに最も適したものが存在するからだ。新しい環境では、普通の型が苦しみ、新奇な型にこそ生き延びて定着する可能性が生まれる……。

「岩石の記録」には、数百万年を表しているかもしれない断絶がある。生命史の輪郭にさえ、ここでは今なお帳がかかっている。その帳が再び上がると、「爬虫類の時代」は終わっている。恐竜、プレシオサウルス、イクチオサウルス、翼竜、無数の属と種のアンモナイトは、すべて跡形もなく消えていた。驚異的な多様性を誇ったものがことごとく絶滅し、子孫を一つも残していない。寒さが殺したのだ。最後に現れたあらゆる変異も不十分で、生存可能な条件に達することができなかった。世界は彼らの耐久力を超える極端な環境を経験し、中生代の生命はゆっくりと完全に虐殺された。そして今、世界を占めるのは新しい光景、新しく、より強靱な植物相と動物相である。

生命の書の新巻は、それでもなお寒々しく、貧しい光景から始まる。ソテツ類と熱帯性針葉樹の大半は、冬の雪による破壊を避けるため葉を落とす樹木や、花を咲かせる草木に取って代わられた。かつて爬虫類が群れていた場所では、種類を増しつつある鳥類と哺乳類が、その遺産を受け継ぎ始めていた。

第八章 哺乳類の時代

地球の生命史における次の大時代、新生代は、地殻の隆起と激しい火山活動とともに幕を開けた。アルプスとヒマラヤの巨大な山塊、ロッキー山脈とアンデス山脈という山の背骨が押し上げられ、現在の大洋と大陸の粗い輪郭が現れたのはこの時代である。世界地図は、ようやく今日の地図とおぼろげに似始めた。新生代の始まりから現在までに経過した時間は、四千万年から八千万年と推定されている。

新生代初頭、世界の気候は厳しかった。その後は全般に温暖化し、再び大繁栄の時期を迎えたが、やがて環境はまた厳しくなり、地球は氷河時代という極寒の周期を繰り返した。現在はそこからゆっくり抜け出しつつあるらしい。

しかし気候変動の原因については、現在も知識が不十分であり、将来待ち受ける変動を予測できない。日照が増える方向へ進んでいるのか、次の氷河時代へ後退しているのか、火山活動や山塊の隆起が活発化しているのか弱まっているのか。われわれには分からない。科学がまだ足りないのである。

この時代の幕開けとともにイネ科植物が現れ、世界に初めて牧草地が生まれた。かつて目立たなかった哺乳類型が本格的に発達し、興味深い多くの草食動物と、それらを捕食する肉食動物が登場した。

初期の哺乳類は、一見すると、遥か昔に繁栄した後、地上から消えた巨大な草食・肉食爬虫類と、わずかな特徴しか違わないように見える。不注意な観察者なら、今まさに始まった第二の長い温暖と豊穣の時代に、自然は単に第一の時代を繰り返し、草食・肉食恐竜に対応する草食・肉食哺乳類を置き、翼竜を鳥に置き換えただけだと思うかもしれない。しかし、それはまったく表面的な比較である。宇宙の多様性は無限に、絶え間なく続き、永遠に進展する。歴史は決して繰り返さず、完全に正確な類例もない。新生代と中生代の生命の違いは、その類似よりはるかに深い。

新生代初期の哺乳類 ティタノテリウム(ブロントプス)・ロブストゥム

最も根本的な違いは、両時代における精神生活にある。それは本質的に、哺乳類、そして程度は低いが鳥類を爬虫類から分ける、親子の継続的な接触から生じた。ごく少数の例外を除き、爬虫類は卵を放置し、独力で孵化させる。幼い爬虫類は親をまったく知らず、その精神生活は、ささやかなものであれ、自分自身の経験に始まり、そこで終わる。仲間の存在を許容することはあっても、意思を通わせず、模倣せず、仲間から学ばず、協力して行動することもできない。孤立した個体として生きるのである。ところが、新たな哺乳類と鳥類の系統を特徴づける授乳と養育から、模倣による学習、警戒の鳴き声による意思疎通、その他の協同行動、相互の統制と教育が可能になった。学習可能な生命が世界に現れたのである。

新生代最初期の哺乳類の脳は、敏捷な肉食恐竜よりわずかに大きい程度だった。だが記録を現代へ向けて読み進めると、哺乳類のすべての族や種族で、脳容量が一貫して増大している。たとえば比較的早い段階に、サイに似た獣が現れる。この時代の最初期に生きたティタノテリウムは、習性や必要とする環境の点で、現代のサイによく似ていたのだろう。だが脳容量は、現生の後継者の十分の一にも満たなかった。

初期の哺乳類は授乳が終わると子から離れたのだろう。しかし相互理解の能力がひとたび生じれば、関係を続ける利点は非常に大きい。やがて哺乳類の多くの種に、真の社会生活の始まりが見られるようになる。群れや隊列を作って一緒に行動し、互いを見守り、模倣し、仲間の行動や鳴き声から警告を受ける。脊椎動物の世界では、それまで見られなかった現象である。爬虫類や魚も、大群や魚群になることはある。大量に孵化し、同じ環境に置かれたため、一緒にいるだけだ。しかし社会性・群居性を持つ哺乳類の場合、その結びつきは外的な力の共有だけから生じるのではなく、内なる衝動によって維持される。単に互いが似ているため同じ時に同じ場所にいるのではない。互いを好むから、一緒にいるのだ。

ステノミルス・ヒッチコッキ――キリンラクダ

自然史博物館

初期のウマ、プロトヒップス・ヴェンティコルスの骨格

自然史博物館

爬虫類の世界と人間の精神世界との間には、われわれの共感では越えられない隔たりがある。爬虫類の本能的動機が持つ、素早く単純な切迫感、その欲望、恐怖、憎悪を、自分の内に想像することはできない。人間の動機はすべて複雑で、単純な衝動ではなく、諸力の均衡と合成によって生じるからこそ、その単純さを理解できないのだ。しかし哺乳類と鳥類には、自制、他の個体への配慮、社会的な働きかけがある。低い水準ながら、われわれと同じ型の自己統制を備えている。したがって、われわれはほとんどあらゆる哺乳類や鳥類と関係を築ける。苦しむと、人間の感情を呼び起こす声や動作を示す。互いを認識し合い、理解力のある愛玩動物にできる。人間に対して自制するよう馴らし、家畜化し、教えることができる。

サイとディノケラスの脳の大きさの比較

自然史博物館

新生代の中心的事実である脳の異常な発達は、個体間の新しい意思疎通と相互依存を示している。これは、間もなく語ることになる人間社会の発達を予告するものだった。

新生代が進むにつれ、その動植物相は今日の世界に住む動植物へ似ていった。巨大で不格好なウインタテリウム類とティタノテリウム類、エンテロドン類、ヒラコドン類など、現生生物のどれにも似ない鈍重な巨獣は消えた。一方、奇怪で不格好な祖先から、キリン、ラクダ、ウマ、ゾウ、シカ、イヌ、ライオン、トラへと、段階的につながる一連の形態が現れた。ウマの進化は、地質記録上とりわけ明瞭に読める。新生代初期の、バクに似た小さな祖先から続く形態が、ほぼ完全な系列として残っている。リャマとラクダの発達系列も、かなり正確に組み立てられている。

第九章 サル、類人猿、亜人

博物学者は、哺乳綱をいくつもの目に分ける。その筆頭が、キツネザル、サル、類人猿、人間を含む霊長目である。この分類は、もともと解剖学的類似に基づくもので、精神的性質はいっさい考慮されていなかった。

霊長類の過去は、地質記録から読み解くのが非常に難しい。大半はキツネザルやサルのように森林で暮らすか、ヒヒのように岩の多い裸地で暮らす。溺死して堆積物に覆われることはまれで、個体数の多い種も少ない。そのためウマやラクダなどの祖先ほど、化石中に多く現れない。それでも、新生代のかなり早い時期、すなわち約四千万年前には、後の子孫より脳が小さく、特殊化も進んでいない原始的なサルやキツネザル型の生物が現れていたことが分かっている。

新生代中期の世界的な大いなる夏も、ついに終わりへ向かった。生命史における二つの大夏――石炭湿地の夏と、爬虫類時代の巨大な夏――と同じ道をたどったのだ。地球は再び氷河時代へ向かって回転した。世界は冷え、一時穏やかになり、また冷えた。温暖だった頃、今ではフリート街の新聞人が往来する場所で、カバが亜熱帯の豊かな植物の間を転げ回り、剣のような牙を持つ巨大なサーベルタイガーが獲物を狩っていた。やがて寒々しい時代が訪れ、さらに厳しい時代が続いた。多くの種が淘汰され、絶滅した。寒冷気候に適応した毛深いサイ、ゾウの巨大で毛深い近縁種マンモス、北極圏のジャコウウシ、トナカイが舞台を横切った。ついには北極の氷冠、すなわち大氷河時代の冬の死が、世紀ごとに南へ這い寄った。イングランドではテムズ川近くまで、アメリカではオハイオまで達した。数千年続く温暖期もあったが、また厳寒へ逆戻りした。

地質学者は、こうした冬の局面を第一、第二、第三、第四氷期と呼び、その合間を間氷期と呼ぶ。今日のわれわれは、なおその恐ろしい冬によって貧しくなり、傷痕を刻まれた世界に生きている。第一氷期は六十万年前に始まり、第四氷期が最も厳しくなったのは約五万年前だった。そして、この長い世界的な冬の雪のなかで、最初の人間型生物がこの惑星に生きていた。

マンモス

新生代中期までには、顎や脚の骨に人間に近い特徴を多く持つ、さまざまな類人猿が現れていた。だが「ほぼ人間」と呼べる生物の痕跡が見つかるのは、氷河時代に近づいてからである。

その痕跡は骨ではなく、道具だ。ヨーロッパでは、五十万年から百万年前のこの時代の堆積物から、手先の器用な何者かが、鋭い縁で叩き、削り、戦うため意図的に打ち欠いたことが明らかな燧石や石が見つかる。これらは「エオリス」――曙石器――と呼ばれてきた。ヨーロッパには製作者の骨などの遺物はなく、残っているのは道具だけである。人間とはまったく異なる、しかし知能の高いサルが作った可能性さえ否定できない。しかしジャワ島のトリニールでは、同時代の堆積物から、現生のどの類人猿より大きな脳頭蓋を持ち、直立歩行していたらしい猿人の頭骨片、歯、骨が発見された。この生物は現在、歩く猿人を意味するピテカントロプス・エレクトゥスと呼ばれている。小さな盆一杯ほどの骨だけが、曙石器の製作者を想像するため、われわれが今のところ頼れる唯一の手掛かりである。

ピルトダウン地方で発見された燧石器

自然史博物館

ほぼ二十五万年前の砂層まで進まなければ、他の亜人の断片は見つからない。だが道具は大量にあり、記録を読み進めるにつれて品質が着実に向上していく。もはや粗末な曙石器ではなく、かなりの技量で作られた形の整った道具である。*しかも、後に真の人間が作った同種の道具より、はるかに大きい。*やがてハイデルベルクの砂採取場から、人間に似た顎骨が一本現れた。頑丈で、顎先がまったくなく、真の人間の顎骨よりはるかに重く、幅も狭い。そのため、舌を動かして明瞭な言葉を発することはできなかった可能性が高い。この顎骨を根拠に、科学者たちは、この生物を巨大な四肢と手を持っていたかもしれない、厚い毛に覆われていたかもしれない、鈍重で人間に近い怪物と推測し、ハイデルベルク人と名づけている。

リュト教授によるピテカントロプス・エレクトゥスの復元想像図

この顎骨は、人間の好奇心をかき立ててやまない、世界で最もじれったい物の一つだと思う。それを見るのは、歪んだガラス越しに過去をのぞき込み、この「何者か」が寒々しい荒野をよろめき歩き、サーベルタイガーを避けてよじ登り、森の毛深いサイを見つめている姿を、ぼやけた一瞬だけ垣間見るようなものだ。詳しく見極める暇もなく、怪物は消える。それでも地面には、用途に合わせて打ち欠いた、壊れない道具が大量に散らばっている。

ハイデルベルク人 リュト教授監修による復元模型

さらに魅惑的な謎を秘めるのが、サセックス州ピルトダウンで発見された生物の遺骸である。出土した堆積層は十万年から十五万年前のものと見られるが、一部の権威者は、この遺骸をハイデルベルクの顎骨より古いと考えている。ここでは、現生のどの類人猿よりもはるかに大きく、厚い亜人の頭骨と、それに属するかどうか定かでないチンパンジー型の顎骨が見つかった。さらに、明らかに入念に加工され、穴を穿たれたらしい、コウモリ型のゾウの骨片もあった。刻み目のような切り傷がついたシカの大腿骨もある。それですべてだ。

原断片から復元されたピルトダウン頭骨

自然史博物館

座り込んで骨に穴を開けていたこの生物は、いったいどんな獣だったのか。

科学者はこの者をエオアントロプス、「曙人」と名づけた。近縁者から離れて孤立し、ハイデルベルクの生物とも現生のどの類人猿とも大きく異なる。同種の痕跡は他に知られていない。しかし十万年前以後の礫層と堆積層には、燧石などで作られた道具が次第に増えていく。それらはもはや粗末な「曙石器」ではない。

考古学者はやがて、削器、穿孔器、ナイフ、投げ槍、投石、握斧を見分けられるようになる……。

われわれは人間へ急速に近づいている。次章では、人類の先駆者のうち最も奇妙な存在、ほとんど真の人間でありながら、完全にはそうでなかったネアンデルタール人を描くことになる。

ただしここで明言しておくべきなのは、ハイデルベルク人もエオアントロプスも、現代人の直接の祖先だと考える科学者はいないということだ。最も近くても、近縁の型にすぎない。

第十章 ネアンデルタール人とローデシア人

約五、六万年前、第四氷期が最盛期を迎える前、数年前までその遺骸が完全に人間のものと考えられていたほど、人間によく似た生物が地球上にいた。その頭骨と骨、そして製作し使用した大型道具が大量に残っている。火を起こし、寒さを避けて洞窟に住み、おそらく皮を粗く加工して身につけていた。人間と同じく右利きだった。

だが現在、民族学者は、これらの生物は真の人間ではなかったと語る。同じ属の別種だった。重く突き出した顎、目の上の巨大な眉稜、非常に低い額を持っていた。親指は人間のように他の指と向かい合わず、首のつき方のため、頭を後ろへ反らして空を見上げることができなかった。おそらく頭を下げ、前へ突き出して、前屈みに歩いた。顎先のない顎骨はハイデルベルク人のものに似て、人間の顎骨とは明らかに異なる。歯も人間型とは大きく違った。奥歯はわれわれのものより複雑で、単純なのではなく、むしろ複雑だった。奥歯には長い牙根がなく、普通の人間に見られる目立った犬歯もなかった。頭蓋容量は完全に人間並みだったが、脳は人間より後部が大きく、前部が低かった。知的能力の配置が異なっていたのである。人類の系統の祖先ではなく、精神的にも肉体的にも、人類とは別の系統に属していた。

この絶滅した人類種の頭骨と骨は、ネアンデル谷などで発見された。その地名にちなみ、奇妙な原人はネアンデルタール人と名づけられた。ヨーロッパで数百年、あるいは数千年もの間、生き続けたに違いない。

リュト教授によるネアンデルタール人

当時、世界の気候と地理は現在とは大きく異なっていた。たとえばヨーロッパは、南はテムズ川、中央ドイツ、ロシアまで氷に覆われていた。イギリスとフランスを隔てる海峡はなく、地中海と紅海は巨大な谷で、深い部分には湖が連なっていたかもしれない。現在の黒海から南ロシアを越え、中央アジアの奥深くまで、巨大な内海が広がっていた。スペインを含む、氷に直接覆われていないヨーロッパ全域も、ラブラドルより厳しい気候にさらされた荒涼たる高地で、温帯気候が見られるのは北アフリカまで達してからだった。乏しい北極圏の植物に覆われた南ヨーロッパの寒冷なステップを、毛深いマンモス、毛深いサイ、巨大なウシ、トナカイといった頑健な生物が移動した。春には植生を追って北へ、秋には南へ向かったのだろう。

ネアンデルタール人はこのような風景をさまよい、小動物や果実、木の実、根から、得られるだけの食料を集めていた。主に植物食で、小枝や根を噛んでいた可能性がある。平らで複雑な歯は、植物中心の食事を示唆する。しかし洞窟からは、大型動物の長い骨も見つかっており、骨髄を取り出すため割られていた。武器は大獣との正面衝突ではほとんど役に立たなかったはずだが、渡河の難所で槍を使って襲い、落とし穴さえ作ったと考えられている。群れを追い、争いで死んだ獣を食べたのかもしれず、当時まだ生き残っていたサーベルタイガーのおこぼれを狙うジャッカルの役を果たした可能性もある。氷河時代の苛酷な環境に追われ、長い植物食への適応の末、動物を襲うようになったのかもしれない。

ネアンデルタール人がどんな外見だったかは推測できない。非常に毛深く、まるで人間らしくなかったかもしれない。直立していたかどうかさえ疑わしい。足だけでなく拳も地面について体を支えていた可能性がある。おそらく単独か、小さな家族集団で行動した。顎の構造から見て、われわれがいう言語を話すことはできなかったと推測される。

数千年の間、ネアンデルタール人はヨーロッパ地域に現れた最高等の動物だった。ところが約三万~三万五千年前、気候が温暖になるにつれ、近縁ではあるが、より知的で、多くを知り、会話し、協力する種族が南方からその世界へ流れ込んできた。新参者は洞窟や居住地からネアンデルタール人を追い出し、同じ食物を狩った。おそらく陰惨な先住者に戦いを仕掛け、殺し尽くした。南または東から来た――起源の地域はまだ分からない――この者たちは、ついにネアンデルタール人を完全に絶滅させた。われわれと同じ血を引く最初の「真の人間」である。その脳頭蓋、親指、首、歯は、解剖学的にわれわれと同じだった。クロマニョンの洞窟とグリマルディの洞窟で多数の骨格が見つかっており、これが現在までに知られる最古の真正な人類遺骸である。

こうしてわれわれの種族が「岩石の記録」に姿を現し、人類の物語が始まる。

(1)現代人の頭骨と(2)ローデシア頭骨の比較

自然史博物館

当時の世界は、気候こそまだ厳しかったが、われわれの世界に近づきつつあった。ヨーロッパでは氷河時代の氷が後退していた。ステップに草が増えるにつれ、フランスとスペインのトナカイは巨大なウマの群れに取って代わられ、マンモスは南ヨーロッパで次第に希少となり、ついには完全に北へ退いた……。

真の人間が最初にどこで生まれたのかは分からない。だが一九二一年の夏、南アフリカのブロークンヒルで、骨格片とともに非常に興味深い頭骨が発見された。ネアンデルタール人と人間との中間的特徴を持つ、第三の人類の遺物らしい。脳頭蓋から見ると、その脳はネアンデルタール人より前部が大きく、後部が小さい。頭骨は、人間と同じく脊柱の上に直立して載っていた。歯と骨も完全に人間型である。しかし顔は類人猿のようで、巨大な眉稜と、頭骨の中央を走る隆起があったはずだ。いわば、類人猿型・ネアンデルタール型の顔を持つ真の人間だった。このローデシア人は、ネアンデルタール人より明らかに現生人類へ近い。

このローデシア頭骨は、氷河時代の始まりから、それらすべてに共通する継承者、そしておそらく共通する絶滅者でもある真の人間が現れるまでの長大な期間に地球上で暮らした亜人種について、今後作られるであろう長い発見一覧の、まだ二番目にすぎないのかもしれない。ローデシア頭骨そのものは、それほど古くない可能性がある。本書の刊行時点では、年代はまだ正確に決定されていない。この亜人がごく近年まで南アフリカで生き残っていた可能性もある。

第十一章 最初の真の人間

現在科学に知られている、疑いなくわれわれと同族の人類の最古の徴候と痕跡は、西ヨーロッパ、とりわけフランスとスペインで発見されている。両国では、三万年以上前のものと推定される骨、武器、骨や岩に刻まれた線、彫刻された骨片、洞窟や岩肌の絵が見つかっている。われわれの真の人類祖先が残した初期遺物については、現在のところスペインが世界で最も豊かな国である。

もちろん現在の収集物は、将来期待できる蓄積のほんの始まりにすぎない。あらゆる可能性のある場所を徹底調査できるだけの探索者がそろい、今は考古学者が立ち入れない世界各地も詳しく調べられれば、さらに多くの発見があるだろう。アフリカとアジアの大部分には、こうした問題へ関心を持ち、自由に探索できる訓練された観察者が、まだ一度も足を踏み入れていない。したがって、初期の真の人間が特に西ヨーロッパの住民だった、あるいはその地域に最初に現れたと結論するのは、慎まなければならない。

アジアやアフリカ、または現在の海に沈んだ土地には、これまで発見されたものより豊富で、はるかに古い真正な人類遺骸の堆積層があるかもしれない。ここでアジアまたはアフリカと述べ、アメリカを挙げないのは、類人猿、亜人、ネアンデルタール人、初期の真の人間を問わず、高等霊長類がまったく発見されていないからである。この生命の発達は旧世界だけで起こったらしく、人類が、現在はベーリング海峡に断ち切られている陸橋を渡ってアメリカ大陸へ初めて入ったのは、旧石器時代末期になってからだった。

スペイン北部アルタミラの驚異的な洞窟壁画の一つ 洞窟の壁は、赤から黒へ陰影をつけた柔らかな色調で描かれたウシなどの像に覆われている。制作年代は一万五千~二万年前かもしれない

ヨーロッパで知られる最初の真正な人類は、すでに少なくとも二つの明瞭に異なる人種のいずれかに属していたらしい。一方はきわめて高度な型で、長身かつ脳が大きかった。発見された女性頭骨の一つは、現代男性の平均を上回る容量を持つ。男性骨格の一つは身長六フィート(約一・八メートル)を超える。体型は北アメリカ先住民に似ていた。最初の骨格が発見されたクロマニョン洞窟にちなみ、クロマニョン人と呼ばれる。野蛮人ではあったが、高度な野蛮人だった。第二の人種、グリマルディ洞窟遺骸の人種は、明らかに黒人系の特徴を持つ。現生人類で最も近いのは、南アフリカのブッシュマンとホッテントットである。既知の人類史の冒頭ですでに、人類が少なくとも二つの主要な変種へ人種的に分かれていたことは興味深い。前者は黒というより褐色で東か北から来た、後者は褐色というより黒く、赤道以南から来たのではないか――そんな根拠のない推測をしたくなる。

旧石器時代の骨彫刻 (1、2)トナカイの形に彫ったマンモスの牙、(3)マンモスを表した短剣の柄、(4)ウマの頭を刻んだ骨

大英博物館

おそらく四万年前のこれらの野蛮人は、貝殻に穴を開けて首飾りを作り、体に色を塗り、骨や石で像を彫り、岩や骨に図を刻み、洞窟の滑らかな壁や適当な岩肌に、粗野ながらしばしば非常に巧みな動物画などを描くほど、人間らしかった。ネアンデルタール人のものよりはるかに小さく精巧な、多種多様な道具を作った。現在の博物館には、その道具、小像、岩絵などが大量に収蔵されている。

最初期の者たちは狩人だった。主な獲物は、当時の小さなたてがみのある野生馬である。牧草を追って移動する馬を追い、バイソンも追った。マンモスを知っていたことは、その動物を見事に捉えた絵を残していることから分かる。やや曖昧な一枚の絵から判断すると、罠にかけて殺したらしい。

槍と投石で狩りをした。弓は持っていなかったらしく、動物を飼い馴らす術をすでに知っていたかどうかも疑わしい。犬はいなかった。馬の頭の彫刻一つと、一、二枚の絵は、ねじった皮か腱を巻きつけた、くつわ付きの馬を思わせる。しかし当時その地域にいた小型馬は人を乗せられず、家畜化されていたとしても、引き馬として使われただけだろう。動物の乳を食物にするという、やや不自然な利用法をすでに学んでいた可能性は低い。

建物を造った形跡はないが、皮の天幕は持っていたかもしれない。粘土像は作ったものの、土器製作には達しなかった。調理器具がないため、料理はごく初歩的か、皆無だったはずだ。栽培については何も知らず、籠細工も織物もなかった。皮や毛皮の衣を別にすれば、裸で体に色を塗った野蛮人だった。

既知最古の人々は、おそらく一万年もの間ヨーロッパの開けたステップで狩りを続け、やがて気候変動を前に、ゆっくり移動し、変化した。ヨーロッパは世紀ごとに温暖で湿潤になった。トナカイは北と東へ退き、バイソンとウマも続いた。ステップは森林に変わり、ウマとバイソンに代わってアカシカが現れた。道具の用途が変わり、その性格も変化した。河川や湖での漁が人間にとって非常に重要になり、精巧な骨角器が増えた。「この時代の骨針は」とド・モルティエは述べる。「後世のもの、さらにはルネサンスまでの歴史時代のものより、はるかに優れている。たとえばローマ人は、この時代に匹敵する針を一度も持たなかった。」

リュトによるクロマニョン人の胸像

約一万二千~一万五千年前、新たな人々がスペイン南部へ流入し、露出した岩壁に自らの姿を描いた、きわめて注目すべき絵を残した。マス・ダジル洞窟にちなみ、アジール人と呼ばれる。弓を持ち、羽根飾りをかぶっていたらしく、躍動感のある絵を描いた。しかし同時に絵を一種の記号へ単純化していた。たとえば人間なら、縦の一筆に二、三本の横線を添えて表した。文字という発想の曙を思わせる。狩猟図の脇には、数を記したような印がよくある。一枚の絵は、二人の男が煙でハチを巣から追い出しているところを描いている。

旧石器美術の最も新しい発見の一部で、一九二〇年にスペインで出土。おそらく一万~一万二千年前のもの

彼らは、打製道具しか持たなかったため旧石器人と呼ばれる人々の、最末期に属する。一万~一万二千年前までに、ヨーロッパでは新しい生活が始まっていた。人々は石器を打ち欠くだけでなく、磨き、研ぐことを学び、栽培も始めていた。新石器時代の幕開けである。

興味深いことに、一世紀も前ではない頃まで、世界の辺境タスマニアには、ヨーロッパに痕跡を残した最初期のどの人種よりも、身体的・知的発達の水準が低い人々が生き残っていた。彼らははるかな昔、地理的変化によって他の人類から切り離され、刺激と向上の機会を失った。発達するより退化したらしい。貝類と小動物を食べる卑しい生活を送り、住居はなく、ただうずくまる場所があるだけだった。われわれと同じ種に属する真の人間だったが、最初の真の人間が備えていた手先の器用さも芸術的能力もなかった。

第十二章 原始的思考

ここで非常に興味深い思索にふけってみよう。人類の冒険が始まった初期、人間として生きるとは、どのような感覚だったのか。種蒔きも収穫も始まっていない四万年前、狩猟と放浪の遠い日々に、人間はどのように考え、何を考えたのか。人間の印象を文字で残すはるか以前の時代であり、こうした問いへの答えは、ほとんどすべて推論と推測に頼るほかない。

原始的な精神を再構成するため、科学者が利用してきた資料は多岐にわたる。近年では、子供の利己的で情熱的な衝動が、社会生活の必要に適応するため、いかに抑制、抑圧、修正され、別のものに覆われるかを分析する精神分析学が、原始社会の歴史へかなりの光を投げかけている。また、今も生き残る現代の未開民族の思想と習慣を研究することも、豊かな示唆をもたらしてきた。さらに、民間伝承や、現代の文明人にも根深く残る非合理な迷信と偏見には、一種の精神的化石化が見いだされる。最後に、現代へ近づくほど増えていく絵画、彫像、彫刻、記号などから、人間が何に関心を抱き、何を記録し表現する価値があると考えたのか、しだいに明瞭な徴候を読み取れる。

原始人はおそらく、子供とよく似た考え方をした。つまり、一連の想像的な映像によって考えたのである。自ら像を思い浮かべるか、像が自然に心へ浮かび、それが引き起こす感情に従って行動した。今日の子供や教育を受けていない人々もそうする。体系的思考は、人間の経験において比較的遅く発達したものらしい。過去三千年ほどになるまで、人間生活で大きな役割を果たしてはいなかった。今日でさえ、自らの思考を真に統制し、秩序立てられる者は、人類のごく少数にすぎない。世界の大半は、今なお想像と情熱によって生きている。

真の人類史が幕を開けた当初、最初の社会は小さな家族集団だった可能性が高い。初期哺乳類の群れが、離れずに暮らして増えた家族から生じたのと同様、最初の部族もおそらく家族から生じた。しかしそのためには、個人の原始的な利己心へ一定の抑制を加える必要があった。父への恐怖と母への敬意を成人後まで持続させ、集団の老人が、成長する若い雄たちに抱く本能的な嫉妬を和らげなければならなかった。一方、母は若者たちにとって自然な助言者であり、保護者だった。人間の社会生活は、成長すれば集団を離れ、自分たちだけでつがいになろうとする若者の粗野な本能と、離れることの危険や不利益との相克から生まれた。天才的な人類学者J・J・アトキンソンは、著書*『原始法』で、部族生活の際立った事実である未開民族の慣習法、すなわちタブー*の多くが、発達する社会生活の必要に原始的人間の欲求を適合させる、こうした精神的調整に由来すると示した。後の精神分析学者の研究も、この解釈の可能性を大いに裏づけている。

一部の思弁的な著述家によれば、老人に対する敬意と恐怖、年長の保護的な女性に対する原始人の感情的反応が、夢のなかで誇張され、空想的な精神活動によって豊かにされ、原始宗教や神々の観念の始まりに大きな役割を果たしたという。強力または有益な人格への敬意には、死後も夢に再び現れることから、その人物を恐れ、崇める気持ちが結びついた。その者は本当に死んだのではなく、より大きな力を持つ遠い場所へ、不思議な仕方で移っただけだと信じるのは容易だった。

子供の夢、想像、恐怖は、現代の成人のものよりはるかに鮮烈で現実的であり、原始人には常に子供のようなところがあった。また動物にも近く、動物が自分と同じ動機や反応を持つと考えられた。動物の助力者、動物の敵、動物の神を想像できた。想像力豊かな子供だった経験がなければ、奇妙な形の岩、木片、並外れた木などが、旧石器時代の人々にとってどれほど重大で、意味深く、不吉に、あるいは親しげに見えたかを再び理解するのは難しい。また夢と空想からそうした物にまつわる物語や伝説が生まれ、語られるうちに信じられるようになったことも理解しにくい。物語の一部は、記憶し、語り継ぐに値するほど優れていただろう。女たちが子供へ聞かせ、伝統を築いていった。今日でも想像力豊かな子供の多くは、お気に入りの人形や動物、空想上の半人半獣を主人公にした長い物語を作る。原始人もおそらく同じことをした。ただし主人公が実在すると、はるかに強く信じる傾向があった。

石器時代の遺物 ソマリランド出土のチャート製石器。全体の形は西・北ヨーロッパ出土品と似ている

大英博物館

われわれが知る最初期の真の人間は、おそらく非常によく話す生物だった。その点でネアンデルタール人と異なり、優位に立った。ネアンデルタール人は言葉を持たない動物だったかもしれない。もちろん原始人の言葉は、おそらくごく少数の名称から成り、身振りや合図で補われていた。

どれほど発達水準の低い未開民族にも、何らかの因果関係の科学がある。しかし原始人は、原因と結果を結びつける際にあまり批判的ではなく、結果をまったく誤った原因へ容易に結びつけた。「これこれをすれば」と原始人は言った。「これこれが起こる。」

子供に毒のある木の実を与えれば死ぬ。勇敢な敵の心臓を食べれば強くなる。ここには因果関係の結びつきが二つあり、一つは正しく、一つは誤っている。未開人の心にある因果関係の体系を、われわれは呪物信仰と呼ぶ。だが呪物信仰とは、単に未開人の科学である。現代科学と異なるのは、完全に非体系的かつ無批判で、そのため誤ることがはるかに多いという点だ。

石器時代人に広く見られる類似 左はロンドンのグレイズ・イン・レーンで発掘された燧石器、右はソマリランドの原始人が打ち欠いた同形の石器

大英博物館

原因と結果を結びつけることが難しくない場合も多く、誤った考えが経験によってすぐ訂正される場合も多かった。しかし原始人にとって非常に重要であり、粘り強く原因を探しながら、誤っているが見破れるほど大きくも明白でもない説明にたどり着いた問題も多数あった。獲物が豊富であること、魚が多く簡単に捕れることは、原始人にとって重大だった。その望ましい結果を得るため、無数の護符、呪文、前兆を試し、信じたに違いない。もう一つの大きな関心は病気と死だった。時折、感染症が土地を駆け抜け、人々を死なせた。時には明白な原因もなく病に倒れ、死んだり衰弱したりした。これも原始人の性急で感情的な心を熱に浮かされたように働かせたに違いない。夢と空想的な推測によって、ある人や獣や物を責め、また別のものへ助けを求めた。子供と同じく、恐怖と恐慌へ容易に陥った。

小さな人間集団のかなり早い段階で、他者と同じ恐怖と想像を共有しながらも、より年長で落ち着き、少し意志の強い者が、助言し、指示し、命令するため頭角を現したに違いない。これは不吉で、あれは必須だ。これは吉兆で、あれは凶兆だと宣言した。呪物の専門家である呪医こそ、最初の祭司だった。励まし、夢を解釈し、警告し、幸運を呼び災厄を退ける複雑なまじないを執り行った。原始宗教は、今日われわれが宗教と呼ぶものというより、実践と儀礼だった。初期の祭司が指図したのは、実際には恣意的で原始的な実用科学だったのである。

第十三章 栽培の始まり

過去五十年間、栽培と定住の始まりについて膨大な研究と考察が重ねられてきたが、われわれは今なおほとんど何も知らない。現在ある程度の確信を持って言えるのは、紀元前一万五千年から一万二千年頃、アジール人がスペイン南部に暮らし、それ以前の狩猟民の残存者が北と東へ流れていた時代、北アフリカ、西アジア、または現在は地中海の水底に沈む巨大な地中海盆地のどこかで、きわめて重要な二つの技術を、世代から世代へと編み出していた人々がいたということだけだ。栽培を始め、動物を家畜化していた。また狩猟民の祖先が用いた打製石器に加え、磨製石器も作り始めていた。籠細工と、植物繊維を粗く織った布の可能性を発見し、粗雑な成形土器も作り始めていた。

彼らは人類文化の新たな段階へ入りつつあった。クロマニョン人、グリマルディ人、アジール人などの旧石器段階と区別される、新石器段階である。[] こうした新石器人は、ゆっくりと世界の温暖な地域へ広がった。彼らが身につけた技術、利用法を学んだ植物と動物は、模倣と獲得によって、当人たちよりさらに広く伝播した。紀元前一万年までに、人類の大半が新石器段階へ達していた。

現代人の目には、土地を耕し、種を蒔き、作物を刈り、脱穀して粉に挽くことは、世界が丸いという事実と同じく、明白で合理的な手順に思えるかもしれない。「他にどうしろというのか」「他にどんな形であり得るのか」と人は尋ねるだろう。しかし二万年前の原始人にとって、今日のわれわれには確実で明白に見える行動と推論の体系は、どちらも少しも自明ではなかった。無数の試行と誤解を重ね、あらゆる曲がり角で空想的で不必要な手順や誤った解釈を付け加えながら、手探りで有効な実践へ進んだ。地中海地方のどこかには野生の小麦が生えていた。人間は種を蒔くことを学ぶずっと前から、その実を砕き、次いで挽いて食べることを覚えていたのかもしれない。蒔く前に、刈り取ったのである。

そして非常に注目すべきことに、種蒔きと収穫が行われる世界中のあらゆる場所で、種を蒔くという観念と血の犠牲、特に人身供犠の観念とを強く結びつけた原始的連想の名残を、今なおたどることができる。この二つが最初にどう絡み合ったのかを研究することは、好奇心旺盛な者にはきわめて魅力的である。関心のある読者は、J・G・フレイザー卿の記念碑的大著*『金枝篇』*に、きわめて詳しい議論を見いだせる。忘れてはならないのは、それが子供じみた、夢を見て神話を作る原始的精神のなかで生じた絡まりであり、理路整然とした過程では説明できないということだ。だが一万二千~二万年前の世界では、新石器人に種蒔きの時期が巡るたび、人身供犠が行われていたらしい。犠牲にされたのは、卑しい者や追放者ではない。選ばれた若者か乙女、より多くは若者であり、殺される瞬間まで深い敬意を払われ、崇拝さえされた。いわば供犠の神王であり、その殺害の細部はすべて、物知りな老人たちの指揮する儀礼となり、長い時代に蓄積された慣習によって是認されていた。

新石器時代の燧石器

大英博物館

初期の原始人は季節についてごく大まかな観念しか持たず、種蒔きの供犠と播種に適した時を決めるのに、大きな苦労をしたはずだ。人類の経験の初期には、一年という観念が存在しなかった段階があったと考える理由がある。最初の暦は太陰月によって数えられた。聖書の族長たちの年齢は、実際には月数だと考えられている。またバビロニア暦には、太陰月を十三回数えることで種蒔きの時期を一巡させようとした明瞭な痕跡がある。暦に対する月の影響は、現代まで続いている。慣習によってその奇妙さへの感覚が鈍っていなければ、キリスト教会がキリストの磔刑と復活を正しい周年日に記念せず、月の満ち欠けによって毎年変わる日に祝うことを、われわれは非常に奇妙に思うだろう。

最初の農耕民が星を観察したかどうかは疑わしい。星を最初に観察したのは、移動生活をする牧畜民で、方角を示す便利な目印とした可能性が高い。しかし季節を決める用途が認識されると、農業にとって星は非常に重要になった。種蒔きの供犠は、目立つ星が南または北へ移る時期と結びつけられた。原始人にとって、その星をめぐる神話と崇拝が生じるのは、ほぼ避けられない帰結だった。

現代の新石器文化 真の新石器時代とまったく同じ形だが、近年オーストラリア先住民が作った槍先。(1)電信用絶縁体から製作、(2)割れた瓶のガラス片から製作

大英博物館

血の供犠と星について知る、知識と経験のある者が、初期新石器世界でどれほど重要な存在となったかは、容易に理解できる。

不浄や穢れへの恐怖と、望ましい清めの方法も、知識ある男女にとって権力の源となった。男の魔術師だけでなく女の魔女も、祭司だけでなく女祭司も、常に存在したからである。初期の祭司は、実際には宗教家というより応用科学者だった。その科学は通常、経験だけに頼り、しばしば誤っていた。祭司は知識を一般人から非常に用心深く隠した。しかしそのことは、祭司の第一の役割が知識にあり、その第一の用途が実用にあったという事実を変えない。

新石器時代の土器標本 モートレイクのテムズ川河床から発掘

大英博物館

一万二千~一万五千年前、旧世界の温暖で、かなり水に恵まれたあらゆる地域に、こうした新石器人の共同体が広がっていた。祭司と女祭司という階級と伝統、耕作地、発達しつつある村落や小さな城壁都市を持つ共同体である。時代を重ねるごとに、共同体間で思想が移動し、交換された。エリオット・スミスとリヴァーズは、最初の農耕民の文化を指して「太陽巨石文化」という言葉を用いた。「太陽巨石」――太陽と石――は、おそらく最善の呼び名ではないが、科学者がよりよい名称を示すまでは、これを使うほかない。地中海または西アジアのどこかで生まれ、時代を重ねるごとに東へ、太平洋の島から島へと広がり、ついにはアメリカにまで達して、北から南下してきたモンゴロイド系移住者の、より原始的な生活様式と混じり合った可能性すらある。

褐色の肌を持つ太陽巨石文化の人々は、行く先々へ、ある一群の奇妙な観念や慣行の全部または大部分を持ち込んだ。その一部はあまりに奇妙で、精神の専門家による説明を必要とする。彼らはピラミッドと巨大な墳丘を築き、おそらく祭司による天体観測を容易にするため、巨石を大きな環状に並べた。死者の一部またはすべてをミイラにし、刺青と割礼を行った。子供が生まれると、父親を寝床へ送って休ませる、クヴァード[訳注:父親が出産を模倣したり産後の禁忌に従ったりする習俗]と呼ばれる古い慣習があり、幸運の象徴としてよく知られた卍を用いた。

こうした一連の慣行がどこまで痕跡を残したか、世界地図に点を打って示すなら、ストーンヘンジとスペインから世界を横断してメキシコとペルーに至るまで、温帯・亜熱帯の海岸沿いに帯ができるだろう。しかし赤道以南のアフリカ、北・中央ヨーロッパ、北アジアには点がない。そこには、ほぼ独立した道筋で発達を続ける人々が住んでいた。

第十四章 原始新石器文明

紀元前一万年ごろ、世界の地形は、その大まかな輪郭において今日とよく似ていた。それまで地中海盆地への海水の流入をせき止めていたジブラルタル海峡の巨大な障壁も、おそらくこのころまでには浸食によって破られ、地中海はほぼ現在と同じ海岸線をもつ海になっていた。カスピ海はなお今日よりはるかに広く、コーカサス山脈の北で黒海とつながっていた可能性もある。この中央アジアの大海を取り巻く、現在ではステップや砂漠となっている土地も、当時は肥沃で居住に適していた。総じて、今より湿潤で豊かな世界だった。ヨーロッパ・ロシアには現在よりはるかに多くの沼沢や湖があり、ベーリング海峡にはまだアジアとアメリカを結ぶ陸地が残っていたかもしれない。

そのころにはすでに、今日知られている人類の主要な人種的区分を見分けることができただろう。今よりやや温暖で森林の豊かな世界、その温暖帯と海岸沿いには、ヘリオリシック文化[訳注:巨石建造物や太陽崇拝などを共通要素とするとかつて想定された先史文化]を担う褐色系の人々が広がっていた。地中海世界の現在の住民の大半、ベルベル人、エジプト人、そして南・東アジア人口の多くの祖先である。もちろん、この大人種にもさまざまな変種があった。大西洋岸と地中海沿岸のイベリア人種、地中海人種、または「暗色白人種」、ベルベル人とエジプト人を含む「ハム系」諸民族、ドラヴィダ人、インドのより肌の濃い人々、東インドの多くの民族、ポリネシア系諸民族、マオリなどは、分類上の重要度こそさまざまだが、すべてこの人類の巨大な主流をなす諸分派である。その西方系統は東方系統より肌が白い。

中央・北ヨーロッパの森林では、褐色系民族の主流から枝分かれし、金髪で青い目をもつ人々がはっきり現れつつあった。今日、多くの人が北方人種と呼ぶ系統である。北東アジアの開けた地域では、同じ褐色系人類から、切れ長の目、高い頬骨、黄みがかった肌、非常にまっすぐな黒髪を特徴とする別の型が分化していた。モンゴル系諸民族である。南アフリカ、オーストラリア、南アジアの多くの熱帯島嶼には、初期のネグロイド系民族が残っていた。アフリカ中央部はすでに人種混交の地域となっていた。今日のアフリカの有色人種は、ほとんどすべて、北方の褐色系民族と基層をなすネグロイド系民族との混血らしい。

忘れてならないのは、あらゆる人種は互いに自由に交配でき、雲のように分かれ、混じり、また一つになるということだ。人種は、いったん分かれた枝が二度と交わらない樹木のように枝分かれするものではない。機会さえあれば人種は再び混じり合う――この事実を、常に念頭に置かなければならない。そうすれば、多くの残酷な迷妄や偏見から逃れられる。「人種」という語はしばしばきわめて杜撰に使われ、その上に途方もない一般論が築かれる。「イギリス人種」や「ヨーロッパ人種」などと言われることもある。だが、ヨーロッパのほとんどすべての国民は、褐色系、暗色白人系、白色系、モンゴル系の諸要素が複雑に混じり合った存在である。

マヤの石碑 礼拝者と蛇神を表す。文字に組み込まれた奇怪な顔に注目されたい

大英博物館

人類の発展が新石器時代に達したころ、モンゴル系の人々が初めてアメリカ大陸へ渡った。ベーリング海峡を経て進入し、南へ広がったらしい。北ではアメリカトナカイのカリブーに出会い、南では巨大なバイソンの群れに遭遇した。南アメリカに達したころには、巨大なアルマジロであるグリプトドンや、象ほどの背丈をもつ、恐ろしく鈍重な大ナマケモノ、メガテリウムがまだ生きていた。後者は、巨体でありながら無力だったため、おそらく人間によって絶滅させられた。

アメリカの諸部族の大半は、狩猟と移動を中心とする新石器時代的生活を越えることがなかった。鉄の利用を発見せず、金属器の中心は自然金と自然銅だった。しかしメキシコ、ユカタン、ペルーには定住農耕に適した条件があり、紀元前一〇〇〇年ごろ、旧世界の文明と並行しながらも型を異にする、きわめて興味深い文明が生まれた。はるか以前の旧世界の原始文明と同じく、これらの社会でも播種と収穫にまつわる人身供犠が大いに発達した。だが後に見るように、旧世界ではこうした原初的観念がやがて緩和され、複雑化し、別の思想に覆われたのに対し、アメリカでは極度の激しさにまで発展し、精緻化された。アメリカの文明諸国は本質的に祭司支配の国であり、軍事指導者や統治者も、厳格な法と予兆の規則に従っていた。

祭司たちは天文学を高度な精密さにまで発展させた。彼らは、後に述べるバビロニア人よりも正確に一年の長さを知っていた。ユカタンには、奇妙きわまりなく精緻な文字体系、マヤ文字があった。現在までに解読できた範囲では、それは主として、祭司たちが知力を傾けた正確かつ複雑な暦を記録するために使われていた。マヤ文明の芸術は紀元七〇〇年ないし八〇〇年ごろ最盛期を迎えた。その彫刻は、強烈な造形力と、しばしば見せる美しさによって現代人を驚嘆させる一方、奇怪さと、こちらの観念の枠外にある一種狂気じみた様式性、錯綜性によって見る者を戸惑わせる。旧世界にはまったく類例がない。最も近いものは古代インドの彫刻だが、それすら遠い類似にすぎない。至るところに羽毛が編み込まれ、蛇が出入りしながら絡みついている。多くのマヤ碑文は、旧世界のどの作品よりも、ヨーロッパの精神病院に収容された患者が描く、ある種の精緻な絵に似ている。まるでマヤ人の精神は旧世界人とは別の方向に発達し、観念のねじれ方も異なり、旧世界の基準からすれば、そもそも合理的な精神ではなかったかのようである。

こうした異形のアメリカ文明を、全般的な精神の異常という観念に結びつける見方は、人間の流血に対する異常なまでの執着によって裏づけられる。とりわけメキシコ文明は血にまみれ、毎年何千人もの人間を生贄に捧げた。生きた犠牲者の胸を切り開き、まだ鼓動する心臓をえぐり出す行為が、この奇怪な祭司階級の精神と生活を支配していた。公的生活も国民的祝祭も、すべてこの幻想的なまでに恐ろしい行為を中心に回っていた。

新石器時代の戦士 ルト教授の図をもとに制作

こうした社会に暮らす庶民の日常は、他の未開な農民社会の日常とよく似ていた。土器、織物、染色の技術は非常に優れていた。マヤ文字は石に刻まれただけでなく、獣皮などにも書かれ、彩色された。ヨーロッパやアメリカの博物館には、謎めいたマヤ写本が数多く収蔵されているが、現在までに日付以外はほとんど解読されていない。ペルーでも似た文字体系が生まれかけていたが、やがて紐に結び目を作って記録する方法に取って代わられた。同様の記憶補助手段は、数千年前の中国でも用いられていた。

旧世界では、紀元前四〇〇〇年ないし五〇〇〇年より前、すなわちアメリカより三、四千年早く、これらのアメリカ文明とよく似た原始文明が存在した。神殿を中心に成り立ち、大量の血の供犠を行い、祭司階級が天文学に熱中する文明である。だが旧世界では、原始文明同士が互いに影響を与え、今日の世界へつながる状態へと発展した。アメリカでは、原始文明はついにこの段階を越えなかった。それぞれが小さな孤立世界を形成していた。ヨーロッパ人がアメリカへ来るまで、メキシコはペルーについてほとんど、あるいはまったく知らなかったらしい。ペルーの主食だったジャガイモも、メキシコでは知られていなかった。

時代から時代へ、人々は生き、神々に驚嘆し、供犠を捧げ、死んでいった。マヤ芸術は装飾美の高みに達した。男たちは恋をし、部族は戦争をした。旱魃と豊作、疫病と健康が交互に訪れた。祭司たちは長い世紀を費やして暦と供犠の儀礼を精緻化したが、それ以外の方向にはほとんど進歩しなかった。

第十五章 シュメール、初期エジプト、そして文字

旧世界は新世界より広く、多様な舞台である。紀元前六〇〇〇年ないし七〇〇〇年までには、ペルー文明とほぼ同程度の半文明社会が、アジア各地の肥沃な地域やナイル渓谷にすでに現れていた。当時、北ペルシア、西トルキスタン、南アラビアはいずれも現在より肥沃で、これらの地域にはきわめて古い共同体の痕跡が残っている。しかし都市、神殿、計画的灌漑、そして単なる未開な村落都市を越える社会組織の証拠が最初に現れるのは、下メソポタミアとエジプトである。当時、ユーフラテス川とティグリス川は別々の河口からペルシア湾へ注いでおり、その二河の間の土地にシュメール人は最初の都市を築いた。年代はなお曖昧だが、ほぼ同じころ、エジプトの大いなる歴史も始まっていた。

シュメール人は、目立つ鼻をもつ褐色系の民族だったらしい。彼らは、現在では解読されている一種の文字を用い、その言語も判明している。青銅の利用法を発見し、日干し煉瓦で巨大な塔状神殿を築いた。この地方の粘土は非常にきめ細かく、彼らはそれを筆記に用いた。そのため碑文が今日まで保存されたのである。牛、羊、山羊、驢馬はいたが、馬はいなかった。戦いでは徒歩で密集隊形を組み、槍と革張りの盾を携えた。衣服は羊毛製で、頭髪を剃っていた。

シュメールの各都市は、一般にそれぞれ固有の神と祭司をもつ独立国家だったようだ。しかし時には一都市が他都市に覇権を確立し、その住民から貢納を取り立てた。ニップルのきわめて古い碑文には、記録上最初の帝国、シュメール都市ウルクの「帝国」が記されている。その神と祭司王は、ペルシア湾から紅海に至る支配権を主張した。

紀元前二二〇〇年ごろのバビロン王ハンムラビの煉瓦 太陽神の神殿建設を記した碑文の楔形文字に注目されたい

初め、文字とは絵による記録を省略したものにすぎなかった。人間は新石器時代以前からすでに文字を書き始めていた。先に触れたアジール文化の岩絵には、その過程の始まりが見られる。多くは狩猟や遠征を記録し、たいてい人間の姿が明瞭に描かれている。だが一部では、画家は頭や手足まで描く手間を省き、縦線一本と、それを横切る一、二本の線だけで人間を示した。そこから慣習化された簡略絵文字への移行は容易だった。棒で粘土に書いたシュメールでは、文字を構成する刻み目は、ほどなく元の事物とは似ても似つかなくなった。一方、壁やパピルスの葦を薄片にしたもの――最初の紙――に絵を描いたエジプトでは、模倣対象との類似が残った。シュメールで使われた木製の尖筆が楔形の跡を残したため、シュメール文字は楔形文字と呼ばれる。

エジプト第一王朝の黒檀製円筒印章 一九二一年、英国考古学調査団がアビドスの墓から発見。初期の版刷りが行われていた証拠である

文字への重要な一歩は、絵が描かれた事物そのものではなく、音などが似た別のものを示すために用いられたときに踏み出された。適齢の子供が好む判じ絵では、今日も同じ方法が使われている。テントの並ぶキャンプと鐘を描けば、子供はそれがスコットランド姓のキャンベルを表すと分かって喜ぶ。シュメール語は、現代の一部アメリカ先住民諸語とやや似て、音節を積み重ねてできた言語であり、絵で直接表せない観念を示す語を、この音節方式で書くのに非常に適していた。エジプト文字も並行した発展を遂げた。後に、音節の区切りがそれほど明瞭でない言語を話す異民族がこれらの絵文字を学び、使うようになると、さらに改変と簡略化が加えられ、ついにはアルファベットが生まれた。後世の真正なアルファベットはすべて、シュメールの楔形文字とエジプトのヒエログリフ、すなわち神官文字との混合から派生した。後世の中国でも慣習化された絵文字が発達したが、アルファベットの段階には至らなかった。

文字の発明は、人間社会の発展においてきわめて重要だった。契約、法律、命令を記録できるようにした。古い都市国家より大きな国家の成長を可能にした。連続した歴史意識を可能にした。祭司や王の命令と印章は、その視線や声が届く範囲をはるかに越え、本人の死後も効力を保てるようになった。古代シュメールで印章が盛んに使われたことは興味深い。王、貴族、商人はしばしば芸術的に彫られた印章をもち、承認しようとする粘土文書に押印した。六千年前、文明はすでに印刷の間近まで来ていたのである。その後、粘土を固く乾燥させれば、文書は恒久的なものとなった。メソポタミアでは数えきれないほど長い年月にわたり、手紙、記録、帳簿がすべて比較的壊れにくい粘土板に記されたことを、読者は覚えておかなければならない。その事実のおかげで、膨大な知識が今日まで回収できたのである。

サッカラのピラミッド群 右の階段ピラミッドは世界最古の石造建築である

写真:F・ボワイエ

青銅、銅、金、銀、そして貴重な珍品としての隕鉄は、シュメールでもエジプトでも非常に早い時期から知られていた。

クフ王の大ピラミッド頂上からの眺望 これらの巨大建造物が平野を圧倒している様子が分かる

写真:D・マクリーシュ

デンデラのハトホル神殿

写真:D・マクリーシュ

旧世界最初の都市国家における日常生活は、エジプトでもシュメールでも非常によく似ていたに違いない。また通りに驢馬や牛がいる点を除けば、三、四千年後のアメリカのマヤ都市での生活とも大差なかっただろう。宗教祭日を除けば、平時の人々の大半は灌漑と耕作に忙しかった。貨幣はなく、必要もなかった。時折行う小規模な取引は物々交換で済ませた。わずかな所有物以上の富をもつ王侯や支配者だけが、臨時の取引に金銀の延べ棒や宝石を使った。生活を支配したのは神殿である。シュメールでは、星を観測する屋上へ向かって高くそびえる巨大な神殿だった。エジプトでは平屋だけの重厚な建物だった。シュメールでは祭司王が最も偉大で華麗な存在だった。しかしエジプトには、祭司より上に置かれた者がいた。国の主神の生ける化身、ファラオ、神王である。

当時の世界には変化が少なかった。人々の日々は陽光に満ち、労苦に満ち、慣習に縛られていた。異国人が来ることは少なく、来ても居心地の悪い思いをした。祭司は太古からの規則に従って生活を導き、播種期を知るために星を観察し、供犠の前兆を見定め、夢の警告を解釈した。人々は働き、愛し、死んだ。さほど不幸ではなく、自民族の野蛮な過去を忘れ、その未来にも無頓着だった。時には慈悲深い支配者もいた。エジプトを九十年間統治したペピ二世がそうである。時には野心的な支配者も現れ、民の息子たちを兵士に取り立て、近隣の都市国家へ戦争と略奪に送り、あるいは巨大建造物の建設に酷使した。ギザの巨大な墳墓群、ピラミッドを築いたクフ、カフラー、メンカウラーがそうだった。最大のピラミッドは高さ四五〇フィート(約一三七メートル)、石材の重量は四八八万三〇〇〇トンに達する。すべて舟でナイル川を下って運ばれ、主として人力で引きずられて所定の位置に据えられた。その建設は、大戦争以上にエジプトを疲弊させたに違いない。

第十六章 原始遊牧民

紀元前六〇〇〇年から八〇〇〇年にかけて、人々が農耕に定着し、都市国家を形成しつつあったのは、メソポタミアとナイル渓谷だけではない。灌漑が可能で、一年を通じて安定した食料を得られる場所ではどこでも、人々は狩猟と放浪の不安定さや苦難を捨て、定住生活の決まりきった営みへ移っていた。ティグリス川上流ではアッシリア人と呼ばれる民族が都市を建設し、小アジアの渓谷、地中海沿岸や島々でも、小共同体が文明へ向かって成長していた。インドや中国の条件に恵まれた地域でも、人間生活の同様な発展がすでに始まっていた可能性がある。魚の豊富な湖があるヨーロッパ各地では、小さな共同体が水上の杭に支えられた住居に古くから定住し、農耕を漁労と狩猟で補っていた。しかし旧世界のさらに広大な地域では、そのような定住は不可能だった。土地が厳しすぎ、森林が密すぎ、乾燥しすぎていた。あるいは季節が不安定すぎて、当時の道具と知識しかもたない人類には根を下ろせなかったのである。

原始文明の条件下で定住するには、安定した水の供給、温暖な気候、日光が必要だった。これらが満たされない土地では、人間は獲物を追う狩人として、季節ごとの草地を追う牧人として、一時的に暮らすことはできても、定住はできなかった。狩猟生活から牧畜生活への移行は、非常に緩やかだったかもしれない。野生の牛や、アジアでは野生馬の群れを追ううちに、人々はそれらを所有するという観念に達し、谷へ囲い込むことを学び、狼や野犬などの捕食獣から守るため戦うようになったのだろう。

湖上生活者の土器と道具

大英博物館

現代の湖上集落 ボルネオのこれらの住居は、紀元前六〇〇〇年のヨーロッパ新石器時代共同体の住居とほぼ同型である

こうして農耕民の原始文明が主として大河の流域で成長する一方、別の生活様式、すなわち冬の牧草地と夏の牧草地の間を絶えず往復する遊牧生活も発達した。遊牧民は概して農耕民より頑健だった。出生率も人口も低く、恒久的神殿も高度に組織された祭司階級もなく、所有する道具も少なかった。だが、それゆえ彼らの生活様式が必ずしも発達の遅れたものだったと考えてはならない。多くの点で、この自由な生活は耕作者の生活より充実していた。個人はより自立し、群衆の一単位として埋没することも少なかった。指導者の重要性は高く、呪医の重要性はおそらく低かった。

エジプトの遊牧民 中部エジプト、古代ベニ・ハサン近郊の墓に描かれた壁画。紀元前一八九五年ごろ、セム系遊牧民の一部族がエジプトへ到来する様子を表す

広大な土地を移動する遊牧民は、人生をより広い視野から眺めた。ある定住地の境にも、別の定住地の境にも接した。見慣れぬ顔を見ることにも慣れていた。競合する部族と牧草地をめぐって駆け引きし、交渉しなければならなかった。山道や岩場へ入ったため、耕地の民より鉱物に詳しかった。冶金術でも優れていたかもしれない。青銅、そしてさらに可能性が高いことに鉄の製錬は、遊牧民の発見だったのかもしれない。鉱石から還元された最古級の鉄器の一部は、初期文明から遠く離れた中央ヨーロッパで発見されている。

紀元前四五〇〇年の燧石製ナイフ 一九二二年、英国考古学調査団がエジプト第一王朝の墓から発掘

一方、定住民は織物や土器を作り、欲しがられる品々を数多く生産した。農耕生活と遊牧生活が分化すれば、両者の間にある程度の略奪と交易が生じるのは避けられなかった。とりわけシュメールでは、両側に砂漠と季節的放牧地があったため、遊牧民が耕地のすぐ近くに野営し、今日のジプシーのように交易し、盗み、あるいは鍋釜の修理などをするのが普通だったに違いない。(ただし鶏は盗まなかっただろう。もとはインドの野鶏だった家鶏が人間に飼い慣らされたのは、紀元前一〇〇〇年ごろだからである。)彼らは宝石、金属製品、革製品を持ち込んだ。狩人なら毛皮も運んだ。その代わりに土器、玉、ガラス、衣服などの加工品を手に入れた。

仕事へ向かうエジプト農民 大英博物館所蔵の、古代の風変わりな彩色模型より

シュメールと初期エジプトに最初の文明が栄えた遠い時代、放浪生活または不完全な定住生活を送る人々には、三つの主要地域と三つの主要類型があった。ヨーロッパの森林の彼方には、金髪の北方系民族がいた。狩人や牧人として暮らす、地位の低い民族だった。紀元前一五〇〇年以前、原始文明が彼らと接することはほとんどなかった。東アジアのステップでは、フン系諸民族を含むさまざまなモンゴル系部族が馬を家畜化し、夏営地と冬営地の間を季節ごとに大規模に移動する生活様式を発達させていた。北方系民族とフン系民族は、ロシアの沼沢地と、当時は現在より大きかったカスピ海によって、なお隔てられていた可能性がある。当時のロシアの大部分は沼と湖だった。乾燥化が進むシリアとアラビアの砂漠では、暗色白人系または褐色系のセム系諸部族が、羊、山羊、驢馬の群れを連れて牧草地から牧草地へ移動していた。初期文明と最初に密接な接触をもった遊牧民は、このセム系牧人と、南ペルシア出身でよりネグロイド的なエラム人だった。彼らは商人として、また襲撃者としてやって来た。やがて彼らの中から、より大胆な構想を抱く指導者が現れ、征服者となった。

アッカド王ナラム・シンを称える石碑 サルゴン一世の子であるこの王は、名高い征服者であると同時に偉大な建築家でもあった。一八九八年、ペルシアのスサ遺跡で発見

紀元前二七五〇年ごろ、セム系の偉大な指導者サルゴンはシュメール全土を征服し、ペルシア湾から地中海に至る全世界の支配者となった。サルゴン自身は文字を知らない未開人であり、その民アッカド人はシュメール文字を学び、官吏と知識人の言語としてシュメール語を採用した。サルゴンが建てた帝国は二世紀後に衰退し、エラム人の侵入を一度受けた後、新たなセム系民族であるアムル人が、徐々にシュメールを支配した。彼らは、それまで上流の小都市にすぎなかったバビロンを首都とした。その帝国は第一バビロニア帝国と呼ばれる。帝国を確立したのは、歴史上知られる最古の法典を制定した偉大な王ハンムラビ、紀元前二一〇〇年ごろである。

ナイル川の狭い谷は、メソポタミアほど遊牧民の侵入を受けやすくない。しかしハンムラビの時代ごろ、セム系民族によるエジプト侵入が成功し、ヒクソス、すなわち「牧人王」と呼ばれるファラオの王統が成立して数世紀続いた。このセム系征服者たちはエジプト人に同化せず、常に異邦人、未開人として敵視された。ついには紀元前一六〇〇年ごろ、民衆蜂起によって追放された。

しかしセム系民族はシュメールに完全に定着した。両人種は同化し、バビロニア帝国は言語においても性格においてもセム系となった。

第十七章 最初の海洋民族

最初の舟や船が使われ始めたのは、二万五千年ないし三万年前だったに違いない。遅くとも新石器時代の初めには、人間は丸太や膨らませた獣皮を浮き具として、水上を漕ぎ回っていただろう。獣皮で覆い、防水処理を施した籠舟は、記録に残る最初期からエジプトとシュメールで使われていた。この種の舟は現在もそこで使われている。アイルランド、ウェールズ、アラスカでも今日まで使用され、アザラシ皮の舟は今もベーリング海峡を渡る。道具が改良されると、くり舟が続いた。そこから舟、さらに船の建造へと自然に進展した。

ノアの方舟の伝説は、初期の造船上の偉業を記憶に留めたものかもしれない。同じように、世界各地の民族に広く伝わる大洪水の物語は、地中海盆地が水没した出来事の伝承なのかもしれない。

ピラミッドが建てられるはるか以前から紅海には船があり、紀元前七〇〇〇年までには地中海とペルシア湾にも船があった。その大半は漁船だったが、すでに交易船や海賊船も存在した。人間について知るところから判断すれば、最初の船乗りたちは、略奪できるときには略奪し、そうせざるを得ないときだけ交易したと考えて、まず間違いない。

最初の船が冒険に乗り出した海は内海だった。風は気まぐれに吹き、何日も完全な凪になることが多かったため、帆走は補助的用途を越えて発達しなかった。十分な帆装を備え、外洋を航海する帆船が発達したのは、わずかこの四百年ほどのことである。古代世界の船は本質的に櫂で進む船であり、岸沿いを航行し、荒天の兆しが見えればすぐ港へ逃げ込んだ。船が大型のガレー船へ発達すると、漕ぎ手として使う戦争捕虜への需要が生まれた。

すでに述べたように、セム系民族はシリアとアラビア一帯を放浪する遊牧民として現れ、シュメールを征服して、まずアッカド帝国、次いで第一バビロニア帝国を建てた。西方では、同じセム系民族が海へ進出した。彼らは地中海東岸に港湾都市を連ね、その中心がティルスとシドンだった。バビロンのハンムラビの時代までには、商人、放浪者、植民者として地中海盆地全域へ広がっていた。この海洋セム人がフェニキア人である。彼らはスペインに大規模に定住し、古くからのイベリア系バスク人を押し戻し、ジブラルタル海峡を越えて沿岸探検隊を送り、北アフリカ沿岸にも植民市を築いた。フェニキア都市の一つカルタゴについては、後に詳しく述べる。

だが、地中海で最初にガレー船を用いたのはフェニキア人ではなかった。すでに地中海の島々と沿岸には、西方のバスク人、南方のベルベル人やエジプト人と、血統や言語においてつながりがあったらしい人種または諸人種の都市群が存在した。エーゲ海諸民族である。彼らを、ずっと後に物語へ登場するギリシア人と混同してはならない。彼らはギリシア人以前の民族だったが、ギリシアと小アジアにも都市をもち、たとえばミケーネやトロイ、そしてクレタ島のクノッソスには巨大で繁栄した拠点があった。

発掘考古学者たちが過去半世紀にわたって努力した結果、ようやくエーゲ海諸民族の広がりと文明が知られるようになった。最も徹底的に調査されたのはクノッソスである。幸い、その遺跡を破壊するほど大きな後代の都市が上に築かれなかったため、かつてほとんど忘れ去られていたこの文明について、クノッソスは最大の情報源となっている。

クノッソスの歴史はエジプトの歴史と同じほど古い。両国は紀元前四〇〇〇年までに、海を越えて活発に交易していた。紀元前二五〇〇年、すなわちサルゴン一世とハンムラビの時代の間には、クレタ文明は絶頂に達していた。

クノッソスは都市というより、クレタの君主とその民のための巨大な宮殿だった。城壁すらなかった。防備が施されたのは後代、フェニキア人が強大になり、北方から新しく、さらに恐るべき海賊の一族、ギリシア人が海へ進出してからである。

ミケーネの宝庫

写真:フレッド・ボワソナ

エジプトの君主がファラオと呼ばれたように、クレタの君主はミノスと呼ばれた。ミノスは、水道、浴室など、他の古代遺跡には見られない設備を備えた宮殿で威儀を保った。そこで盛大な祭典や見世物を催した。闘牛があり、現代のスペインに残る闘牛と驚くほど似ていた。闘牛士の衣装まで似ていた。また体操競技も行われた。女性の衣服は驚くほど現代的な趣があり、コルセットや襞飾りのついたドレスを身につけていた。クレタ人の土器、織物、彫刻、絵画、宝飾品、象牙細工、金属細工、象嵌細工は、しばしば驚嘆すべき美しさを示した。文字体系もあったが、いまだ解読されていない。

この幸福で、明るく、文明化された生活は、およそ二十世紀にわたって続いた。紀元前二〇〇〇年ごろ、クノッソスとバビロンには、快適で洗練された、おそらく非常に楽しい生活を送る人々があふれていた。見世物と宗教祭典があり、身の回りを世話する家内奴隷と、利益を生み出す産業奴隷がいた。青い海に囲まれ、陽光を浴びるクノッソスで、そうした人々の生活は非常に安泰に思えたに違いない。一方、当時のエジプトは、半ば未開な牧人王の支配下にある衰退国と見えたはずである。政治に関心がある者なら、セム系民族が至るところへ進出し、エジプトを治め、遠いバビロンを治め、ティグリス川上流にニネヴェを築き、西はヘラクレスの柱、すなわちジブラルタル海峡まで航海し、その遠い沿岸に植民市を建てていることに気づいただろう。

クノッソスには、活発で好奇心に富んだ精神の持ち主がいた。後世のギリシア人は、ダイダロスというクレタの名工の伝説を語っている。ダイダロスは何らかの飛行機械、おそらく滑空機を作ろうとしたが、機体は壊れて海へ落ちたという。

クノッソスの生活と現代生活について、類似点だけでなく相違点にも注目すると興味深い。紀元前二五〇〇年のクレタの紳士にとって、鉄は空から落ちてくる希少な金属であり、実用的というより珍奇なものだった。当時知られていたのは隕鉄だけで、鉱石から鉄を取り出す技術はまだなかった。至るところに鉄が満ちる現代と比べてみるとよい。また馬は、クレタ人にとってほとんど伝説上の動物だった。黒海のはるか彼方、荒涼たる北方の地に住む、一種の超驢馬である。クレタ人にとって文明は主として、リュディア人、カリア人、トロイ人が自分たちと似た生活を送り、おそらく似た言語を話していたエーゲ海沿岸のギリシアと小アジアに存在した。スペインと北アフリカにもフェニキア人やエーゲ海諸民族の植民地があったが、想像の中ではきわめて遠い地域だった。イタリアはなお深い森に覆われた荒涼たる土地で、褐色の肌をもつエトルリア人もまだ小アジアから移住していなかった。ある日、このクレタの紳士が港へ下り、ひどく色白で青い目をしているため目を引く捕虜を見かけたとしよう。話しかけても、意味不明な言葉が返ってきたかもしれない。この男は黒海の彼方のどこかから来た、まったく蒙昧な未開人に見えただろう。だが実はアーリア系の部族民であり、その人種と文化については、まもなく多くを語ることになる。そして彼が話す奇妙な言葉は、いつの日かサンスクリット語、ペルシア語、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、英語をはじめ、世界の主要言語の多くへ分化することになる。

クノッソス宮殿 玉座の間の彩色壁面

写真:フレッド・ボワソナ

絶頂期のクノッソスは、知的で、進取の気性に富み、明るく幸福だった。しかし紀元前一四〇〇年ごろ、おそらくきわめて突然、その繁栄を災厄が襲った。ミノス宮殿は破壊され、その遺跡は以後今日まで再建も居住もされていない。災厄がどのように起きたのかは分からない。発掘者たちは、散乱した略奪品らしきものと火災の痕跡を認めている。しかし、きわめて破壊的な地震の痕跡も発見されている。自然だけがクノッソスを滅ぼしたのかもしれないし、地震が始めた破壊にギリシア人がとどめを刺したのかもしれない。

第十八章 エジプト、バビロン、アッシリア

エジプト人はセム系牧人王の支配に決して進んで服したわけではなく、紀元前一六〇〇年ごろ、力強い愛国運動によって異民族を追放した。続いてエジプトには新たな局面、すなわち復興期が訪れた。エジプト学者が新王国と呼ぶ時代である。ヒクソス侵入以前には十分統合されていなかったエジプトは、今や統一国家となった。服従と反乱を経験した結果、軍事精神にも満ちていた。ファラオたちは攻撃的な征服者となった。ヒクソスがもたらした軍馬と戦車も獲得していた。トトメス三世とアメンホテプ三世の下で、エジプトの支配はアジアへ広がり、ユーフラテス川にまで達した。

ここから、かつて完全に隔てられていたメソポタミア文明とナイル文明の間で、一千年にわたる戦争が始まる。当初はエジプトが優勢だった。トトメス三世、アメンホテプ三世と四世、偉大な女王ハトシェプストを含む第十八王朝、そしてモーセ時代のファラオとする説もあるラムセス二世が六十七年間統治した第十九王朝という偉大な王朝が、エジプトを繁栄の高みへ押し上げた。その合間にはエジプトが衰退する時期もあり、シリア人に征服され、後には南方のエチオピア人にも征服された。メソポタミアではバビロンが支配し、次いでヒッタイト人とダマスカスのシリア人が一時的に優勢となった。一時はシリア人がエジプトを征服した。ニネヴェのアッシリア人の運命も浮き沈みを繰り返し、ある時には都市を征服され、またある時にはバビロンを支配してエジプトを攻撃した。エジプト軍と、小アジア、シリア、メソポタミアのさまざまなセム系勢力の軍隊が繰り返した進退を、ここですべて語るだけの余裕はない。これらの軍隊は今や膨大な数の戦車を備えていた。なお戦争と威儀のためだけに使われていた馬は、中央アジアから古代文明圏へ広がっていたのである。

アブ・シンベル神殿 入口に立つラムセス二世像

この遠い時代の薄明かりの中に、偉大な征服者たちが現れては消える。ニネヴェを占領したミタンニ王トゥシュラッタ、バビロンを征服したアッシリア王ティグラト・ピレセル一世などである。ついにアッシリア人は当時最大の軍事大国となった。ティグラト・ピレセル三世は紀元前七四五年にバビロンを征服し、歴史家が新アッシリア帝国と呼ぶ国家を築いた。鉄も北方から文明圏へ入っていた。アルメニア人の先駆者であるヒッタイト人が最初に鉄をもち、その利用法をアッシリア人へ伝えた。アッシリアの簒奪者サルゴン二世は軍隊に鉄製武器を装備させた。アッシリアは「鉄血」の教義を説いた最初の大国となった。サルゴンの子センナケリブは軍を率いてエジプト国境まで進んだが、軍事力ではなく疫病に敗れた。センナケリブの孫アッシュルバニパル――ギリシア名サルダナパロスでも知られる――は、紀元前六七〇年に実際にエジプトを征服した。しかし当時のエジプトは、すでにエチオピア王朝の支配を受ける被征服国だった。サルダナパロスは征服者を別の征服者に置き換えたにすぎない。

スフィンクス参道 ナイル川からカルナック大神殿へ通じる

写真:D・マクリーシュ

この十世紀に及ぶ長い時代について政治地図を連続して並べれば、顕微鏡下のアメーバのように膨張と収縮を繰り返すエジプトが見えるだろう。またバビロニア人、アッシリア人、ヒッタイト人、シリア人の諸国家が興亡し、互いを呑み込んでは吐き出す様子も見えるはずだ。小アジア西部には、サルディスを首都とするリュディアやカリアなど、エーゲ海系の小国家があった。しかし紀元前一二〇〇年ごろ、おそらくはそれ以前から、古代世界の地図には北東と北西から新たな一群の名が現れる。鉄製武器で武装し、馬に引かせる戦車を使い、北方国境のエーゲ海文明とセム系文明に大きな苦難をもたらしつつあった未開部族の名である。彼らはすべて、かつては一つだったに違いない言語、アーリア語の変種を話していた。

カルナック大神殿の大列柱室

写真:D・マクリーシュ

黒海とカスピ海の北東周辺からは、メディア人とペルシア人が押し寄せていた。当時の記録ではスキタイ人やサルマタイ人も入り混じっている。北東または北西からはアルメニア人が、海という障壁の北西からバルカン半島を通って、キンメリア人、フリュギア人、そして今日ギリシア人と呼ばれるヘレネス諸部族がやって来た。東でも西でも、これらアーリア人は都市を襲い、奪い、略奪する者たちだった。すべて互いに近縁で似通った民族であり、略奪に乗り出した頑健な牧人だった。東方ではなお国境の民、襲撃者にすぎなかったが、西方では都市を奪い、文明化されたエーゲ海系住民を追い出していた。圧迫されたエーゲ海諸民族は、アーリア人の勢力圏外に新天地を求めた。一部はナイル・デルタへの定住を試みてエジプト人に撃退された。エトルリア人の一部は、小アジアから船出し、中部イタリアの森林原野に国家を築いたらしい。また一部は地中海南東岸に都市を築き、後に歴史上フィリスティア人として知られる民族となった。

こうして古代文明の舞台へ荒々しく登場したアーリア人については、後の節でさらに詳しく述べる。ここではただ、紀元前一六〇〇年から六〇〇年にかけて、北方の森林と原野からアーリア系未開人が徐々に、絶え間なく進出し、その渦が古代文明圏全域に引き起こした動乱と移住を記しておく。

後の節では、フェニキア人とフィリスティア人の海岸地帯の背後にある丘陵地に住み、この時代の末期ごろから世界的な重要性を帯び始めたセム系の小民族、ヘブライ人についても語らなければならない。彼らは後世の歴史にきわめて大きな意味をもつ文献群を生み出した。歴史書、詩篇、知恵の書、預言書などからなるヘブライ語聖書である。

メソポタミアとエジプトでは、アーリア人の到来が根本的変化を引き起こすのは紀元前六〇〇年以後だった。ギリシア人に追われたエーゲ海諸民族の逃亡も、クノッソスの滅亡さえも、エジプトとバビロンの市民には、はるか遠方の騒乱としか思えなかっただろう。文明の揺籃である両国家では王朝が興亡したが、人間生活の基調は変わらず、時代ごとにゆっくり洗練され、複雑化していった。エジプトでは、さらに古い時代から蓄積された記念建造物――ピラミッドはすでに建造から三千年目を迎え、今日と同じく訪問者の見世物となっていた――に、新しく壮麗な建築物が加えられた。とりわけ第十八王朝と第十九王朝の時代が顕著である。カルナックとルクソールの大神殿はこの時代に属する。ニネヴェの主要な記念物、大神殿、人頭有翼牡牛像、王や戦車や獅子狩りを描いた浮彫は、すべて紀元前一六〇〇年から六〇〇年の間に作られた。バビロンの壮麗な建造物の大半もこの時代に属する。

豪華な食物を運ぶエジプト人女性奴隷を描いたフリーズ

写真:ジャック・ボワイエ

メソポタミアとエジプトの双方から、公文書、商業帳簿、物語、詩、私信が大量に残されている。バビロンやエジプトのテーベのような都市で暮らす富裕で有力な人々の生活が、すでに今日の裕福で安楽な人々の生活とほぼ同じほど洗練され、贅沢だったことが分かる。彼らは美しく、見事な家具や装飾を備えた家で、秩序と儀礼に満ちた生活を送った。華麗な衣服と美しい宝飾品を身につけ、宴会や祭典を開き、音楽や踊りで互いをもてなし、よく訓練された召使いにかしずかれ、医師や歯科医の治療を受けた。遠くまで旅することは少なかったが、ナイル川でもユーフラテス川でも、舟遊びは夏の一般的な楽しみだった。荷役獣は驢馬であり、馬はなお戦争や国家儀礼の戦車にしか使われなかった。騾馬はまだ珍しく、ラクダはメソポタミアでは知られていたが、エジプトには導入されていなかった。鉄製器具は少なく、銅と青銅が依然として主要金属だった。羊毛のほか、上質な亜麻布と木綿布も知られていた。しかし絹はまだなかった。ガラスは知られ、美しく彩色されていたが、ガラス製品はたいてい小さかった。透明なガラスはなく、光学用途にも使われなかった。人々は歯に金の詰め物をしていたが、鼻に眼鏡を掛けることはなかった。

古代テーベやバビロンの生活と現代生活との奇妙な違いの一つは、鋳造貨幣がなかったことだ。交易の大半は依然として物々交換だった。金融面では、バビロンはエジプトよりはるかに進んでいた。金銀が交換に用いられ、延べ棒として保管された。貨幣鋳造以前にも銀行家がおり、貴金属の塊に自分の名と重量を刻印した。商人や旅行者は、必要経費を賄うため売却できる宝石を携帯した。召使いや労働者の大半は奴隷であり、貨幣ではなく現物で報酬を受けた。貨幣が普及するにつれて奴隷制は衰退した。

これら古代世界の頂点をなす都市を現代人が訪れたなら、食卓に二つのきわめて重要なものが欠けていることに気づいただろう。鶏と卵がなかったのである。フランス料理人がバビロンで喜びを見いだすことはほとんどなかっただろう。これらは最後のアッシリア帝国の時代ごろ、東方からもたらされた。

宗教も他のあらゆるものと同じく、大いに洗練されていた。たとえば人身供犠はとうに姿を消し、犠牲者の代わりに動物やパン製の人形が用いられた。(ただしフェニキア人、とりわけアフリカ最大の植民市カルタゴの市民は、後世になって人間を生贄にしたと非難された。)古代には大首長が死ぬと、その妻や奴隷を生贄にし、霊界へ従者も武器もなく赴くことがないよう、墓前で槍や弓を折る習慣があった。エジプトではこの暗い伝統が、家、店、召使い、家畜の小模型を死者とともに埋葬する穏やかな習慣として残った。これらの模型によって、三千年以上前の古代人が送った安全で洗練された生活を、今日の私たちは生き生きと思い描ける。

エドフのホルス神殿

これが、北方の森林と平原からアーリア人が到来する以前の古代世界だった。インドと中国でも並行した発展が進んでいた。両地域の大河流域では、褐色系民族の農耕都市国家が成長していた。ただしインドでは、メソポタミアやエジプトの都市国家ほど急速に進歩、統合しなかったようである。その発展段階は古代シュメール人やアメリカのマヤ文明に近かった。中国史は今なお、中国人学者によって現代的に再検討され、多くの伝説的要素を取り除かれる必要がある。おそらく当時の中国はインドより進んでいた。エジプト第十八王朝と同時代の中国には、殷王朝という皇帝の王朝があり、祭司でもある皇帝が、従属する諸王からなる緩やかな帝国を治めていた。初期皇帝の主要な務めは、季節ごとの供犠を執り行うことだった。殷代の美しい青銅器が今も残っており、その美しさと技量から見て、製造に先立って何世紀にも及ぶ文明の発達があったと認めざるを得ない。

第十九章 原始アーリア人

四千年前、すなわち紀元前二〇〇〇年ごろ、中央・南東ヨーロッパと中央アジアは、現在より温暖で湿潤し、森林も豊かだったと考えられる。この地域には、主として色白で青い目をもつ北方系の諸部族が放浪していた。彼らは互いに十分な接触を保っていたため、ライン川からカスピ海まで、一つの共通語の変種にすぎない言葉を話していた。当時はまだ人口もさほど多くなかったのだろう。ハンムラビから法を授けられていたバビロニア人も、すでに古く洗練され、このころ初めて異民族征服の苦痛を味わっていたエジプト人も、その存在を知らなかった。

この北方系民族は、世界史で非常に重要な役割を果たす運命にあった。疎林地帯と森林の空き地に住む人々で、初め馬はいなかったが牛を飼っていた。移動時には、天幕などの荷物を粗末な牛車に積んだ。一時的に定住するときは、編んだ枝に泥を塗った小屋を建てたのだろう。重要人物の遺体は火葬した。褐色系民族のように、儀礼を尽くして埋葬することはなかった。偉大な指導者の遺灰を壺に納め、その周囲に巨大な円形墳丘を築いた。北ヨーロッパ全域で見られる「円形墳」である。先住の褐色系民族は死者を焼かず、座った姿勢で細長い墳丘、「長形墳」に埋葬した。

アーリア人は牛に犂を引かせて小麦を栽培したが、畑のそばに定住することはなく、収穫すると移動した。青銅をもち、紀元前一五〇〇年ごろには鉄を手に入れた。鉄製錬の発見者だった可能性もある。また、おおよそ同じころに馬も得たが、初めは牽引用にしか使わなかった。その社会生活は、地中海周辺の定住民のように神殿を中心とせず、主要人物は祭司というより指導者だった。神権的・王権的秩序ではなく貴族的な社会秩序をもち、非常に早い段階から、指導者にふさわしい高貴な家系を特別視していた。

美しいアルカイック期のアンフォラ 馬や他の動物を五四ページのアルタミラ洞窟壁画、および一四〇ページのギリシアのフリーズと比較されたい

彼らは非常に雄弁な民族だった。旅の生活を宴会で活気づけ、そこで大いに酒を飲み、吟遊詩人という特別な者が歌い、物語を朗誦した。文明と接触するまで文字をもたず、吟遊詩人の記憶こそ生きた文学だった。娯楽として言葉を朗誦する習慣は、言語を精妙で美しい表現手段へ磨き上げるのに大きく寄与した。アーリア系諸語が後世に優勢となった理由の一端も、疑いなくそこにある。アーリア系の各民族は、吟遊詩人の朗誦によって結晶化された伝説的歴史をもっていた。それらは民族によって叙事詩、サガ、ヴェーダなどと呼ばれた。

彼らの社会生活は、指導者の家を中心に営まれた。一時的に定住した場所に建てられる首長の広間は、しばしば非常に広い木造建築だった。家畜番の小屋や離れた農業施設もあったに違いないが、大半のアーリア系民族にとって、この広間が共同生活の中心だった。誰もがそこへ来て宴を張り、吟遊詩人に耳を傾け、競技や議論に参加した。周囲には牛小屋と厩舎があった。首長とその妻などは高壇や上階の回廊で眠り、庶民は今もインドの家で見られるように、適当な場所で眠った。武器、装身具、道具などの個人的所有物を除けば、部族には一種の家父長的共産制があった。首長は共同体全体の利益のために家畜と放牧地を所有し、森林と河川は誰にも属さない野生の領域だった。

メソポタミアとナイルの大文明が成長していた時代、中央ヨーロッパと西中央アジアの広大な空間で増殖し、紀元前第二千年紀には至るところでヘリオリシック系民族へ圧力をかけていたのが、このような人々だった。彼らはフランス、ブリテン島、スペインへ進出した。西進は二つの波に分かれていた。最初にブリテン島とアイルランドへ達した人々は青銅製武器で武装していた。彼らは、ブルターニュのカルナック、イングランドのストーンヘンジやエーヴベリーに巨大石造記念物を築いた人々を絶滅させるか、服属させた。さらにアイルランドへ達した。彼らはゴイデル系ケルト人と呼ばれる。近縁の人々による第二波は、おそらく別の人種要素を混じえ、鉄をグレートブリテン島へ持ち込んだ。これはブリトン系ケルト人の波として知られる。ウェールズ人の言語は彼らに由来する。

ニップルの遺丘 近年の発掘によって、少なくとも紀元前五〇〇〇年、おそらくはさらに千年前まで遡ることが判明した都市の跡

写真:アンダーウッド&アンダーウッド

近縁のケルト系諸民族は南下してスペインへ入り、なお同地を占めていたヘリオリシック系のバスク人だけでなく、海岸のセム系フェニキア植民市とも接触した。近縁の諸部族であるイタリック人は、なお荒涼とし、森林に覆われていたイタリア半島を南下していた。彼らが常に征服に成功したわけではない。紀元前八世紀、ローマはティベリス川沿いの交易都市として歴史に現れる。住民はアーリア系ラテン人だったが、エトルリア人の貴族と王の支配下にあった。

アーリア人の分布域の反対側でも、同様の部族が同様に南進していた。サンスクリット語を話すアーリア系民族は、紀元前一〇〇〇年よりはるか以前に、西方の峠を越えて北インドへ下っていた。そこで原初的な褐色系文明、ドラヴィダ文明と接触し、多くを学んだ。他のアーリア系部族は、中央アジアの山地を越え、今日この系統の人々が住む地域よりはるか東まで広がったらしい。東トルキスタンには今も、色白で青い目をもつ北方系部族がいるが、現在ではモンゴル系言語を話す。

黒海とカスピ海の間では、紀元前一〇〇〇年以前に古代ヒッタイト人がアルメニア人によって包摂され、「アーリア化」していた。アッシリア人とバビロニア人も、北東国境に新しく恐るべき好戦的な未開人集団が現れたことを、すでに認識していた。その中で特に目立つ名が、スキタイ人、メディア人、ペルシア人である。

だが、アーリア系部族が旧世界文明の中心部へ最初の強烈な一撃を加えたのは、バルカン半島を通じてだった。紀元前一〇〇〇年の何世紀も前から、彼らは南下し、小アジアへ渡っていた。まずフリュギア人を筆頭とする一群の部族が来て、次いでアイオリス人、イオニア人、ドーリア人のギリシア諸族が相次いだ。紀元前一〇〇〇年までに、彼らはギリシア本土とギリシア諸島の大半で古代エーゲ文明を消滅させた。ミケーネとティリンスの都市は抹消され、クノッソスもほとんど忘れ去られた。ギリシア人は紀元前一〇〇〇年以前に海へ進出し、クレタ島とロドス島に定住した。そして地中海沿岸に点在するフェニキア人の交易都市にならい、シチリアと南イタリアに植民市を建設していた。

こうしてティグラト・ピレセル三世、サルゴン二世、サルダナパロスがアッシリアを統治し、バビロニア、シリア、エジプトと戦っていたころ、アーリア系諸民族は文明の方法を学び、イタリア、ギリシア、北ペルシアで自らの目的に合わせて作り変えていた。紀元前九世紀以後の六世紀間を貫く歴史の主題は、これらアーリア系民族がいかに力と進取の精神を増し、ついにはセム系、エーゲ海系、エジプト系を問わず、古代世界全体を服属させたかという物語である。外形上、アーリア系民族は完全な勝利を収めた。しかしアーリア系、セム系、エジプト系の思想と方法の争いは、支配権がアーリア人の手に渡った後も長く続いた。実際、その争いは後の歴史全体を通じて続き、形を変えながら今日までなお継続している。

第二十章 最後のバビロニア帝国とダレイオス一世の帝国

すでに述べたように、アッシリアはティグラト・ピレセル三世と簒奪者サルゴン二世の下で軍事大国となった。サルゴンという名は本名ではない。二千年前にアッカド帝国を建てた古代のサルゴン一世を思い起こさせ、征服されたバビロニア人に取り入るため、この名を採用したのである。バビロンは征服都市とはいえ、人口と重要性ではニネヴェを上回っていた。大神ベル・マルドゥク、その商人と祭司には礼を尽くさなければならなかった。紀元前八世紀のメソポタミアは、都市の占領が即座に略奪と虐殺を意味した未開な時代を、すでにはるかに越えていた。征服者は被征服民を宥め、味方につけようとした。サルゴン以後一世紀半にわたり、新アッシリア帝国は存続し、先に述べたようにアッシュルバニパル、すなわちサルダナパロスは少なくとも下エジプトを支配した。

しかしアッシリアの力と結束は急速に衰えた。エジプトはプサメティコス一世の下で努力して異民族を追い払い、ネコ二世の下でシリア征服戦争を試みた。そのころアッシリアは、もっと身近な敵との戦いに苦しみ、わずかな抵抗しかできなかった。メソポタミア南東部のセム系民族カルデア人は、北東のアーリア系メディア人、ペルシア人と連合してニネヴェに対抗し、紀元前六〇六年――ここから年代は正確になってくる――同市を占領した。

アッシリアの領土は分割された。北方にはキュアクサレスの下でメディア帝国が建てられた。ニネヴェを含み、首都はエクバタナに置かれ、東はインド国境まで達した。その南には大きな三日月形をなす新カルデア帝国、すなわち新バビロニア帝国が成立し、ネブカドネザル大王――聖書のネブカドネザル――の治世下で、莫大な富と権力を手にした。バビロン最後の偉大な日々、そしてその歴史上最も偉大な日々が始まった。しばらく両帝国は平和を保ち、ネブカドネザルの娘はキュアクサレスと結婚した。

一方、ネコ二世はシリアで容易な征服を続けていた。紀元前六〇八年のメギドの戦いでは、後に詳しく述べる小国ユダの王ヨシヤを破って殺し、ユーフラテス川まで進んだ。だがそこで遭遇したのは、衰退するアッシリアではなく、復興したバビロニアだった。カルデア人はエジプト軍を激しく打ち破った。ネコは敗走してエジプトへ退き、バビロニア国境は古代エジプトの境界まで南下した。

紀元前六〇六年から五三九年まで、新バビロニア帝国は不安定ながら繁栄した。その繁栄は、北方のより強大で頑健なメディア帝国との平和を維持できる間だけ続いた。そしてこの六十七年間、古都では生活だけでなく学問も栄えた。

アッシリア王の支配下でも、とりわけサルダナパロスの時代、バビロンは旺盛な知的活動の舞台だった。サルダナパロスはアッシリア人だったが、完全にバビロニア化していた。彼は図書館を作った。紙の書物ではなく、初期シュメール時代以来メソポタミアで筆記に使われてきた粘土板の図書館である。その収集品は発掘され、おそらく世界で最も貴重な歴史資料の宝庫となっている。カルデア系バビロン王朝最後の王ナボニドゥスは、さらに熱烈な文学趣味をもっていた。古代研究を奨励し、調査者がサルゴン一世の即位年代を算出すると、その事実を碑文に記して顕彰した。しかし帝国内には分裂の兆候が多く、ナボニドゥスは各地の地方神をバビロンへ集め、神殿を建てることで中央集権化を図った。この方策は後世のローマ人にはかなりの成功をもたらすが、バビロンでは、同国の支配神ベル・マルドゥクに仕える強力な祭司階級の嫉妬を招いた。祭司たちはナボニドゥスに代わり得る人物を探し、隣接するメディア帝国の支配者、ペルシア人キュロスを見いだした。キュロスはすでに、小アジア東部の富裕なリュディア王クロイソスを征服して名を上げていた。キュロスがバビロンへ迫り、城壁外で戦いが起きると、市門は彼のために開かれた。紀元前五三八年のことである。兵士たちは戦闘なしに市内へ入った。聖書によれば、ナボニドゥスの子で王太子のベルシャザルが宴会を開いていると、手が現れ、壁に炎の文字で「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」という謎めいた言葉を書いた。謎を読むため召し出された預言者ダニエルは、これを「神は汝の治世を数えて終わらせた。汝は天秤で量られ、足りないとされた。汝の王国はメディア人とペルシア人に与えられる」と解釈した。

ベル・マルドゥクの祭司たちは、その壁の文字について何か知っていたのかもしれない。聖書によれば、ベルシャザルはその夜に殺された。ナボニドゥスは捕虜となり、市の占領はきわめて平穏だったため、ベル・マルドゥクへの祭儀は一度も中断されなかった。

ペルシアの君主 ペルセポリス遺跡より

写真:F・ビッグズ嬢

こうしてバビロニア帝国とメディア帝国は統一された。キュロスの子カンビュセスはエジプトを服属させた。カンビュセスは狂気に陥り、事故で死んだ。その後まもなく、メディア人ダレイオス、すなわちダレイオス一世が後を継いだ。キュロスの重臣の一人ヒュスタスペスの子である。

ペルセポリス遺跡 ペルシア帝国の首都。アレクサンドロス大王によって焼かれた

写真:W・F・P・ロッド少佐

ペルセポリスのクセルクセス大門

写真:W・F・P・ロッド少佐

古代文明の中心地に成立した最初の新アーリア系帝国、ダレイオス一世のペルシア帝国は、それまで世界が見た最大の帝国だった。小アジアとシリアの全域、旧アッシリア・バビロニア両帝国、エジプト、コーカサスとカスピ海地方、メディア、ペルシアを含み、インドではインダス川まで達した。このような帝国が可能になったのは、馬、騎手、戦車、整備された道路が世に現れていたからである。それまでは驢馬、牛、そして砂漠で使われるラクダが最速の交通手段だった。ペルシアの支配者たちは新帝国を維持するため幹線道路を建設し、皇帝の使者や公的通行証をもつ旅行者のため、常に駅馬を待機させた。さらに世界では鋳造貨幣が使われ始め、交易と交流が大いに促進された。しかし、この巨大帝国の首都はもはやバビロンではなかった。長い目で見れば、ベル・マルドゥクの祭司階級は裏切りによって何も得なかった。バビロンはなお重要だったが、今や衰退都市となり、新帝国の大都市はペルセポリス、スサ、エクバタナだった。首都はスサである。ニネヴェはすでに放棄され、廃墟となりつつあった。

第二十一章 ユダヤ人の初期史

ここでヘブライ人について語ろう。彼らはセム系民族であり、同時代における重要性よりも、後世の世界史に与えた影響のほうが大きい。紀元前一〇〇〇年よりはるか以前からユダヤに定住し、それ以後はエルサレムを首都とした。その物語は、南のエジプト、北のシリア、アッシリア、バビロンといった興亡する大帝国の歴史と絡み合っている。彼らの国は、北方諸国とエジプトを結ぶ必然的な幹線路だった。

彼らが世界で重要なのは、文書化された文学を生み出したからである。世界史、法典、年代記、詩篇、知恵の書、詩、物語、政治的言説の集成であり、やがてキリスト教徒が旧約聖書と呼ぶもの、すなわちヘブライ語聖書となった。この文献群が歴史上に姿を現すのは紀元前四世紀または五世紀である。

この文献群が最初に編纂されたのは、おそらくバビロンだった。すでに述べたように、ファラオのネコ二世は、アッシリアがメディア人、ペルシア人、カルデア人を相手に存亡を懸けて戦っている間に、アッシリア帝国へ侵入した。ユダ王ヨシヤはこれに抵抗し、メギドで敗れて殺された。紀元前六〇八年である。ユダはエジプトの朝貢国となった。その後、バビロンの新しいカルデア王ネブカドネザル大王がネコをエジプトへ押し戻すと、傀儡王をエルサレムに立ててユダを統治しようとした。この試みは失敗し、民衆はバビロニア人官吏を虐殺した。そこでネブカドネザルは、長年エジプトと北方帝国を天秤にかけてきたこの小国を、完全に解体しようと決意した。エルサレムは略奪され、焼かれ、残った住民は捕虜としてバビロンへ連行された。

彼らはキュロスがバビロンを占領する紀元前五三八年まで、そこに留まった。キュロスは彼らを集めて故国へ送り返し、再定住させ、エルサレムの城壁と神殿を再建させた。

それ以前のユダヤ人は、さほど文明化も統一もされていなかったらしい。読み書きのできる者は、おそらくごく少数だった。彼ら自身の歴史を見ても、初期の聖書諸書が朗読されたという話はない。書物が初めて言及されるのはヨシヤの時代である。バビロン捕囚は彼らを文明化し、一つに結束させた。帰還した彼らは自らの文献を自覚し、鋭い民族意識と政治意識をもつ民となっていた。

当時の聖書は、モーセ五書、すなわち現在知られている旧約聖書の最初の五書だけで構成されていたらしい。これに加え、後にモーセ五書とともに現在のヘブライ語聖書へ組み込まれた書物の多く、たとえば歴代誌、詩篇、箴言などを、すでに独立した書物としてもっていた。

聖書冒頭の天地創造、アダムとエバ、大洪水の物語は、類似するバビロニア伝説と密接に対応している。これらは全セム系民族に共有された信仰の一部だったらしい。モーセとサムソンの物語にも、シュメールやバビロニアに類例がある。しかしアブラハムの物語以降、ユダヤ民族にいっそう固有なものが始まる。

アブラハムは、バビロンのハンムラビの時代ほど古い時期に生きていた可能性がある。家父長制下のセム系遊牧民だった。その放浪と、息子や孫たちの物語、そして彼らがいかにエジプトの地で捕らわれの民となったかについては、創世記を読んでもらわなければならない。アブラハムはカナンを旅し、聖書によれば、アブラハムの神は、繁栄する都市が連なるこの美しい土地を、彼とその子孫に与えると約束した。

エジプトで長く過ごし、モーセの指導下で荒野を五十年間さまよった後、十二部族の大集団に成長したアブラハムの子孫は、東方のアラビア砂漠からカナンへ侵入した。それは紀元前一六〇〇年から一三〇〇年の間のどこかだったかもしれない。当時のモーセやカナンについて、物語を補うエジプト側の記録は存在しない。いずれにせよ彼らが征服できたのは、約束の地の丘陵後背地にすぎなかった。海岸はもはやカナン人ではなく、新来のエーゲ海系民族フィリスティア人の手にあり、ガザ、ガト、アシュドド、アシュケロン、ヤッファの諸都市はヘブライ人の攻撃に耐えた。何世代にもわたり、アブラハムの子孫は丘陵の奥地に住む無名の民にとどまり、フィリスティア人や、モアブ人、ミディアン人など周辺の近縁部族と絶えず小競り合いを続けた。この時代の戦いと災難の記録は士師記に見いだせる。その大部分は、率直に語られた災厄と失敗の記録である。

この時代の大半、ヘブライ人に統治と呼べるものがあった限りでは、民の長老が選んだ祭司的な士師によって治められていた。しかし紀元前一〇〇〇年に近いころ、彼らは戦争を指揮する王としてサウルを選んだ。だがサウルの指導は士師の指導から大して改善されていなかった。ギルボア山の戦いでフィリスティア人の矢の雨を浴びて倒れ、その鎧はフィリスティア人の女神ウェヌスの神殿へ運ばれ、遺体はベト・シャンの城壁に釘づけにされた。

バビロンの遺丘 その下にはネブカドネザルの大宮殿跡が眠る

写真:アンダーウッド&アンダーウッド

後継者ダビデは、より有能で政治にも長けていた。ダビデとともに、ヘブライ人が経験する唯一の繁栄期が始まった。その基礎はフェニキア都市ティルスとの緊密な同盟だった。ティルス王ヒラムは、非常に知的で進取の気性に富む人物だったらしい。ヒラムはヘブライ人の丘陵地を通り、紅海へ至る交易路を確保しようとした。通常、フェニキアの交易はエジプト経由で紅海へ達したが、当時のエジプトは深刻な混乱状態にあった。この経路には他にもフェニキア交易を妨げる障害があったのかもしれない。いずれにせよヒラムは、ダビデと、その子で後継者のソロモンの双方と、きわめて緊密な関係を結んだ。ヒラムの援助でエルサレムの城壁、宮殿、神殿が建てられ、その見返りとしてヒラムは紅海で船を建造し、進水させた。相当量の交易品がエルサレムを通って南北へ運ばれた。ソロモンは、民がかつて経験したことのない繁栄と壮麗さを実現した。ファラオの娘まで妻として与えられた。

しかし物事の規模を見誤ってはならない。栄華の絶頂にあっても、ソロモンは小都市を治める小さな従属王にすぎなかった。その権力は非常にはかなく、死後数年もたたぬうちに、エジプト第二十二王朝最初のファラオ、シシャクがエルサレムを占領し、その壮麗な財宝の大半を略奪した。列王記と歴代誌に記されたソロモンの栄華を疑う批評家は多い。後世の著者が愛国的誇りから加筆、誇張したというのである。だが聖書の記述を注意深く読めば、初読時ほど圧倒的なものではない。寸法を計算すると、ソロモンの神殿は郊外の小教会に収まるほどである。また戦車一四〇〇台も、後継者アハブがアッシリア軍へ二〇〇〇台を派遣したとアッシリアの記念碑に記されていることを知れば、感銘は薄れる。さらに聖書の記述からは、ソロモンが虚飾のために国力を使い果たし、民に過重な税と労役を課したことが明白である。死後、王国北部はエルサレムから離反し、独立したイスラエル王国となった。エルサレムはユダ王国の首都として残った。

バビロンのイシュタル門 牡牛像は焼成煉瓦に鮮やかな色の釉薬で描かれている

写真:アンダーウッド&アンダーウッド

ヘブライ人の繁栄は短命だった。ヒラムが死ぬと、ティルスの援助もエルサレムを支えなくなった。エジプトは再び強大になった。イスラエル王とユダ王の歴史は、北方のシリア、次いでアッシリア、さらにバビロンと、南方のエジプトとの間で、二つの小国がすり潰される歴史となる。災厄と、ただ災厄を先延ばしにする救済の物語である。未開な民を未開な王が治める物語でもある。紀元前七二一年、イスラエル王国はアッシリア人に滅ぼされ、民は捕囚となって歴史から完全に姿を消した。ユダは抵抗を続けたが、すでに述べたように、紀元前六〇四年にイスラエルと同じ運命をたどった。士師の時代以後のヘブライ史を語る聖書には、批判の余地がある細部もあろう。しかし全体としては明らかに真実の物語であり、過去一世紀にエジプト、アッシリア、バビロンの発掘で判明した事実すべてと符合する。

ヘブライ人が自らの歴史をまとめ、伝統を形成したのはバビロンだった。キュロスの命令でエルサレムへ帰還した民は、捕囚となった者たちとは精神においても知識においても大きく異なっていた。文明を学んでいたのである。彼ら独特の性格を形成するうえで、ある種の人々、新しい型の人々である預言者が非常に大きな役割を果たした。ここで彼らに目を向けなければならない。預言者の登場は、人間社会の着実な発展に、新しく注目すべき力が現れたことを示している。

第二十二章 ユダヤの祭司と預言者

アッシリアとバビロンの滅亡は、セム系諸民族に降りかかる一連の災厄の始まりにすぎなかった。紀元前七世紀には、文明世界全体がセム系支配者に統治されるかに見えただろう。彼らは大アッシリア帝国を支配し、エジプトを征服していた。アッシリア、バビロン、シリアはいずれもセム系で、互いに通じる言語を話した。世界の交易もセム人の手にあった。フェニキア沿岸の偉大な母都市ティルスとシドンは植民市を生み出し、それらはスペイン、シチリア、アフリカで、ついには母都市を上回る規模へ成長した。紀元前八〇〇年以前に建設されたカルタゴは、人口一〇〇万を超えるまでになった。一時は地上最大の都市だった。その船はブリテン島へ赴き、大西洋へも乗り出した。マデイラ諸島に達した可能性もある。ヒラムがソロモンと協力し、アラビア、さらにはインドとの交易のため、紅海で船を建造したことはすでに述べた。ファラオのネコの時代には、フェニキア人の遠征隊がアフリカを完全に一周した。

当時、アーリア系諸民族はまだ未開人だった。ギリシア人だけが、自ら破壊した文明の廃墟から新たな文明を再建し、中央アジアではメディア人が、あるアッシリア碑文の表現を借りれば「侮りがたい」存在になりつつあった。紀元前八〇〇年の時点で、紀元前三世紀までにセム系支配の痕跡がアーリア語を話す征服者によって一掃され、あらゆる土地でセム系民族が臣民、朝貢民となり、あるいは完全に離散するなどと予言できた者はいなかっただろう。例外はアラビア北部の砂漠である。そこではベドウィンが、サルゴン一世とアッカド人がシュメール征服へ南下する以前から続く、セム人古来の遊牧生活を堅持した。アラブのベドウィンがアーリア系支配者に征服されることはなかった。

この波乱に満ちた五世紀間に敗北し、蹂躙された文明化セム人の中で、ただ一つ結束を保ち、古来の伝統にしがみついた民族がいた。ペルシア人キュロスによって、エルサレム再建のため送り返された小民族、ユダヤ人である。彼らがそれを成し得たのは、バビロンで自らの文献、すなわち聖書を編纂していたからだった。ユダヤ人が聖書を作ったというより、聖書がユダヤ人を作ったのである。この聖書を貫いていたのは、周辺民族の思想とは異なる、きわめて刺激的で心の支えとなる思想だった。ユダヤ人は苦難、冒険、圧迫に満ちた二十五世紀を通じて、それに固執することになる。

ユダヤ思想の筆頭は、彼らの神が目に見えず、遠く離れた存在だという観念だった。人の手で造られたのではない神殿に住む、目に見えぬ神、全地を統べる正義の主である。他の民族はすべて、神殿に住む像として具現化された民族神をもっていた。像が砕かれ、神殿が破壊されれば、やがてその神も消滅した。しかし天上にあり、祭司や供犠より高みにあるユダヤ人の神は、新しい観念だった。そしてユダヤ人は、アブラハムの神が彼らを特別な民として選び、エルサレムを再興して世界の正義の都とさせようとしていると信じた。共通の運命を自覚することで高揚した民族だった。バビロン捕囚後にエルサレムへ戻ったとき、彼ら全員がこの信仰に浸されていた。

敗北と服属の日々に、バビロニア人、シリア人、さらに後にはフェニキア人の多くが、この心を鼓舞する信仰に引かれ、その共同体と約束に加わろうとしたとしても、何の不思議があろうか。彼らは事実上同じ言語を話し、無数の風俗、習慣、嗜好、伝統を共有していた。ティルス、シドン、カルタゴ、スペインのフェニキア都市が滅びると、フェニキア人は突如として歴史から消える。そして同じく突如、エルサレムだけでなく、スペイン、アフリカ、エジプト、アラビア、東方など、フェニキア人が足跡を残したあらゆる場所にユダヤ人共同体が現れる。彼らを結びつけたのは聖書と、その朗読だった。エルサレムは初めから名目上の首都にすぎず、真の都市はこの「書物の中の書物」だった。これは歴史上、新しい種類の現象である。その種は、シュメール人とエジプト人がヒエログリフを文字へ変え始めたはるか昔に播かれていた。ユダヤ人は新しい存在だった。王をもたず、やがて神殿すら失い――後に述べるように、エルサレムそのものが紀元七〇年に破壊される――ただ書かれた言葉の力だけで、異質な諸要素を一つにまとめ、結束させた民族である。

このユダヤ人の精神的結合は、祭司にも政治家にも計画されず、予見されず、実行されたものでもなかった。ユダヤ人の発展とともに、歴史には新しい種類の共同体だけでなく、新しい種類の人間が登場する。ソロモンの時代、ヘブライ人は宮廷と神殿の周囲に集まり、祭司の知恵に治められ、王の野心に導かれる、当時の他の小民族と変わらない民になりそうだった。しかし聖書を読めば分かるように、すでにそこには、いま述べている新しい型の人間、預言者が現れていた。

分裂したヘブライ人の周囲に困難が重なるにつれ、預言者の重要性は増していく。

シャルマネセル二世の黒色オベリスク 大英博物館所蔵。このアッシリア王のオベリスクには、楔形文字で「オムリの子イエフ」と記されている

貢納品を運ぶユダヤ人捕虜を描いた図

預言者とは何者だったのか。その出自は実に多様だった。預言者エゼキエルは祭司階級に属し、預言者アモスは羊飼いの山羊皮の外套をまとっていた。しかし全員に共通していたのは、正義の神以外の何者にも忠誠を誓わず、民衆へ直接語りかけたことである。許可も聖別も受けずに現れた。「主の言葉が私に臨んだ」――これが彼らの決まり文句だった。きわめて政治的でもあった。「折れた葦」であるエジプトに頼るな、あるいはアッシリアやバビロンに頼るなと民衆に説いた。祭司階級の怠惰や、王の甚だしい罪を糾弾した。今日なら「社会改革」と呼ぶ問題に目を向ける者もいた。

富者は「貧者の顔をすり潰し」、贅沢を貪る者は子供たちのパンを奪っていた。富裕者は異邦人と親交を結び、その華美と悪徳をまねていた。それはアブラハムの神ヤハウェの憎むところであり、神は必ずこの国を罰するだろう、と。

黒色オベリスクの別の図 シャルマネセル二世に平伏する捕虜の諸侯

これらの激烈な言葉は書き留められ、保存され、研究された。ユダヤ人が赴くところ、どこへでも運ばれ、新しい宗教精神を広めた。預言者は庶民を、祭司と神殿、宮廷と王の向こうへ導き、正義の法則と直接向き合わせた。これこそ人類史における彼らの最大の重要性である。イザヤの偉大な言葉において、預言者の声は壮麗な予見の高みに達し、全世界が一人の神の下で統一され、平和になる未来を指し示す。そこにユダヤの預言は頂点を迎える。

すべての預言者がこのように語ったわけではない。預言書を注意深く読む者は、そこに多くの憎悪、偏見、そして現代の宣伝パンフレットを思わせるものを見いだすだろう。それでも、バビロン捕囚前後のヘブライ人預言者は、新しい力が世界に現れたことを示している。個人による道徳的訴えの力、それまで人類を抑えつけ、つなぎ止めてきた呪物的な供犠と奴隷的忠誠に抗し、人類の自由な良心へ訴える力である。

第二十三章 ギリシア人

ソロモンの後――その治世はおそらく紀元前九六〇年ごろ――分裂したイスラエル王国とユダ王国が滅亡と強制移住に苦しみ、ユダヤ人がバビロン捕囚の地で自らの伝統を形成していたころ、人間精神を支配するもう一つの大きな力、ギリシアの伝統も生まれつつあった。ヘブライ人預言者が、民衆と永遠普遍の正義の神との間にある直接的な道徳責任という新しい感覚を作り上げる一方、ギリシアの哲学者たちは、知的冒険の新しい方法と精神によって人間の思考を鍛えていた。

すでに述べたように、ギリシア諸部族はアーリア語系統の一分派だった。紀元前一〇〇〇年の数世紀前、エーゲ海沿岸の都市と島々へ南下していた。おそらくファラオのトトメスが、征服したユーフラテス川の彼方で初めて象狩りをするより前から、南へ移動していた。当時、メソポタミアには象がおり、ギリシアには獅子がいたのである。

クノッソスを焼いたのはギリシア人の襲撃だった可能性もある。しかし、ギリシア伝説にはそのような勝利の話はない。ただしミノスとその宮殿、すなわち迷宮、そしてクレタ人職人の技量にまつわる物語は残っている。

メレアグロス像 左側の古い木像と比べ、造形力の進歩に注目されたい

写真:セバ&フォアイエ

大半のアーリア系民族と同じく、ギリシア人にも歌い手や語り手がいた。その芸は社会を結ぶ重要な絆となり、民族の未開な始まりから二つの大叙事詩を伝えた。ギリシア諸部族の連合軍が小アジアの都市トロイを包囲し、陥落させ、略奪した物語『イリアス』と、知略に富む将オデュッセウスがトロイから故郷の島へ帰る長い冒険物語『オデュッセイア』である。これらの叙事詩が文字に記されたのは、ギリシア人がより文明化された近隣民族からアルファベットを学んだ紀元前八世紀または七世紀のどこかだが、それ以前から長く存在したと考えられている。かつては、盲目の吟遊詩人ホメロスが、ミルトンが『失楽園』を作ったように、一人で腰を据えて作ったものとされた。そのような詩人が実在したのか、叙事詩を創作したのか、それとも書き留め、磨き上げただけなのかといった問題は、学者たちが好んで論争する題材である。ここでそのような争いに関わる必要はない。われわれの観点から重要なのは、紀元前八世紀にギリシア人がすでに叙事詩を共有し、それが諸部族を結ぶ絆となり、外部の未開人に対する同胞意識を与えていたことだ。彼らは、初めは口承、後には書かれた言葉によって結ばれ、勇気と行動について共通の理想をもつ近縁民族の集団だった。

叙事詩に描かれるギリシア人は、鉄も文字も知らず、まだ都市に住まない未開民族だった。初めは、自ら破壊したエーゲ海都市の廃墟の外で、首長の館を囲む開放的な小屋の村に暮らしていたらしい。その後、都市に城壁を築き始め、征服した民から神殿という観念を取り入れた。原始文明の都市は部族神の祭壇を中心に成長し、後から城壁が加えられたと言われる。ギリシア人の都市では、城壁が神殿に先行した。彼らは交易を始め、植民団を送り出した。紀元前七世紀までに、先行するエーゲ海の都市と文明を忘れた新たな都市群が、ギリシアの谷間と島々に成長した。主要都市にはアテナイ、スパルタ、コリントス、テーバイ、サモス、ミレトスがあった。黒海沿岸、イタリア、シチリアにもすでにギリシア人の植民地が存在した。イタリア半島の踵と爪先に当たる地域はマグナ・グラエキア、大ギリシアと呼ばれた。マルセイユも、以前のフェニキア植民市跡に建設されたギリシア都市だった。

大平原からなる国、あるいはユーフラテス川やナイル川のような大河を主要交通路とする国は、一つの共通支配の下で統一されやすい。たとえばエジプトやシュメールの諸都市は、一つの統治体系へまとまった。しかしギリシアの人々は島々と山間の谷に分断されていた。ギリシアもマグナ・グラエキアも山が非常に多いため、傾向は正反対だった。歴史上に登場したとき、ギリシア人は多数の小国家に分かれ、統合の兆しを見せていなかった。人種構成さえ異なっていた。イオニア人、アイオリス人、ドーリア人といった、特定のギリシア部族の市民を中心とする国もあれば、ギリシア人と先住の「地中海」系民族の子孫が混住する国もあった。スパルタの「ヘイロタイ」のように、自由なギリシア市民が征服され奴隷化された住民を支配する国もあった。古くから指導的だったアーリア系家門が閉鎖的貴族階級となった国もあり、アーリア系市民全員による民主政を行う国もあった。選挙王または世襲王を戴く国もあれば、簒奪者すなわち僭主に治められる国もあった。

オリンピアのゼウス大神殿跡

写真:フレッド・ボワソナ

ギリシア諸国を分裂させ、多様なままにした地理的条件は、同時に各国の規模を小さく保った。最大の国家でも、イングランドの多くの州より小さかった。いずれかの都市が人口三十三万を超えたかどうかも疑わしい。五万人に達する都市さえ少なかった。利害や共感に基づく連合はあったが、国家の統合はなかった。交易が増えるにつれて都市は同盟や連盟を結び、小都市は大都市の保護下に入った。それでも全ギリシアは、二つのものによって一定の共同意識を保っていた。叙事詩と、四年ごとにオリンピアの競技会へ参加する慣習である。それでも戦争と対立はなくならなかったが、ギリシア人同士の戦争の残虐さは幾分和らげられた。また休戦によって、大会へ往来するすべての旅人が保護された。時がたつにつれて共通遺産の意識が強まり、オリンピア競技会へ参加する国家の数も増えた。ついにはギリシア人だけでなく、北方の近縁地域エピロスとマケドニアからも競技者が認められた。

ギリシア諸都市は交易と重要性を増し、紀元前七、六世紀には文明の質も着実に向上した。その社会生活は、エーゲ海文明や河川流域文明の社会生活と、多くの興味深い点で異なっていた。壮麗な神殿はあったが、祭司階級は旧世界の都市に見られたような、全知識を保持し、思想を蓄える巨大な伝統的組織ではなかった。指導者や貴族家門はあったが、精巧に組織された宮廷に囲まれる半神的君主はいなかった。むしろ組織は貴族政的で、有力諸家が互いを抑制した。いわゆる「民主政」でさえ貴族政的だった。民主政では市民全員が公務に参与し、民会へ出席したが、誰もが市民だったわけではない。ギリシアの民主政は、全員が投票権をもつ現代の「民主政」とは違う。多くの民主政国家では、市民は数百人ないし数千人にすぎず、そのほかに、公務へ関与できない奴隷、解放奴隷などが何千、何万人もいた。一般にギリシアの国政は、資産をもつ男たちの共同体によって運営された。王も僭主も、他の人々の先頭に立った者、あるいは指導権を奪った者にすぎず、ファラオ、ミノス、メソポタミアの君主のような半神的超人ではなかった。そのためギリシアの条件下では、思想と政治の双方が、古い文明のどこにもなかった自由をもった。ギリシア人は、北方の疎林地帯を放浪していた生活の個人主義と自発性を都市へ持ち込んだ。歴史上最初の重要な共和主義者だったのである。

シチリア、パエストゥムのネプトゥヌス(ポセイドン)神殿

写真:アリナーリ

そして未開な戦争状態から抜け出すにつれ、知的生活に新しいものが現れる。祭司ではない人々が知識を求め、記録し、生命と存在の神秘を探究し始めた。それまでは祭司階級の崇高な特権、あるいは王の不遜な道楽だった方法によってである。紀元前六世紀――おそらくイザヤがなおバビロンで預言していたころ――すでにミレトスのタレスやアナクシマンドロス、エフェソスのヘラクレイトスのような人々がいた。今日なら独立した知識人と呼ばれる彼らは、自分たちの住む世界について鋭く問い、その真の本質は何か、どこから来て、どこへ向かうのかを尋ね、用意された答えや逃げ口上を拒んだ。ギリシア精神によるこうした宇宙への問いについては、この歴史の少し後でさらに述べる。紀元前六世紀に目立ち始めたギリシアの探究者たちは、世界最初の哲学者、最初の「知を愛する者」だった。

ここで、紀元前六世紀が人類史においていかに重要な一世紀だったかに注目しておこう。ギリシアの哲学者が宇宙とその中における人間の位置について明晰な観念を求め始め、イザヤがユダヤの預言を最も崇高な高みへ導いただけではない。後に述べるように、インドではゴータマ・ブッダが教えを説き、中国では孔子と老子が活動していた。アテナイから太平洋に至るまで、人間の精神が一斉に動き始めていた。

第二十四章 ギリシア人とペルシア人の戦争

ギリシア本土、南イタリア、小アジアの諸都市で、ギリシア人が自由な知的探究へと乗り出し、バビロンとエルサレムで最後のヘブライ人預言者たちが人類のために自由な良心を生み出していたころ、冒険心に富む二つのアーリア系民族、メディア人とペルシア人は古代世界の文明を掌中に収め、世界がそれまでに見たどの帝国よりもはるかに広大な大帝国、ペルシア帝国を築きつつあった。キュロスのもとで、バビロンと、豊かで古い文明をもつリュディアがペルシアの支配下に加わった。レヴァントのフェニキア諸都市と小アジアの全ギリシア都市は朝貢を課され、カンビュセスはエジプトを服従させた。そしてペルシア第三代の支配者、メディア人ダレイオス一世(紀元前521年)は、見渡すかぎり全世界の君主となったかに思われた。その勅令を携えた急使たちは、ダーダネルス海峡からインダス川まで、上エジプトから中央アジアまで馬を駆った。

たしかに、ヨーロッパのギリシア人、イタリア、カルタゴ、シチリア、スペインのフェニキア人植民地は「ペルシアの平和」の外にあった。しかし彼らもこれを畏敬し、深刻な問題を引き起こしたのは、南ロシアと中央アジアにいた北方系民族の古い母体たる遊牧民、スキタイ人だけだった。彼らは北部と北東部の国境を襲撃した。

もちろん、この大ペルシア帝国の住民がすべてペルシア人だったわけではない。ペルシア人は、この巨大な領域を征服した少数派にすぎなかった。残る住民は、ペルシア人が来る以前、太古からそこにいた人々のままであり、ただ行政用語だけがペルシア語となった。交易と金融はなお主としてセム系民族の手にあり、テュロスとシドンは昔ながらの地中海の大港で、セム系民族の船が海を行き交っていた。だが、こうしたセム系の商人や実業家の多くは、各地を旅するうち、ヘブライ人の伝承と聖書のなかに、共感できて便利な共通の歴史をすでに見いだしていた。この帝国内で急速に増大していた新たな要素が、ギリシア人だった。ギリシア人は海上でセム系民族の強力な競争相手となりつつあり、独立心に富む活発な知性によって、有能で偏見のない官吏としても重宝された。

アテナイ陶器の逸品 帆と櫂を備えたギリシア商船を描く。左には彫像が見える

大英博物館

ダレイオス一世がヨーロッパへ侵攻したのは、スキタイ人のためだった。彼はスキタイ騎兵の故郷、南ロシアへ到達しようとした。大軍を率いてボスポラス海峡を渡り、ブルガリアを通ってドナウ川まで進み、舟橋で川を越えて、はるか北方へと進撃した。その軍は甚大な苦難に見舞われた。軍の大半は歩兵であり、騎馬のスキタイ人はその周囲を自在に駆け巡り、補給路を断ち、落伍兵を殺し、決して会戦には応じなかった。ダレイオスは不名誉な撤退を強いられた。

ダレイオス自身はスサへ戻ったが、トラキアとマケドニアに軍を残し、マケドニアはその支配に服した。この失敗に続いて小アジアのギリシア諸都市が反乱を起こし、ヨーロッパのギリシア人も争いに巻き込まれた。ダレイオスはヨーロッパのギリシア人を征服すると決意した。フェニキア艦隊を意のままに使えたため、一島また一島と屈服させ、ついに紀元前490年、アテナイに主攻撃を加えた。小アジアと東地中海の港々から大艦隊が出航し、遠征軍はアテナイ北方のマラトンに上陸した。そこでアテナイ軍に迎え撃たれ、決定的な敗北を喫した。

このとき、驚くべきことが起きた。ギリシアにおけるアテナイ最大の宿敵はスパルタだったが、そのアテナイが今やスパルタに救援を求めたのである。俊足の伝令を送り、「ギリシア人が異民族の奴隷となるのを許さないでほしい」と懇願した。この走者――あらゆる「マラソン」走者の原型――は、起伏の激しい道を二日足らずで100マイル(約161キロメートル)以上走破した。スパルタ人はすぐさま寛大に応じた。だが三日後にスパルタ軍がアテナイへ着いたとき、彼らにできることは、戦場と敗れたペルシア兵の遺体を眺めることだけだった。ペルシア艦隊はすでにアジアへ帰還していた。こうして第一次ペルシア戦争は終わった。

次の侵攻は、はるかに大規模だった。ダレイオスはマラトンでの敗報を受けてほどなく死に、息子で後継者のクセルクセスは、ギリシア人を打ち砕く大軍の準備に四年を費やした。一時は恐怖が全ギリシア人を団結させた。クセルクセスの軍は、それまで世界で編成されたうち間違いなく最大だった。それは互いに調和しない諸要素を寄せ集めた巨大な軍勢だった。紀元前480年、舟橋を渡ってダーダネルス海峡を越え、沿岸では同じく雑多な艦隊が補給物資を運びながら並進した。テルモピュライの狭い隘路では、スパルタ王レオニダス率いるわずか1,400人がこの大軍に立ちはだかり、比類なき英雄的戦いの末に全滅した。一人残らず戦死した。だが彼らがペルシア軍に与えた損害は甚大で、クセルクセス軍はすっかり意気をくじかれたままテーバイとアテナイへ進んだ。テーバイは降伏して講和した。アテナイ人は都市を捨て、アテナイは焼き払われた。

ギリシアは征服者の手に落ちたかに見えた。だがここでも、戦力差とあらゆる予想を覆す勝利が訪れた。ペルシア艦隊の三分の一にも満たないギリシア艦隊がサラミス湾で敵に襲いかかり、これを壊滅させた。クセルクセスは、自分と大軍が補給から切り離されたことに気づき、意気を失った。軍の半分を率いてアジアへ退却し、残した軍はプラタイアで敗北した(紀元前479年)。同じころ、ペルシア艦隊の残存兵力もギリシア軍に追い詰められ、小アジアのミュカレで壊滅した。

コリントス大神殿の現存するすべて

写真:フレッド・ボワソナ

ペルシアの脅威は去った。小アジアのギリシア都市の大半が自由となった。このすべてを、最初の本格的な歴史書であるヘロドトスの『歴史』が、きわめて詳細かつ生彩豊かに伝えている。ヘロドトスは紀元前484年ごろ、小アジアのイオニア都市ハリカルナッソスに生まれ、正確な情報を求めてバビロンとエジプトを訪れた。ミュカレの戦い以後、ペルシアは王位継承争いの混乱へ沈んだ。クセルクセスは紀元前465年に暗殺され、エジプト、シリア、メディアで反乱が起き、強大な帝国の束の間の秩序は崩壊した。ヘロドトスの歴史書は、ペルシアの弱さを強調している。実際、これは今日ならプロパガンダと呼ぶもの、すなわちギリシア人を団結させ、ペルシアを征服させるための宣伝だった。ヘロドトスは、作中人物の一人アリスタゴラスに既知世界の地図を持ってスパルタ人のもとへ赴かせ、こう語らせている。「この異民族どもは戦いで勇敢ではない。それに引き換え、諸君はいまや戦の技を極めている……彼らの持つものは世界のどの民族にもない。金、銀、青銅、刺繍を施した衣服、家畜、奴隷。望みさえすれば、そのすべてを諸君のものにできるのだ。」

スニオン岬のネプトゥヌス(ポセイドン)神殿

写真:フレッド・ボワソナ

第二十五章 ギリシアの栄光

ペルシアを打ち破った後の一世紀半は、ギリシア文明がまばゆい栄華を誇った時代だった。たしかにギリシアは、アテナイ、スパルタ、その他の都市国家の覇権をめぐる死闘、すなわちペロポネソス戦争(紀元前431~404年)によって引き裂かれ、紀元前338年にはマケドニア人が事実上ギリシアの支配者となった。それでもこの時代、ギリシア人の思想と創造的・芸術的衝動は高みへ達し、その成果は以後の全歴史を通じて人類を照らす灯火となった。

この知的活動の先頭に立ち、その中心となったのがアテナイである。30年以上にわたり(紀元前466~428年)、アテナイは強靭な活力と寛容な精神をもつペリクレスに導かれた。彼はペルシア人によって灰燼に帰した都市を再建しようとした。今日なおアテナイを輝かせる美しい遺跡の大半は、この大事業の名残である。しかも彼が再建したのは、物質的なアテナイだけではなかった。知的なアテナイをも再建したのである。建築家や彫刻家のみならず、詩人、劇作家、哲学者、教師を周囲に集めた。ヘロドトスはアテナイを訪れて『歴史』を朗読した(紀元前438年)。アナクサゴラスは、太陽と星々についての科学的記述の端緒を携えてやって来た。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスは相次いでギリシア演劇を美と気高さの頂点へ引き上げた。

ペリクレスがアテナイの知的生活に与えた勢いは、彼の死後も失われなかった。ギリシアの平和がペロポネソス戦争によって破られ、「覇権」をめぐる長く不毛な争いが始まっていたにもかかわらずである。実際、政治の地平を覆い始めた暗雲は、しばらくのあいだ人々の精神をくじくどころか、むしろ刺激したように見える。

ペリクレスの時代よりはるか以前から、ギリシアの制度がもつ独特の自由は、討論の技量に大きな重要性を与えていた。決定権は王にも祭司にもなく、民会や有力者の会議にあった。そのため雄弁と巧みな論証が、きわめて望ましい素養となり、若者にこうした技術を教えるソフィストと呼ばれる教師階級が現れた。だが材料なしに論ずることはできず、弁論の後を追って知識も発達した。ソフィストたちの活動と競争は、文体、思考法、論証の妥当性に対する鋭い検討へ自然に発展した。ペリクレスが死んだころ、ソクラテスという人物が、粗悪な論証を容赦なく破壊する有能な批判者として頭角を現しつつあった――そしてソフィストの教説の多くは、まさに粗悪な論証だった。ソクラテスの周囲には、才気あふれる若者たちが集まった。ついには、人々の心を乱した罪でソクラテスは処刑された(紀元前399年)。当時のアテナイらしく威厳ある形式で有罪を宣告され、自宅で友人たちに囲まれながら、毒草ドクニンジンの杯を飲んだのである。だが有罪判決にもかかわらず、人々の心の動揺は収まらなかった。若者たちがその教えを受け継いだからである。

アテナイ、パルテノン神殿の名高いフリーズの一部 ギリシア彫刻が最高の表現に達した作例。105ページ掲載の動物像と比べれば、芸術の進歩がわかる

写真:フレッド・ボワソナ

アテナイのアクロポリス ペリクレスの構想のもとに築かれた驚異的な神殿・記念建造物群

写真:フレッド・ボワソナ

ギリシア、エピダウロスの劇場 巨大な観客席を今に伝える、驚くほど保存状態のよい遺構

写真:フレッド・ボワソナ

若者たちの筆頭がプラトン(紀元前427~347年)で、やがてアカデメイアの森で哲学を教え始めた。その教えは大きく二つに分かれる。人間の思考の基礎と方法の検討、そして政治制度の検討である。プラトンは初めてユートピアを書いた人物だった。すなわち、現存するどの共同体とも異なり、それらより優れた共同体の構想である。そこには、社会の伝統や慣習をほとんど疑うことなく受け入れてきた人間精神における、空前の大胆さが表れている。プラトンは人類に向かって明言した。「諸君を苦しめる社会的・政治的災厄の大半は、諸君自身の力でどうにかできる。変えようとする意志と勇気さえあればよい。考え抜き、実行に移すことを選ぶなら、諸君は別の、より賢明な生き方ができる。諸君は自らの力にまだ目覚めていない。」

これは高邁で冒険的な教えであり、今なお人類の共通認識に十分浸透したとはいえない。初期の著作の一つ『国家』は、共産主義的な貴族政の夢であり、未完に終わった最後の著作『法律』は、同種のユートピア国家を統制する制度案だった。

エレクテイオンのカリアティード アテナイのアクロポリスにある古代聖域

写真:フレッド・ボワソナ

パルテノンのアテナ像

写真:アリナール

思考法と統治法への批判は、プラトンの死後、その弟子でリュケイオンに学園を開いたアリストテレスに受け継がれた。アリストテレスはマケドニアの都市スタゲイラ出身で、父はマケドニア王の侍医だった。一時期、王子アレクサンドロスの家庭教師を務めた。この王子は、やがて後述する途方もない偉業を成し遂げることになる。思考法に関するアリストテレスの研究は、論理学をその後1,500年以上にわたって保たれる水準まで引き上げ、中世のスコラ学者が古代の問題を再び取り上げるまで、その地位は揺るがなかった。彼はユートピアを描かなかった。プラトンのいうように人間が真に自らの運命を支配するには、当時の人類がもつよりはるかに豊富で、はるかに正確な知識が必要だと見抜いていたからである。こうしてアリストテレスは、今日「科学」と呼ばれる体系的な知識収集を始めた。探究者を各地に送り、事実を集めさせた。博物学の父であり、政治学の創始者でもある。リュケイオンの学生たちは158の異なる国家の政体を調査し、比較した……。

紀元前四世紀のこの時代に、実質的に「近代的思想家」と呼べる人々がすでに現れていたのである。

原始的思考の子供じみた夢想的な方法は、人生の諸問題に対する規律ある批判的な探究へと道を譲った。神々や怪物神をめぐる奇怪で醜悪な象徴と心象、それまで思考を妨げてきたあらゆる禁忌、畏怖、束縛は、ここで完全に退けられた。自由で正確かつ体系的な思考が始まった。北方の森から現れた新参者たちの、先入観に縛られない清新な精神が神殿の秘奥へ踏み込み、そこに日の光を入れたのである。

第二十六章 アレクサンドロス大王の帝国

紀元前431年から404年まで、ペロポネソス戦争がギリシアを疲弊させた。一方、ギリシア北方では、同系の国マケドニアがゆっくりと力と文明を高めていた。マケドニア人はギリシア語に近縁の言語を話し、マケドニアの競技者がオリンピア競技祭に参加したことも何度かあった。紀元前359年、この小国の王となったのが、並外れた才覚と野心をもつピリッポスである。ピリッポスはかつて人質としてギリシアで暮らし、徹底したギリシア式教育を受けていた。統一されたギリシアによるアジア征服というヘロドトスの構想――哲学者イソクラテスも発展させていた構想――も、おそらく知っていた。

まず自国の領土を拡張・組織化し、軍制の改革に着手した。過去1,000年にわたり、戦場の勝敗を決するのは突撃する戦車と、接近戦を行う歩兵だった。騎馬戦士も戦ったが、個々ばらばらで規律のない散兵の群れにすぎなかった。ピリッポスは歩兵を密集隊形、すなわちマケドニア式ファランクスで戦わせ、騎乗した貴族たち――騎士または「僚友ヘタイロイ」――には隊形を組んで戦う訓練を施した。こうして騎兵隊を発明したのである。彼と息子アレクサンドロスの戦いの多くで、決め手となったのは騎兵突撃だった。ファランクスが正面から敵歩兵を足止めする一方、騎兵は両翼の敵騎兵を一掃し、敵歩兵の側面と背後へなだれ込んだ。戦車は弓兵が馬を射て無力化した。

この新軍制を用いて、ピリッポスはテッサリアを経てギリシアまで国境を広げた。アテナイとその同盟軍を相手に戦われたカイロネイアの戦い(紀元前338年)によって、全ギリシアはその足元に屈した。ついにヘロドトスの夢が実を結び始めた。ギリシア全都市国家の会議は、ペルシアに対抗するギリシア・マケドニア連合軍の総司令官にピリッポスを任命し、紀元前336年、その先遣隊が長年準備されてきた遠征のためアジアへ渡った。しかしピリッポス自身が後に続くことはなかった。暗殺されたからである。首謀者は王妃オリュンピアス、アレクサンドロスの母だったと考えられている。ピリッポスが第二の妻を迎えたことへの嫉妬からだった。

アレクサンドロス大王の胸像

(大英博物館所蔵品による)

だがピリッポスは、息子の教育に並々ならぬ力を注いでいた。世界最高の哲学者アリストテレスを家庭教師に迎えただけでなく、自らの構想を息子と共有し、軍事経験も積ませた。カイロネイアでは、まだ18歳だったアレクサンドロスが騎兵の指揮を執っていた。そのため即位時なお20歳にすぎなかったこの若者は、ただちに父の事業を引き継ぎ、ペルシア遠征を成功裏に進めることができた。

紀元前334年――マケドニアとギリシアにおける地位を確立するのに二年を要した――アレクサンドロスはアジアへ渡り、グラニコス河畔の戦いで自軍よりさほど大きくないペルシア軍を破り、小アジアの諸都市を攻略した。進路は海岸沿いだった。ペルシア側はテュロスとシドンの艦隊を支配し、制海権を握っていたため、進軍しながらすべての沿岸都市を制圧して守備隊を置く必要があった。背後に敵対的な港を残せば、ペルシア軍が上陸して連絡線を襲い、遠征軍を孤立させかねなかった。イッソス(紀元前333年)では、ダレイオス三世率いる雑多な大軍と遭遇し、これを粉砕した。一世紀半前にダーダネルス海峡を渡ったクセルクセス軍と同じく、それは諸部隊を脈絡なく寄せ集めた軍で、無数の宮廷官僚、ダレイオスの後宮、膨大な従軍者を抱えていた。シドンはアレクサンドロスに降伏したが、テュロスは頑強に抵抗した。最後にはこの大都市も強襲され、略奪され、破壊された。ガザも攻め落とされ、紀元前332年末ごろ、征服者はエジプトに入り、ペルシア人からその支配権を奪った。

イッソスにおけるアレクサンドロスの対ペルシア戦勝

(ポンペイのモザイク画より)

左から突撃するのがアレクサンドロス、右の戦車に乗るのがダレイオス

アレクサンドレッタとエジプトのアレクサンドリアには、陸からも到達でき、それゆえ反乱しにくい大都市を築いた。フェニキア諸都市の交易はそこへ振り向けられた。西地中海のフェニキア人は突如として歴史から姿を消し、それと同時に、アレクサンドリアをはじめアレクサンドロスが建設した新たな交易都市のユダヤ人が歴史上に現れる。

紀元前331年、アレクサンドロスは、かつてトトメス、ラムセス、ネコがしたように、エジプトからバビロンへ進軍した。ただしテュロス経由だった。すでに忘れられた都市となっていたニネヴェの遺跡に近いアルベラでダレイオスと会戦し、この戦争の帰趨を決した。ペルシアの戦車突撃は失敗し、マケドニア騎兵の突撃が巨大な混成軍を崩壊させ、ファランクスが勝利を完成させた。ダレイオスは敗走を率いた。それ以上侵略者に抵抗しようとはせず、北方のメディア地方へ逃亡した。アレクサンドロスは、なお繁栄し重要だったバビロンへ、さらにスサとペルセポリスへ進んだ。そこで酒宴の後、酔った勢いで「諸王の王」ダレイオスの宮殿を焼き払った。

ベルヴェデーレのアポロン

(ヴァチカン美術館所蔵)

その後アレクサンドロスは、ペルシア帝国の最果てまで進む中央アジアの軍事巡行を行った。初めは北へ向かった。ダレイオスを追跡し、夜明けに追いついたとき、彼は自国民に殺害され、戦車のなかで死に瀕していた。先頭のギリシア人が到着した時点では、まだ息があった。アレクサンドロスが来たときには、すでに死んでいた。アレクサンドロスはカスピ海沿岸を巡り、西トルキスタンの山々へ入り、自ら建設したヘラートを経てカブールへ下り、カイバル峠を越えてインドに入った。インダス川でインド王ポロスと大戦を交え、マケドニア軍はそこで初めて象に遭遇し、これを打ち破った。最後に船団を建造してインダス河口まで下り、バルチスタン沿岸を陸路で戻り、六年間の不在を経て紀元前324年に再びスサへ到着した。次いで、勝ち取った広大な帝国の統合と組織化に取りかかった。新たな臣民の心をつかもうとし、ペルシア君主の衣装とティアラを身につけたが、それはマケドニア人指揮官の嫉妬を招いた。彼らとのあいだには多くの問題が起きた。アレクサンドロスは、マケドニア人将校とペルシア人・バビロニア人女性との集団結婚を取り決めた。「東西の結婚」である。

だが構想した帝国統合を実現するまで生きられなかった。バビロンでの酒宴の後に熱病に襲われ、紀元前323年に死去した。

その直後、この広大な領土は崩壊した。将軍の一人セレウコスは、インダス川からエフェソスに至る旧ペルシア帝国の大半を保持した。別の将軍プトレマイオスはエジプトを奪い、アンティゴノスはマケドニアを確保した。帝国の残る地域は不安定なまま、次々と地方の野心家の支配下へ移った。北方から異民族の襲撃が始まり、その規模と激しさは増していった。そして最後には、後に述べるように、西方から新たな勢力、ローマ共和政の力が現れ、一つまた一つと分裂地域を征服し、それらを新しく、より長く続く帝国へとまとめ上げるのである。

第二十七章 アレクサンドリアのムセイオンと図書館

アレクサンドロス以前にも、ギリシア人は商人、芸術家、官吏、傭兵としてペルシア領の大半へ広がっていた。クセルクセス死後の王位継承争いでは、クセノポン率いる一万人のギリシア人傭兵部隊が一役買った。バビロンから小アジアのギリシア地域へ帰還する旅は、彼の『一万人の退却』に描かれている。指揮官である将軍自身が書いた、最初期の戦争物語の一つである。だがアレクサンドロスの征服と、その短命な帝国が配下の将軍たちに分割されたことは、古代世界へのギリシア人、ギリシア語、風俗、文化の浸透を大いに加速させた。その伝播の痕跡は、遠く中央アジアやインド北西部にも見いだされる。インド美術の発展に及ぼした影響は深遠だった。

アテナイは何世紀にもわたり、芸術と文化の中心としての威信を保った。学園は実に紀元529年まで、ほぼ1,000年にわたり存続した。だが世界の知的活動における主導権は、やがて地中海を渡り、アレクサンドロスが建設した新興交易都市アレクサンドリアへ移った。ここでは、マケドニア人将軍プトレマイオスが、ギリシア語を話す宮廷を擁するファラオとなっていた。彼は王となる以前からアレクサンドロスの側近であり、アリストテレスの思想に深く染まっていた。並外れた精力と能力をもって、知識と研究の組織化に取り組んだ。アレクサンドロスの遠征史も著したが、残念ながら失われている。

アレクサンドロスもすでに、アリストテレスの研究を支援するため多額の資金を投じていたが、科学に恒久的な基金を与えた最初の人物はプトレマイオス一世だった。アレクサンドリアに学術機関を設立し、正式にムーサイへ捧げた。これがアレクサンドリアのムセイオン[訳注:英語のmuseumの語源だが、実態は美術館ではなく国立研究機関に近い]である。二、三世代にわたり、アレクサンドリアで行われた科学研究は驚くほど優れていた。ユークリッド、地球の大きさを測り、実際の直径との誤差を50マイル(約80キロメートル)以内に収めたエラトステネス、円錐曲線を論じたアポロニオス、最初の星図と星表を作ったヒッパルコス、最初の蒸気機関を考案したヘロンは、この非凡な科学的先駆者の星座を彩る巨星たちである。アルキメデスはシュラクサイからアレクサンドリアへ留学し、ムセイオンと頻繁に書簡を交わした。ヘロフィロスはギリシア最大の解剖学者の一人で、生体解剖を行ったともいわれる。

プトレマイオス一世と二世の治世にまたがる一世代ほどのあいだ、アレクサンドリアでは、紀元十六世紀まで世界が再び目にすることのないほど、知識と発見の炎が燃え上がった。しかし長くは続かなかった。衰退の原因はいくつかあっただろう。故マハフィー教授によれば、最大の原因は、ムセイオンが「王立」の学園で、すべての教授と研究員がファラオに任命され、給与を受けていたことだった。ファラオがアリストテレスの弟子で友人でもあるプトレマイオス一世だった間は、それでよかった。だがプトレマイオス朝が続くにつれ、王たちはエジプト化し、エジプトの祭司と宗教的風潮に支配され、研究内容を追わなくなり、その統制はついに探究精神を窒息させた。活動開始から最初の一世紀を過ぎると、ムセイオンはほとんど優れた成果を生み出さなくなった。

プトレマイオス一世は、きわめて近代的な精神で新知識の発見を組織化しようとしただけではない。アレクサンドリア図書館に、百科全書的な英知の宝庫を築こうともした。それは単なる書庫ではなく、書物の筆写・販売組織でもあった。膨大な数の写字生が、絶えず書物を複製する仕事に従事した。

ここに、今日のわれわれがそのなかに生きる知的過程の明確な幕開けがある。知識の体系的な収集と頒布が始まったのである。このムセイオンと図書館の創設は、人類史の一大画期をなす。まさしく近代史の始まりである。

アリストテレス ヘルクラネウム出土、おそらく紀元前四世紀

写真:シンガー博士

研究と普及のいずれも、深刻な障害のもとで行われた。その一つが、紳士階級に属する哲学者と、商人や職人とを隔てる大きな社会的断絶だった。当時、ガラス職人や金属職人は大勢いたが、思想家たちとの知的交流はなかった。ガラス職人は、色鮮やかな美しいビーズや小瓶などを作っていたが、フローレンスフラスコもレンズも作らなかった。透明なガラスには関心がなかったようである。金属職人は武器と装身具を作ったが、化学天秤は作らなかった。哲学者は原子や物質の本性について高遠な思索をめぐらせたが、エナメル、顔料、薬液などに触れる実践的経験はなかった。物質そのものには関心がなかった。そのためアレクサンドリアは、短い好機の時代に顕微鏡も化学も生み出さなかった。また、ヘロンは蒸気機関を発明したものの、ポンプを動かすことにも、船を進めることにも、その他の有用な仕事にも利用されなかった。医学を除けば、科学の実用化はほとんどなかった。そのため実用化に伴う関心と興奮によって、科学の進歩が刺激され、支えられることもなかった。プトレマイオス一世と二世の知的好奇心が失われると、研究を継続させるものは何も残らなかった。ムセイオンの発見は知られざる写本に記録されただけで、ルネサンスに科学的好奇心が復興するまで、一般大衆には届かなかった。

図書館も製本法を改良しなかった。古代世界には、ぼろ布のパルプから一定寸法に作られる紙がなかった。紙は中国の発明で、西方世界へ伝わったのは紀元九世紀になってからである。書物の材料は、羊皮紙と、パピルス草の細片を端でつなぎ合わせたものしかなかった。細片は巻物として保存されたが、読むには前後に巻き取らなければならず、扱いにくいうえ、参照にもきわめて不便だった。こうした事情が、ページをもつ印刷書籍の発達を妨げた。印刷そのものは、旧石器時代にはすでに世界で知られていたらしい。古代シュメールにも印章があった。だが紙が潤沢でなければ、書物を印刷する利点は乏しい。また、この改良は雇われた写字生たちの同業者的抵抗に遭った可能性もある。アレクサンドリアは大量の書物を生み出したが、安価な書物は生み出さず、古代世界の裕福で有力な階級より下にまで知識を普及させることはなかった。

弥勒像――未来に現れる仏陀 紀元三世紀のガンダーラ仏教彫刻

(北西辺境州マラカンド出土、現インド博物館所蔵)

こうして、知的探究の輝きは、最初の二人のプトレマイオスが集めた哲学者集団と接触をもつ小さなサークルの外へ広がらなかった。それは遮光灯の内部で燃える光のようなものだった。内側では目もくらむほど明るくとも、外の世界からは見えない。いつの日か世界を根底から変革する科学知識の種がまかれたことにも気づかず、残る世界は古来の道を歩み続けた。やがて偏狭な信仰の闇がアレクサンドリアさえ覆った。その後、アリストテレスのまいた種は1,000年の暗黒のあいだ隠されたままだった。やがて種は動き、芽吹き始めた。数世紀のうちに、それは広く伸び広がる知識と明晰な思想となり、今や人間生活のすべてを変えつつある。

仏陀の入滅 北西辺境州スワート渓谷出土のガンダーラ仏教彫刻、おそらく紀元350年ごろ

インド博物館

紀元前三世紀、ギリシアの知的活動の中心はアレクサンドリアだけではなかった。アレクサンドロスの短命な帝国が崩壊してできた諸地域には、輝かしい知的生活を誇る都市が数多くあった。たとえばシチリアのギリシア都市シュラクサイでは、思想と科学が二世紀にわたって栄えた。小アジアのペルガモンにも大図書館があった。だがこの華麗なヘレニズム世界は、いまや北方からの侵略に襲われていた。新たな北方系異民族ガリア人が、かつてギリシア人、フリュギア人、マケドニア人の祖先が通った道を南下した。彼らは襲撃し、打ち砕き、破壊した。その後から、イタリアの新たな征服民族ローマ人が現れ、ダレイオスとアレクサンドロスの広大な領域の西半分をしだいに征服した。ローマ人は有能だが想像力に乏しく、科学や芸術より法と利益を好んだ。中央アジアからも新たな侵略者が南下し、セレウコス朝を粉砕・征服して、西方世界を再びインドから切り離しつつあった。騎馬弓兵の大軍パルティア人である。彼らが紀元前三世紀のペルセポリスとスサのギリシア・ペルシア帝国を扱ったやり方は、紀元前七、六世紀にメディア人とペルシア人がしたのとほぼ同じだった。また北東からは別の遊牧民も現れていた。肌の白い北方系でも、アーリア語を話す民族でもなく、黄色い肌と黒い髪をもち、モンゴル系言語を話す人々だった。だが彼らについては、後の章で詳しく述べる。

第二十八章 ガウタマ・ブッダの生涯

ここで物語を三世紀ほど遡り、全アジアの宗教思想と宗教感情を一変させる寸前までいった偉大な教師について語らなければならない。ガウタマ・ブッダである。バビロンのユダヤ人のあいだでイザヤが預言し、エフェソスでヘラクレイトスが万物の本性について思索的探究を行っていたのとほぼ同じころ、インドのベナレスで弟子たちに教えを説いた。この人々はみな、紀元前六世紀という同じ時代を生きていた――互いの存在を知らぬままに。

紀元前六世紀は、まさしく全歴史を通じても屈指の驚くべき世紀だった。いたるところで――後述するように中国でも――人間の精神が新たな大胆さを示していた。王権、祭司、血の供犠という伝統から目覚め、核心を突く問いを投げかけ始めたのである。それはまるで、2万年におよぶ幼年期を終えた人類が、青年期に達したかのようだった。

インドの初期史は、今なおきわめて不明瞭である。おそらく紀元前2000年ごろ、アーリア語を話す民族が、一度の侵入、または一連の侵入によって北西からインドへ南下し、その言語と伝統を北インドの大半に広めた。その独特のアーリア系言語がサンスクリット語である。インダス川とガンジス川流域では、より精緻な文明をもちながら、意志の活力では劣る褐色の肌の民族と出会った。だがギリシア人やペルシア人ほど自由に先住民と混血した様子はない。彼らは距離を保った。インドの過去が歴史家の目にかすかに見え始めたころには、インド社会はすでにいくつもの階層に分かれ、さらに数の定まらない下位区分が存在した。異なる階層の者同士は食事をせず、婚姻を結ばず、自由に交流もしなかった。このカーストへの階層化は、歴史を通じて続いた。そのためインドの住民は、自由な混血が行われる単純なヨーロッパやモンゴルの共同体とは異なるものとなった。実際には共同体の集合体なのである。

シッダッタ・ガウタマは、ヒマラヤ山麓の小地域を治める貴族一族の息子だった。19歳で美しい従姉妹と結婚した。狩りや遊びを楽しみ、庭園や木立、灌漑された水田の広がる明るい世界で日々を送った。だが、まさにその暮らしのなかで、大きな不満が彼を捉えた。それは、なすべき仕事を求める優れた頭脳の苦悩だった。自分が送っている生活は人生の真実ではなく、休暇にすぎない――あまりにも長く続きすぎた休暇だと感じた。

病と死の実感、あらゆる幸福の不安定さと不完全さが、ガウタマの心に重くのしかかった。その心境にあったとき、当時すでにインドに大勢いた放浪の修行者の一人と出会った。厳しい戒律に従って暮らし、多くの時間を瞑想と宗教的議論に費やす人々だった。人生のより深い真実を探しているとされ、ガウタマも同じことをしたいという激しい欲求に取りつかれた。

伝承によれば、ガウタマがこの計画について思案していたとき、妻が初めての男児を産んだとの知らせが届いた。「これで、断ち切るべき絆がまた一つ増えた」とガウタマは言った。

一族の人々が歓喜するなか、村へ戻った。この新たな絆の誕生を祝う盛大な宴とナーチ舞踊[訳注:インドの職業的な女性舞踊家による踊り]が催された。夜、ガウタマは「家が燃えていると告げられた人のように」、激しい魂の苦悩のなかで目を覚ました。

幸福ではあっても目的のない生活を、ただちに捨てる決心をした。そっと妻の部屋の入り口へ行くと、小さな油灯の光のなか、花々に囲まれ、幼い息子を腕に抱いて安らかに眠る妻の姿が見えた。去る前に、最初で最後となる抱擁で子を抱き上げたいという激しい思いに駆られた。だが妻を起こすのを恐れ、ついに背を向けた。明るいインドの月光のもとへ出て、馬に乗り、世界へ向かって駆け去った。

チベット仏 インド博物館所蔵の金銅像。「触地印そくちいん」を結ぶガウタマ・ブッダ

インド博物館

その夜、はるかな距離を馬で走り、朝になると一族の領地を出たところで止まり、砂の河畔で馬を降りた。剣で長い髪を切り落とし、装身具をすべて外して、馬と剣とともに家へ送り返した。さらに進むと、ぼろをまとった男に出会い、衣服を交換した。こうして世俗のしがらみをすべて脱ぎ捨て、英知を求める旅を自由に続けられる身となった。南へ向かい、ヴィンディヤ山脈の丘陵にある隠者と教師たちの集う地へ赴いた。そこでは多数の賢者が、迷路のように連なる洞窟に暮らし、簡素な物資を求めて町へ出向き、学びに来る者には口頭で知識を授けていた。ガウタマは当時のあらゆる形而上学に通じた。だが鋭い知性は、提示された答えに満足しなかった。

インド人の精神には昔から、断食、不眠、自傷といった極端な苦行によって力と知識を得られると信じる傾向があった。ガウタマは今や、その考えを自ら試した。五人の弟子を伴って密林に入り、断食と恐るべき苦行に身を委ねた。その名声は、「大空の天蓋につるされた大鐘の響きのように」広まった。

だが真理に到達したという実感は得られなかった。ある日、衰弱した身体に逆らって思索しようと、行きつ戻りつ歩いていた。突然、意識を失って倒れた。意識が戻ったとき、この半ば呪術的な方法で英知を求めることの愚かしさが、はっきりと見えた。

ダメーク塔 サールナートの鹿野苑。紀元六世紀

(インド博物館所蔵の絵画より)

ガウタマは普通の食事を求め、苦行の継続を拒んで仲間たちを驚愕させた。人間がどのような真理に到達するにせよ、そのために最も適しているのは、健康な身体のなかで十分な栄養を与えられた頭脳であると悟ったのだ。この考えは、当時の土地と時代の観念にはまったくなじまなかった。弟子たちはガウタマを見捨て、意気消沈してベナレスへ去った。ガウタマは一人でさまよった。

精神が巨大で複雑な問題に取り組むとき、自らが得た進歩をほとんど自覚しないまま、一歩ずつ前進する。そしてある瞬間、突然光が差すかのように、勝利を悟る。ガウタマにもそれが起きた。川辺の大樹の下に座って食事をしていたとき、明晰な洞察が訪れた。人生をありのままに見通したように思えた。一昼夜、深い思索に沈み続けたといわれる。そして立ち上がり、その洞察を世に伝えようとした。

ベナレスへ赴き、去っていった弟子たちを探し出し、新たな教えのもとへ取り戻した。ベナレスの王の鹿野苑に小屋を建て、一種の学園を開くと、英知を求める多くの人々が訪れた。

その教えの出発点は、恵まれた若者だったころの自らの問いである。「なぜ私は完全に幸福ではないのか。」

それは内省的な問いだった。タレスやヘラクレイトスが率直かつ無私の、外へ向けられた好奇心によって宇宙の問題へ挑んだのとも、円熟期の預言者たちが、同じく無私の道徳的義務をヘブライ人の心に課したのとも、質を異にする問いだった。インドの教師は自己を忘れず、自己に集中し、それを滅ぼそうとした。あらゆる苦しみは個人の貪欲な欲望に由来すると説いた。自らの渇望を克服しないかぎり、人生は苦悩に満ち、その終わりは悲哀となる。生への渇望には三つの主要な形があり、そのすべてが悪だった。第一は食欲、貪欲、あらゆる官能への欲望。第二は個人的・利己的な不死への欲望。第三は個人的成功への渇望、すなわち世俗欲、強欲などである。人生の苦悩と挫折を免れるには、こうした欲望をことごとく克服しなければならない。すべてを克服し、自己が完全に消えたとき、魂の平安、最高善たる涅槃に到達する。

これが教えの核心だった。実に精妙で形而上学的な教えであり、恐れず正しく見て知れというギリシア人の訓戒や、神を畏れ正義を行えというヘブライ人の戒めほど理解しやすくはなかった。ガウタマの直弟子にさえ理解を超えるところが多く、その個人的影響力が失われるや、教えが堕落し粗雑化したのも不思議ではない。当時のインドでは、遠い間隔を置いて「英知」が地上へ降り、選ばれた人物のうちに受肉し、その人がブッダと呼ばれるという信仰が広まっていた。ガウタマの弟子たちは、彼こそブッダ、最新のブッダだと宣言した。ただし本人がその称号を受け入れたという証拠はない。死後間もなく、奇想天外な伝説がその周囲に織り上げられ始めた。人間の心は昔から、道徳的努力より奇跡の物語を好んできた。そしてガウタマ・ブッダは、途方もない奇跡の人となった。

それでも世界には確かな成果が残った。涅槃が大半の人の想像には高遠で精妙すぎたとしても、人類の神話形成衝動がガウタマの素朴な生涯の事実には強すぎたとしても、ガウタマが「八正道」、すなわちアーリアの道、または人生の尊い道と呼んだものの意図なら、少なくともいくらかは理解できた。そこでは精神の誠実さ、正しい目的と語り、正しい行い、正直な生業が強く求められた。良心を呼び覚まし、寛大で無私の目的へ人々をいざなう教えだった。

第二十九章 アショーカ王

ガウタマの死後、数世代にわたり、この高貴で崇高な仏教の教え――人間の最高善は自己の克服にあると明言した最初の教え――は、世界であまり広まらなかった。だがやがて、世界史上最大級の君主の想像力を征服した。

アレクサンドロス大王がインドへ南下し、インダス川でポロスと戦ったことはすでに述べた。ギリシアの歴史家によれば、チャンドラグプタ・マウリヤという人物がアレクサンドロスの陣営を訪れ、ガンジス川まで進んで全インドを征服するよう説得しようとしたという。マケドニア兵が未知の世界へそれ以上進むことを拒んだため、アレクサンドロスには実行できなかった。だが後にチャンドラグプタは、さまざまな山岳部族の助力を得て、ギリシア人の力を借りずに夢を実現した。北インドに帝国を築き、紀元前303年にはパンジャーブでセレウコス一世を攻撃し、ギリシア勢力の最後の痕跡をインドから追い払った。息子はこの新帝国をさらに拡大した。そして孫で、これから語る君主アショーカは、紀元前264年にはアフガニスタンからマドラスまでを支配していた。

当初アショーカは、父と祖父にならってインド半島の征服を完成させようとした。マドラス東岸の国カリンガへ侵攻し(紀元前255年)、軍事作戦には成功した。しかし――征服者としてはただ一人――戦争の残虐さと恐怖に強い嫌悪を覚え、戦争そのものを放棄した。もはや二度と戦うまいと決めた。平和な仏教の教えを受け入れ、今後の征服は宗教による征服でなければならないと宣言した。

羅漢、または仏教の使徒(唐代)

(大英博物館所蔵像より)

28年におよぶ治世は、人類の苦難に満ちた歴史のなかでも、ひときわ明るい幕間だった。インド全土で大規模な井戸掘りと、木陰を作るための植樹を行わせた。病院、公共庭園、薬草園を設立した。先住民と被支配民族を保護する官庁を設けた。女性教育のための制度を整えた。仏教の教団に莫大な寄進を行い、蓄積された文献をより厳密かつ精力的に批判検討するよう促した。偉大なインドの師の純粋で簡明な教えには、腐敗と迷信的な付加物がたちまち積み重なっていたからである。アショーカの宣教師はカシミール、ペルシア、セイロン、アレクサンドリアへ派遣された。

アショーカ王の宮廷を描いた楣石まぐさいし

インド博物館

バールフット出土のアショーカ王浮彫

インド博物館

これが、王のなかの大王アショーカだった。時代をはるかに先取りしていた。だが事業を継承する王子も組織も残さず、死後一世紀もしないうちに、その治世の偉大な日々は、分裂し衰退するインドの栄光の記憶となった。インド社会で最上位かつ最大の特権をもつ祭司階級バラモンは、率直で開かれたブッダの教えに一貫して反対してきた。彼らはしだいに国内の仏教の影響力を切り崩した。古来の怪異な神々、ヒンドゥー教の無数の祭儀が再び支配力を取り戻した。カーストはさらに厳格かつ複雑になった。長い世紀にわたり、仏教とバラモン教は並んで栄えたが、やがて仏教は緩やかに衰退し、無数の形態をとるバラモン教がこれに取って代わった。だがインドとカーストの領域を越えて仏教は広がり、中国、シャム、ビルマ、日本を獲得した。これらの国では今日まで有力な宗教であり続けている。

獅子柱頭 ブッダが最初の説法を行った鹿野苑に、アショーカ王時代に建てられた石柱(柱身は横たわっている)の柱頭

(インド博物館所蔵の版画より)

第三十章 孔子と老子

人類の青年期を始めた驚異の世紀、紀元前六世紀に生きた、さらに二人の偉人、孔子と老子について語らなければならない。本書ではこれまで、初期中国史についてほとんど述べてこなかった。現時点ではなお不明な点が多く、現在勃興しつつある新中国の探検家と考古学者が、前世紀にヨーロッパの過去が解明されたのと同じほど徹底して、自国の過去を明らかにすることが期待される。はるかな昔、原初の日石文化から、大河流域に最初の原始中国文明が興った。それらはエジプトやシュメールと同じく、この文化に共通する特徴を備え、祭司と祭司王が季節ごとの血の供犠を捧げる神殿を中心としていた。諸都市の生活は、6,000年ないし7,000年前のエジプトやシュメールの生活、また1,000年前の中央アメリカのマヤ人の生活とよく似ていたに違いない。

人身供犠が行われていたとしても、歴史時代の夜明けよりはるか以前に動物供犠へ置き換えられていた。そして紀元前1000年よりずっと前から、絵文字の一形態が発達しつつあった。

ヨーロッパと西アジアの原始文明が砂漠と北方の遊牧民と衝突したのと同じく、中国の原始文明も北方国境に膨大な遊牧民集団を抱えていた。言語と生活様式の近い多数の部族が存在し、歴史上、匈奴、モンゴル人、テュルク人、タタール人と順次呼ばれている。北ヨーロッパと中央アジアの北方系諸民族が、性質より名称を変えたのと同じく、彼らも変化し、分裂し、結合しては再分裂した。モンゴル系遊牧民は北方系民族より早く馬をもち、紀元前1000年以後のある時期、アルタイ山脈地方で独自に鉄を発見した可能性もある。西方の場合と同じく、東方の遊牧民もたびたび一種の政治的統一を成し遂げ、どこかの定住文明地域の征服者、支配者、再興者となった。

ヨーロッパと西アジア最古の文明が北方系でもセム系でもなかったように、中国最古の文明もモンゴル系ではなかった可能性が十分にある。中国最古の文明は褐色の肌の人々によるもので、最古のエジプト、シュメール、ドラヴィダ文明と同系統だった可能性があり、中国の記録史が始まったころには、すでに征服と混血が起きていたのかもしれない。いずれにせよ紀元前1750年までに、中国はすでに小王国と都市国家からなる広大な体系となっていた。それらはすべて緩やかな臣従関係を認め、一人の偉大な祭司皇帝、「天子」に対し、多かれ少なかれ定期的に、多かれ少なかれ明確な封建的貢納を行っていた。

「商」王朝は紀元前1125年に終わった。「周」王朝がこれを継ぎ、インドのアショーカ王、エジプトのプトレマイオス朝の時代まで、緩みながらも中国の統一を維持した。この長い周代に、中国はしだいに分裂した。匈奴系民族が南下して諸侯国を建て、地方支配者は貢納をやめて独立した。ある中国の典籍によれば、紀元前六世紀の中国には、実質的に独立した国が5,000ないし6,000あったという。中国の記録が「乱世」と呼ぶ時代である。

だがこの乱世は、活発な知的活動や、地方における数多くの芸術・文明生活の中心地と両立していた。中国史についてさらに多くが判明すれば、中国にもミレトスとアテナイがあり、ペルガモンとマケドニアがあったことがわかるだろう。現状では、まとまりある連続的な物語を構成するだけの知識がないため、この中国分裂期については曖昧かつ簡略に述べざるを得ない。

孔子 曲阜の孔子廟にある石刻の模写

(『北中国考古学調査記録』〔シャヴァンヌ〕より)

分裂したギリシアに哲学者がおり、滅亡して捕囚となったユダヤに預言者がいたように、混乱した中国にも、この時代、哲学者と教師がいた。いずれの場合も、不安定さと不確実さが、優れた精神を刺激したように見える。孔子は貴族の出身で、魯という小国である程度の官職に就いていた。ギリシア人の衝動とよく似た精神から、英知を発見し教える一種の学園を設立した。中国の無法と混乱に深く心を痛め、よりよい政治と生活の理想を構想した。そして自らの立法・教育理念を実行する君主を求め、国から国へ旅した。求める君主にはついに出会えなかった。ある君主に仕える機会は得たが、宮廷の陰謀が教師としての影響力を損ない、最後には改革案を挫折させた。興味深いことに、それから一世紀半後、ギリシアの哲学者プラトンもまた君主を求め、一時はシチリアのシュラクサイを治める僭主ディオニュシオスの助言者となった。

孔子は失意のうちに死んだ。「私を師と仰ぐ賢明な君主は現れない。もはや死ぬべき時が来た」と語った。

だが晩年の絶望のなかで想像した以上に、その教えには生命力があった。中国人を形作る大きな力となり、中国で「三教」と呼ばれるものの一つとなった。残る二つは、ブッダと老子の教えである。

孔子の教えの核心は、君子、すなわち高貴な人の道だった。ガウタマが自己を忘れる平安を、ギリシア人が外界の知識を、ユダヤ人が正義を重んじたのと同じほど、孔子は個人の行いを重んじた。あらゆる偉大な教師のなかで、最も公共心を重視した人物だった。世界の混乱と悲惨を何より憂え、高貴な世界をもたらすため、人々を高貴にしようとした。生活のあらゆる場面に健全な規則を与えようとし、驚くほど広範囲に人間の行動を規律しようとした。礼節と公共心をもち、厳しく自己を律する紳士。それこそが北中国ですでに形成されつつあった理想であり、孔子はそれに永続的な形を与えた。

万里の長城 満州の山々を横切る部分

写真:アンダーウッド&アンダーウッド

長く周王朝の王室図書館を管理していた老子の教えは、孔子の教えよりはるかに神秘的で、曖昧かつ捉えどころがなかった。世俗の快楽と権力に対するストア派的無関心と、想像上の簡素な過去の生活への回帰を説いたようである。残した文章は極端に簡潔で、きわめて難解だった。謎のように書いたのである。死後、その教えはガウタマ・ブッダの教えと同じく堕落し、伝説に覆われ、きわめて複雑で奇異な儀礼や迷信が接ぎ木された。中国でもインドと同じく、原始的な呪術観念と、人類の幼年期から伝わる怪異な伝説が、世界の新たな思考と争い、ついにはそれを奇怪で非合理的な時代遅れの儀礼で塗り固めることに成功した。今日の中国に見られる仏教と道教――道教はその大半を老子に帰している――は、ともに僧侶、寺院、祭司、供物を備えた宗教で、思想はともかく形式では古代シュメールやエジプトの供犠宗教と同じほど古い。だが孔子の教えは、範囲が限定され、簡明で率直だったため、そのような歪曲を許さず、こうした付加物に覆われなかった。

初期中国の青銅鐘 古字による銘文は「定県邢村の長老が使用のために作る」。周代後半、紀元前六世紀

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

黄河流域の北中国は思想と精神において儒教的となり、長江流域の南中国は道教的となった。それ以来、中国の諸事情には、この二つの精神、北と南の精神の対立が常に見て取れる。後世でいえば北京と南京の対立、官僚的で廉直かつ保守的な北と、懐疑的で芸術を好み、自由かつ実験的な南との対立である。

乱世における中国の分裂は、紀元前六世紀に最悪の段階へ達した。周王朝は著しく弱体化して威信を失い、老子は不幸な宮廷を去って隠遁した。

当時、名目上は従属する三つの勢力が情勢を支配していた。北方の斉と秦、そして長江流域の攻撃的な軍事国家、楚である。ついに斉と秦は同盟し、楚を屈服させ、中国全土に軍備縮小と和平の条約を課した。秦の勢力が優位となった。やがてインドのアショーカ王とほぼ同じ時代、秦王は周王の祭器を奪い、その祭祀上の職責を引き継いだ。その子、始皇帝(紀元前246年に王、紀元前220年に皇帝)は、中国の年代記で「最初の全土皇帝」と呼ばれる。

アレクサンドロスより幸運にも、始皇帝は王および皇帝として36年間統治した。その精力的な治世は、中国人にとって統一と繁栄の新時代の始まりを画する。北方砂漠から侵入する匈奴と果敢に戦い、その侵攻を食い止めるため、巨大な事業である万里の長城の建設に着手した。

第三十一章 ローマ、歴史に登場する

インド北西部の国境をなす巨大な障壁や、中央アジアとインドシナの山塊が各文明を事実上隔てていたにもかかわらず、その歴史には全般的な類似があることに、読者は気づくだろう。まず数千年にわたり、日石文化が旧世界の温暖で肥沃な河谷すべてへ広がり、供犠の伝統を中心に、神殿制度と祭司支配者を発達させた。その最初の担い手は、われわれが人類の中央人種と呼んできた褐色の肌の人々だったらしい。その後、季節ごとに草を求めて移動する地域から遊牧民が現れ、原始文明の上に自らの特性と、しばしば言語をも重ねた。彼らは文明を服従させると同時に刺激し、自らも新たな発展へ刺激され、各地で異なるものを生み出した。メソポタミアでは、エラム人、次いでセム人、最後に北方系のメディア人、ペルシア人、ギリシア人が発酵の要素となった。エーゲ海諸民族の地域ではギリシア人、インドではアーリア語系民族がその役割を果たした。エジプトでは、祭司文明が濃密だったため征服者の混入は薄かった。中国では匈奴が征服され、吸収されると、新たな匈奴が続いた。ギリシアと北インドがアーリア化され、メソポタミアがセム化・アーリア化されたのと同じく、中国はモンゴル化された。遊牧民はいたるところで多くを破壊したが、同時に自由な探究と道徳的革新の新精神をもたらした。太古以来の信仰に疑問を呈し、神殿に日の光を入れた。祭司でも神でもなく、隊長と仲間たちのなかの単なる指導者にすぎない王を立てた。

瀕死のガリア人 敵を前に、妻を殺した後で自らを刺すガリア人を表したローマ国立博物館の彫像

写真:アンダーソン

紀元前六世紀以後の数世紀には、いたるところで古代の伝統が大きく崩れ、道徳的・知的探究の新精神が目覚めている。それは人類の偉大な進歩の歩みから、二度と完全に消し去られることのない精神だった。読み書きは支配層と富裕な少数派のあいだで一般的な、身につけやすい技能となりつつあり、もはや祭司が嫉妬深く守る秘密ではなかった。旅は増え、馬と道路によって移動は容易になった。交易を促す新しく便利な仕組みとして、鋳造貨幣も生まれた。

ここで目を、旧世界の東端にある中国から、地中海西半分へ戻そう。ここでは、やがて人間世界にきわめて大きな役割を果たす運命にあった都市、ローマの登場に注目しなければならない。

これまでイタリアについては、ほとんど語ってこなかった。紀元前1000年以前のイタリアは、山と森に覆われ、人口の少ない土地だった。アーリア語系の諸部族が半島を南下して小さな町や都市を築き、南端にはギリシア人植民地が点在した。パエストゥムの壮麗な遺跡は、こうした初期ギリシア植民地の威厳と栄華を今日まで伝えている。おそらくエーゲ海諸民族と同系の非アーリア系民族エトルリア人は、半島中央部に定着した。彼らは通常の過程を逆転させ、いくつものアーリア系部族を征服した。歴史の光のなかへ現れた当初のローマは、ティベリス川の渡河点にある小さな交易都市で、ラテン語を話す住民をエトルリア人の王が支配していた。古い年代記は、ローマ建国を紀元前753年としている。フェニキアの大都市カルタゴ建設の半世紀後、第一回オリンピア競技祭の23年後である。だがローマのフォルムでは、紀元前753年よりはるかに古いエトルリア人の墓が発掘されている。

特筆すべきあの紀元前六世紀、エトルリア人の王は追放され(紀元前510年)、ローマは「パトリキ」と呼ばれる名門家系が「プレブス」の民衆を支配する貴族共和政となった。

ラテン語を話す点を除けば、ギリシアの数多くの貴族共和政とよく似ていた。

その後数世紀のローマ内政史は、プレブスが自由と統治への参加を求めて繰り広げた、長く頑強な闘争の歴史だった。ギリシア人なら貴族政と民主政の対立と呼んだであろうこの争いには、ギリシアにも類例を容易に見つけられる。最後にプレブスは旧家の排他的障壁の大半を打ち壊し、実質的な平等を確立した。古い排他性を破壊したことで、ローマはますます多くの「外部者」を市民として受け入れ、市民権を拡大することが可能になり、それが当然と見なされるようになった。

ローマは国内で争いながら、国外では勢力を広げていた。

カルタゴに残る古代ローマの貯水槽跡

写真:アンダーウッド&アンダーウッド

ローマの勢力拡大は紀元前五世紀に始まった。それまではエトルリア人と戦争を繰り返し、概して敗れていた。ローマから数マイルしか離れていないウェイイにはエトルリア人の砦があり、ローマ人はこれを攻略できずにいた。だが紀元前474年、エトルリア人に大きな災厄が降りかかった。その艦隊がシチリアのシュラクサイのギリシア人によって壊滅させられたのである。同時に、北から北方系侵略者ガリア人の波が押し寄せた。ローマ人とガリア人の間に挟まれたエトルリア人は敗れ、歴史から姿を消した。ローマ人はウェイイを攻略した。ガリア人はローマまで進んで都市を略奪した(紀元前390年)が、カピトリウムの丘は攻略できなかった。夜襲の企ては、ガチョウの鳴き声によって露見した。最後には金を受け取って撤退し、再び北イタリアへ退いた。

ガリア人の襲撃は、ローマを弱めるどころか活力を与えたようである。ローマ人はエトルリア人を征服・同化し、アルノ川からナポリまでの中央イタリア全域へ勢力を広げた。紀元前300年の数年前までに、そこまで達していた。イタリア征服は、マケドニアとギリシアにおけるピリッポスの勢力拡大、そしてエジプトからインダス川までを襲ったアレクサンドロスの大遠征と同時に進んだ。アレクサンドロス帝国が崩壊したころには、ローマ人は東方の文明世界でも注目される民族となっていた。

ローマ勢力の北にはガリア人、南にはマグナ・グラエキア、すなわちシチリアとイタリア半島のつま先・かかとに当たる地域のギリシア人植民地があった。ガリア人は強健で好戦的な民族であり、ローマ人は砦と城塞都市の列で国境を守った。南部のギリシア諸都市はタレントゥム(現在のターラント)とシチリアのシュラクサイを中心としていたが、ローマ人を脅かすというより、むしろ恐れていた。この新たな征服者に対抗する援助を求めた。

アレクサンドロス帝国が崩壊し、将軍や僚友のあいだで分割されたことはすでに述べた。そうした野心家の一人に、アレクサンドロスの親族ピュロスがいた。イタリア半島のかかとの対岸、アドリア海を隔てたエピロスに勢力を築いた。マケドニアのピリッポスがしたことをマグナ・グラエキアで再現し、タレントゥム、シュラクサイ、その周辺地域の守護者にして最高司令官となるのが野望だった。当時としてはきわめて能率的な近代軍を擁していた。歩兵ファランクス、今や元祖マケドニア騎兵に劣らぬテッサリア騎兵、20頭の戦象である。イタリアへ侵攻し、ヘラクレア(紀元前280年)とアスクルム(紀元前279年)の二大会戦でローマ軍を撃破した。ローマ軍を北へ追いやると、シチリア征服へ目を向けた。

だがそのため、当時のローマ人よりはるかに強力な敵を招いた。フェニキア人の交易都市カルタゴで、当時おそらく世界最大の都市だった。シチリアはカルタゴに近すぎたため、新たなアレクサンドロスの出現は歓迎できなかった。しかもカルタゴは、半世紀前に母市テュロスを襲った運命を忘れていなかった。そこで艦隊を派遣し、ローマに戦争継続を促し、あるいは強要して、ピュロスの海上連絡路を断った。ピュロスはローマ軍の新たな攻撃を受け、ナポリとローマの間にあるベネウェントゥムの陣営を攻撃した際、壊滅的な撃退を受けた。

そこへ突然、エピロスへの帰還を迫る知らせが届いた。ガリア人が南下していたのである。だが今回はイタリアへの襲撃ではなかった。ローマの国境が要塞化され、厳重に守られ、彼らには強大すぎたからである。ガリア人はイリュリア(現在のセルビアとアルバニア)を南下し、マケドニアとエピロスを襲っていた。ローマ軍に撃退され、海ではカルタゴ人に脅かされ、本国ではガリア人の脅威にさらされたピュロスは、征服の夢を捨てて帰国した(紀元前275年)。ローマの勢力はメッシナ海峡まで広がった。

海峡のシチリア側にはギリシア都市メッシナがあり、やがて海賊集団の手に落ちた。すでに実質的なシチリアの支配者であり、シュラクサイの同盟者でもあったカルタゴ人は、この海賊を鎮圧し(紀元前270年)、カルタゴ守備隊を置いた。海賊はローマに訴え、ローマはその訴えを聞き入れた。こうしてメッシナ海峡を挟み、大交易国カルタゴと新興征服民族ローマは、敵対者として向かい合った。

第三十二章 ローマとカルタゴ

紀元前264年、ローマとカルタゴの大抗争、ポエニ戦争が始まった。この年、ビハールではアショーカ王の治世が始まり、始皇帝はまだ幼児だった。アレクサンドリアのムセイオンではなお優れた科学研究が行われ、異民族ガリア人はすでに小アジアに入り、ペルガモンから貢納を取り立てていた。世界の各地域は今なお越えがたい距離によって隔てられ、スペイン、イタリア、北アフリカ、西地中海で一世紀半にわたって続いた、セム人勢力最後の牙城と、アーリア語系民族の新参者ローマとの死闘について、他の人類は遠く曖昧な噂しか耳にしなかっただろう。

この戦争は、今なお世界を揺り動かす諸問題に痕跡を残している。ローマはカルタゴに勝利したが、アーリア人とセム人の対立は、後に異邦人とユダヤ人の対立へ溶け込んでいく。本書の歴史はいま、その帰結と歪められた伝統がなおかすかな、消えかけた生命を保ち、今日の対立と論争を複雑かつ混乱したものにしている、そうした出来事へ近づきつつある。

第一次ポエニ戦争は、紀元前264年にメッシナの海賊をめぐって始まった。それはシュラクサイのギリシア王領を除くシチリア全土の領有を争う戦争へ発展した。海上では当初、カルタゴ人が優勢だった。それまで聞いたこともないほど巨大な軍船、五段櫂船を擁していた。五列の櫂と巨大な衝角を備えるガレー船である。二世紀前のサラミス海戦では、主力艦さえ三列の櫂をもつ三段櫂船にすぎなかった。だが海軍経験がほとんどなかったにもかかわらず、ローマ人は驚異的な精力でカルタゴ人を上回る造船に取り組んだ。新海軍の乗組員は主にギリシア人船員で、敵の優れた操船技術を補うため、鉤をかけて接舷し、白兵戦を行う戦法を編み出した。カルタゴ船がローマ船に衝突し、または櫂を折ろうと接近すると、巨大な鉤がこれを捉え、ローマ兵が甲板へ殺到した。ミュライ(紀元前260年)とエクノモス(紀元前256年)で、カルタゴ軍は壊滅的な敗北を喫した。カルタゴ近郊へのローマ軍上陸は撃退したが、パレルモでは大敗し、104頭の象を失った。それらはローマがかつて見たこともないほど壮大な凱旋行列で、フォルムを飾った。だがその後、ローマ側も二度敗れ、再び盛り返した。カルタゴ最後の海軍兵力は、ローマ最後の一大努力によってアエガテス諸島沖海戦(紀元前241年)で撃破され、カルタゴは講和を求めた。シュラクサイ王ヒエロンの領土を除くシチリア全土がローマへ割譲された。

ハンニバル ナポリ国立博物館所蔵の胸像

写真:マンセル

その後22年間、ローマとカルタゴは平和を保った。どちらも国内に十分すぎる問題を抱えていた。イタリアではガリア人が再び南下してローマを脅かし、ローマは恐慌状態のなかで、神々へ人身供犠まで捧げた! だがガリア人はテラモンで敗走した。ローマはアルプスまで進出し、アドリア海沿岸をイリュリアまで南下して領土を広げた。カルタゴは国内の反乱と、コルシカ、サルディニア両島の反乱に苦しみ、ローマよりはるかに弱い回復力しか示せなかった。最後には、ローマが耐えがたい侵略行為に出て、反乱した二島を奪って併合した。

当時のスペインはエブロ川以南がカルタゴ領で、ローマはカルタゴ人をその境界内に制限した。カルタゴ人がエブロ川を渡れば、ローマへの戦争行為と見なされることになっていた。ついに紀元前218年、ローマの新たな侵略に挑発されたカルタゴ人は、全歴史を通じても屈指の名将、若きハンニバルの指揮下で川を渡った。スペインからアルプスを越えてイタリアへ軍を進め、ガリア人をローマに対して蜂起させ、イタリア本土で15年にわたり第二次ポエニ戦争を戦った。トラシメヌス湖畔とカンナエでローマ軍に途方もない敗北を与え、イタリアでの全遠征を通じ、ハンニバルに立ち向かって壊滅を免れたローマ軍はなかった。だがローマ軍はマッシリアに上陸してスペインとの連絡線を断った。ハンニバルは攻城兵器をもたず、ローマを攻略できなかった。最後にカルタゴ人は、国内のヌミディア人反乱に脅かされ、アフリカの首都防衛へ追い戻された。ローマ軍がアフリカへ渡り、ハンニバルはザマの戦い(紀元前202年)で、大スキピオ・アフリカヌスの手に初めて敗北を喫した。ザマの戦いによって第二次ポエニ戦争は終結した。カルタゴは降伏し、スペインと戦闘艦隊を引き渡し、巨額の賠償金を支払い、ハンニバルをローマの復讐に委ねることに同意した。だがハンニバルは脱出してアジアへ逃れ、後に執念深い敵の手へ落ちる危険が迫ると、毒を飲んで死んだ。

その後56年間、ローマと領土を奪われたカルタゴは平和を保った。その間、ローマは混乱し分裂するギリシアへ帝国を広げ、小アジアへ侵攻し、リュディアのマグネシアでセレウコス朝君主アンティオコス三世を破った。なおプトレマイオス朝のもとにあったエジプト、ペルガモン、小アジアの小国家の大半を「同盟国」、今日でいう「保護国」とした。

一方、服従させられ弱体化したカルタゴは、かつての繁栄の一部をゆっくりと取り戻していた。その復興は、ローマ人の憎悪と疑念をよみがえらせた。きわめて浅薄で作為的な口実により攻撃され(紀元前149年)、頑強かつ激烈に抵抗し、長い包囲に耐えたが、ついに強襲された(紀元前146年)。市街戦というより虐殺が六日間続き、異常なほど血なまぐさいものとなった。城塞が降伏したとき、25万人いたカルタゴ市民のうち、生き残ったのは約5万人だけだった。彼らは奴隷として売られ、都市は焼かれ、念入りに破壊された。黒焦げの廃墟は、儀式的にその存在を消し去るかのように、鋤で耕され、種をまかれた。

こうして第三次ポエニ戦争は終わった。五世紀前に世界で繁栄していたセム系の国家と都市のうち、土着の支配者のもとで自由を保つ国は一つしか残らなかった。ユダヤである。セレウコス朝から独立を勝ち取り、土着のマカバイ家の君主に治められていた。このころには聖書もほぼ完成し、今日知られるユダヤ世界独自の伝統が発達しつつあった。世界各地へ離散したカルタゴ人、フェニキア人、その他同系の人々が、実質的に同一の言語と、希望と勇気に満ちたこの文献のなかに共通の絆を見いだしたのは自然なことだった。彼らはなお、かなりの程度まで世界の商人・銀行家だった。セム人世界は置き換えられたというより、水面下へ沈んだのである。

常にユダヤ教の中心というより象徴だったエルサレムは、紀元前65年にローマ人に占領された。さまざまな紆余曲折を経て、半独立と反乱を繰り返した後、紀元70年に包囲され、頑強な抗戦の末に陥落した。神殿は破壊された。紀元132年の再度の反乱で破壊は決定的となり、今日知られるエルサレムは、後にローマの主導で再建された。神殿跡にはローマ神ユピテル・カピトリヌスの神殿が建ち、ユダヤ人は市内居住を禁じられた。

第三十三章 ローマ帝国の成長

紀元前二、前一世紀に勃興して西方世界を支配したローマの新勢力は、それ以前の文明世界を支配した大帝国とは、いくつもの点で異なっていた。当初は君主政ではなく、一人の大征服者が築いたものでもなかった。共和政の帝国として最初だったわけではない。ペリクレスの時代にはアテナイが同盟国・従属国の一団を支配し、カルタゴもローマとの破滅的な戦いへ入るころには、サルディニア、コルシカ、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、スペインとシチリアの大半を支配していた。だが滅亡を免れ、さらなる発展を続けた共和政帝国としては、最初のものだった。

この新体制の中心は、それ以前の帝国の中心だったメソポタミアとエジプトの河谷より、はるか西にあった。この西方の位置により、ローマはまったく新しい地域と民族を文明へ取り込むことができた。その勢力はモロッコとスペインへ広がり、やがて北西では現在のフランスとベルギーを越えてブリタニアへ、北東ではハンガリーと南ロシアへ進出した。その一方、中央アジアやペルシアは行政の中心から遠すぎたため、支配を維持できなかった。したがって帝国は、北方系のアーリア語系民族を大量に取り込み、やがて世界のギリシア人のほぼすべてを編入した。その人口に占めるハム系・セム系民族の割合は、それ以前のどの帝国よりも低かった。

数世紀のあいだ、ローマ帝国はペルシアやギリシアをたちまち呑み込んだ過去の轍にはまらず、その間も発展を続けた。メディアとペルシアの支配者たちは一、二世代で完全にバビロン化し、「諸王の王」のティアラと、その神々の神殿・祭司制度を受け継いだ。アレクサンドロスとその後継者も、同じ安易な同化の道をたどった。セレウコス朝の宮廷と行政方式は、ネブカドネザルのものと大差なかった。プトレマイオス朝はファラオとなり、完全にエジプト化した。さらに以前、シュメール人を征服したセム人が同化されたのと同じである。だがローマ人は自らの都市から統治し、数世紀にわたって自らの本性に則った法を守った。紀元二、三世紀以前に大きな精神的影響を与えたのは、同系でよく似たギリシア人だけだった。したがってローマ帝国は、本質的には主としてアーリア的な方式で広大な領土を支配する最初の試みだった。その点で歴史上の新たな型、拡大されたアーリア人共和政だった。収穫神の神殿を中心に発達した首都から個人的な征服者が統治するという古い型は、ローマには当てはまらなかった。ローマ人にも神々と神殿はあったが、ギリシアの神々と同じく、半ば人間的な不死者、神格化されたパトリキだった。血の供犠も行い、危機には人身供犠さえ捧げた。これは肌の浅黒いエトルリア人の師から学んだのかもしれない。だがローマが最盛期をはるかに過ぎるまで、祭司も神殿もローマ史で大きな役割を果たさなかった。

ローマ帝国は、計画されていない新奇な成長の産物だった。ローマ人は、ほとんど気づかぬまま巨大な統治実験に携わっていた。これを成功した実験とは呼べない。最後には帝国が完全に崩壊したからである。その形態と方法は世紀ごとに大きく変わった。ベンガル、メソポタミア、エジプトが1,000年かけて経験する以上の変化を、ローマは100年で経験した。常に変化し、決して固定した形へ達しなかった。

ある意味では、この実験は失敗した。別の意味では、実験は今なお未完であり、今日のヨーロッパとアメリカも、ローマ人が初めて直面した世界規模の統治という難題に取り組み続けている。

歴史を学ぶ者は、ローマ支配の全期間を通じ、政治だけでなく、社会と道徳の面でも非常に大きな変化が続いたことを心に留めるべきである。人々はローマの支配を、完成され安定したもの、堅固で均整が取れ、高貴で決定的なものと考えがちだが、その傾向は強すぎる。マコーリーの『古代ローマ詩歌集』、S.P.Q.R.[訳注:「元老院とローマ市民」を意味するラテン語の略称]、大カトー、スキピオ一族、ユリウス・カエサル、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス大帝、凱旋式、演説、剣闘士競技、キリスト教殉教者が、すべて一つに混ざり、高貴で残酷で威厳ある何かの像を形作っている。その構成要素を解きほぐさなければならない。それらは、征服王ウィリアム時代のロンドンと今日のロンドンを隔てる以上に深い変化の過程から、異なる時点を拾い集めたものだからである。

ローマの拡大は、四段階に分けると非常に理解しやすい。第一段階は、紀元前390年にガリア人がローマを略奪した後に始まり、第一次ポエニ戦争の終結(紀元前240年)まで続いた。「同化する共和政」の段階と呼べる。ローマ史上、最も優れ、最もローマらしい時代だったかもしれない。数世紀にわたるパトリキとプレブスの対立は終結へ近づき、エトルリア人の脅威は消滅した。まだ極端な富者も貧者もおらず、大半の人が公共心をもっていた。1900年以前の南アフリカのボーア人共和国や、1800~1850年のアメリカ合衆国北部諸州に似た共和政、すなわち自由農民の共和政だった。この段階の当初、ローマは一辺20マイル(約32キロメートル)にも満たない小国だった。周囲の頑強だが同系の諸国と戦い、その破壊ではなく融合を求めた。数世紀にわたる内紛を通じ、ローマ人は妥協と譲歩を学んでいた。敗れた都市のなかには、統治への投票権をもつ完全なローマ都市となったものもあれば、自治を維持しつつ、ローマで交易し婚姻を結ぶ権利を得たものもあった。戦略上の要地には市民で構成される守備隊が置かれ、新たな征服地にはさまざまな特権をもつ植民市が建設された。大街道も整備された。この政策から、全イタリアの急速なラテン化が必然的に生じた。紀元前89年、イタリアの自由民はすべてローマ市民となった。形式上、ローマ帝国全体がついに拡大された一都市となった。紀元212年には、帝国全土のすべての自由民に市民権が与えられた。ローマまで行けるなら、ローマの民会で投票する権利である。

従順な都市、さらには国全体へ市民権を拡大することこそ、ローマの拡張を特徴づける手段だった。従来の征服と同化の過程を、完全に逆転させたのである。ローマ式の方法では、征服者が被征服者を同化した。

今日のローマのフォルム

だが第一次ポエニ戦争とシチリア併合の後、古い同化の過程が続く一方で、別の過程が並行して生じた。たとえばシチリアは、征服した獲物として扱われた。ローマ市民の「所領」であると宣言された。肥沃な土壌と勤勉な住民は、ローマを富ませるため搾取された。その富の大半を得たのはパトリキと、プレブスのなかでも有力な者たちだった。また戦争によって、大量の奴隷が流入した。第一次ポエニ戦争以前、共和政の住民は主として市民農民だった。兵役は権利であると同時に義務でもあった。彼らが従軍中に農場は負債を抱え、その一方で奴隷を用いた新たな大規模農業が発達した。帰還した農民は、自らの生産物が、シチリアと国内の新所領で奴隷が生産した物資と競争させられていることに気づいた。時代は変わっていた。共和政は性格を変えていた。シチリアがローマの手に落ちただけでなく、一般市民が富裕な債権者と競争者の手に落ちたのである。ローマは第二段階、「冒険的富豪の共和政」に入った。

200年にわたり、ローマの兵士農民は自由と国政への参加を求めて戦い、100年にわたり、その権利を享受した。第一次ポエニ戦争は彼らを消耗させ、勝ち取ったすべてを奪った。

ローマ支配の遺物 チュニスのコロッセウム遺跡

写真:ジャック・ボワイエ

選挙権の価値も消え失せた。ローマ共和政の統治機関は二つあった。第一にして、より重要だったのは元老院である。当初はパトリキによって、後にはあらゆる階層の有力者によって構成され、最初は執政官と監察官という権力ある官職者に招集された。イギリス貴族院と同様、大地主、有力政治家、大実業家などが集まる場となった。アメリカ上院より、イギリス貴族院にはるかに近い。ポエニ戦争以後の三世紀にわたり、ローマの政治思想と政策の中心だった。第二の機関は民会である。これはローマの市民が参加する会議とされていた。ローマが一辺20マイル(約32キロメートル)の小国だったころには、実際に開催できた。だがローマ市民権がイタリアの境界を越えて広がると、まったく不可能になった。カピトリウムの丘と市壁から角笛を吹いて招集を告げる民会は、しだいに政治屋と都市のならず者の集まりになった。紀元前四世紀の民会は元老院への有力な牽制であり、庶民の要求と権利を適切に代表した。ポエニ戦争末期には、大衆による統制が敗北したことを示す無力な遺物となっていた。大物たちを有効に抑える法的手段は、何一つ残らなかった。

バグダード近郊クテシフォンの大ローマ式アーチ

ローマ共和政には、代議制に類するものが導入されることはなかった。市民の意志を代表する代議員を選出しようとは、誰も考えなかった。これは学ぶ者が理解すべき、きわめて重要な点である。民会がアメリカの下院やイギリスの庶民院に相当するものとなることはなかった。理論上は全市民だったが、実際には考慮に値する実体を失った。

したがって第二次ポエニ戦争後、ローマ帝国の一般市民はきわめて悲惨な境遇に置かれた。貧困化し、しばしば農場を失い、奴隷に利益ある生産の場を追われ、それを是正する政治力も残されていなかった。政治的表現手段をもたない民衆に残された集団的意思表示は、ストライキと反乱だけである。紀元前二、前一世紀の内政史は、実を結ばない革命的騒乱の歴史である。本書の規模では、この時代の複雑な闘争、すなわち大所領を解体して自由農民へ土地を返す試み、負債の全部または一部を帳消しにする提案などを詳述できない。反乱と内戦が起きた。紀元前73年には、スパルタクス率いる大規模な奴隷反乱が、イタリアの苦境をさらに深めた。イタリアの奴隷は一定の成果を挙げた。奴隷のなかには、剣闘士競技で鍛えられた戦士がいたからである。スパルタクスは、当時は死火山と思われていたウェスウィウス山の火口に立てこもり、二年間抵抗した。最後には反乱を打ち破られ、狂気じみた残虐さで鎮圧された。捕虜となったスパルタクス派6,000人が、ローマから南へ延びる大街道アッピア街道沿いで十字架にかけられた(紀元前71年)。

一般市民は、自分を服従させ、堕落させる勢力にとうとう対抗できなかった。だが彼らを打ち負かした大富豪たちは、その勝利のさなか、自分たちと庶民の双方を支配する新たな勢力をローマ世界に生み出しつつあった。軍隊の力である。

第二次ポエニ戦争以前のローマ軍は、自由農民を徴集した軍で、資産に応じ、騎馬または徒歩で戦場へ赴いた。近隣での戦争には優れた軍だったが、外国へ出て長期遠征に辛抱強く耐えられる軍ではなかった。しかも奴隷が増え、大所領が拡大するにつれ、自由な気概をもつ戦闘的農民の供給は減少した。そこへ新たな要素を導入したのが、民衆派の指導者マリウスである。カルタゴ文明の滅亡後、北アフリカは半ば異民族的な王国、ヌミディア王国となっていた。ローマ勢力はこの国の王ユグルタと衝突し、その征服に途方もなく苦戦した。この不名誉な戦争を終わらせるべく、民衆の憤激が高まった時期にマリウスが執政官となった。彼は有給の兵士を募り、厳しい訓練を施して目的を達成した。ユグルタは鎖につながれてローマへ連行された(紀元前106年)。任期が終わっても、マリウスは新設した軍団を背景に、違法に執政官の地位へ居座った。ローマには彼を抑える力がなかった。

マリウスとともに、ローマ勢力発展の第三段階、「軍司令官の共和政」が始まった。有給軍団の指導者たちが、ローマ世界の覇権を求めて争う時代である。マリウスに対抗したのは、アフリカでその配下だった貴族派のスッラである。両者は交互に政敵を大虐殺した。数千人が追放者として公示され、処刑され、その所領は売り払われた。この二人の血なまぐさい抗争と、スパルタクス反乱の恐怖の後、ルクッルス、ポンペイウス大王、クラッスス、ユリウス・カエサルが軍を握り、政局を支配する段階が来た。スパルタクスを破ったのはクラッススだった。ルクッルスは小アジアを征服してアルメニアまで侵入し、巨富を手に引退した。クラッススはさらに進んでペルシアへ侵攻したが、パルティア人に敗れて殺された。長い対立の末、ポンペイウスはユリウス・カエサルに敗れ(紀元前48年)、エジプトで殺害された。ユリウス・カエサルがローマ世界唯一の支配者として残った。

ユリウス・カエサルという人物は、その功績や真の重要性とは釣り合わぬほど、人間の想像力を刺激してきた。伝説となり、象徴となった。本書にとって主たる重要性は、軍事的野心家の段階から、ローマ拡大の第四段階「初期帝政」への移行を示す点にある。最も深刻な経済的・政治的動乱、内戦、社会的退廃にもかかわらず、この間を通じてローマ国家の境界は少しずつ外へ広がり、紀元100年ごろ最大領域に達するまで拡大し続けた。第二次ポエニ戦争の危機的段階には後退に似た動きがあり、マリウスが軍を再建する前にも明らかな活力低下があった。スパルタクスの反乱は第三の危機を示した。ユリウス・カエサルは、現在のフランスとベルギーに当たるガリアで軍指導者として名声を得た。(この地方の主要部族は、一時北イタリアを占領し、後に小アジアへ侵入してガラティア人として定住したガリア人と同じケルト系民族だった。)カエサルはゲルマン人のガリア侵入を押し返し、全土を帝国に加えた。また二度、ドーヴァー海峡を越えてブリタニアへ渡った(紀元前55、54年)が、恒久的な征服地は得なかった。一方、ポンペイウス大王は東方でカスピ海まで達するローマの征服地を固めていた。

ローマのトラヤヌス記念柱 ダキアその他の征服を表す

紀元前一世紀中葉のこの時代、ローマ元老院はなお名目上、ローマ統治の中心だった。執政官その他の官吏を任命し、権限を付与するなどしていた。キケロを筆頭とする多数の政治家は、共和政ローマの偉大な伝統を守り、法への敬意を維持しようと奮闘していた。だが自由農民の衰退とともに、市民精神はイタリアから失われた。そこは今や奴隷と貧困者の土地であり、彼らには自由を理解する力も、求める意志もなかった。元老院の共和派指導者の背後には、何一つ実質的な力がなかった。一方、彼らが恐れ、統制しようとした大野心家の背後には軍団があった。元老院の頭越しに、クラッスス、ポンペイウス、カエサルは帝国の統治権を三分した(第一回三頭政治)。やがて遠方のカルラエでクラッススがパルティア人に殺されると、ポンペイウスとカエサルは決裂した。ポンペイウスは共和派に立ち、カエサルを法令違反と元老院決議への不服従で裁判にかける法律が可決された。

将軍が自らの管轄境界外へ兵を連れ出すのは違法であり、カエサルの管轄とイタリアとの境界がルビコン川だった。紀元前49年、カエサルは「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡り、ポンペイウスとローマを目指して進軍した。

ローマではかつて、軍事上の危機に際し、ほぼ無制限の権力をもつ「独裁官」を選び、危機を乗り切るまで統治させる慣例があった。ポンペイウスを倒した後、カエサルはまず10年間、次いで紀元前45年には終身の独裁官となった。実質的には、帝国の終身君主となったのである。王という言葉もささやかれた。五世紀前にエトルリア人の王を追放して以来、ローマ人が忌み嫌ってきた言葉だった。カエサルは王となることを拒んだが、玉座と王笏は採用した。ポンペイウスを破った後、カエサルはエジプトへ進み、プトレマイオス朝最後の女王で、エジプトの女神王たるクレオパトラと恋仲になった。彼女のため、完全にのぼせ上がったらしい。神王というエジプトの観念を、ローマへ持ち帰った。「不敗の神へ」という銘文とともに、その像が神殿に置かれた。

消えかけていたローマの共和主義が最後の抗議に燃え上がり、カエサルは元老院議場で、殺害された宿敵ポンペイウス大王の像の足元において刺殺された。

野心的な人物同士の争いは、その後さらに13年続いた。レピドゥス、マルクス・アントニウス、ユリウス・カエサルの大甥オクタウィアヌス・カエサルによる第二回三頭政治が成立した。オクタウィアヌスは大叔父と同じく、最良の軍団兵を徴募できる、比較的貧しいが強健な西方属州を掌握した。紀元前31年、唯一の重大な競争相手マルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破り、ローマ世界唯一の支配者となった。だがオクタウィアヌスは、ユリウス・カエサルとはまったく異なる資質の人物だった。神や王となりたいという愚かな渇望はなかった。見栄を張って感心させたい女王の恋人もいなかった。元老院とローマ市民に自由を回復し、独裁官の地位を辞退した。その見返りに、感謝した元老院は権力の形式ではなく実体を与えた。王ではなく、「プリンケプス」と「アウグストゥス」と呼ばれることになった。

こうしてアウグストゥス・カエサル、ローマ最初の皇帝(紀元前27~紀元14年)となった。

その後をティベリウス・カエサル(紀元14~37年)が継ぎ、さらにカリグラ、クラウディウス、ネロと続き、トラヤヌス(紀元98年)、ハドリアヌス(紀元117年)、アントニヌス・ピウス(紀元138年)、マルクス・アウレリウス(紀元161~180年)へ至った。皇帝はみな軍団の皇帝だった。兵士が皇帝を立て、兵士がその一部を滅ぼした。元老院はしだいにローマ史から姿を消し、皇帝と行政官僚がそれに取って代わった。帝国の境界はいまや最大限まで前進した。ブリタニアの大半が帝国に加えられ、トランシルヴァニアがダキアという新属州として編入された。トラヤヌスはユーフラテス川を越えた。ハドリアヌスは、旧世界の反対側で起きたことを直ちに連想させる構想を抱いた。始皇帝と同じく、北方の異民族を防ぐ壁を築いたのである。一つはブリタニアを横断し、もう一つはライン川とドナウ川の間を柵で結んだ。トラヤヌスが獲得した領土の一部は放棄した。

ローマ帝国の拡大は終わった。

第三十四章 ローマと中国のはざま

紀元前二世紀から一世紀にかけて、人類史は新たな段階に入った。もはやメソポタミアと東地中海は世界の中心ではなかった。メソポタミアもエジプトも、依然として肥沃で人口が多く、相当に繁栄してはいたが、世界を支配する地域ではなくなっていた。権力の重心は西と東へ移っていた。この時代、世界には二つの大帝国が君臨していた。新興のローマ帝国と、復興を遂げた中華帝国である。ローマはユーフラテス川まで勢力を伸ばしたが、ついにその境界を越えることはできなかった。あまりに遠すぎたのだ。ユーフラテス以東では、かつてセレウコス朝が支配したペルシアとインドの領土が、いくつもの新たな支配者の手に落ちた。一方、中国では、始皇帝の死後に秦に代わった漢王朝が、チベットを越え、パミール高原の峻険な峠を抜けて西トルキスタンにまで勢力を広げていた。しかし中国もまた、そこで限界に達した。その先はあまりに遠かった。

当時の中国は、世界最大にして最も組織が整い、最も文明の進んだ政治体制だった。最盛期のローマ帝国さえ、面積でも人口でも上回っていた。この二つの巨大な体制は、互いのことをほとんど何も知らないまま、同じ時代、同じ世界で並び立って繁栄することができた。海陸双方の交通手段が、両者を直接衝突させるほどには、まだ発達も組織化もされていなかったからである。

それでも両帝国は、きわめて興味深い形で互いに影響を及ぼし、その間に位置する中央アジアとインドの運命を大きく左右した。たとえばペルシアを横断するラクダの隊商や、インドと紅海を経由する沿岸航行船によって、わずかながら交易が行われていた。紀元前66年には、ポンペイウス指揮下のローマ軍がアレクサンドロス大王の足跡をたどり、カスピ海東岸を北上した。紀元102年には、班超率いる中国の遠征軍がカスピ海に達し、ローマの国力を調査する使節を派遣した。しかし、ヨーロッパと東アジアという並行する二つの巨大世界が、確かな知識と直接の交流によって結ばれるまでには、なお幾世紀もの歳月を要した。

この二大帝国の北には、いずれも蛮族の住む荒野が広がっていた。今日のドイツにあたる地域の大半は森林地帯であり、その森はロシアの奥深くまで続き、象に近いほど巨大な野牛オーロックスの生息地となっていた。さらにアジアの巨大な山塊の北には、砂漠、草原、森林、そして凍土が帯状に連なっていた。アジア高地の東側に抱かれるように、満洲の大三角地帯が広がっていた。南ロシアとトルキスタンから満洲に至るこれらの地域の大部分は、昔も今も、気候がとりわけ不安定な土地である。降水量は数世紀の間にも大きく変動した。人間にとって裏切りの多い土地なのだ。何年ものあいだ牧草が育ち、耕作も可能だったかと思えば、やがて湿潤度が低下する時代が訪れ、命を奪う干ばつが周期的に襲ってくる。

緑釉陶製の中国の蓋付き壺 漢代(ローマ共和政末期から帝政初期と同時代)

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

ゲルマンの森から南ロシア、トルキスタンまで、またゴットランドからアルプスまで広がる、この蛮族的北方世界の西部は、北方系民族とアーリア語族の発祥地だった。モンゴルの東方草原と砂漠は、フン人、モンゴル人、タタール人、トルコ人の発祥地だった――これらの諸民族はすべて、言語、人種、生活様式の点で近縁だったからである。北方系民族が絶えず故地からあふれ出し、南へ向かってメソポタミアや地中海沿岸の発展途上の文明を圧迫したのと同じく、フン系諸部族も、増えすぎた人口を流浪者、略奪者、征服者として中国の定住地域へ送り込んだ。北方で豊かな時期が続けば人口が増え、牧草の不足や家畜の疫病が起これば、飢えた好戦的な部族民は南へ押し出された。

一時期、世界には蛮族を食い止め、さらには帝国の平和の前線を押し広げることのできる、かなり強力な帝国が二つ同時に存在した。華北からモンゴルへ向かう漢帝国の進出は強力かつ継続的だった。中国人の人口は万里の長城という障壁を越えてあふれ出した。帝国の国境警備隊の背後から、馬と鋤を携えた中国農民が続き、草原を耕し、冬営地を柵で囲った。フン系諸民族は入植者を襲って殺害したが、中国の討伐軍は彼らには強すぎた。遊牧民は、定住して鋤を取り、中国の納税者となるか、新たな夏の牧草地を求めて移動するかという選択を迫られた。前者を選び、同化された者もいた。北東や東へ流れ、峠を越えて西トルキスタンへ下った者もいた。

青銅器を模した無釉炻器の壺 漢代(紀元前206年~紀元220年)

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

モンゴル騎馬民の西進は、紀元前200年頃から続いていた。それはアーリア系諸部族を西へ押し、その諸部族が今度は、わずかでも弱点が現れれば突破しようと、ローマの国境を圧迫した。スキタイ系民族にモンゴル系の血がいくらか混じっていたらしいパルティア人は、紀元前一世紀までにユーフラテス川へ南下した。彼らはポンペイウス大王の東方遠征と戦い、クラッススを破って殺害した。そしてペルシアのセレウコス朝に代わり、パルティア王家であるアルサケス朝を樹立した。

ガチョウをかたどった中国の青銅器 始皇帝以前の作。このような工芸品は、生活の豊かさと高度なユーモア感覚を物語る

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

しかししばらくの間、飢えた遊牧民にとって最も抵抗の少ない進路は、西でも東でもなく、中央アジアを抜け、カイバル峠を通って南東のインドへ至る道だった。ローマと中国が強勢を誇ったこの数世紀、モンゴル人の圧力を受け止めたのはインドだった。略奪を目的とする征服者が次々とパンジャーブから大平原へなだれ込み、略奪と破壊を繰り返した。アショーカ王の帝国は瓦解し、インド史はしばらく闇の中へ沈んだ。侵入民族の一つ「インド・スキタイ人」が興したクシャーナ朝は、一時期北インドを支配し、ある程度の秩序を維持した。こうした侵入は数世紀にわたって続いた。紀元五世紀の大半、インドはエフタル、すなわち白フンの苦しめるところとなった。彼らはインドの小諸侯から貢納を取り立て、国中を恐怖に陥れた。毎夏、西トルキスタンで家畜を放牧し、秋になるたび峠を越えて南下し、インドを脅かしたのである。

紀元二世紀、ローマ帝国と中華帝国は大きな災厄に見舞われた。それはおそらく、両帝国の蛮族に対する抵抗力を弱めた。未曽有の猛威を振るう疫病である。中国では十一年間にわたって荒れ狂い、社会構造を根底から混乱させた。漢王朝は滅び、分裂と混乱の新時代が始まった。中国が十分に立ち直るのは、紀元七世紀に偉大な唐王朝が登場してからである。

感染はアジアを横断してヨーロッパへ広がった。紀元164年から180年にかけてローマ帝国全土で猛威を振るい、帝国の統治機構を深刻に弱体化させたらしい。これ以降、ローマ属州の人口減少が語られ始め、政府の活力と効率も目に見えて低下した。いずれにせよ、ほどなく国境はもはや難攻不落ではなくなり、ある地点、次には別の地点と、次々に破られていった。もともとスウェーデンのゴットランドから来たゴート人という新たな北方民族が、ロシアを横断してヴォルガ川流域と黒海沿岸へ移住し、海へ乗り出して海賊行為を始めた。二世紀末には、フン人の西進圧力を感じ始めていたのかもしれない。247年、ゴート人は大軍でドナウ川を越えて侵入し、現在のセルビアで行われた戦いで皇帝デキウスを破り、殺害した。236年には、別のゲルマン民族であるフランク人がライン川下流の境界を突破し、アレマン人がアルザスへ流れ込んでいた。ガリアの軍団は侵入者を撃退したが、バルカン半島のゴート人は幾度となく略奪を繰り返した。ダキア属州はローマ史から姿を消した。

ローマの誇りと自信には冷たい影が差した。270年から275年にかけ、三世紀もの間、城壁のない安全な都市だったローマは、皇帝アウレリアヌスによって要塞化された。

第三十五章 初期ローマ帝国における庶民の生活

紀元前二世紀の間に築かれ、アウグストゥス・カエサルの時代から二世紀にわたって平和と安定のうちに繁栄したローマ帝国が、いかに混乱へ陥り、解体していったかを語る前に、この広大な領土に暮らした普通の人々の生活へ目を向けておくのもよいだろう。われわれの歴史は、今や現代から二千年以内の時代へ達した。ローマの平和と漢王朝の平和のもとに暮らした文明人の生活は、今日の文明人の生活に、ますますはっきりと似始めていた。

西方世界では鋳造貨幣が広く流通していた。祭司の世界の外にも、政府の官吏でも祭司でもない独立した資産家が大勢いた。人々はかつてないほど自由に旅をし、そのための街道や宿屋もあった。紀元前500年以前と比べ、生活の拘束は大幅に緩んでいた。それ以前、文明人は特定の地域や国家、伝統に縛られ、きわめて狭い視野の中で生きていた。交易や旅をするのは遊牧民だけだった。

しかしローマの平和も漢王朝の平和も、支配下の広大な地域に均一な文明をもたらしたわけではない。今日、イギリス支配下のインドに見られるのと同じく、地域ごとの違いはきわめて大きく、文化にも著しい格差と対照があった。この広大な領域の各所にはローマの守備隊と植民市が点在し、ローマの神々を崇拝し、ラテン語を話していた。しかしローマ人到来以前から町や都市が存在していた場所では、それらは従属しながらも自治を続け、少なくとも当面は、それぞれの神々をそれぞれの流儀で崇拝した。ギリシア、小アジア、エジプト、そしてヘレニズム化した東方世界全般では、ラテン語はついに優勢とならなかった。そこではギリシア語が不動の支配権を握っていた。のちに使徒パウロとなるタルソスのサウロは、ユダヤ人であると同時にローマ市民でもあったが、話し書きしたのはヘブライ語ではなくギリシア語だった。ペルシアでギリシア系セレウコス朝を倒し、ローマ帝国の境界外にあったパルティア王朝の宮廷でさえ、ギリシア語が上流社会の言葉だった。スペインの一部や北アフリカでは、カルタゴ滅亡後もカルタゴ語が長く残った。ローマという名が聞かれるはるか以前から繁栄していたセビリアのような町では、数マイル先のイタリカにローマ退役兵の植民地があったにもかかわらず、何世代にもわたってセム系の女神とセム系言語が守られた。紀元193年から211年まで皇帝だったセプティミウス・セウェルスの母語はカルタゴ語だった。ラテン語はのちに外国語として学んだのである。その姉妹はついにラテン語を習得せず、ローマ式の家庭をポエニ語で切り盛りしたと記録されている。

一方、ガリアやブリタニア、あるいはダキア(おおむね今日のルーマニア)やパンノニア(ドナウ川以南のハンガリー)のように、既存の大都市、神殿、文化がなかった地方では、ローマ帝国は確かに「ラテン化」を進めた。

ローマ帝国はこれらの地域を初めて文明化した。そこに都市や町を築き、当初からラテン語を優勢な言語とし、ローマの神々を祀り、ローマの習慣と流行を広めた。いずれもラテン語が変化したルーマニア語、イタリア語、フランス語、スペイン語は、このラテン語とローマ習俗の拡大を今に伝えている。北西アフリカも、ついには大半がラテン語圏となった。エジプト、ギリシア、それ以東の帝国領は、一度もラテン化されなかった。その文化と精神はエジプト的、ギリシア的なままだった。ローマでさえ、教養人は紳士の言語としてギリシア語を学び、ギリシアの文学と学問をラテンのものより――まことに当然ながら――高く評価した。

これほど雑多な帝国であれば、仕事や商取引のやり方も当然ながら多種多様だった。定住世界の主要産業は、依然としておおむね農業だった。初期共和政ローマの屋台骨を成していた屈強な自由農民が、ポエニ戦争後のイタリアで、奴隷労働による大農園へ取って代わられたことはすでに述べた。ギリシア世界には、自由市民が全員、自らの手で働くアルカディア式から、労働を恥辱とし、ヘイロータイという特殊な奴隷階級に農作業を行わせたスパルタ式まで、さまざまな耕作形態があった。しかしそれも今や昔の話で、ヘレニズム世界の大半には、大農園制と奴隷労働団が広がっていた。農業奴隷は互いに意思疎通できないよう、異なる言語を話す捕虜を集めた者か、生まれながらの奴隷だった。彼らには圧政へ抵抗する連帯も、権利の伝統も、知識もなかった。読み書きができなかったからである。農村人口の過半数を占めるようになっても、農業奴隷が反乱に成功したことは一度もない。紀元前一世紀のスパルタクスの反乱は、剣闘試合のために訓練された特殊な奴隷によるものだった。共和政末期から帝政初期にかけ、イタリアの農業労働奴隷は恐るべき屈辱を受けていた。逃亡を防ぐため夜には鎖につながれ、逃げれば目立つよう頭髪の半分を剃られることもあった。自分の妻を持つことは許されず、主人の意のままに凌辱され、身体を切り刻まれ、殺された。主人は奴隷を、闘技場で野獣と戦わせるために売ることもできた。奴隷が主人を殺せば、殺人者だけでなく、その家の奴隷全員が磔刑に処された。ギリシアの一部、とりわけアテネでは、奴隷の境遇はここまで恐ろしくはなかったものの、やはり忌まわしいものだった。やがて軍団の防衛線を突破してきた蛮族は、こうした人々にとって敵ではなく、解放者として現れた。

ポンペイ 「戦車の車輪に削られた道路の轍に注目。」

奴隷制はほとんどの産業へ広がり、集団で行えるあらゆる仕事に用いられた。鉱山、冶金、ガレー船の漕手、道路建設、大規模建築工事は、いずれも主として奴隷の仕事だった。家事労働もほぼすべて奴隷が担った。都市にも農村にも、貧しい自由民や解放奴隷がいて、自営したり、賃金を得て働いたりしていた。彼らは職人や監督など、奴隷労働者と競争しながら働く、新しい貨幣賃金階級の労働者だった。しかし総人口のうち、どれほどを占めたかは分からない。場所や時代によって大きく異なったのだろう。奴隷制にも多くの段階があり、夜には鎖につながれ、鞭で農場や採石場へ追い立てられる奴隷もいれば、一定の上納さえすれば、自分の畑を耕し、職人仕事をし、自由人同様に妻を持つことを、主人から利益になるとして認められた奴隷もいた。

武装した奴隷もいた。ポエニ戦争が始まった紀元前264年、奴隷に命懸けで戦わせるエトルリアの見世物がローマで復活した。それは急速に流行し、やがてローマの大富豪はみな剣闘士の一団を抱えるようになった。剣闘士は時に闘技場で戦ったが、本来の役目は、暴力で主人を守る護衛だった。学識ある奴隷もいた。共和政後期の征服対象には、ギリシア、北アフリカ、小アジアの高度に文明化した都市が含まれ、多くの高等教育を受けた捕虜が流入した。ローマの良家の青年を教える家庭教師は、たいてい奴隷だった。富豪はギリシア人奴隷を司書とし、奴隷の秘書や学者を抱えた。芸をする犬を飼うように、詩人を飼ったのである。この奴隷制の空気の中から、近代文芸批評の伝統が形作られた。奴隷たちは今もなお、われわれの書評欄で自慢し、口論している。才気ある少年奴隷を買い、教育を施して転売する商売人もいた。奴隷は写本作成者や宝石職人をはじめ、数限りない熟練職へ仕込まれた。

ローマのコロッセウム

写真:Underwood & Underwood

今日のコロッセウム内部

しかし富裕層の共和政が征服を始めた時代から、大疫病後の崩壊期までの四百年間に、奴隷の地位は大きく変化した。紀元前二世紀には戦争捕虜が豊富で、風俗は粗暴かつ残忍だった。奴隷には何の権利もなく、読者が想像しうる暴虐のほぼすべてが、当時の奴隷に対して行われていた。しかし紀元一世紀には早くも、奴隷制に対するローマ文明の姿勢に、目に見える改善が現れていた。第一に、捕虜が以前ほど豊富ではなくなり、奴隷の値段が上がった。また奴隷所有者は、不幸な奴隷たちの自尊心を高めるほど、そこから得られる利益と快適さも増すことに気づき始めた。それだけでなく、社会全体の道徳水準が向上し、正義の感覚が現実の力を持ち始めていた。ギリシアの高度な精神性が、古いローマの苛酷さを和らげたのである。残虐行為には制限が加えられ、主人は奴隷を野獣と戦わせるために売れなくなった。奴隷には自己の財産と呼ばれる peculium に対する権利が与えられ、奨励と刺激のため賃金が支払われ、奴隷同士の結婚も一定の形で認められた。農業には集団労働に向かないものや、特定の季節にしか集団労働を必要としないものが多い。そうした条件の地域では、奴隷はやがて農奴となり、主人に収穫物の一部を納めるか、特定の季節に働くようになった。

紀元一、二世紀のラテン語・ギリシア語圏から成る大ローマ帝国が、本質的には奴隷国家であり、生活に誇りや自由を持つ者がごく少数だったと理解すれば、その衰退と崩壊の手がかりが見えてくる。今日われわれが家庭生活と呼ぶものはほとんどなく、節度ある暮らしを送り、活発に思索し、学ぶ家庭も少なかった。学校や高等教育機関もまばらだった。自由な意志も自由な精神も、どこにも見いだせなかった。後世の人々を驚嘆させた大街道、壮麗な建築物の遺跡、法と権力の伝統によって、その外面的な栄華が、挫かれた意志、窒息させられた知性、損なわれ歪められた欲望の上に築かれていた事実を見失ってはならない。服従、抑圧、強制労働の広大な領域に君臨した少数者でさえ、魂の内では不安で不幸だった。自由で幸福な精神の果実である芸術と文学、科学と哲学は、この空気の中で衰えていった。模倣や引き写しは多く、技巧に長けた職人も豊富で、卑屈な学者たちの奴隷的衒学も盛んだった。しかしローマ帝国が四世紀かけて生み出したものすべてを合わせても、比較的小さな都市アテネが一世紀の全盛期に展開した、大胆で高貴な知的活動に並ぶものはない。アテネはローマの支配下で衰退し、アレクサンドリアの科学も衰退した。当時、人間の精神そのものが衰えつつあるかに見えた。

第三十六章 ローマ帝国下の宗教的発展

紀元一、二世紀のラテン語・ギリシア語帝国に暮らす人間の魂は、不安に苛まれ、欲求を挫かれていた。強制と残虐が支配し、誇示すべき誇りはあっても名誉は乏しく、平静も揺るぎない幸福もほとんどなかった。不運な者は軽蔑され、惨めな境遇に置かれ、幸運な者も安泰ではなく、熱に浮かされたように快楽を追い求めた。多くの都市では、男と獣が戦い、責め苛まれ、殺される闘技場の血なまぐさい興奮が、生活の中心だった。ローマ遺跡を最も特徴づける建造物は円形闘技場である。人生そのものがその調子で進んでいた。人々の心の不安は、深刻な宗教的動揺となって現れた。

アーリア人の大群が古代文明へ初めて侵入した時から、神殿と祭司階級の古い神々が大きく姿を変え、あるいは消滅することは避けられなかった。浅黒い肌を持つ文明の農耕民は、数百世代をかけて、神殿中心の生活に自らの暮らしと思考を合わせてきた。祭式、決まりきった日常が乱されることへの恐れ、供犠、秘儀が彼らの精神を支配していた。彼らの神々が現代人の目に怪物的で非論理的に映るのは、われわれがアーリア化された世界に属しているからである。しかし古い民族にとって、こうした神々は強烈な夢の中で見たもののような、直接的な確信と鮮明さを備えていた。シュメールや初期エジプトで、ある都市国家が別の都市国家に征服されれば、神や女神が交代し、あるいは名を変えたが、崇拝の形式と精神はそのまま残った。全体的な性格に変化はなかった。夢の登場人物は変わっても、夢自体は続き、同じ種類の夢であり続けた。初期のセム系征服者も、精神的にシュメール人と十分近かったため、征服したメソポタミア文明の宗教を、根本的な変更なしに受け継ぐことができた。エジプトは実のところ、宗教革命が起こるほど完全に征服されたことはなかった。プトレマイオス朝下でもカエサルたちの支配下でも、神殿、祭壇、祭司階級は本質的にエジプトのままだった。

征服が、社会的・宗教的習慣の似た民族同士の間で行われる限り、ある神殿と地域の神と、別の神殿と地域の神との衝突は、分類や同化によって処理できた。二柱の神の性格が似ていれば、同一視された。祭司も民衆も、これは名前が違うだけで実は同じ神なのだ、と考えたのである。この神々の融合は神統合と呼ばれ、紀元前千年間の大征服時代は、まさしく神統合の時代だった。広大な地域で、土地固有の神々は普遍的な神に取って代わられた――というより、その中へ呑み込まれた。だからついにバビロンのヘブライ人預言者が、全世界を治める唯一の正義の神を宣言した時、人々の精神はすでにその観念を受け入れる準備を整えていた。

しかし神々の性質が違いすぎ、同化できないことも多かった。その場合、もっともらしい関係を設けて一つにまとめた。ギリシア人到来以前のエーゲ世界は母神崇拝をことのほか好んだが、そうした女神は男神と結婚させられた。動物神や星辰神は人間の姿を与えられ、その動物的・天文学的側面――蛇、太陽、星など――は装飾や象徴へ変えられた。あるいは敗れた民族の神が、輝かしい神々に敵対する邪神となった。神学史は、かつて土地固有だった神々に施された、こうした適応、妥協、合理化に満ちている。

エジプトが都市国家群から一つの統一王国へ発展するにつれ、盛んに神統合が行われた。いわば主神となったのは、供犠と収穫の神オシリスであり、ファラオはその地上の化身と考えられた。オシリスは死と復活を繰り返す神として描かれた。種と収穫の神であるばかりか、思考を自然に押し広げることによって、人間に不死をもたらす存在ともなった。その象徴には、卵を地中に埋め、再び現れる広い翼のスカラベや、沈んでは再び昇る輝かしい太陽があった。後には聖なる牡牛アピスとも同一視された。オシリスと結びついた女神がイシスだった。イシスは牝牛の女神ハトホルでもあり、三日月であり、海の星でもあった。オシリスが死ぬと、イシスは子ホルスを産む。ホルスは鷹の神であり、暁でもあり、成長して再びオシリスとなる。イシス像は、幼いホルスを腕に抱き、三日月の上に立つ姿で表された。こうした関係に論理性はない。しかし厳密で体系的な思考が発達する以前の人間精神が考え出したもので、夢のような一貫性は備えている。この三神の下には、さらに暗いエジプトの神々、邪悪な神々がいた。犬の頭を持つアヌビス、暗黒の夜など、神と人を貪り、誘惑し、敵対する存在である。

牡牛を供犠に捧げるミトラス、ローマ時代

(大英博物館所蔵)

あらゆる宗教体系は、時の経過とともに人間の魂の形に適応していく。この非論理的で、時には無骨ですらある象徴から、エジプト人が真摯な信仰と慰めの道を作り上げたことに疑いはない。エジプト人の心には不死への強い願望があり、宗教生活もその願いを中心に回っていた。エジプト宗教は、それ以前のいかなる宗教にも増して不死を求める宗教だった。エジプトが異民族の征服者の下で衰え、エジプトの神々が政治的に満足のいく意味を失うにつれ、来世で償いと慰めを得たいという渇望はいっそう強まった。

イシスとホルス

ギリシア人の征服後、新都市アレクサンドリアはエジプトの宗教生活、さらにはヘレニズム世界全体の宗教生活の中心となった。プトレマイオス一世は、セラペウムという大神殿を建立し、そこで一種の三位一体をなす神々を崇拝させた。セラピス(オシリス=アピスを改名した神)、イシス、ホルスである。彼らは別個の神々ではなく、一柱の神の三つの側面と考えられ、セラピスはギリシアのゼウス、ローマのユピテル、ペルシアの太陽神と同一視された。この崇拝はヘレニズムの影響が及ぶあらゆる場所へ、北インドや中国西部にまで広まった。絶望的に惨めな日常を生きる世界の人々は、償いと慰めをもたらす不死という観念を熱烈に受け入れた。セラピスは「魂の救い主」と呼ばれた。当時の賛歌は歌う。「死後もなお、われらはその摂理に守られる。」

イシスも多くの信者を集めた。その像は天の女王として、幼いホルスを腕に抱き、神殿に立っていた。像の前では蝋燭が燃やされ、奉納物が捧げられ、独身を誓い頭を剃った祭司が祭壇に仕えた。

ローマ帝国の勃興は、この成長する信仰に西ヨーロッパ世界を開いた。セラピス=イシスの神殿、祭司の詠唱、不死への希望は、ローマ軍旗に従ってスコットランドやオランダにまで達した。しかしセラピス=イシス教には多くの競争相手がいた。なかでも有力だったのがミトラス教である。これはペルシア起源の宗教で、ミトラスが神聖で慈悲深い牡牛を供犠に捧げる、今では忘れられた秘儀を中心としていた。ここには、複雑で洗練されたセラピス=イシス信仰よりも、さらに原初的な何かがある。われわれは、人類文化における太陽巨石文化段階の血の供犠へ、直接連れ戻される。ミトラス教の記念物に描かれた牡牛は、脇腹の傷から常に大量の血を流し、その血から新たな生命が生じる。信者は実際に、供犠の牡牛の血を浴びた。入信儀礼では、牡牛を殺す足場の下へ入り、血が実際に自分の上へ流れ落ちるようにした。

これら二つの宗教――初期ローマ皇帝の下で奴隷や市民の帰依を求めた、数多くの並立する信仰の多くにも同じことがいえる――は、いずれも個人の宗教だった。個人の救済と不死を目指していた。古い宗教はそのように個人的ではなく、社会的だった。古い型の神は、第一に都市または国家の神であり、個人の神であるのは二次的なことだった。供犠は公的な機能であり、私的なものではなかった。それはわれわれが生きるこの世界で、共同体が必要とする実際的な事柄に関わっていた。しかしギリシア人に続いてローマ人も、宗教を政治から追い出してしまった。エジプトの伝統に導かれ、宗教はあの世へ退いたのである。

皇帝コンモドゥスの胸像、紀元180~192年 ミトラス神として表現されたもの。ローマ、紀元190年頃

(大英博物館所蔵)

こうした新しい私的な不死の宗教は、古い国家宗教から心と感情を奪ったが、実際にそれらへ取って代わったわけではない。初期皇帝時代の典型的な都市には、さまざまな神を祀る神殿がいくつもあった。ローマの大神、カピトリウムのユピテルを祀る神殿があり、たいていは在位中のカエサルを祀る神殿もあった。カエサルたちはファラオから、人間が神となることも可能だと学んだからである。そうした神殿では冷厳で荘重な政治的礼拝が行われ、人々は忠誠の証しとして供物を捧げ、一つまみの香を焚いた。しかし個人的な悩みを抱え、助言と慰めを求めて赴くのは、愛しき天の女王イシスの神殿だった。土地固有の風変わりな神もいた。たとえばセビリアでは、古いカルタゴのウェヌス崇拝が長く好まれた。洞窟や地下神殿には必ずミトラスの祭壇があり、軍団兵や奴隷が参拝していた。そしておそらく会堂もあり、ユダヤ人が集まって聖書を読み、全地を治める目に見えぬ神への信仰を守っていた。

国家宗教の政治的側面をめぐり、ユダヤ人との間に問題が起こることもあった。彼らは自らの神を、偶像崇拝を許さない嫉妬深い神と考え、カエサルへの公的供犠への参加を拒んだ。偶像崇拝になることを恐れ、ローマ軍旗への敬礼さえ拒絶した。

東方では、ブッダの時代よりはるか以前から、人生の喜びの大半を捨て、結婚と財産を拒み、禁欲、苦痛、孤独の中に霊的な力と、俗世の緊張や屈辱からの逃避を求める男女の修行者がいた。ブッダ自身は過度の苦行に反対したが、多くの弟子はきわめて厳しい僧侶生活を送った。ギリシアの知られざる宗派も、自己切断にまで至る同様の修行を行っていた。紀元前一世紀には、ユダヤとアレクサンドリアのユダヤ人共同体にも禁欲主義が現れた。男たちの共同体が俗世を捨て、苦行と神秘的瞑想に身を捧げた。エッセネ派がその例である。紀元一、二世紀を通じて、こうした生の拒絶はほぼ世界的な現象となり、時代の苦悩から「救済」される道が普遍的に探し求められた。確立された秩序への古い感覚も、祭司、神殿、法、慣習に対する古い信頼も失われていた。蔓延する奴隷制、残虐、恐怖、不安、浪費、虚飾、熱狂的な放縦のただ中で、自己嫌悪と精神的不安が疫病のように広まり、放棄と自発的苦痛を代償としてでも平安を得ようとする、苦悶に満ちた探求が続いた。セラペウムを泣き崩れる悔悛者で満たし、改宗者をミトラス洞窟の暗闇と血の海へ導いたのは、この衝動だった。

第三十七章 イエスの教え

初代皇帝アウグストゥス・カエサルがローマを治めていた時代、キリスト教におけるキリスト、イエスがユダヤに生まれた。その名のもとに一つの宗教が興り、やがてローマ帝国全体の国教となる運命にあった。

概して、歴史と神学は分けて扱う方が都合がよい。キリスト教世界の大多数は、イエスを、ユダヤ人が初めて認識した全地の神の化身だと信じている。歴史家であり続ける限り、歴史家はその解釈を肯定することも否定することもできない。物質的にはイエスは人間の姿で現れたのであり、歴史家は人間としてイエスを扱わなければならない。

イエスはティベリウス・カエサルの治世にユダヤへ現れた。預言者だった。先行するユダヤの預言者たちと同じ流儀で説教した。年齢は三十歳ほどで、宣教を始める以前にどのような生活を送っていたかについて、われわれはほとんど何も知らない。

イエスの生涯と教えについての直接の資料は、四福音書だけである。四書はいずれも、きわめて明確な一個の人格像をわれわれに示している。こう言わざるをえない。「ここには一人の人間がいた。この人物を創作することはできなかった」と。

しかし、ガウタマ・ブッダの人格が、後世の仏教が作った金色の偶像、硬直して座る像によって歪められ、覆い隠されたのと同じく、引き締まり、精力に満ちたイエスの人格も、誤った敬虔さが近代キリスト教美術のイエス像へ押しつけた、非現実性と紋切り型の表現によって大きく損なわれている。イエスは無一文の教師で、埃っぽく陽光に焼かれたユダヤの地を歩き回り、時折与えられる食物で暮らしていた。それなのに、いつも清潔で髪を整え、つややかで、汚れ一つない衣をまとい、直立したまま、まるで空中を滑るように身じろぎもしない姿で描かれる。このことだけでも、物語の核心と、理解力に乏しい信者が加えた不適切な装飾とを区別できない多くの人々にとって、イエスは非現実的で信じがたい存在となってしまった。

こうした扱いの難しい付加物を記録から取り除けば、そこに残るのは、きわめて人間的で、ひたむきで情熱的、たちまち怒りを発することもありながら、新しく、単純で、深遠な教えを説いた一人の人物である。その教えとは、万人を愛する父としての神と、天の国の到来だった。ありふれた言い方をすれば、イエスは明らかに強烈な個人的魅力の持ち主だった。人々を引きつけ、愛と勇気で満たした。弱者や病人は、その存在に励まされ、癒やされた。しかし磔刑の苦痛のもとで死ぬのが早かったことから、身体はおそらく華奢だった。慣習に従って処刑場まで十字架を担がされた時、気を失ったという伝承もある。イエスは三年間、各地を巡って教えを広めたのち、エルサレムへ赴き、ユダヤに奇妙な王国を建てようとした罪で告発された。その罪状で裁かれ、二人の盗賊とともに磔にされた。二人が息絶えるよりはるか前に、イエスの苦しみは終わっていた。

イエスの教えの中心だった天の国の教義は、人間の思想を揺さぶり、変革した教義の中でも、疑いなく最も革命的なものの一つである。当時の世界がその意味の全貌を理解できず、人類の既成の習慣と制度へ突きつけられた凄まじい挑戦を半ば理解しただけでも、狼狽して退いたとして不思議はない。イエスが説いたと思われる天の国の教義は、苦闘する人類の生を、外からも内からも完全に変革し、徹底的に清めよと求める、大胆で一切妥協のない要求にほかならなかった。この驚くべき教えのうち、保存されたすべてを知るには福音書へ当たらなければならない。ここで扱うのは、それが既成観念へ与えた衝撃だけである。

ユダヤ人は、全世界の唯一神が正義の神だと確信していたが、同時に、その神を、彼らについて父祖アブラハムと契約を結んだ取引の神とも考えていた。それは彼らにとって実に有利な取引であり、最後には地上で優越的地位へ導いてくれるはずだった。ところがイエスは、彼らが大切にしてきた安心の根拠を一掃した。ユダヤ人はそれを狼狽と怒りをもって聞いた。神は取引をする者ではない。天の国には選民も、特別に愛される者もいない。神はあらゆる生命を愛する父であり、あまねく照らす太陽と同じく、誰かをえこひいきすることなどできない。そしてすべての人間は兄弟であり、等しく罪人であると同時に、この神なる父に等しく愛される子である。善きサマリア人の譬えで、イエスは、自分の民族を称揚し、他の信仰や人種の正しさを軽んじようとする、誰もが従いがちな自然の傾向を嘲った。葡萄園の労働者の譬えでは、神に対して特別な権利を持つというユダヤ人の頑迷な主張を退けた。神が御国へ迎える者には、すべて等しく仕える。神の恩恵には尺度がないゆえ、その扱いにも差別はない。また、埋められたタラントの譬えが示し、やもめの献金の逸話が強調するように、神はすべての者に最大限を求める。天の国には特権も、割引も、言い訳もない。

金彩ガラスに描かれた初期のイエス・キリスト理想像。伝統的な顎髭は描かれていない

しかしイエスが傷つけたのは、ユダヤ人の強烈な民族的愛国心だけではなかった。ユダヤ人は家族への忠誠心も強い民族だったが、イエスは神への大いなる愛の奔流によって、狭く人を縛る家族愛をことごとく押し流そうとした。天の国全体が、信徒の家族となるべきだった。こう記されている。「イエスがまだ群衆に話しておられると、見よ、その母と兄弟たちが外に立ち、話したいと願っていた。そこである者が言った。『ご覧ください。あなたの母上と兄弟たちが外に立ち、あなたと話したいと願っておられます』。しかしイエスは知らせた者に答えて言われた。『私の母とは誰か。私の兄弟とは誰か』。そして弟子たちの方へ手を差し伸べて言われた。『見よ、私の母、私の兄弟たちだ。天におられる私の父の御心を行う者は誰でも、私の兄弟、姉妹、母なのである』」[]

ナザレからティベリアスへ至る道

写真:Fannaway

イエスは神が万人の父であること、人類すべてが兄弟であることを掲げ、愛国心と家族的忠誠の絆を打ち砕いただけではない。その教えは明らかに、経済制度のあらゆる階層、あらゆる私有財産と個人的優位を否定していた。すべての人間が御国に属し、その所有物もすべて御国に属する。万人にとって正しい生、唯一正しい生とは、所有するもの、自分という存在のすべてをもって神の御心に仕えることだった。イエスは幾度となく私有財産を糾弾し、私生活の一部を自分だけのものとして取り置くことを非難した。

ダビデの塔とエルサレムの城壁

写真:Fannaway

「イエスが道へ出られると、一人の男が駆け寄り、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』。イエスは言われた。『なぜ私を善いと呼ぶのか。神おひとりのほかに、善い者はいない。戒めは知っているだろう。姦淫するな。殺すな。盗むな。偽証するな。欺き取るな。父と母を敬え』。男は答えた。『先生、そうしたことはすべて、幼い頃から守ってきました』。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたには一つ欠けているものがある。行って、持っているものをすべて売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つことになる。それから来て、十字架を背負い、私に従いなさい』。男はこの言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

エルサレムの通り キリストはこのような道を通り、十字架を担いで処刑場へ向かった

写真:Fannaway

「イエスは周囲を見回し、弟子たちに言われた。『財産のある者が神の国へ入るのは、何と難しいことか』。弟子たちはその言葉に驚いた。しかしイエスは重ねて言われた。『子らよ、富を頼みとする者が神の国へ入るのは、何と難しいことか。富める者が神の国へ入るより、ラクダが針の穴を通る方がたやすい』」[]

さらに、人類を神のもとで一つにするこの御国を力強く預言するにあたり、イエスは形式宗教の取引めいた正しさに、ほとんど我慢を示さなかった。記録された発言のかなりの部分は、敬虔な生き方の規則を事細かに守ることへ向けられている。「そこでファリサイ派の人々と律法学者たちは尋ねた。『なぜあなたの弟子たちは、長老の言い伝えに従わず、洗わない手でパンを食べるのですか』。イエスは答えて言われた。『イザヤは、あなたがた偽善者について、見事に預言した。こう書かれている。

「この民は唇では私を敬う。

「しかしその心は私から遠く離れている。

「彼らが私を礼拝しても無駄である。

「人間の戒めを教えとして教えているからだ。

「あなたがたは神の戒めを捨て、壺や杯を洗うことをはじめ、人間の言い伝えを守っている。そのほかにも同じようなことを数多く行っている』。さらに言われた。『あなたがたは自分の言い伝えを守るため、実に巧みに神の戒めを退けている』」[]

イエスが宣言したのは、道徳的・社会的革命だけではなかった。その教えが極めて明白な政治的傾向を持っていたことは、多くの示唆から明らかである。確かにイエスは、自らの王国はこの世のものではなく、玉座の上ではなく人々の心の中にあると言った。しかし、その王国が人々の心に築かれた場所では、また築かれた程度に応じて、外の世界も同じ程度に革命を遂げ、新しく作り変えられることも同じく明らかである。

聞き手がその言葉に対してどれほど耳が遠く、目が見えなかったにせよ、世界を変革するというイエスの決意だけは聞き逃さなかったらしい。イエスに対する反対運動の全体的な性格と、その裁判、処刑をめぐる状況は、当時の人々の目にも、イエスが全人類の生活を変え、融合し、拡大することを明白に提案し、事実そう提案していたことを示している。

イエスがはっきり語ったことを考えれば、富み栄えた人々が、奇怪なものへの恐怖を覚え、その教えによって自分たちの世界が揺らぐのを感じたとして、何の不思議があるだろう。イエスは、彼らが社会への奉仕からこっそり取り置いていた小さな私的領域を、普遍的な宗教生活の光のもとへ引きずり出そうとしていた。人類がそれまで安穏と暮らしてきた巣穴を掘り返す、恐るべき道徳の狩人にも似ていた。イエスの王国を照らす白熱の光の中には、財産も、特権も、誇りも、序列も存在しない。動機も報酬も、ただ愛だけだった。人々が眩惑され、目を塞がれ、イエスを非難して叫んだとして、何の不思議があるだろう。弟子たちでさえ、イエスが光を和らげてくれない時には叫び声を上げた。この男か、祭司の権力か、どちらかが滅びるほかないと祭司たちが悟ったとして、何の不思議があるだろう。理解をはるかに超えて高く舞い上がり、軍紀のすべてを脅かす何かと直面して驚愕したローマ兵が、狂気じみた嘲笑へ逃げ込み、茨の冠をかぶせ、紫の衣を着せ、偽のカエサルに仕立て上げたとして、何の不思議があるだろう。イエスを真剣に受け止めるとは、奇妙で恐ろしい生へ踏み出し、習慣を捨て、本能と衝動を抑え、信じがたい幸福を試みることだったのだから……。

第三十八章 教義的キリスト教の発展

四福音書にはイエスの人格と教えが見いだされるが、キリスト教会の教義はほとんど見られない。キリスト教信仰の大枠が定められたのは、イエスの直弟子たちによる一連の文書、すなわち書簡の中だった。

キリスト教教義の形成者の中で最も重要だったのが、聖パウロである。パウロはイエスを見たことも、その説教を聞いたこともなかった。もとの名はサウロといい、当初は磔刑後の小さな弟子集団を積極的に迫害したことで知られていた。ところが突然キリスト教へ改宗し、名をパウロと改めた。きわめて知的活力に富み、当時の宗教運動へ深く情熱的な関心を寄せた人物だった。ユダヤ教に通じ、当時のミトラス教とアレクサンドリア宗教にも精通していた。その思想と表現の多くをキリスト教へ持ち込んだ。イエス本来の教え、すなわち天の国の教えを拡張し、発展させるためには、ほとんど何もしなかった。しかしパウロは、イエスが約束されたキリスト、ユダヤ人に約束された指導者であるばかりか、その死が原初文明における古代の供犠犠牲者の死と同じく、人類を贖うための供犠だったと説いた。

複数の宗教が並んで栄える時、互いの儀礼や外面的特徴を取り入れる傾向がある。たとえば今日の中国で、仏教の寺院、僧侶、慣習は、老子の教えに従う道教のものとほとんど同じになっている。しかし仏教と道教の本来の教えは、ほぼ正反対だった。キリスト教が、剃髪した祭司、奉納物、祭壇、蝋燭、詠唱、像といったアレクサンドリアやミトラスの信仰の形式だけでなく、その祈りの文句や神学思想まで取り入れたとしても、キリスト教の本質に疑いや不名誉を投げかけるものではない。これらの宗教は、もっと小規模な多数の宗派とともに並立して栄えていた。どれも信者を求め、改宗者は絶えずそれらの間を行き来したに違いない。時には政府が、いずれか一つを優遇することもあった。しかしキリスト教徒はユダヤ人と同じく、神たるカエサルへの礼拝行為を拒否したため、競争相手以上に疑いの目で見られた。イエス自身の教えが持つ革命精神を別にしても、この一点だけで反逆的な宗教と見なされたのである。

玉座を指し示す聖ペトロと聖パウロの金地モザイク ローマ、サンタ・プラッセーデ聖堂にある九世紀の原作より

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

聖パウロは、イエスもオシリスと同じく、死んで復活し、人間に不死を与える神であるという観念を弟子たちへ浸透させた。やがて拡大するキリスト教共同体は、この神なるイエスと、人類の父なる神との関係をめぐる複雑な神学論争によって、大きく引き裂かれた。アリウス派は、イエスは神性を持つが、父なる神から隔たり、その下位にあると説いた。サベリウス派は、イエスは父なる神の一側面にすぎず、一人の男が父であると同時に職人でもありうるように、神はイエスであると同時に父でもあると説いた。三位一体派は、神は一であると同時に三、すなわち父と子と聖霊であるという、さらに精妙な教義を説いた。一時はアリウス派が競争相手に勝利するかに見えたが、論争、暴力、戦争を経たのち、三位一体の定式が全キリスト教世界に受け入れられた。その最も完全な表現はアタナシウス信条に見られる。

ここでこれらの論争へ論評を加えるつもりはない。イエス個人の教えが歴史を動かしたようには、これらは歴史を動かしていない。イエス個人の教えは、人類の道徳的・精神的生活における新段階を示しているように思われる。神が万人の父であり、したがって人間がみな兄弟であると強調したこと、あらゆる人間の人格を生ける神殿として神聖視したことは、のちの人類の社会生活と政治生活全体へ、極めて深い影響を及ぼすことになる。キリスト教とイエスの教えの拡大に伴い、人間をただ人間であるがゆえに尊ぶ、新たな精神が世界に現れた。キリスト教に敵対する批評家が主張するように、聖パウロが奴隷へ服従を説いたことは事実かもしれない。しかし福音書に保存されたイエスの教えの精神全体が、人間による人間の隷属に反対するものだったことも、同じく事実である。まして闘技場の剣闘試合のような人間の尊厳に対する暴虐には、キリスト教はさらに明確に反対した。

キリストの洗礼

(大英博物館所蔵、六世紀の象牙板)

キリスト後の最初の二世紀を通じ、キリスト教はローマ帝国全土へ広がり、増え続ける改宗者を思想と意志の新たな共同体へ結び合わせた。皇帝の態度は、敵視と寛容の間を揺れ動いた。二世紀にも三世紀にも新信仰を抑圧する試みがあり、ついに303年以降、皇帝ディオクレティアヌスによる大迫害が行われた。かなり蓄積されていた教会財産は没収され、聖書と宗教文書はすべて押収、破棄され、キリスト教徒は法の保護から外され、多くが処刑された。特に注目すべきは書物の破壊である。新信仰を結束させるうえで書き言葉が持つ力を、当局が理解していたことを示している。キリスト教とユダヤ教という「書物の宗教」は、人々を教育する宗教だった。その存続は、人々が教義を読み、理解できることに大きく依存していた。古い宗教は、このように個人の知性へ訴えかけることはなかった。西ヨーロッパへ蛮族的混乱の時代が迫る中、学問の伝統を守るうえで主役を担ったのはキリスト教会だった。

ディオクレティアヌスの迫害は、成長するキリスト教共同体を抑圧することに完全に失敗した。多くの属州では、住民の大半と多数の官吏がキリスト教徒だったため、迫害は実効性を欠いた。317年、共同皇帝ガレリウスが寛容令を発し、324年には、キリスト教の友であり、臨終の床で洗礼を受けた改宗者でもあるコンスタンティヌス大帝が、ローマ世界の唯一の支配者となった。大帝は自らを神とする主張をすべて放棄し、兵士の盾と軍旗へキリスト教の象徴を掲げた。

数年のうちに、キリスト教は帝国の国教として確固たる地位を築いた。競合する宗教は驚くべき速さで消滅するか吸収され、300年にはテオドシウス大帝が、アレクサンドリアにあったユピテル=セラピスの巨像を破壊させた。五世紀初頭以降、ローマ帝国内に存在する祭司と神殿は、キリスト教の聖職者と教会だけとなった。

第三十九章 蛮族、帝国を東西に分断する

三世紀を通じ、社会的に衰弱し、道徳的に崩壊しつつあったローマ帝国は、蛮族と対峙した。この時代の皇帝は、戦う軍事独裁者であり、帝国の首都は軍事政策上の必要に応じて移動した。ある時は北イタリアのミラノに、またある時は現在のセルビアにあたるシルミウムやニシュに、ある時は小アジアのニコメディアに、帝国の司令部が置かれた。イタリア半島の中ほどにあるローマは主要な戦域から遠すぎ、帝都として不便だった。すでに衰退する都市でもあった。帝国の大半ではなお平和が保たれ、人々は武器を持たずに往来した。軍隊は依然として権力を独占していた。軍団に依存する皇帝は、帝国の他の人々に対してますます専制的になり、その宮廷もペルシアその他の東方君主の宮廷へ似ていった。ディオクレティアヌスは王冠を戴き、東方風の衣装をまとった。

おおむねライン川とドナウ川に沿う帝国国境の全域で、敵が圧力を強めていた。フランク人をはじめとするゲルマン諸部族はライン川まで進出していた。北ハンガリーにはヴァンダル人、かつてのダキア、現在のルーマニアには西ゴート人がいた。その背後、南ロシアには東ゴート人、さらにその先のヴォルガ川流域にはアラン人がいた。しかし今や、モンゴル系諸民族もヨーロッパへ向かって進出していた。フン人はすでにアラン人と東ゴート人から貢納を取り立て、彼らを西へ押しやっていた。

アジアでは、復興したペルシアの圧力を受け、ローマ国境が崩れながら後退していた。この新ペルシア、すなわちササン朝ペルシアは、その後三世紀にわたり、アジアにおけるローマ帝国の強力かつ概して優勢な競争相手となる。

ヨーロッパの地図を一見すれば、帝国特有の弱点が分かる。ドナウ川は、今日のボスニアとセルビア付近で、アドリア海から二百マイル(約320キロメートル)ほどのところまで南下し、そこで直角に折れ込んでいる。ローマ人は海上交通を良好に維持できなかったため、この幅二百マイル(約320キロメートル)の陸地が、帝国西部のラテン語圏と東部のギリシア語圏を結ぶ連絡線だった。蛮族の圧力が最も強かったのは、ドナウ川が作るこの直角部だった。ここを突破されれば、帝国が二つに割れることは避けられなかった。

もっと活力ある帝国なら前進してダキアを再征服したかもしれないが、ローマ帝国にはその活力がなかった。コンスタンティヌス大帝は、確かに献身と知性に富む君主だった。この重要なバルカン地域でゴート人の侵入を撃退したが、国境をドナウ川の向こうへ押し戻す力はなかった。帝国内部の弱点への対処に忙殺されていたからである。大帝は、キリスト教の結束力と道徳的な力によって衰退する帝国の精神を再生させようとし、ヘレスポントス海峡に面するビュザンティオンを恒久的な新首都とすることを決めた。新たに造営され、大帝にちなんでコンスタンティノープルと改名されたビュザンティオンは、大帝の死時にもなお建設途上だった。その治世末期、注目すべき出来事が起きた。ゴート人に圧迫されたヴァンダル人が、ローマ帝国への受け入れを求めたのである。彼らには、現在のハンガリーのうちドナウ川西岸にあたるパンノニアの土地が与えられ、戦士は名目上ローマ軍団兵となった。しかしこの新軍団兵は、自分たちの首長の指揮下にとどまった。ローマは彼らを消化できなかった。

コンスタンティヌスは広大な領土の再編に取り組むさなかに死に、ほどなく国境は再び破られ、西ゴート人はコンスタンティノープル近くまで進出した。彼らはアドリアノープルで皇帝ウァレンスを破り、現在のブルガリアに、ヴァンダル人のパンノニア入植と同様の居住地を設けた。名目上は皇帝の臣民だったが、実際には征服者だった。

コンスタンティノープルのコンスタンティヌスの円柱

写真:Sebah & Foaillier

紀元379年から395年までテオドシウス大帝が治め、その治世中、帝国はなお形式上の統一を保っていた。イタリアとパンノニアの軍を指揮したのはヴァンダル人スティリコ、バルカン半島の軍を指揮したのはゴート人アラリックだった。四世紀末、テオドシウスは二人の息子を残して死んだ。アラリックはコンスタンティノープルのアルカディウスを支持し、スティリコはイタリアのホノリウスを支持した。言い換えれば、皇子たちを操り人形として、アラリックとスティリコが帝国をめぐって戦ったのである。その争いの中でアラリックはイタリアへ進軍し、短い包囲ののちローマを占領した(紀元410年)。

五世紀前半、ヨーロッパのローマ帝国全土は、蛮族の略奪軍の餌食となった。当時の世界の状況を思い描くのは難しい。フランス、スペイン、イタリア、バルカン半島には、初期帝政下で栄えた大都市がなお立っていたが、貧困化し、人口の一部を失い、朽ちつつあった。そこでの生活は浅薄で卑小、不安に満ちていたに違いない。地方官吏は、今や遠く手の届かない皇帝の名のもとで、それぞれの良心に従って権威を主張し、職務を続けた。教会も存続したが、司祭はたいてい無学だった。書物を読む者は少なく、迷信と恐怖がはびこった。それでも略奪者に破壊された場所以外では、書物、絵画、彫像などの美術品が至るところに残っていた。

農村生活も衰退していた。ローマ世界の至るところで、雑草が増え、かつてより荒廃していた。戦争と疫病によって、地域全体が荒野同然となった場所もあった。街道や森林には盗賊が出没した。蛮族はそうした地域へほとんど抵抗を受けずに進軍し、しばしばローマの官職名を用いて、自分たちの首長を支配者に据えた。ある程度文明化した蛮族であれば、征服地へ比較的寛大な条件を与え、町を占領し、住民と交わり、婚姻を結び、訛りながらもラテン語を身につけた。しかしブリタニア属州を覆い尽くしたジュート人、アングル人、サクソン人は農耕民で、都市を必要としなかった。彼らは南ブリタニアからローマ化した住民を一掃したらしく、その言語を自分たちのゲルマン方言へ置き換えた。それがやがて英語となった。

コンスタンティノープル、「テオドシウスのオベリスク」の台座 トトメスのオベリスクをテオドシウスがエジプトからコンスタンティノープルへ運び、ここに示す台座へ据えたもの。初期ビザンティン美術の興味深い作例である。オベリスク全体は239ページに掲載。

写真:Sebah & Foaillier

略奪品と快適な故郷を求め、混乱した帝国を行き来したゲルマン系・スラヴ系諸部族の動きを、ここで一つ残らず追うことはできない。しかし一例としてヴァンダル人を見てみよう。彼らが歴史へ現れるのは東ドイツである。すでに述べたようにパンノニアへ定住し、そこから425年頃、間にある諸属州を通ってスペインへ移動した。そこでは南ロシアから来た西ゴート人や他のゲルマン諸部族が、公や王を立てていた。ヴァンダル人はガイセリックのもと、スペインから北アフリカへ航海し(429年)、カルタゴを占領し(439年)、艦隊を建造した。制海権を握るとローマを占領、略奪した(455年)。ローマは半世紀前のアラリックによる占領と略奪から、十分には回復していなかった。その後ヴァンダル人は、シチリア、コルシカ、サルデーニャをはじめ、西地中海の島々の大半を支配した。実のところ、七百年余り前のカルタゴ海上帝国とほぼ同じ規模の海洋帝国を築いたのである。その勢力は477年頃に頂点へ達した。これほど広大な領土を支配した征服者は、ほんの一握りにすぎなかった。次の世紀、ユスティニアヌス一世のもとでコンスタンティノープル帝国が一時的に活力を取り戻すと、その領土のほぼすべてが再征服された。

ヴァンダル人の物語は、同様の数多い冒険の一例にすぎない。しかし今、こうした破壊者の中でも最も異質で、最も恐るべき者たちがヨーロッパ世界へ入りつつあった。西方世界がそれまで一度も遭遇したことのない、活動的で有能な黄色人種、モンゴル系のフン人、すなわちタタール人である。

第四十章 フン人と西ローマ帝国の終焉

征服を行うモンゴル系民族がヨーロッパへ出現したことは、人類史の新段階を示すものと見てよい。紀元前最後の一世紀頃まで、モンゴル系民族と北方系民族は密接に接触していなかった。北方森林地帯のさらに先、遠く凍てつく土地では、モンゴル系民族のラップ人が西へ流れ、ラップランドにまで達していたが、歴史の本流に役割を果たすことはなかった。何千年もの間、西方世界では、アーリア系、セム系、そして基層をなす浅黒い肌の諸民族が劇的に関わり合い、南方の黒人諸民族や極東のモンゴル世界から干渉を受けることはほとんどなかった――エチオピア人によるエジプト侵入などを別にすれば。

遊牧モンゴル人が新たに西へ移動した主な原因は、二つあったと思われる。一つは、中華帝国の統一、その北方への拡大、漢王朝の繁栄期における人口増加である。もう一つは気候変動だった。降水量が減って沼沢や森林が消滅したのか、逆に降水量が増えて砂漠草原まで牧草地が広がったのか、あるいは地域ごとにその両方が起きたのかもしれない。いずれにせよ、西方への移住を容易にする変化だった。第三の補助的要因は、ローマ帝国の経済的困窮、内部崩壊、人口減少だった。共和政後期の富裕層と、それに続く軍人皇帝の徴税官が、帝国の活力を完全に食い尽くしていた。こうして圧力、手段、機会という要素がそろった。東からは圧力がかかり、西は腐敗し、その間には開かれた道があった。

フン人は紀元一世紀までにヨーロッパ・ロシアの東境へ到達していたが、草原で優位に立ったのは紀元四、五世紀になってからである。五世紀はフン人の世紀だった。最初にイタリアへ入ったフン人は、ホノリウスの実権を握るヴァンダル人スティリコに雇われた傭兵部隊だった。やがて彼らは、ヴァンダル人が去った空き巣、パンノニアを占領した。

五世紀第二四半期までに、フン人の間からアッティラという偉大な戦争指導者が現れた。その権力について、われわれが得られるのは曖昧で、もどかしい断片だけである。アッティラはフン人だけでなく、貢納を課したゲルマン諸部族の混成集団を支配し、その帝国はライン川から平原を横切り、中央アジアまで広がっていた。中国とも使節を交換した。本営はドナウ川東方のハンガリー平原にあった。そこをコンスタンティノープルの使節プリスクスが訪れ、その宮廷の様子を書き残している。このモンゴル人の生活様式は、彼らに取って代わられた原始アーリア人の生活とよく似ていた。一般の人々は小屋や天幕に住み、首長は柵で囲んだ巨大な木造館に暮らした。宴会、飲酒、吟遊詩人の歌があった。ホメロスの英雄たち、さらにはアレクサンドロスのマケドニア人近臣でさえ、当時コンスタンティノープルを治めていたアルカディウスの子テオドシウス二世の、洗練されながら退廃した宮廷より、アッティラの野営首都に親しみを覚えただろう。

一時は、フン人とアッティラに率いられた遊牧民が、地中海諸国のギリシア・ローマ文明に対し、かつて野蛮なギリシア人がエーゲ文明に対して演じたのと同じ役割を果たすかに見えた。歴史がより大きな舞台で繰り返されているようだった。しかしフン人は、真の遊牧民というより移動型の牧畜農民だった初期ギリシア人より、はるかに遊牧生活へ強く結びついていた。フン人は侵入し、略奪したが、定住はしなかった。

数年にわたり、アッティラは意のままにテオドシウスを脅した。その軍はコンスタンティノープルの城壁直下に至るまで破壊と略奪を続けた。ギボンによれば、バルカン半島だけで七十もの都市を完全に破壊したという。テオドシウスは貢納金を払って退去させ、さらに密使を送って暗殺し、永遠に排除しようとした。451年、アッティラは帝国のラテン語圏の残骸へ目を向け、ガリアへ侵入した。北ガリアのほとんどすべての町が略奪された。フランク人、西ゴート人、帝国軍が連合して迎え撃ち、トロワで行われた広範囲にわたる大戦闘でアッティラを破った。死者は推計により十五万から三十万に及ぶ。これによってガリアでの進撃は止まったが、膨大な軍事資源を使い果たしたわけではなかった。翌年、アッティラはヴェネティア経由でイタリアへ入り、アクイレイアとパドヴァを焼き、ミラノを略奪した。

蛮族の首長の頭部像

(大英博物館所蔵)

北イタリアの諸都市、とりわけパドヴァから逃れた大勢の避難民は、アドリア海最奥部の潟に浮かぶ島々へ逃れ、そこに都市国家ヴェネツィアの基礎を築いた。ヴェネツィアは中世最大級の交易中心地の一つとなる。

453年、アッティラは若い女性との結婚を祝う大宴会の後、突然死んだ。その死とともに、略奪を目的としたこの連合体は崩壊した。フン人そのものは、周囲のより人口の多いアーリア語系民族へ吸収され、歴史から姿を消した。しかしフン人の大侵入は、ラテン系ローマ帝国の終焉を事実上完成させた。アッティラの死後二十年間に、十人の皇帝がローマを治め、ヴァンダル人その他の傭兵軍によって擁立された。カルタゴから来たヴァンダル人は455年にローマを占領し、略奪した。ついに476年、蛮族軍の首長オドアケルは、ロムルス・アウグストゥルスという仰々しい名で皇帝を演じていたパンノニア人を廃位し、コンスタンティノープル宮廷へ、西方にはもはや皇帝がいないと通告した。かくも不名誉な形で、ラテン系ローマ帝国は終焉を迎えた。493年には、ゴート人テオドリックがローマ王となった。

西・中央ヨーロッパ全域で、蛮族の首長が王、公などとして君臨し、ほとんど独立していながら、その大半は皇帝に対する形ばかりの忠誠を表明していた。こうした事実上独立した盗賊支配者は、数百、あるいは数千人いた。ガリア、スペイン、イタリア、ダキアでは、地方ごとに変形したラテン語がなお優勢だったが、ブリタニアとライン川以東ではゲルマン語派の言語が一般に話された――ボヘミアではスラヴ語派のチェコ語だった。高位聖職者と、わずかに残った他の教養人はラテン語を読み書きした。至るところで生活は不安定となり、財産は武力によって保持された。城は増え、道路は荒廃した。六世紀の幕開けは、西方世界全体にとって分裂と知的暗黒の時代だった。修道士とキリスト教宣教師がいなければ、ラテン語の学問は完全に滅びていたかもしれない。

なぜローマ帝国は成長し、なぜこれほど完全に衰退したのか。初めに帝国を結びつけていたのは、市民権という理念だったから成長した。拡大期の共和政を通じ、さらには初期帝政に至ってもなお、自分がローマ市民であることを自覚し、それを特権であり義務であると感じ、ローマ法のもとでの権利を信じ、ローマの名において犠牲を払う意志を持つ人々が大勢いた。公正で偉大、法を守る存在としてのローマの威信は、その境界をはるかに越えて広がっていた。しかし早くもポエニ戦争の時代には、富と奴隷制の拡大によって、市民意識が蝕まれ始めていた。市民権は確かに広がったが、市民権の理念は広がらなかった。

つまるところローマ帝国は、極めて原始的な組織だった。増え続ける市民を教育せず、自らの仕組みを説明せず、意思決定への協力を求めなかった。共通理解を保証する学校網も、共同活動を維持するための報道の流通もなかった。マリウスとスッラの時代以降、権力を争った野心家たちは、帝国の問題について世論を作り出し、それへ訴えるという考えをまったく持たなかった。市民精神は餓死し、その死に誰も気づかなかった。あらゆる帝国、国家、人間社会の組織は、究極的には理解と意志によって成り立つ。世界にはもはやローマ帝国を存続させようとする意志が残っていなかった。それゆえ帝国は終わったのである。

しかしラテン語圏のローマ帝国が五世紀に死んだ一方、その内部には、帝国の威信と伝統を大いに利用することになる別のものが誕生していた。カトリック教会のラテン語圏である。帝国が死ぬ中で教会が生き延びたのは、人々の精神と意志へ訴えかけ、法や軍団より強い書物と、教会を結束させる教師・宣教師の巨大な制度を持っていたからである。紀元四、五世紀を通じ、帝国が衰退する一方で、キリスト教はヨーロッパ全土を覆う支配へ広がっていった。キリスト教は征服者である蛮族を逆に征服した。アッティラがローマへ進軍しようとした時、ローマ総主教が立ちはだかり、いかなる軍隊にもできなかったことを成し遂げた。純粋な道徳的力だけでアッティラを引き返させたのである。

ローマ総主教、すなわち教皇は、キリスト教会全体の首長であると主張した。皇帝がいなくなると、帝国の称号と権利を取り込み始めた。皇帝が帯びていた称号のうち最古のもの、ローマ領全体の最高祭司を意味する pontifex maximus を名乗った。

第四十一章 ビザンティン帝国とササン朝

ギリシア語を話すローマ帝国東半部は、西半部よりはるかに強い政治的持久力を示した。本来のラテン系ローマ権力が完全かつ最終的に解体した紀元五世紀の災厄を、東方は切り抜けた。アッティラは皇帝テオドシウス二世を脅し、コンスタンティノープルの城壁近くまで略奪と侵入を行ったが、都市そのものは無傷だった。ヌビア人はナイル川を下って上エジプトを略奪したが、下エジプトとアレクサンドリアはなお相当に繁栄していた。小アジアの大半も、ササン朝ペルシアに対して維持された。

西方にとって完全な暗黒時代だった六世紀には、ギリシア勢力がかなり復興した。ユスティニアヌス一世(527~565年)は、きわめて大きな野心と活力を持つ支配者であり、皇后テオドラも彼に劣らぬ能力の女性だった。テオドラは女優として人生を始めていた。ユスティニアヌスはヴァンダル人から北アフリカを、ゴート人からイタリアの大半を奪回し、スペイン南部さえ取り戻した。その精力は海軍・軍事事業だけに向けられたわけではない。大学を創設し、コンスタンティノープルに大聖堂ハギア・ソフィアを建て、ローマ法を法典化した。しかし自ら設立した大学の競争相手を排除するため、プラトンの時代から千年近く絶えることなく続いていたアテネの哲学学校を閉鎖した。

三世紀以降、ペルシア帝国はビザンティン帝国の揺るぎない競争相手だった。両帝国は小アジア、シリア、エジプトを絶え間ない不安と荒廃の中に置いた。紀元一世紀には、これらの土地はなお文明水準が高く、富み、人口も多かった。しかし軍隊の不断の往来、虐殺、略奪、戦争のための課税により、次第に疲弊し、ついにはまばらな農民が暮らす農村に、破壊され廃墟となった都市だけが残った。この悲惨な貧困化と混乱の過程で、下エジプトはおそらく他地域ほど大きな被害を受けなかった。アレクサンドリアはコンスタンティノープルと同じく、規模を縮小しながらも東西交易を続けた。

コンスタンティノープルの聖ソフィア聖堂(現モスク) 前景左の像のそばにテオドシウスのオベリスクが見える

写真:Sebah & Foaillier

この争い合い、衰退する二帝国では、科学も政治哲学も死んだように見えた。弾圧されるまで存続したアテネ最後の哲学者たちは、過去の大文学の原典を、限りない敬意と、まったくの無理解をもって保存した。しかしそこに体現された率直な発言と探究の伝統を引き継ぐ、自由で大胆、独立した思考習慣を持つ紳士階級は、もはや世界のどこにも残っていなかった。この階級が消えた主因は社会的・政治的混乱だが、この時代、人間の知性が不毛で熱に浮かされた状態にあったことには、もう一つ理由がある。ペルシアでもビザンティンでも、不寛容の時代だった。両帝国は従来と異なる意味での宗教帝国となり、人間精神の自由な活動を大きく妨げていた。

聖ソフィア聖堂の壮麗な天井装飾

写真:Sebah & Foaillier

もちろん世界最古の帝国も、神または神王への崇拝を中心とする宗教帝国だった。アレクサンドロスは神として扱われ、カエサルたちも、祭壇と神殿を捧げられ、香を供えることがローマ国家への忠誠を試す行為とされた限りにおいて神だった。しかし古い宗教は、本質的に行為と事実の宗教だった。精神の内側までは侵さなかった。供犠を捧げ、神へ頭を下げさえすれば、その問題について何を考え、何を語ろうと、ほぼ自由に放置された。しかし世界へ登場した新しい型の宗教、特にキリスト教は、内面へ向かった。新信仰が求めたのは、単なる外面的服従ではなく、理解を伴う信仰だった。当然ながら、信じる事柄の正確な意味をめぐって激しい論争が生じた。新宗教は信条の宗教だった。世界は「正統」という新たな言葉と出会い、行為だけでなく、言葉と私的な思考まで、定められた教えの範囲内に収めようとする厳格な決意に直面した。誤った意見を抱くこと、ましてそれを他人へ伝えることは、もはや知的な欠陥ではなく、魂を永遠の破滅へ追いやりうる道徳的罪と見なされた。

ユスティニアヌスと宮廷を描いたラヴェンナのモザイク画

写真:Alinari

ペトラの岩窟神殿

写真:Underwood & Underwood

紀元三世紀にササン朝を創始したアルダシール一世も、四世紀にローマ帝国を再建したコンスタンティヌス大帝も、宗教組織に助けを求めた。その組織に、人間の意志を利用し、統制する新たな手段を見いだしたからである。四世紀末より前に、両帝国はすでに自由な言論と宗教的革新を迫害していた。ペルシアでは、アルダシールが国教として利用するのに適した、祭司、神殿、祭壇で燃え続ける聖火を持つ古代ペルシアのゾロアスター(ザラスシュトラ)教を見いだした。三世紀末までにゾロアスター教はキリスト教を迫害し、紀元277年には新宗教マニ教の創始者マニが磔刑にされ、その遺体は皮を剥がれた。一方、コンスタンティノープルはキリスト教の異端を熱心に狩り出していた。マニ教の思想がキリスト教へ入り込み、最も苛烈な手段で戦わなければならなくなった。その一方、キリスト教の思想もゾロアスター教義の純粋さへ影響した。あらゆる思想が疑いの対象となった。何よりも、悩まされない精神が自由に活動することを必要とする科学は、この不寛容の時代を通じ、完全に姿を消した。

戦争、最も辛辣な神学論争、そして人類にありがちな悪徳が、当時のビザンティン生活を構成していた。絵になる世界であり、ロマンには富んでいたが、優しさも光明もほとんどなかった。ビザンティンとペルシアは、北方の蛮族と戦っていない時には、陰鬱で破壊的な戦争によって小アジアとシリアを荒廃させた。たとえ緊密に同盟していたとしても、蛮族を撃退し、繁栄を取り戻すのは困難だっただろう。トルコ人、すなわちタタール人が初めて歴史へ現れるのは、ある時は一方、次には他方へ味方する同盟者としてである。六世紀の主な対立者はユスティニアヌスとホスロー一世であり、七世紀初頭には皇帝ヘラクレイオスとホスロー二世(580年)が対峙した。

当初、ヘラクレイオスが皇帝となった後(610年)まで、ホスロー二世は連戦連勝だった。アンティオキア、ダマスカス、エルサレムを占領し、その軍はコンスタンティノープルの対岸、小アジアのカルケドンに達した。619年にはエジプトを征服した。だがヘラクレイオスが反撃を徹底し、カルケドンになおペルシア軍が残っていた627年、ニネヴェでペルシア軍を撃破した。628年、ホスロー二世は息子カワードに廃位、殺害され、疲弊しきった両帝国の間に、決着のつかぬ講和が成立した。

ビザンティンとペルシアは、最後の戦争を終えた。しかしその時すでに砂漠に集まりつつあり、この目的なき慢性的な争いを永久に終わらせることになる嵐を、まだほとんど誰も予想していなかった。

ヘラクレイオスがシリアの秩序を回復していた時、一通の書状が届いた。それはダマスカス南方のボストラにある帝国前哨基地へ運び込まれた。無名のセム系砂漠言語であるアラビア語で書かれ、もし皇帝のもとへ実際に届いたのなら、通訳によって読み上げられた。その差出人は、自らを「神の預言者ムハンマド」と名乗る人物だった。

書状は皇帝に、唯一の真なる神を認め、その神に仕えるよう求めていた。皇帝が何と答えたかは記録されていない。

同じような書状が、クテシフォンのカワードにも届いた。カワードは腹を立て、書状を引き裂き、使者を追い払った。

このムハンマドという男は、メディナというみすぼらしい砂漠の小都市を本拠とするベドウィンの指導者らしかった。唯一の真なる神を信じる新宗教を説いていた。

「主よ、それならば!」とムハンマドは言った。「カワードからその王国を引き裂きたまえ。」

第四十二章 中国の隋・唐王朝

五、六、七、八世紀を通じ、モンゴル系諸民族は着実に西へ移動した。アッティラのフン人はその先駆者にすぎなかった。この移動はやがて、フィンランド、エストニア、ハンガリー、ブルガリアにモンゴル系民族を定着させることになる。トルコ語に近縁な言語を話すその子孫は、今日もそこに暮らしている。実のところ、モンゴル系遊牧民がヨーロッパ、ペルシア、インドのアーリア化された文明に対して演じていたのは、その千年から千五百年前にアーリア人がエーゲ文明とセム文明に対して演じたのと同じ役割だった。

中央アジアでは、トルコ系諸民族が現在の西トルキスタンに根を下ろし、ペルシアもすでに多数のトルコ人官吏と傭兵を雇っていた。パルティア人はペルシアの一般人口へ吸収され、歴史から姿を消していた。中央アジア史には、もはやアーリア系遊牧民はいなかった。モンゴル系民族が彼らに取って代わっていた。トルコ人は、中国からカスピ海に至るアジアの支配者となった。

ローマ帝国を打ち砕いた紀元二世紀末の大疫病は、中国でも漢王朝を倒していた。その後、分裂とフン人の征服の時代が訪れたが、中国はそこから活力を取り戻して立ち上がった。ヨーロッパがたどることになる回復より、はるかに速く、完全な復興だった。六世紀末までに中国は隋王朝のもとで再統一され、ヘラクレイオスの時代までには唐王朝へ取って代わられた。唐の治世は、中国に新たな大繁栄期をもたらした。

唐代(616~906年)の中国陶芸 中国の墓から発見された、褐色、緑色、淡黄褐色の釉薬を施した陶器

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

七、八、九世紀を通じ、中国は世界で最も安定し、最も文明化した国だった。漢王朝が北方へ国境を広げたのに対し、隋・唐王朝は南へ文明を広げ、中国は今日とほぼ同じ規模を取り始めた。中央アジアでは実際、今日よりはるか遠くまで進出し、貢納するトルコ系諸部族を通じて、ついにはペルシアとカスピ海にまで勢力を伸ばした。

新たに興った中国は、漢代の古い中国とは大きく異なる国だった。新しく力強い文学流派が現れ、詩歌が大いに復興した。仏教は哲学・宗教思想を一変させた。芸術、技術、生活のあらゆる快適さに大きな進歩があった。茶が初めて飲まれ、紙が製造され、木版印刷が始まった。ヨーロッパと西アジアの減少した人口が、粗末な小屋、小さな城壁都市、陰鬱な盗賊の砦で暮らしていたこの数世紀、中国では実に数百万人もの人々が、秩序正しく優雅で穏やかな生活を送っていた。西方の精神が神学的妄執で暗黒に閉ざされる一方、中国の精神は開放的で寛容、探究心に富んでいた。

唐王朝初期の皇帝の一人が、627年、ヘラクレイオスがニネヴェで勝利した年に即位した太宗である。太宗は、おそらくペルシアの背後で同盟者を求めていたヘラクレイオスから使節を迎えた。ペルシアからはキリスト教宣教師の一行も訪れた(635年)。彼らは太宗へ教義を説明することを許され、太宗はその聖典の中国語訳を調べた。そしてこの奇妙な宗教を容認できると判断し、教会と修道院の建設を許可した。

この君主のもとへは、628年にムハンマドの使者も訪れた。彼らは交易船で広州へ来た。アラビアからインド沿岸を通り、海路をはるばる航海してきたのである。ヘラクレイオスやカワードと異なり、太宗は使節の話へ礼儀正しく耳を傾けた。その神学思想への関心を示し、広州にモスクを建てるのを援助した。そのモスクは、世界最古のモスクとして今日まで残っているという。

第四十三章 ムハンマドとイスラム

七世紀初頭の世界を眺めた、歴史に通じる予言者がいたなら、あと数世紀でヨーロッパとアジアの全域がモンゴル人の支配下へ入ると結論しても、十分に合理的だっただろう。西ヨーロッパには秩序も統一も兆しがなく、ビザンティン帝国とペルシア帝国は、明らかに互いを滅ぼそうとしていた。インドも分裂し、荒廃していた。一方、中国は着実に拡大する帝国で、当時すでに全ヨーロッパを人口で上回っていたと思われる。中央アジアで台頭しつつあったトルコ系民族も、中国と協調する傾向があった。しかも、そのような予言はまったく根拠のないものではなかった。十三世紀には、モンゴル人の大君主がドナウ川から太平洋までを支配する時代が訪れる。そしてトルコ系王朝は、ビザンティン帝国とペルシア帝国の全域、エジプト、インドの大半を治めることになる。

その予言者が最も誤りそうなのは、ヨーロッパのラテン語圏が持つ回復力を過小評価し、アラビア砂漠に潜む力を無視することだっただろう。アラビアは太古の昔から変わらぬ、小さく争いの絶えない遊牧諸部族の避難所に見えたはずだ。セム系民族が帝国を築くことは、すでに千年以上なかった。

ところが突然、ベドウィンは一世紀だけ続く鮮烈な光を放った。その支配と言語を、スペインから中国国境まで広げた。世界に新しい文化を与え、今日なお世界で最も生命力ある勢力の一つである宗教を創り出した。

このアラブの炎に火をつけた男は、歴史に初めて登場した時、メッカの裕福な商人の未亡人と結婚した若者だった。名はムハンマド。四十歳になるまで、世間で目立つことはほとんど何もしなかった。宗教的議論にはかなりの関心を抱いていたらしい。当時のメッカは異教の都市で、特にカアバの黒石を崇拝していた。黒石は全アラビアで高い名声を持ち、巡礼の中心となっていた。しかし国内にはユダヤ人も非常に多く――実際、アラビア南部全体がユダヤ教を信奉していた――シリアにはキリスト教会もあった。

四十歳頃から、ムハンマドは千二百年前のヘブライ人預言者に似た性質を現し始めた。最初は妻に、唯一の真なる神、徳と悪に対する報酬と罰について語った。その思想がユダヤ教とキリスト教から強い影響を受けていたことに疑いはない。周囲へ少数の信者を集め、やがて町で、広く行われていた偶像崇拝を批判する説教を始めた。これは同郷人から激しい反感を買った。カアバへの巡礼こそ、メッカが享受する繁栄の主要な源だったからである。ムハンマドは次第に大胆かつ明確に教えを説き、自らを宗教完成の使命を託された、神に選ばれた最後の預言者であると宣言した。アブラハムとイエス・キリストは自らの先駆者であり、神の御心の啓示を完成させるため、自分が選ばれたのだと説いた。

ムハンマドは、天使から伝えられたという章句を作り、天を昇って神のもとへ導かれ、自らの使命について教えを受けたという、不思議な幻視も経験した。

砂漠での祈り

写真:Lehnert & Landrock

その教えが力を増すにつれ、同郷人の敵意も強まった。ついには暗殺の陰謀が企てられたが、忠実な友であり弟子でもあるアブー・バクルとともに、教えを受け入れてくれた友好的な都市メディナへ逃れた。メッカとメディナの間で戦争が続き、最後には条約が結ばれた。メッカは唯一の真なる神を崇拝し、ムハンマドをその預言者として受け入れる。しかし、新信仰の信者も、異教徒だった頃と変わらずメッカ巡礼を続けることになった。こうしてムハンマドは、巡礼による収益を損なうことなく、メッカに唯一の真なる神を確立した。629年、ヘラクレイオス、太宗、カワードをはじめ世界の全君主へ使節を送った翌年、ムハンマドはメッカへ支配者として帰還した。

砂の海を望む

写真:Lehnert & Landrock

その後632年に死ぬまでの四年間、ムハンマドはアラビアの残りの地域へ勢力を広げた。晩年には多くの妻を娶り、その生涯は全体として、近代の基準から見て模範的とは言いがたい。相当な虚栄心、貪欲、狡猾さ、自己欺瞞と、まったく真摯な宗教的情熱が混じり合った人物だったらしい。訓戒と解説からなる書物、コーランを口述し、それは神から伝えられたものだと宣言した。文学または哲学として見れば、コーランは神が著者だという主張に値しないことは確かである。

それでもムハンマドの生涯と著作に明白な欠点があることを認めたうえで、彼がアラブ人へ与えたこの信仰、イスラムには、なお大きな力と霊感が残る。第一は妥協のない一神教であり、神の支配と父性に対する単純で情熱的な信仰、そして神学的複雑さからの自由である。第二は供犠を行う祭司と神殿から完全に切り離されていることだ。イスラムは徹底して預言者的な宗教であり、血の供犠への逆戻りを許さない。コーランにはメッカ巡礼の限定的・儀礼的性格が疑問の余地なく記され、ムハンマドは死後に自らが神格化されるのを防ぐため、あらゆる用心を講じた。第三の強みは、肌の色、出自、身分を問わず、すべての信者が完全な兄弟であり、神の前で平等であると強調した点にあった。

イスラムを人類史上の大きな力としたのは、これらの要素である。イスラム帝国の真の創設者は、ムハンマドというより、その友であり援助者だったアブー・バクルだともいわれる。揺れ動く性格のムハンマドが原始イスラムの精神と想像力だったなら、アブー・バクルはその良心と意志だった。ムハンマドが動揺するたび、アブー・バクルが支えた。ムハンマドの死後、アブー・バクルはカリフ(=後継者)となった。そして山をも動かす信仰をもって、三千、四千人ほどのアラブ人の小軍を率い、アッラーのもとに全世界を服従させる事業を、単純かつ冷静に組織し始めた。預言者が628年にメディナから世界の全君主へ送った書状の内容を、実行に移したのである。

第四十四章 アラブ人の黄金時代

ここから、人類史上最も驚異的な征服物語が始まる。634年、ビザンティン軍はヤルムーク川(ヨルダン川の支流)の戦いで粉砕された。水腫に活力を奪われ、ペルシア戦争で資源を使い果たした皇帝ヘラクレイオスは、シリアで新たに得た征服地――ダマスカス、パルミラ、アンティオキア、エルサレムなど――が、ほとんど抵抗もなくムスリムの手へ落ちるのを見た。住民のかなりの部分がイスラムへ改宗した。次いでムスリムは東へ向かった。ペルシアにはルスタムという有能な将軍がいて、象部隊を含む大軍を擁していた。カーディシーヤ(637年)で三日間アラブ人と戦ったが、最後には総崩れとなった。

続いてペルシア全土が征服され、イスラム帝国は西トルキスタンの奥深く、東は中国と接するところまで進出した。エジプトもほとんど抵抗せず新たな征服者へ屈した。コーランだけで十分だという狂信的信念に満ちた征服者は、アレクサンドリア図書館に残っていた書物複写業の痕跡を一掃した。征服の波は北アフリカ沿岸を進み、ジブラルタル海峡を越えてスペインへ達した。スペイン侵入は710年、ピレネー山脈到達は720年だった。732年にはアラブ軍がフランス中央部へ達したが、ポワティエの戦いで完全に阻止され、再びピレネーまで押し返された。エジプト征服によってムスリムは艦隊を得たため、一時はコンスタンティノープルも陥落させるかに見えた。672年から718年まで繰り返し海上攻撃を行ったが、この大都市は持ちこたえた。

アラブ人には政治的才能が乏しく、政治経験もなかった。首都をダマスカスに置き、スペインから中国まで広がったこの大帝国は、きわめて急速に分裂する運命にあった。当初から教義上の対立がその統一を蝕んでいた。しかしここで関心を向けるのは、政治的解体の物語ではなく、人間精神と人類全般の運命へ与えた影響である。アラブの知性は、千年前のギリシアの知性以上に急速かつ劇的に世界へ投げ広げられた。中国以西の全世界が知的刺激を受け、古い思想が崩壊し、新しい思想が発展した。その影響は甚大だった。

ペルシアで、この新鮮で興奮したアラブの精神が出会ったのは、マニ教、ゾロアスター教、キリスト教の教義だけではなかった。ギリシア語原典だけでなくシリア語訳でも保存されていた、ギリシアの科学文献にも触れた。エジプトでもギリシアの学問を発見した。至るところ、とりわけスペインでは、活発な思索と議論を続けるユダヤの伝統を見いだした。中央アジアでは仏教と中国文明の物質的成果に出会った。印刷書籍を可能にする紙の製法を、中国人から学んだ。そして最後に、インドの数学と哲学へ接触した。

オマル・モスクを望むエルサレム

写真:Lehnert & Landrock

信仰初期の不寛容な独善、コーランこそ唯一可能な書物であるという考えは、たちまち捨てられた。アラブ人征服者の足跡を追うように、至るところで学問が興った。八世紀までに、「アラブ化」した全世界へ教育組織が行き渡った。九世紀には、スペインのコルドバの学者が、カイロ、バグダード、ブハラ、サマルカンドの学者と文通していた。ユダヤ人の精神はアラブ人の精神と容易に融合し、一時期、二つのセム系民族はアラビア語を介して協力した。アラブ人が政治的に分裂し、弱体化してからも、アラビア語世界の知的共同体は長く存続した。十三世紀になっても、なお非常に重要な成果を生み出していた。

カイロのモスク群

写真:Lehnert & Landrock

こうして、ギリシア人が初めて開始した事実の体系的な蓄積と批判が、セム世界の驚くべき復興の中で再開された。アリストテレスとアレクサンドリアのムセイオンが蒔き、長く不活発なまま顧みられずにいた種子が、今や発芽し、結実へ向かって成長し始めた。数学、医学、物理学は大いに進歩した。不格好なローマ数字は、今日まで使われるアラビア数字に取って代わられ、ゼロの記号も初めて用いられた。「代数学(algebra)」という名称そのものがアラビア語である。「化学(chemistry)」もそうである。アルゴル、アルデバラン、ボエテスなどの星名は、天空におけるアラブ人の征服の痕跡を残している。アラブ哲学は、フランスとイタリア、そしてキリスト教世界全体の中世哲学を再び活気づけることになる。

アラブ人の実験化学者は錬金術師と呼ばれたが、その精神にはなお野蛮なところがあり、方法と成果を可能な限り秘密にした。発見の可能性が自分たちにいかに大きな利益を与え、人間生活へいかに遠大な影響を及ぼしうるかを、当初から理解していたのである。合金、染料、蒸留法、チンキ、精油、光学ガラスなど、極めて有用な冶金・技術上の工夫を数多く発見した。しかし彼らが追い求めた二つの大目標は、ついに見いだせなかった。一つは金属元素を別の元素へ変え、人工的な金を自在に作るための「賢者の石」。もう一つは、老いた身体を蘇らせ、寿命を無期限に延ばす刺激剤、生命の霊薬だった。アラブ錬金術師の難解で忍耐強い実験は、キリスト教世界へも広がった。その探究が持つ魅力も伝播した。ごくゆっくりと、錬金術師の活動はより社会的で協力的なものになった。思想を交換し、比較することが有益だと気づいたのである。気づかぬほどの段階を経て、最後の錬金術師は、最初の実験哲学者となった。

古い錬金術師は卑金属を金へ変える賢者の石と、不死の霊薬を探し求めた。彼らが実際に見いだしたのは、やがて人間に世界と自身の運命を支配する無限の力を与えると期待される、近代実験科学の方法だった。

第四十五章 ラテン・キリスト教世界の発展

七、八世紀、アーリア人の支配下に残された世界が、いかに狭小なものとなっていたかは注目に値する。その千年前には、アーリア語族は中国以西の全文明世界を制覇していた。ところが今や、モンゴル人はハンガリーにまで進出し、アジアでアーリア人の支配下に残されたのは小アジアのビザンツ帝国領だけとなり、アフリカ全土とスペインのほぼ全域も失われていた。かつての大ヘレニズム世界は、交易都市コンスタンティノープルを中心とするわずかな領土に縮小し、ローマ世界の記憶は、西方キリスト教の司祭たちが用いるラテン語によって辛うじて保たれていた。この退潮の物語とは鮮やかな対照をなして、セム人の伝統は、千年にわたる暗黒と隷属、忘却の中から再び立ち上がっていた。

それでも、北方諸民族の活力は尽きていなかった。今や中央ヨーロッパと北西ヨーロッパに閉じ込められ、社会と政治についての考えもひどく混乱していたが、それでも彼らは、ゆっくりと着実に新たな社会秩序を築き上げ、かつて享受したものを上回る広大な力を取り戻すための準備を、無意識のうちに進めていた。

六世紀初頭、西ヨーロッパには中央政府と呼べるものが一切残っていなかったことは、すでに述べた。その世界は、各地で何とか自らの地位を守る多数の地方支配者によって分割されていた。あまりにも不安定で、長続きするはずのない状態である。この混乱の中から協力と結合の制度、すなわち封建制度が生まれた。その痕跡は今日に至るまでヨーロッパの生活に残っている。この封建制度とは、権力を核として社会が結晶化していくような仕組みだった。孤立した人間は至るところで身の危険を感じ、援助と保護を得るためなら、自由の一部を手放す覚悟があった。そこで、自分より強い者を主君および保護者として仰ぎ、軍役を提供し、貢納を納める代わりに、自らの所有物に対する権利を保証してもらった。その主君もまた、さらに強大な主君の臣下となることで安全を得た。都市も封建的な保護者を持つことに利便を見いだし、修道院や教会領も同様の絆を結んだ。むろん多くの場合、忠誠は自発的に捧げられるより先に要求されたに違いない。この制度は下から上へだけでなく、上から下へも広がっていった。こうして一種のピラミッド型制度が形成された。その形態は地域によって大きく異なり、当初は暴力や私戦がかなり横行する余地を残していたものの、着実に秩序と新たな法の支配へ向かっていった。ピラミッドは成長し、その一部はやがて王国として認識されるまでになった。すでに六世紀初頭には、今日のフランスとオランダに当たる地域に、創始者クローヴィスのもとでフランク王国が成立しており、ほどなく西ゴート、ランゴバルド、東ゴートの諸王国も出現した。

七二〇年にピレネー山脈を越えたイスラム軍は、このフランク王国が、クローヴィスの退廃した子孫に仕える宮宰カール・マルテルによって事実上統治されているのを知った。そしてポワティエの戦い(七三二年)で、カール・マルテルから決定的な敗北を喫した。彼は実質的に、ピレネーからハンガリーに至るアルプス以北のヨーロッパの宗主だった。その下には、フランス化したラテン語や、高地ドイツ語、低地ドイツ語を話す無数の従属領主がいた。その息子ピピンはクローヴィス最後の子孫を廃し、王の地位と称号を手にした。孫のカール大帝は七六八年に即位し、自らの領土があまりにも広大だったため、ラテン皇帝の称号を復活させることまで考えるようになった。北イタリアを征服し、ローマの支配者となったのである。

世界史という広い視野からヨーロッパの物語を眺めれば、偏狭な民族主義史家よりはるかに明瞭に、ラテン系ローマ帝国の伝統がいかに人々を束縛し、災いをもたらしたかが見えてくる。この幻影のような覇権をめぐる激烈で狭量な闘争は、その後千年以上にわたってヨーロッパの活力を浪費することになる。その全期間を通じて、消しがたい幾つかの対立をたどることができる。それらは、狂気に陥った精神を取りつく妄念のように、ヨーロッパ人の知性を貫いていた。推進力の一つは、成功した支配者がカエサルになろうとする野望であり、カール大帝はその化身だった。彼の領域は、文明化の程度を異にする封建的ゲルマン諸国の複合体だった。ライン川以西では、ゲルマン系諸民族の大半がさまざまなラテン化方言を話すようになり、それらはやがて融合してフランス語となった。ライン川以東では、人種的には同系のゲルマン諸民族がゲルマン語を失わなかった。このため、蛮族の征服者から成る二集団の意思疎通は難しく、分裂は容易に起こった。さらにフランク族には、王の死後に帝国を息子たちで分割するのが当然だと考える慣習があり、これがカール大帝の帝国の分裂をいっそう容易にした。したがってカール大帝以後のヨーロッパ史の一面は、まずこの君主とその一族、次いで別の君主とその一族が、ヨーロッパの王、諸侯、公爵、司教、都市の上に立つ不安定な首長の座を争う歴史である。その雑多な世界では同時に、フランス語を話す勢力とドイツ語を話す勢力の対立が、着実に深まっていった。皇帝の選出には一応の選挙形式があり、その野望の頂点は、疲弊し、場所としても不適切な首都ローマを手に入れ、そこで戴冠することだった。

ヨーロッパの政治的混乱を生んだ次の要因は、いかなる世俗君主でもなく、ローマ教皇自身が事実上の皇帝になろうとしたローマ教会の決意である。教皇はすでに最高神祇官であり、実質的に衰退するローマ市を掌握していた。軍隊こそ持たなかったが、ラテン世界全域に配置された司祭という巨大な宣伝組織を有していた。人々の肉体を支配する力は乏しくとも、その想像の中では天国と地獄の鍵を握り、魂に大きな影響を及ぼすことができた。こうして中世を通じ、ある君主が別の君主を相手に、まず対等の地位を、次いで優位を、最後には最高の褒賞を求めて策動する一方、ローマ教皇もまた、ある時は大胆に、ある時は狡猾に、ある時は弱々しく策を巡らせた。教皇は年配者が相次いで就く地位で、その平均在位期間は二年にも満たなかったが、それでもキリスト教世界の究極の宗主として、すべての君主を自らに服従させようとしたのである。

しかし、君主同士の対立と皇帝対教皇の対立だけで、ヨーロッパの混乱を生んだ要因が尽くされるわけではない。コンスタンティノープルにはなお、ギリシア語を話し、全ヨーロッパの忠誠を要求する皇帝がいた。カール大帝が復興させようとした帝国は、帝国のラテン側だけにすぎなかった。当然、ラテン帝国とギリシア帝国の間には、たちまち対抗意識が生じた。さらに容易に発展したのが、ギリシア語圏のキリスト教と、それより新しいラテン語版キリスト教との対立である。ローマ教皇は、自らをキリストの使徒の長である聖ペテロの後継者であり、全世界のキリスト教共同体の首長だと主張した。コンスタンティノープルの皇帝も総主教も、この主張を認めるつもりはなかった。聖三位一体の教義をめぐる微妙な論点についての争いが、長く続いた不和を一〇五四年の最終的な決裂へと導いた。ラテン教会とギリシア教会は、それ以後、明確に別個の存在となり、公然と敵対し続けた。中世にラテン・キリスト教世界を疲弊させた争いを考える際には、この対立も加えなければならない。

パリ、ノートルダム大聖堂前のカール大帝像 この像は完全に想像とロマン主義の産物である。カール大帝の同時代の肖像は存在しない

写真:リシュギッツ

分裂したこのキリスト教世界には、三つの敵対勢力から打撃が降り注いだ。バルト海と北海周辺には、キリスト教化がきわめて遅く、しかも不承不承にしか進まなかった北方系諸部族が残っていた。ノルマン人である。彼らは海に進出して海賊となり、スペインに至るまでキリスト教圏のあらゆる沿岸を襲撃した。ロシアの河川をさかのぼって荒涼とした内陸部へ入り、船を陸越えさせて南へ流れる河川に乗り入れた。カスピ海と黒海にも海賊として進出した。ロシアに諸公国を築き、初めて「ロシア人」と呼ばれた人々となった。このノルマン系ロシア人は、コンスタンティノープルを奪取する寸前まで迫った。九世紀初頭のイングランドは、カール大帝の庇護を受け、その教えを受けたエグバート王のもとにある、キリスト教化された低地ゲルマン人の国だった。ノルマン人は、その後継者アルフレッド大王から王国の半分を奪い(八八六年)、ついにはクヌートのもとで全土の支配者となった(一〇一六年)。別のノルマン人集団は、ロロ(九一二年)のもとでフランス北部を征服し、その地はノルマンディーとなった。

クヌートはイングランドだけでなくノルウェーとデンマークも支配したが、その短命な帝国は彼の死とともに、蛮族の政治的弱点、すなわち息子たちによる領土分割のために崩壊した。この一時的なノルマン人の統合が続いていたなら、何が起きていたかと想像するのは興味深い。彼らは驚くべき大胆さと活力を備えた民族だった。ガレー船でアイスランド、さらにはグリーンランドにまで航海した。アメリカ大陸に上陸した最初のヨーロッパ人でもある。後にはノルマン人の冒険者たちがサラセン人からシチリアを奪還し、ローマを略奪することになる。クヌートの王国から、アメリカからロシアに及ぶ北方の大海洋国家が成長していたかもしれないと想像するのは、実に魅力的である。

ゲルマン人とラテン化したヨーロッパ人の東には、スラヴ諸部族とテュルク系諸民族が入り交じっていた。その中でも目立っていたのがマジャル人、すなわちハンガリー人で、八、九世紀を通じて西へ移動していた。カール大帝は一時彼らを食い止めたが、その死後、彼らは今日のハンガリーに定着した。そして同族の先行者であるフン人と同じく、毎年夏になるとヨーロッパの定住地域を襲撃した。九三八年にはドイツを抜けてフランスに入り、アルプスを越えて北イタリアに進み、放火、略奪、破壊を重ねて帰還した。

最後に、南からローマ帝国の残骸を絶えず打ち砕いていたのがサラセン人だった。彼らは海の大部分を支配しており、海上で手ごわい敵といえば、黒海から出てくるロシア系ノルマン人と、西方のノルマン人だけだった。

より活力に富み、攻撃的な諸民族に包囲され、理解できない力と測りようのない危険に囲まれながら、カール大帝と、その後に続く野心家たちは、神聖ローマ帝国の名のもとに西ローマ帝国を復興するという、空しい劇に身を投じた。カール大帝以後、この理念は西ヨーロッパの政治生活に取りついた。一方、東ではローマ帝国のギリシア側が衰退、縮小を続け、ついには腐敗した交易都市コンスタンティノープルと、その周囲数マイル(数キロメートル)の領土しか残らなくなった。政治的には、カール大帝の時代以後のヨーロッパ大陸は、千年にわたって伝統に縛られ、何一つ創造できないままだった。

カール大帝の名はヨーロッパ史上に大きくそびえているが、その人物像はぼんやりとしか見えない。読み書きはできなかったが、学問にはかなりの敬意を払い、食事中に本を朗読させることを好み、神学論争にも目がなかった。アーヘンまたはマインツの冬営地には多数の学者を集め、彼らとの会話から多くを学んだ。夏には、スペインのサラセン人、スラヴ人、マジャル人、ザクセン人、その他まだ異教徒だったゲルマン諸部族と戦った。ロムルス・アウグストゥルスの後継者としてカエサルになるという考えが、北イタリア獲得以前から本人にあったのか、それともラテン教会をコンスタンティノープルから独立させたがっていた教皇レオ三世が吹き込んだのかは定かでない。

ローマでは、教皇が彼に帝冠を授けたように見せるか、見せないかをめぐって、教皇と未来の皇帝の間に実に奇妙な駆け引きが展開された。教皇は西暦八〇〇年のクリスマス、サン・ピエトロ大聖堂で、訪問者であり征服者でもあるカール大帝の不意を突いて戴冠することに成功した。冠を取り出してその頭に載せ、カエサルにしてアウグストゥスであると宣言したのである。民衆からは大歓声が上がった。だがカール大帝は、このやり方を決して喜ばなかった。敗北を喫したかのように心に引っかかり続け、息子には、教皇に皇帝として戴冠させてはならず、自らの手で冠を取り、自分で頭に載せよと、きわめて慎重な指示を残した。こうして帝国復興の出発点ですでに、教皇と皇帝がどちらを上位とするかをめぐる、幾世紀にも及ぶ争いが始まったのである。しかしカール大帝の息子ルートヴィヒ敬虔王は父の指示を無視し、教皇に完全に服従した。

カール大帝の帝国はルートヴィヒ敬虔王の死後に分裂し、フランス語を話すフランク人とドイツ語を話すフランク人との亀裂は広がった。次に皇帝として現れたのはオットーだった。彼は、九一九年にドイツの諸侯と高位聖職者の会議でドイツ王に選ばれたザクセン人、ハインリヒ捕鳥王の息子である。オットーはローマに進軍し、九六二年に同地で皇帝として戴冠した。このザクセン王朝は十一世紀初頭に絶え、別のドイツ人支配者に取って代わられた。西方でさまざまなフランス語方言を話していた封建諸侯や貴族は、カール大帝の子孫であるカロリング朝が断絶した後、これらドイツ皇帝の支配下には入らなかった。また、ブリテン島のどの地域も神聖ローマ帝国に属したことはない。ノルマンディー公、フランス王、多数の小封建領主は帝国外にとどまった。九八七年、フランス王国はカロリング家の手を離れ、ユーグ・カペーの手に渡った。その子孫は十八世紀にもなお王位にあった。ユーグ・カペーの時代、フランス王が実際に支配していたのは、パリ周辺の比較的小さな領域にすぎなかった。

一〇六六年、イングランドは、ノルウェー王ハーラル三世苛烈王率いるノルウェー系ノルマン人と、ノルマンディー公率いるラテン化したノルマン人から、ほぼ同時に侵攻を受けた。イングランド王ハロルドはスタンフォード・ブリッジの戦いで前者を破ったが、ヘイスティングズで後者に敗れた。イングランドはノルマン人に征服され、スカンディナヴィア、ドイツ、ロシアの諸事情から切り離される一方、フランスときわめて密接な関係、そして対立を持つようになった。その後四世紀にわたり、イングランド人はフランス封建諸侯の争いに巻き込まれ、フランスの戦場で力を浪費することになる。

第四十六章 十字軍と教皇支配の時代

カール大帝が、『千夜一夜物語』で知られるカリフ、ハールーン・アッ=ラシードと書簡を交わしていたことは興味深い。記録によれば、ハールーン・アッ=ラシードは、イスラム世界の首都としてダマスカスに代わっていたバグダードから使節を送り、豪華な天幕、水時計、象、そして聖墳墓の鍵を贈ったという。最後の贈り物は、エルサレムのキリスト教徒を保護する正当な立場にあるのはビザンツ帝国か、新たな神聖ローマ帝国かをめぐり、両者を争わせるには格好の品だった。

これらの贈り物は、九世紀のヨーロッパがなお戦争と略奪の混沌に沈んでいた一方、エジプトとメソポタミアでは、ヨーロッパのいかなる国よりもはるかに文明化した大アラブ帝国が繁栄していたことを思い出させる。そこでは文学と科学がなお生き、芸術が栄え、人間の精神は恐怖や迷信に妨げられず活動することができた。サラセン人の領土が政治的混乱に陥りつつあったスペインと北アフリカにさえ、活発な知的生活が存在した。ヨーロッパが暗黒に包まれていたこの数世紀、ユダヤ人とアラブ人はアリストテレスを読み、論じていた。彼らは顧みられなくなった科学と哲学の種を守ったのである。

カリフの領土の北東には、多数のテュルク系部族がいた。彼らはイスラム教に改宗しており、南方の知的活動の盛んなアラブ人やペルシア人よりも、はるかに単純かつ熱烈に信仰を抱いていた。十世紀には、アラブ人の勢力が分裂、衰退する一方、トルコ人は強大かつ精力的になりつつあった。トルコ人とカリフ帝国との関係は、その千四百年前におけるメディア人と末期バビロニア帝国との関係に酷似していた。十一世紀、セルジューク・トルコと呼ばれるテュルク系部族集団がメソポタミアへ南下し、カリフを名目上の支配者としながら、実際には捕虜かつ道具とした。彼らはアルメニアを征服し、次いで小アジアに残るビザンツ勢力を攻撃した。一〇七一年、ビザンツ軍はマンジケルトの戦いで徹底的に打ち砕かれ、トルコ軍はアジアからビザンツ支配の痕跡が一掃されるまで進撃した。さらにコンスタンティノープルの対岸にあるニカイアの要塞を奪い、同市への攻撃準備を始めた。

ビザンツ皇帝ミカエル七世は恐怖に打ちのめされた。彼はすでに、ドゥラッツォを占領したノルマン人冒険者の一団や、ドナウ川を越えて襲撃を繰り返す凶猛なテュルク系民族ペチェネグ人との戦争に深く巻き込まれていた。窮地に陥った皇帝は、得られるところならどこにでも助けを求めた。注目すべきことに、西方皇帝ではなく、ラテン・キリスト教世界の首長であるローマ教皇に訴えたのである。彼は教皇グレゴリウス七世に書簡を送り、その後継者アレクシオス・コムネノスは、ウルバヌス二世にさらに切迫した要請を送った。

エクセター大聖堂の十字軍騎士の墓

写真:マンセル

ラテン教会とギリシア教会が決裂してから、まだ四半世紀も経っていなかった。その論争は人々の記憶に生々しく残っており、このビザンツ帝国の災難は教皇にとって、反抗的なギリシア人に対するラテン教会の優位を改めて確立する絶好の機会に見えたに違いない。さらにこの機会は、西方キリスト教世界を大いに悩ませていた二つの問題を処理する好機でもあった。一つは社会生活を乱す「私戦」の慣習、もう一つは低地ゲルマン人とキリスト教化されたノルマン人、とりわけフランク人とノルマン人にあり余っていた戦闘意欲である。そこで、エルサレムを占領したトルコ人に対する宗教戦争、すなわち十字軍、「十字架の戦い」が説かれ、キリスト教徒同士のあらゆる戦闘には休戦が命じられた(一〇九五年)。この戦争の公表された目的は、異教徒から聖墳墓を奪還することだった。隠者ピエールと呼ばれる男が、広く民衆に訴えるやり方でフランスとドイツ各地を宣伝して回った。粗末な衣をまとい、裸足でロバに乗り、巨大な十字架を掲げ、街路、市場、教会で群衆に熱弁を振るった。トルコ人がキリスト教徒の巡礼者に加える残虐行為を糾弾し、聖墳墓がキリスト教徒以外の手にある恥辱を訴えた。数世紀に及ぶキリスト教教育の成果は、人々の反応となって現れた。巨大な熱狂の波が西方世界を覆い、民衆としてのキリスト教世界が自らの存在に目覚めたのである。

カイロの眺望

写真:レーナート&ランドロック

この時に起きた、一つの理念をめぐる広範な民衆蜂起は、人類史上初めてのものだった。ローマ帝国、インド、中国のそれまでの歴史にも、これに比肩するものはない。ただし、より小規模ながら、バビロン捕囚から解放された後のユダヤ人の間には同様の運動があり、後にはイスラム世界も、集団感情に対する同種の感応性を示すことになる。このような運動は、布教と教育を使命とする宗教の発展によって、生活に入り込んだ新たな精神と確かに結びついていた。ヘブライの預言者、イエスと弟子たち、マニ、ムハンマドは、いずれも一人ひとりの魂に呼びかけた。彼らは個人の良心を神と直接向き合わせた。それ以前の宗教は、良心よりも呪物や疑似科学に関わる営みだった。古い宗教は神殿、秘儀を授けられた司祭、神秘的な供犠を中心とし、恐怖によって民衆を奴隷のように支配した。新しい宗教は、民衆を一人の人間にした。

第一回十字軍の説教は、ヨーロッパ史における最初の民衆の胎動だった。近代民主主義の誕生と呼ぶのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも近代民主主義がその時、身動きを始めたのは確かである。ほどなくそれは再び動きだし、社会と宗教を根底から揺るがす問題を提起することになる。

むろん、この民主主義の最初の胎動は、実に痛ましく悲惨な結末を迎えた。軍隊というより群衆と呼ぶべき多数の民衆が、指導者も適切な装備も待たず、聖墳墓を救おうとフランス、ラインラント、中央ヨーロッパから東へ出発した。これが「民衆十字軍」である。

二つの巨大な暴徒集団がハンガリーへ迷い込み、改宗して間もないマジャル人を異教徒と誤認して残虐行為を働き、皆殺しにされた。同じように混乱した第三の群衆は、ラインラントでユダヤ人を大虐殺した後、東進したが、これもハンガリーで壊滅した。さらに二つの大群衆が、隠者ピエール自身の指揮下でコンスタンティノープルに到着し、ボスポラス海峡を渡ったが、セルジューク・トルコ軍に、敗北というより虐殺された。ヨーロッパ民衆が「民衆として」起こした最初の運動は、こうして始まり、こうして終わった。

翌年(一〇九七年)、本格的な戦闘部隊がボスポラス海峡を渡った。その指導者と精神は、基本的にノルマン人のものだった。彼らはニカイアを強襲し、その千四百年前にアレクサンドロス大王がたどったのとほぼ同じ経路を通ってアンティオキアへ進軍した。アンティオキア包囲には一年を費やし、一〇九九年六月にはエルサレムを包囲した。一か月後、都市は強襲によって陥落した。凄惨な殺戮だった。馬で進む者たちは、街路を流れる血を浴びた。七月十五日の日暮れ、十字軍兵士たちは戦いながら聖墳墓教会へ突入し、そこにいたあらゆる抵抗者を打ち倒した。血にまみれ、疲れ果て、「あまりの喜びにむせび泣き」ながら、彼らはひざまずいて祈った。

ヴェネツィア、サン・マルコ寺院の馬像 もとはコンスタンティノープルのトラヤヌス記念門にあった。第四回十字軍後、総督ダンドロ五世がヴェネツィアへ持ち帰り、後にナポレオン一世がパリへ移したが、一八一五年にヴェネツィアへ返還された。一九一四~一八年の第一次世界大戦中には、空襲を恐れて隠された。

写真:D・マクリーシュ

ただちにラテン人とギリシア人の敵意が再燃した。十字軍はラテン教会の僕であり、エルサレムのギリシア正教総主教は、勝ち誇るラテン人の支配下で、トルコ人の支配下にあった時よりはるかに悲惨な立場に置かれた。十字軍はビザンツ帝国とトルコの間に挟まれ、双方を相手に戦うことになった。小アジアの多くはビザンツ帝国によって奪還され、ラテン人諸侯には、トルコ人とギリシア人の間の緩衝地帯として、エルサレムと、シリアのエデッサをはじめとする幾つかの小公国が残された。これらの領土さえ保持は危うく、一一四四年にはエデッサがイスラム軍の手に落ちた。これを受けて実施された第二回十字軍は成果を上げず、エデッサ奪回には失敗したが、アンティオキアが同じ運命をたどることだけは防いだ。

一一六九年、イスラム勢力はサラディンというクルド人冒険者のもとに結集した。彼はエジプトの支配者となり、キリスト教徒に対する聖戦を説き、一一八七年にエルサレムを奪還した。これが第三回十字軍を引き起こしたが、エルサレム奪回には失敗した。第四回十字軍(一二〇二~〇四年)では、ラテン教会は公然とギリシア帝国に矛先を向け、もはやトルコ人と戦うふりさえしなかった。十字軍はヴェネツィアを出発し、一二〇四年にコンスタンティノープルを強襲した。この冒険を主導したのは、新興の大交易都市ヴェネツィアであり、ビザンツ帝国の沿岸部と島々の大半はヴェネツィアに併合された。コンスタンティノープルには「ラテン人」皇帝、フランドル伯ボードゥアンが据えられ、ラテン教会とギリシア教会の再統合が宣言された。ラテン皇帝は一二〇四年から一二六一年までコンスタンティノープルを支配したが、一二六一年、ギリシア世界は再びローマの優位から脱した。

したがって十二世紀と十三世紀初頭は、十一世紀がセルジューク・トルコ優位の時代、十世紀がノルマン人の時代だったのと同様、教皇優位の時代だった。教皇の支配下に統一されたキリスト教世界は、この時期、後にも先にもないほど現実に近づいた。

アルハンブラ宮殿の中庭

写真:レーナート&ランドロック

この数世紀、素朴なキリスト教信仰は、ヨーロッパの広大な地域で現実の力を持ち、広く浸透していた。ローマ自体は暗黒と不名誉の時代を幾度か経験していた。十世紀の教皇ヨハネス十一世とヨハネス十二世の生涯を弁護できる著述家は、ほとんどいない。二人は忌まわしい人物だった。しかしラテン・キリスト教世界の心臓と身体は、真摯で素朴なままだった。一般の司祭、修道士、修道女の多くは模範的で信仰深い生活を送った。そうした生活が生んだ豊かな信頼の上に、教会の力は築かれていた。過去の偉大な教皇には、グレゴリウス一世こと大グレゴリウス(一位五九〇~六〇四年)や、カール大帝にカエサルとなるよう求め、本人の意に反して戴冠したレオ三世(在位七九五~八一六年)がいた。十一世紀末には、偉大な聖職者政治家ヒルデブラントが現れ、教皇グレゴリウス七世(在位一〇七三~八五年)として生涯を終えた。その次の次には、第一回十字軍の教皇ウルバヌス二世(在位一〇八七~九九年)が続いた。この二人が、教皇が皇帝の上に君臨した教皇権絶頂期の創始者だった。ブルガリアからアイルランドまで、ノルウェーからシチリア、エルサレムまで、教皇は最高権力者だった。グレゴリウス七世は皇帝ハインリヒ四世に、悔悛してカノッサまで来ることを強いた。皇帝は粗布をまとい、雪の上を裸足で立ち、城の中庭で三日三晩、赦しを待った。一一七六年にはヴェネツィアで、皇帝フリードリヒ、すなわちフリードリヒ・バルバロッサが教皇アレクサンデル三世の前にひざまずき、忠誠を誓った。

十一世紀初頭における教会の巨大な力は、人々の意志と良心の中にあった。しかし教会は、その力の基盤だった道徳的威信を保てなかった。十四世紀初頭には、教皇の権力がすでに蒸発していることが明らかになった。キリスト教世界の民衆が教会に寄せていた素朴な信頼を破壊し、その呼びかけに応じず、その目的に奉仕しなくなった原因は何だったのだろうか。

最初の問題は、間違いなく教会による富の蓄積だった。教会は死なない。子のない人々は臨終に際し、土地を教会へ遺贈しがちだった。悔悛した罪人も、そうするよう勧められた。その結果、多くのヨーロッパ諸国で、土地の四分の一にも及ぶ部分が教会財産となった。財産欲は満たされるほど増大する。すでに十三世紀には、司祭は善人ではない、いつも金と遺産を追い求めている、と至るところで言われていた。

王や諸侯は、こうした財産の流出をひどく嫌った。軍事的支援を提供できる封建領主に代わり、彼らの土地は修道院、修道士、修道女を養っていた。しかも、その土地は実質的に外国の支配下にあった。教皇グレゴリウス七世以前から、諸侯と教皇庁の間では「叙任権」、すなわち誰が司教を任命するかをめぐる争いが起きていた。その権限が王ではなく教皇にあるなら、王は臣民の良心に対する統制だけでなく、領土の相当部分に対する統制まで失う。聖職者は免税特権も要求し、税はローマへ納めた。それだけではない。教会は、平信徒が君主へ納める税とは別に、その財産の十分の一を徴収する権利まで主張した。

ラテン・キリスト教圏のほぼすべての国の歴史には、十一世紀に同じ局面が見られる。叙任権をめぐる君主と教皇の争いであり、概して教皇の勝利に終わった。教皇は、君主を破門し、その臣民を忠誠義務から解放し、後継者を承認できると主張した。また、一国全体に聖務停止を科すことができるとし、その間、洗礼、堅信、告解を除くほぼすべての聖職者の職務が停止された。司祭は通常の礼拝を行えず、結婚式を執り行えず、死者を埋葬することもできなかった。この二つの武器によって、十二世紀の教皇は最も反抗的な君主を抑え、最も不穏な民衆を威圧することができた。これは途方もない権力であり、途方もない権力は非常の場合にのみ用いるべきものである。だが教皇たちは、あまりにも頻繁に用いたため、ついには効果を失わせた。十二世紀末の三十年間だけでも、スコットランド、フランス、イングランドが相次いで聖務停止を受けている。さらに教皇たちは、不服従の君主に対して十字軍を説く誘惑にも抗えなかった。やがて十字軍精神そのものが消滅するまで。

ローマ教会がただ諸侯と戦い、一般民衆の心をつなぎ留めることに配慮していたなら、全キリスト教世界に永続的な支配を確立できたかもしれない。しかし教皇の大言壮語は、聖職者の振る舞いに傲慢として反映された。十一世紀以前、ローマ教会の司祭は結婚できた。彼らは共に暮らす民衆と緊密な絆を持ち、実際に民衆の一部だった。グレゴリウス七世は司祭に独身を課した。平信徒との過度な親密さを断ち、より強くローマへ結びつけるためだったが、実際には教会と庶民の間に亀裂を開いた。教会は独自の裁判所を持っていた。司祭だけでなく、修道士、学生、十字軍兵士、寡婦、孤児、無力な者が関わる事件は聖職者裁判所の管轄とされ、遺言、結婚、誓約に関するあらゆる問題、魔術、異端、冒涜に関するすべての事件も同様だった。平信徒が司祭と争えば、聖職者の法廷へ出なければならなかった。平時と戦時の義務は平信徒だけの肩にかかり、司祭は免れていた。キリスト教世界に司祭への嫉妬と憎悪が広がったのも、さほど不思議ではない。

ローマは、自らの力が民衆の良心に宿ることを、ついに理解しなかったように見える。本来なら味方とすべき宗教的熱情と戦い、誠実な疑念や異説に教義上の正統性を押しつけた。教会が道徳の問題に介入する時、民衆は教会の側にいた。しかし教義の問題に介入した時は違った。南フランスでワルドーが、信仰と生活においてイエスの素朴さへ立ち返ることを説くと、インノケンティウス三世は、その信奉者ワルド派に対する十字軍を説き、火と剣、強姦、極悪非道な残虐行為による弾圧を許した。また、アッシジの聖フランチェスコ(一一八一~一二二六年)がキリストに倣い、貧困と奉仕に生きることを説いた時、その信徒であるフランシスコ会士は迫害され、鞭打たれ、投獄され、追放された。一三一八年にはマルセイユで四人が火刑に処された。その一方、聖ドミニコ(一一七〇~一二二一年)が創設した峻烈な正統主義のドミニコ会は、インノケンティウス三世から強い支援を受けた。教皇はその力を借り、異端を狩り、自由思想を苦しめる組織、すなわち異端審問所を設置した。

こうして教会は、過大な要求、不正な特権、理性を欠いた不寛容によって、民衆の自由な信仰を破壊した。それこそが、教会のあらゆる力の究極の源だった。その衰退の物語には、外部からの強敵はほとんど登場しない。絶えず語られるのは、内部からの腐敗である。

第四十七章 反抗する諸侯と大分裂

全キリスト教世界の首長の座を確保しようとするローマ教会にとって、非常に大きな弱点の一つは、教皇の選出方法にあった。

教皇庁がその明白な野望を実現し、全キリスト教世界に一つの支配と一つの平和を確立しようとするなら、強力で安定し、継続性のある指導体制が絶対に必要だった。好機に恵まれたこの偉大な時代、何より必要だったのは、就任時の教皇が壮年の有能な人物であること、各教皇に教会政策を相談できる指名後継者がいること、選挙の形式と手続きが明瞭、明確、不変で、異議を差し挟めないものであることだった。不幸にも、いずれも実現しなかった。教皇選挙で誰に投票権があるのか、ビザンツ皇帝または神聖ローマ皇帝に発言権があるのかさえ明確でなかった。教皇庁の偉大な政治家ヒルデブラント、すなわち教皇グレゴリウス七世(在位一〇七三~八五年)は、選挙を制度化するために多くを成し遂げた。投票権をローマの枢機卿に限定し、皇帝の役割を、教会が認める形式的な同意にまで縮小した。しかし指名後継者については何も定めず、枢機卿たちの争いにより教皇座が一年以上も空位になる可能性を残した。実際、そのような事例も起きた。

この明確な規定の欠如がもたらした結果は、十六世紀までの教皇庁の全歴史に表れている。かなり早い時期から選挙結果をめぐる争いが起こり、二人以上の人物がそれぞれ教皇を名乗った。その場合、教会は屈辱的にも、皇帝その他の外部の裁定者に紛争解決を求めなければならなかった。偉大な教皇たちの経歴も、いずれも疑問符で終わった。教皇が死ねば、教会は首を失った肉体のように指導者を欠き、無力になりかねなかった。あるいは、故人の業績をおとしめ、破壊することだけを望む老いた政敵が後継者となることもあった。墓場の縁でよろめく、衰弱した老人が後を継ぐことさえあった。

教皇組織のこの特異な弱点が、ドイツ諸侯、フランス王、イングランドを支配するノルマン系およびフランス系の王たちによる介入を招いたのは必然だった。彼らは皆、選挙に影響を及ぼし、自らに都合のよい教皇をローマのラテラノ宮殿に据えようとした。教皇がヨーロッパ情勢の中で強力かつ重要になるほど、こうした介入は切迫したものとなった。この状況下で、多くの教皇が弱く無能だったのは不思議ではない。驚くべきなのは、むしろ有能で勇敢な教皇が大勢いたことである。

この偉大な時代の教皇の中でも、とりわけ精力的で興味深い人物が、三十八歳になる前に教皇に就く幸運に恵まれたインノケンティウス三世(在位一一九八~一二一六年)だった。彼と後継者たちは、さらに興味深い人物、皇帝フリードリヒ二世と対決した。彼は「ストゥポル・ムンディ」、すなわち「世界の驚異」と呼ばれた。この君主とローマの闘争は、歴史の転換点である。最終的にローマは彼を破り、その王朝を滅ぼしたが、フリードリヒは教会と教皇の威信に深い傷を負わせた。その傷は化膿し、やがて教会の衰退をもたらした。

フリードリヒは皇帝ハインリヒ六世の息子であり、母はノルマン系シチリア王ルッジェーロ一世の娘だった。一一九八年、四歳の時にこの王国を相続し、インノケンティウス三世が後見人となった。当時のシチリアは、ノルマン人に征服されてからまだ日が浅かった。宮廷は半ば東洋風で、高い教養を備えたアラブ人が大勢おり、その何人かが若い王の教育に携わった。彼らは自らの見解を理解させようと、かなり努めたに違いない。フリードリヒは、イスラム教に対するキリスト教側の見方と同時に、キリスト教に対するイスラム教側の見方も学んだ。この二重教育の不幸な結果として、この信仰の時代には異例な、あらゆる宗教は欺瞞だという見解を抱くようになった。彼はこの問題について自由に語り、その異端的、冒涜的発言は記録に残っている。

成長した若者は、後見人との対立に直面した。インノケンティウス三世は被後見人に、あまりにも多くを要求した。フリードリヒが皇帝位を継承する機会が訪れると、教皇は条件を付けた。ドイツの異端を強硬に鎮圧すると約束しなければならない。さらに、シチリアと南イタリアの王冠を放棄しなければならない。そうしなければ教皇にとって強大になりすぎるからである。そしてドイツの聖職者はあらゆる租税を免除されるべきだとした。フリードリヒは同意したが、約束を守る気などなかった。教皇はすでにフランス王をそそのかし、自国の臣民に戦争を仕掛けさせていた。ワルド派に対する残酷で血なまぐさい十字軍である。教皇はフリードリヒにも、ドイツで同じことをさせたがった。しかしフリードリヒは、教皇の敵意を買った素朴な敬虔主義者の誰よりもはるかに異端的であり、十字軍的な衝動を欠いていた。インノケンティウスがイスラム教徒に対する十字軍を起こし、エルサレムを奪還せよと迫った時も、同じようにすぐ約束し、同じように実行を怠った。

典型的な十字軍騎士、ドン・ロドリゴ・デ・カルデナス スペイン、オカーニャのサン・ペドロ教会より

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

帝冠を確保したフリードリヒ二世は、居住地としてドイツよりはるかに気に入っていたシチリアにとどまり、インノケンティウス三世との約束を何一つ果たさなかった。教皇は一二一六年、望みを阻まれたまま死んだ。

後継者ホノリウス三世もフリードリヒを御せず、教皇位に就いたグレゴリウス九世(一二二七年)は、この若者といかなる代償を払ってでも決着をつける決意を固めていたらしい。彼はフリードリヒを破門した。フリードリヒ二世は宗教が与えるあらゆる慰めを拒まれたが、半ばアラブ化したシチリア宮廷では、驚くほど不都合が生じなかった。さらに教皇は皇帝に公開書簡を送り、その悪徳、異端、素行不良を列挙した。いずれも否定しがたいものだった。これに対してフリードリヒは、悪魔的なまでに巧妙な文書で応じた。ヨーロッパの全諸侯に宛てたその文書は、教皇と諸侯の間にある争点を初めて明確に述べたものだった。教皇が全ヨーロッパの絶対的支配者になろうとしている明白な野望を、彼は痛烈に攻撃した。この権力簒奪に対する諸侯の連合を提案し、とりわけ教会の富へ諸侯の注意を向けた。

この致命的な飛び道具を放った後、フリードリヒは十二年前の約束を果たし、十字軍に赴くことを決意した。第六回十字軍(一二二八年)である。十字軍として見れば、茶番だった。フリードリヒ二世はエジプトへ赴き、スルタンと会って情勢を協議した。ともに懐疑的な見解を持つ二人の紳士は、気の合う意見を交わし、双方に利益のある通商協定を結び、エルサレムをフリードリヒへ譲渡することで合意した。まったく新種の十字軍、私人間の条約による十字軍だった。征服者が血を浴びることも、「あまりの喜びに泣く」こともなかった。

この驚くべき十字軍戦士は破門中だったため、エルサレム王として純粋に世俗的な戴冠式で満足しなければならなかった。聖職者は皆、彼を避ける義務があったので、祭壇から自分の手で冠を取り、自ら頭に載せた。その後イタリアへ戻り、自領へ侵攻していた教皇軍を教皇領まで追い返し、教皇に破門の解除を余儀なくさせた。十三世紀には、一君主が教皇をこのように扱っても、教皇のために立ち上がる民衆の憤激はもはや起こらなかった。そんな時代は過ぎ去っていた。

一二三九年、グレゴリウス九世はフリードリヒとの闘争を再開し、二度目の破門を科した。そして教皇庁がすでに深刻な打撃を受けていた、公開の罵倒合戦を再開した。グレゴリウス九世の死後、インノケンティウス四世の時代にも論争は復活した。フリードリヒは再び教会に対し、人々の記憶に残らずにはいない破壊的な書簡を書いた。聖職者の傲慢と不信仰を糾弾し、当時のあらゆる腐敗を、その傲慢と富のせいにした。そして教会のために、教会財産を全面的に没収しようと、他の諸侯に提案した。以後、この提案がヨーロッパ諸侯の想像から消えることはなかった。

彼の晩年について、これ以上語ることはしない。生涯の個々の出来事より、その全体を包む雰囲気の方がはるかに重要だからである。シチリアでの宮廷生活は、ある程度再現できる。暮らしぶりは豪奢で、美しい物を好んだ。放埒な人物とも評される。しかし彼が非常に実効的な好奇心と探究心を持っていたことは明らかである。宮廷にはキリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒とイスラム教徒の哲学者も集め、サラセン文化の影響をイタリア人の精神へ大量に流し込んだ。彼を通じてアラビア数字と代数学がキリスト教徒の学者に伝わった。宮廷の哲学者にはマイケル・スコットがおり、アリストテレスの著作の一部と、コルドバ出身の偉大なアラブ人哲学者アヴェロエスによる注釈を翻訳した。一二二四年、フリードリヒはナポリ大学を創設し、サレルノ大学の偉大な医学校を拡充して豊かにした。動物園も設けた。彼が残した鷹狩りの書からは、鳥の習性を鋭く観察していたことが分かる。またイタリア語で詩を書いた最初期のイタリア人の一人でもあった。実際、イタリア詩は彼の宮廷で誕生した。有能な著述家の一人は彼を「最初の近代人」と呼んだが、この表現は、彼の知的側面が持つ偏見なき超然性を的確に表している。

教皇権を生かし、支えてきた力の衰退をさらに鮮烈に示したのが、ほどなく教皇たちと、勢力を増すフランス王との間に起きた対立である。皇帝フリードリヒ二世の存命中、ドイツは分裂し、それまでホーエンシュタウフェン家の皇帝が担ってきた、教皇の守護者、支援者、競争相手という役割をフランス王が演じ始めた。歴代教皇はフランス王を支持する政策を進めた。ローマの支持と承認のもと、フランス諸侯がシチリア・ナポリ王国に据えられ、フランス王たちはカール大帝の帝国を復興して支配できる可能性を見いだした。しかし、ホーエンシュタウフェン家最後の皇帝フリードリヒ二世の死後に続いたドイツの大空位時代が終わり、ハプスブルク家のルドルフが同家初の皇帝に選出されると(一二七三年)、ローマの政策はフランスとドイツの間で揺れ始め、歴代教皇の好みに応じて方向を変えた。東方では一二六一年、ギリシア人がラテン皇帝からコンスタンティノープルを奪還した。新たなギリシア王朝の創始者ミカエル・パレオロゴス、すなわちミカエル八世は、教皇との形だけの和解を幾度か試みた後、ローマ教会との交わりを完全に断った。これとアジアのラテン人諸王国の滅亡によって、教皇の東方における優位は終焉を迎えた。

ブルゴーニュ貴族の服装――十五世紀フランドルの作品

一二九四年、ボニファティウス八世が教皇となった。フランス人に敵対的なイタリア人で、ローマの偉大な伝統と使命を強く自覚していた。しばらくは強権的に物事を進めた。一三〇〇年には聖年を催し、膨大な巡礼者がローマに集まった。「教皇庁の金庫に流れ込む金はあまりにも多く、聖ペテロの墓に積まれた献金を熊手でかき集めるため、二人の助手が休みなく働いた」[]。しかしこの祭典は、見せかけの勝利だった。ボニファティウスは一三〇二年にフランス王と対立し、一三〇三年、その王に破門宣告を下そうとした矢先、アナーニにある自身の一族の宮殿で、ギヨーム・ド・ノガレの奇襲を受けて逮捕された。フランス王の使者ノガレは宮殿へ押し入り、怯えた教皇の寝室まで踏み込んだ。教皇は十字架を手にして床に臥せていた。ノガレは教皇に脅迫と侮辱を浴びせた。一日か二日後、教皇は町民によって解放され、ローマへ戻った。しかし今度はオルシーニ家に捕らえられ、再び囚人となった。衝撃を受け、幻想を打ち砕かれた老教皇は、数週間後、彼らの手中で囚われたまま死んだ。

ブルゴーニュ貴族の服装――十五世紀フランドルの作品 この連作は、アムステルダム国立美術館所蔵の真鍮製小像の原作を、ヴィクトリア&アルバート博物館が型取りしたもの

アナーニの人々は最初の暴挙に憤慨し、ノガレに反旗を翻してボニファティウスを解放した。しかしアナーニは教皇の故郷だった。注目すべき重要な点は、フランス王がキリスト教世界の首長をこのように乱暴に扱った際、国民の全面的な支持を得ていたことである。王は極端な措置に出る前に、フランスの三身分、すなわち貴族、聖職者、平民の会議を招集し、同意を取りつけていた。イタリア、ドイツ、イングランドのいずれでも、最高教皇がこのように扱われたことへの一般的な反対表明は、まったく起きなかった。キリスト教世界という理念は衰退し、人々の心を支配する力を失っていた。

十四世紀を通じ、教皇庁は道徳的支配力を取り戻すために何もしなかった。次に選出された教皇クレメンス五世はフランス人で、フランス王フィリップの選んだ人物だった。一度もローマへ行かず、当時フランス領ではなく教皇領だったものの、フランス領内に囲まれていたアヴィニョンに宮廷を置いた。後継者たちも一三七七年までそこにとどまり、同年、教皇グレゴリウス十一世がローマのヴァティカン宮殿へ戻った。しかしグレゴリウス十一世は、教会全体の支持を伴って帰還したわけではない。枢機卿の多くはフランス出身で、その習慣と人脈はアヴィニョンに深く根を下ろしていた。一三七八年にグレゴリウス十一世が死に、イタリア人ウルバヌス六世が選出されると、反対派の枢機卿たちは選挙を無効と宣言し、別の教皇、対立教皇クレメンス七世を選出した。この分裂を大シスマと呼ぶ。正統教皇はローマにとどまり、皇帝、イングランド王、ハンガリー、ポーランド、北ヨーロッパといった反フランス勢力が支持した。一方、対立教皇はアヴィニョンに居続け、フランス王、その同盟者であるスコットランド王、スペイン、ポルトガル、各地のドイツ諸侯から支持を受けた。双方の教皇は、互いの支持者を破門し、呪った(一三七八~一四一七年)。

ほどなくヨーロッパ各地の人々が、宗教について自分で考え始めたとしても、何の不思議があるだろう。

前章で触れたフランシスコ会とドミニコ会の始まりは、教会自身の知恵ある選択次第で、教会を支えもすれば打ち砕きもする、キリスト教世界に生まれつつあった多くの新勢力のうち、わずか二つにすぎない。教会はこの二修道会を吸収し、利用した。ただし前者については、いささか暴力を伴った。しかし、より公然と服従を拒み、批判する勢力もあった。一世紀半後にはウィクリフ(一三二〇~八四年)が現れた。オックスフォードの博学な博士である。かなり晩年になってから、聖職者の腐敗と教会の愚策を率直に批判し始めた。貧しい司祭たちを組織し、ウィクリフ派として、その思想をイングランド全土に広めた。そして民衆が教会と自分のどちらが正しいかを判断できるよう、聖書を英語に翻訳した。聖フランチェスコや聖ドミニコよりも学識が深く、はるかに有能な人物だった。高位の人々にも支持者がおり、民衆の間にも多数の信奉者がいた。ローマは激怒し、その投獄を命じたが、彼は自由の身のまま死んだ。しかしカトリック教会を破滅へ導いていた、あの暗く古い精神は、墓の中の骨さえ安らかに眠らせなかった。一四一五年のコンスタンツ公会議の決議により、遺骸を掘り出して焼くことが命じられ、その命令は一四二八年、教皇マルティヌス五世の指示を受けたフレミング司教によって実行された。この冒瀆は、孤立した狂信者の行為ではない。教会の公式な行為だった。

第四十八章 モンゴルの征服

しかし十三世紀、教皇の支配下でキリスト教世界を統一しようとする、この奇妙で最終的には実を結ばない闘争がヨーロッパで続く一方、より広大なアジアの舞台では、はるかに重大な事件が進行していた。中国北方の地から、一つのテュルク系民族が突如として世界情勢の前面に現れ、歴史上類例のない一連の征服を成し遂げた。モンゴル人である。十三世紀初頭、彼らは遊牧騎馬民の大集団であり、先行者のフン人とほぼ同じ暮らしをしていた。主に肉と馬乳で生き、獣皮の天幕に住んだ。中国の支配を脱し、他の多数のテュルク系部族を軍事同盟に組み込んでいた。その中央拠点はモンゴルのカラコルムにあった。

当時、中国は分裂状態にあった。偉大な唐王朝は十世紀までに衰退し、群雄割拠の時期を経て、三つの主要帝国が残っていた。北京を首都とする北方の金、南京を首都とする南方の宋、中央部の西夏である。一二一四年、モンゴル連合の指導者チンギス・ハンは金帝国と戦い、北京を占領した(一二一四年)。次いで西へ向かい、西トルキスタン、ペルシア、アルメニア、ラホールまでのインド、キエフまでの南ロシアを征服した。死去した時には、太平洋からドニエプル川まで広がる巨大帝国の支配者だった。

後継者オゴデイ・ハンは、この驚異的な征服の歩みを続けた。その軍隊はきわめて高い効率で組織され、新たな中国の発明である火薬を携行し、小型野戦砲に用いた。金帝国の征服を完了すると、大軍を率いてアジア全土を横断し、ロシアまで進んだ(一二三五年)。まったく驚くべき行軍である。一二四〇年にキエフが破壊され、ロシアのほぼ全域がモンゴルへ貢納するようになった。ポーランドは荒らされ、一二四一年には下シレジアのリーグニッツの戦いで、ポーランド人とドイツ人の連合軍が全滅した。皇帝フリードリヒ二世は、この進撃の大波を食い止めるために、さほど努力しなかったようである。

ベリーはギボンの『ローマ帝国衰亡史』への注釈で、こう述べている。「西暦一二四一年春、ポーランドを席巻し、ハンガリーを占領したモンゴル軍の成功が、圧倒的な兵力差だけによるのではなく、戦略の粋を極めた結果だったことを、ヨーロッパ史が理解し始めたのはごく最近である。しかしこの事実は、いまだ常識とはなっていない。タタール人を、数の多さだけですべてを押し流した野蛮な大群であり、戦略的計画もなく東ヨーロッパを駆け抜け、あらゆる障害に突進して物量だけで打ち破ったとする俗説が、なお広く行われている……。

「下ヴィスワ川からトランシルヴァニアに及ぶ作戦において、その計画がいかに時間どおり、しかも効果的に遂行されたかは驚嘆に値する。このような遠征は、当時のどのヨーロッパ軍にも実行不可能であり、どのヨーロッパ人指揮官の構想力をも超えていた。フリードリヒ二世以下、ヨーロッパのどの将軍も、スブタイに比べれば戦略の初心者にすぎなかった。また注目すべきは、モンゴル人がハンガリーの政治情勢とポーランドの状態を完全に把握して遠征に着手したことである。よく組織された間諜網によって情報を集めていたのだ。一方、ハンガリー人とキリスト教諸国は、幼稚な蛮族さながら、敵についてほとんど何も知らなかった。」

しかしモンゴル軍はリーグニッツで勝利したものの、さらに西へ進撃しなかった。戦術に不向きな森林地帯と丘陵地帯へ入りつつあったからである。そこで南へ転じ、ハンガリーへの定住を準備した。同族のマジャル人を虐殺または同化しようとしたのである。それは、かつてマジャル人が、自分たち以前の混血したスキタイ人、アヴァール人、フン人を虐殺、同化したのと同じだった。ハンガリー平原からは、九世紀のハンガリー人、七、八世紀のアヴァール人、五世紀のフン人と同じように、西方と南方へ襲撃を繰り返したことだろう。しかしオゴデイが急死し、一二四二年に継承争いが起こった。このため召還された無敗のモンゴル大軍は、ハンガリーとルーマニアを横断して東へ引き返し始めた。

以後、モンゴル人はアジアでの征服に力を集中した。十三世紀半ばまでに宋帝国を征服した。一二五一年、モンケ・ハンがオゴデイ・ハンの後を継いで大ハンとなり、弟クビライ・ハンを中国の統治者に任命した。一二八〇年、クビライ・ハンは正式に中国皇帝として承認され、一三六八年まで続く元王朝を創始した。中国で宋の最後の残党が滅びつつあった頃、モンケのもう一人の弟フレグは、ペルシアとシリアを征服していた。この時期のモンゴル人はイスラム教に激しい敵意を示した。バグダードを占領した際に住民を虐殺しただけでなく、シュメール初期以来、メソポタミアを絶えず豊かで人口の多い土地に保ってきた、太古からの灌漑設備を破壊し始めた。それ以来、現代までメソポタミアは遺跡の広がる砂漠となり、わずかな人口を養うだけとなった。モンゴル軍がエジプトへ侵入することはなかった。一二六〇年、エジプトのスルタンがパレスチナでフレグ軍を完全に打ち破ったからである。

この敗北後、モンゴル勝利の潮は引き始めた。大ハンの領土は幾つもの別個の国家へ分裂した。東方のモンゴル人は中国人と同じく仏教徒となり、西方のモンゴル人はイスラム教徒となった。中国人は一三六八年に元王朝の支配を脱し、中国人による明王朝を築いた。明は一三六八年から一六四四年まで繁栄した。ロシア人は一四八〇年まで南東の草原地帯にいるタタール人の大群へ貢納を続けたが、同年、モスクワ大公が臣従を否認し、近代ロシアの基礎を築いた。

タタール人騎兵

(大英博物館所蔵の中国版画より)

十四世紀には、チンギス・ハンの子孫ティムールのもとで、モンゴル人の活力が一時的に復活した。彼は西トルキスタンを拠点とし、一三六九年に大ハンを称して、シリアからデリーまでを征服した。モンゴル征服者の中でも最も野蛮で破壊的な人物だった。荒廃の帝国を築いたが、その死後まで存続しなかった。しかし一五〇五年、ティムールの子孫でバーブルという冒険者が、火砲を備えた軍隊を組織し、インド平原へなだれ込んだ。その孫アクバル(一五五六~一六〇五年)が征服を完成させ、このモンゴル王朝、アラブ人が「ムガル」と呼んだ王朝は、十八世紀までデリーからインドの大部分を支配した。

十三世紀の最初の大規模なモンゴル征服がもたらした結果の一つは、オスマン・トルコと呼ばれるテュルク系部族が、トルキスタンから小アジアへ追い出されたことである。彼らは小アジアで勢力を拡大、強化し、ダーダネルス海峡を渡ってマケドニア、セルビア、ブルガリアを征服した。ついにコンスタンティノープルは、オスマン領の海に浮かぶ島のように取り残された。一四五三年、オスマン帝国のスルタン、メフメト二世は多数の大砲を用いてヨーロッパ側から攻撃し、コンスタンティノープルを占領した。この出来事はヨーロッパに激しい動揺を引き起こし、十字軍の話も持ち上がったが、十字軍の時代はすでに終わっていた。

十六世紀には、オスマン帝国のスルタンたちがバグダード、ハンガリー、エジプト、北アフリカの大半を征服し、艦隊によって地中海の支配者となった。ウィーンも陥落寸前まで追い込み、皇帝から貢納を取り立てた。十五世紀にキリスト教勢力が全般的に退潮する中、それを相殺する出来事は二つしかなかった。一つはモスクワの独立回復(一四八〇年)、もう一つはキリスト教徒によるスペインの段階的再征服である。一四九二年、半島最後のイスラム国家グラナダが、アラゴン王フェルナンドと王妃カスティーリャ女王イサベルの手に落ちた。

しかし、レパントの海戦がオスマン帝国の勢いをくじき、地中海の制海権をキリスト教勢力に取り戻したのは、ようやく一五七一年になってからだった。

第四十九章 ヨーロッパ人の知的復興

十二世紀を通じて、ヨーロッパ人の知性が勇気と余裕を取り戻し、初期ギリシアの科学的探究や、ローマのルクレティウスに見られるような思索を再開する準備を整えつつある兆候が数多く見られた。この復興の原因は多く、複雑だった。私戦の抑制、十字軍後に向上した生活の快適さと安全、遠征の経験が人々の精神に与えた刺激は、必要な前提条件だったに違いない。交易は復活しつつあり、都市は安穏と安全を取り戻し、教会内部で教育水準が上がって平信徒にも広がっていた。十三、十四世紀は、独立または半独立の都市が成長した時代だった。たとえばヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、リスボン、パリ、ブルッヘ、ロンドン、アントウェルペン、ハンブルク、ニュルンベルク、ノヴゴロド、ヴィスビー、ベルゲンである。いずれも旅人の多い交易都市だった。人が交易し、旅をするところでは、会話と思索が生まれる。教皇と諸侯の論争、異端者迫害における目に余る野蛮さと邪悪さは、人々に教会の権威を疑わせ、根本的な問題を問い、論じるよう促した。

アラブ人がアリストテレスをヨーロッパへ取り戻す役割を果たし、フリードリヒ二世のような君主が、アラブの哲学と科学を復興しつつあるヨーロッパ精神へ流し込む水路となったことは、すでに見た。人々の思想を揺り動かすうえで、さらに大きな影響を与えたのはユダヤ人だった。彼らが存在すること自体、教会の主張に突きつけられた疑問符だった。最後に、錬金術師たちによる秘密めいた魅惑的な探究が各地へ広がり、人々に、ささやかで密かながら実りある実験科学の再開を促していた。

しかも人々の精神の動きは、もはや独立した教養人だけに限られなかった。一般人の精神は、過去の人類史に例がないほど世界に目覚めていた。司祭と迫害にもかかわらず、キリスト教は、その教えが届くところならどこへでも、精神の発酵をもたらしたように見える。個人の良心と正義の神との間に直接の関係を確立したため、必要が生じれば、人は君主、高位聖職者、信条について自ら判断する勇気を持てるようになった。

十一世紀には早くもヨーロッパで哲学的議論が再開し、パリ、オックスフォード、ボローニャその他の中心地には、大規模で発展を続ける大学が存在した。中世の「スコラ学者」たちはそこで、言葉の価値と意味をめぐる一連の問題を改めて取り上げ、徹底的に論じた。それは、後に来る科学の時代に明晰な思考を行うため、不可欠な準備だった。そして独特の天才ゆえに一人屹立していたのが、オックスフォードのフランシスコ会士で近代実験科学の父、ロジャー・ベーコン(一二一〇年頃~一二九三年頃)である。その名は、アリストテレスに次ぐほど大きく歴史に記されるに値する。

彼の著作は、無知に対する長大な糾弾である。自らの時代に向かって「お前たちは無知だ」と告げた。信じがたいほど大胆な行為だった。今日なら、世界は厳粛ぶっているのと同じくらい愚かであり、その方法はなお幼稚で不器用、その教条は子供じみた思い込みだと言っても、身体的な危険はさほどない。しかし中世の人々は、虐殺され、飢え、疫病で死んでいない時には、自分たちの信念の英知、完全性、最終性を情熱的に確信し、それを批判されれば激しく憤る傾向があった。ロジャー・ベーコンの著作は、深い闇を裂く閃光のようだった。彼は時代の無知を攻撃すると同時に、知識を増大させるための豊かな提案を示した。実験と知識収集の必要性を情熱的に主張する彼の中に、アリストテレスの精神がよみがえっている。「実験せよ、実験せよ」――これこそロジャー・ベーコンの一貫した主張だった。

しかしベーコンは、アリストテレス本人にも食ってかかった。人々が大胆に事実と向き合わず、部屋に座り込み、当時入手できる唯一の資料だった巨匠の粗悪なラテン語訳を読みふけっていたからである。「私の思いどおりになるなら」と、彼はいつもの激しい調子で書いた。「アリストテレスの本をすべて焼くだろう。それらを研究しても、時間を失い、誤りを生み、無知を増すだけだからだ」。もしアリストテレスが、自分の著作が読まれるより崇拝されている世界、それもベーコンが示したとおり、この上なくひどい翻訳によって崇拝されている世界へ戻ったなら、おそらく同じ意見を述べただろう。

初期の印刷機

(古版画より)

ロジャー・ベーコンは著書の至るところで、牢獄やそれ以上の災厄を避けるため、すべてが正統教義に合致するよう多少は装いながら、人類に向かって叫んだ。「教条と権威に支配されるのをやめよ。世界を見よ!」と。彼が糾弾した無知の主要な源は四つあった。権威への服従、慣習、無知な群衆の見解、そして虚栄と傲慢に満ちた、学ぼうとしない人間の性向である。これらを克服しさえすれば、人間の前には力に満ちた世界が開かれる――。

「漕ぎ手なしに航行する機械は実現可能である。河川や海洋に適した大型船を一人が操り、多数の人員を乗せた場合よりも高速で進ませることができよう。同様に、牽引動物がなくとも、クム・インペトゥ・イナエスティマービリ[訳注:ラテン語で「想像を絶する勢いで」]走る車を作ることができよう。それは古代人が戦いに用いたという鎌付き戦車のようなものである。また飛行機械も実現可能で、人間が中央に座り、何らかの装置を回せば、人工の翼が飛ぶ鳥のように空気を打つであろう。」

ロジャー・ベーコンはこう書いた。しかし人間が、人類の営みの鈍い表面下に確かに存在すると彼が明瞭に認識していた、隠された力と可能性の宝庫を体系的に探究し始めるまでには、なお三世紀を要した。

サラセン世界がキリスト教世界に与えたものは、哲学者と錬金術師からの刺激だけではなかった。紙も与えたのである。紙がヨーロッパの知的復興を可能にしたと言っても、ほとんど過言ではない。紙は中国に起源を持ち、その使用はおそらく紀元前二世紀までさかのぼる。七五一年、中国軍はサマルカンドのアラブ系イスラム軍を攻撃したが撃退された。捕虜の中には熟練した製紙職人がおり、アラブ人は彼らから技術を学んだ。九世紀以後のアラビア語紙写本が今も残っている。製紙技術がキリスト教世界に入った経路は、ギリシアを経由したか、キリスト教徒によるスペイン再征服の際にムーア人の製紙工場を接収したかのいずれかである。しかしキリスト教徒支配下のスペインでは、製品の品質がひどく低下した。キリスト教ヨーロッパで良質な紙が作られるようになったのは十三世紀末であり、その時にはイタリアが世界を先導していた。ドイツへ製法が届いたのは十四世紀になってからであり、同世紀末になってようやく、書籍印刷を採算の取れる事業にできるほど豊富で安価になった。すると印刷術は自然かつ必然的に続いた。印刷は最も着想しやすい発明だからである。世界の知的生活は、新たな、はるかに活力ある段階へ入った。それはもはや、精神から精神へ流れる細い水流ではなくなった。数千、やがて数万、数十万の精神が加わる大河となった。

印刷術の達成がもたらした直接の結果の一つは、世界に大量の聖書が出現したことだった。もう一つは教科書の低価格化である。読み書きの知識は急速に広まった。世界の書物が大幅に増えただけでなく、新たに作られる本は文字が明瞭で読みやすく、したがって理解しやすかった。読者は、読みにくい文面と格闘してから意味を考える代わりに、読みながら妨げられずに考えられるようになった。読書が容易になるにつれ、読者層も拡大した。本は豪華に装飾された玩具でも、学者だけの神秘でもなくなった。一般人が眺めるだけでなく、実際に読むための本が書かれ始めた。著者たちはラテン語ではなく、日常の言葉で書いた。十四世紀をもって、ヨーロッパ文学の真の歴史が始まる。

ここまでは、ヨーロッパ復興におけるサラセン人の役割だけを扱ってきた。次にモンゴル征服の影響へ目を向けよう。それはヨーロッパ人の地理的想像力を途方もなく刺激した。一時期、大ハンのもとでアジア全域と西ヨーロッパは自由に交流し、すべての街道が一時的に開かれ、あらゆる民族の代表者がカラコルムの宮廷に姿を見せた。キリスト教とイスラム教の宗教的対立がヨーロッパとアジアの間に築いた障壁は低くなった。教皇庁は、モンゴル人のキリスト教改宗に大きな期待を寄せた。それまで彼らが持っていた唯一の宗教は、原始的な異教であるシャーマニズムだった。教皇の使節、インドの仏僧、パリ、イタリア、中国の職人、ビザンツとアルメニアの商人が、アラブ人官僚、ペルシアとインドの天文学者、数学者とモンゴル宮廷で入り交じった。歴史ではモンゴル人の遠征と虐殺ばかりが語られ、その好奇心と学習意欲については十分に語られていない。独創的な民族ではなかったかもしれないが、知識と方法の伝達者として、世界史にきわめて大きな影響を及ぼした。チンギスやクビライの曖昧で伝説的な人物像について知れば知るほど、少なくとも彼らが、華美だが自己中心的なアレクサンドロス大王や、政治的な亡霊をよみがえらせた精力的だが文盲の神学者カール大帝に劣らず、理解力と創造力に富む君主だったという印象が強まる。

モンゴル宮廷を訪れた者の中でも、特に興味深いのがヴェネツィア人マルコ・ポーロである。彼は後に、その物語を一冊の本に記した。一二七二年頃、すでに一度旅をしていた父と叔父と共に中国へ向かった。大ハンは年長のポーロ兄弟に深い感銘を受けていた。彼らは大ハンが初めて目にした「ラテン」系の人々だった。そこで大ハンは、キリスト教を説明できる教師と学者、さらに好奇心をそそられたさまざまなヨーロッパの品々を求める依頼を託し、二人を帰国させた。マルコを伴う訪問は、二人にとって二度目だった。

西アフリカ、ベニン出土の古代青銅像 服装には、初期ヨーロッパ人探検家についての知識がうかがえる

(大英博物館所蔵)

三人のポーロは、前回の遠征で通ったクリミア経由ではなく、パレスチナ経由で出発した。大ハンから与えられた金牌その他の証票を所持しており、それが旅を大幅に容易にしたに違いない。大ハンは、エルサレムの聖墳墓で燃える灯火の油を求めていた。そこで三人はまずエルサレムへ行き、次いでキリキアを経てアルメニアへ入った。当時、エジプトのスルタンがモンゴル領を襲撃していたため、これほど北へ回ったのである。そこからメソポタミアを経てペルシア湾のホルムズへ向かった。海路を考えていたようで、ホルムズではインド商人と出会った。何らかの理由で船には乗らず、北へ転じてペルシアの砂漠を抜けた。バルフからパミール高原を越えてカシュガルへ行き、ホータンとロプノールを経て黄河流域へ入り、北京に至った。大ハンは北京におり、三人は厚くもてなされた。

ヨーロッパ人を表した、もう一体の古代アフリカ人青銅像

(大英博物館所蔵)

クビライはとりわけマルコを気に入った。若く聡明で、タタール語をきわめてよく習得していたことは明らかである。官職を与えられ、主に中国南西部へ何度も使節として派遣された。彼が語ったのは、どこまでも朗らかで豊かな国土が続き、「道中には旅人のための見事な宿駅」があり、「立派な葡萄園、畑、庭園」が広がり、仏僧の「多数の僧院」があり、「絹と金の布や多くの上質なタフタ」を生産し、「都市と町が絶え間なく続く」といった物語だった。それは最初、ヨーロッパ人の不信を招き、やがて全ヨーロッパの想像力に火をつけた。彼はビルマと、数百頭の象を擁する大軍、その象がモンゴル弓兵に打ち破られたこと、さらにモンゴルによるペグー征服について語った。日本についても語り、その国の金の量を大幅に誇張した。マルコは三年間、揚州の長官として市を統治した。中国人住民から見れば、他のタタール人と大差ない外国人に映ったことだろう。インドへ使節として派遣された可能性もある。中国の記録には、一二七七年に帝国の評議会に属していたポーロという人物が登場し、ポーロの物語がおおむね真実であることを示す、非常に貴重な裏づけとなっている。

『東方見聞録』の刊行は、ヨーロッパ人の想像力に深い影響を与えた。ヨーロッパ文学、とりわけ十五世紀の物語文学には、マルコ・ポーロの物語に登場する名称、カタイ(中国北部)やカンバルク(北京)などがしきりに響いている。

帆船を描いた初期イタリアの銅版画

(大英博物館所蔵)

その二世紀後、『東方見聞録』の読者の中に、クリストファー・コロンブスというジェノヴァ人船乗りがいた。彼は世界を西回りに航海して中国へ行くという、輝かしい構想を抱いた。セビリアには、コロンブスの書き込みが余白に残る『東方見聞録』がある。ジェノヴァ人の思考がこの方向へ向かう理由は数多くあった。一四五三年にトルコ人に占領されるまで、コンスタンティノープルは西方世界と東方世界の間にある中立的な交易市場であり、ジェノヴァ人はそこで自由に交易していた。しかしジェノヴァ人の宿敵である「ラテン人」ヴェネツィア人は、ギリシア人に対抗するトルコ人の同盟者、協力者だった。トルコ人の到来とともに、コンスタンティノープルはジェノヴァの交易に敵対的な顔を向けた。世界は球形だという、長く忘れられていた発見も、徐々に人々の精神を再び捉えていた。したがって西回りで中国へ行くという発想は、かなり自然なものだった。それを後押ししたものが二つある。すでに羅針盤が発明され、航行方向を知るため晴れた夜と星だけに頼る必要がなくなっていた。またノルマン人、カタルーニャ人、ジェノヴァ人、ポルトガル人は、すでに大西洋へ進出し、カナリア諸島、マデイラ諸島、アゾレス諸島まで到達していた。

それでもコロンブスが構想を試すための船を手に入れるまでには、多くの困難があった。ヨーロッパ各地の宮廷を渡り歩き、ついにムーア人から奪還されたばかりのグラナダで、フェルナンドとイサベルの後援を得た。そして三隻の小船で未知の大洋へ乗り出すことができた。二か月と九日の航海後、彼はインドだと信じた土地へ到着した。しかし実際には、それまで旧世界が独立した存在だとは一度も想像しなかった新大陸だった。コロンブスは金、綿花、珍しい獣と鳥、洗礼を受けさせるために連れてきた、目を見開き、体に彩色を施した二人の原住民を伴ってスペインへ帰還した。彼らが「インディアン」と呼ばれたのは、コロンブスが生涯の最後まで、発見した土地をインドだと信じていたからである。アメリカという新大陸全体が世界の資源に加わったことを、人々が理解し始めるまでには数年を要した。

コロンブスの成功は、海外進出を大いに刺激した。一四九七年、ポルトガル人がアフリカを回ってインドへ航海し、一五一五年にはポルトガル船がジャワにいた。一五一九年、スペインに仕えていたポルトガル人船乗りマゼランは、五隻の船でセビリアから西へ出航した。そのうち一隻、ヴィクトリア号は一五二二年、川をさかのぼってセビリアへ帰還した。世界を一周した史上初の船である。出発時の二百八十人のうち、生存者三十一人が乗っていた。マゼラン自身はフィリピン諸島で殺されていた。

印刷された紙の書物、球形の世界は隅々まで到達可能だという新たな認識、異国の土地、動植物、風俗習慣についての新たな展望、海外と天空、生活の方法や素材についての発見が、一挙にヨーロッパ人の精神へ押し寄せた。長く埋もれ、忘れられていたギリシア古典は急速に印刷、研究され、プラトンの夢と、共和政時代の自由と尊厳の伝統によって、人々の思想を染めていった。西ヨーロッパに最初に法と秩序をもたらしたのはローマの支配であり、それを回復したのはラテン教会だった。しかし異教ローマでもカトリックのローマでも、好奇心と革新は組織に従属し、抑制されていた。ラテン精神の支配は、今や終わりに近づいていた。十三世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパのアーリア人は、セム人とモンゴル人から受けた刺激、そしてギリシア古典の再発見によってラテンの伝統を脱し、人類の知的、物質的指導者へ再び上り詰めた。

第五十章 ラテン教会の宗教改革

ラテン教会そのものも、この精神的再生から途方もない影響を受けた。教会は分裂し、生き残った部分さえ大幅に刷新された。

十一、十二世紀、教会が全キリスト教世界の専制的指導者の座へどれほど近づいたか、また十四、十五世紀に人々の精神と社会に及ぼす力がいかに衰えたかは、すでに述べた。初期には教会を支え、その力となっていた民衆の宗教的熱情が、教会の傲慢、迫害、中央集権化によって反対勢力へ変わったこと、フリードリヒ二世の浸透力ある懐疑主義が、諸侯の服従拒否の拡大として実を結んだことも説明した。大シスマは教会の宗教的、政治的威信を無視できるほど小さくした。反乱の力は、今や両側から教会を襲った。

イングランド人ウィクリフの教えはヨーロッパ全域に広まった。一三九八年、博学なチェコ人ヤン・フスは、プラハ大学でウィクリフの教えについて一連の講義を行った。この教えは教養階級を越えて急速に広まり、民衆の大きな熱狂を呼び起こした。一四一四~一八年、大シスマを解決するため、コンスタンツで全教会の公会議が開かれた。フスは皇帝から安全を保証されて会議に招かれたが、捕らえられ、異端の罪で裁判にかけられ、火刑に処された(一四一五年)。しかしボヘミアの民衆が鎮まるどころか、これを契機に同国でフス派が蜂起した。ラテン・キリスト教世界の崩壊の始まりを告げる、一連の宗教戦争の最初のものだった。再統一されたキリスト教世界の首長としてコンスタンツで特に選出された教皇マルティヌス五世は、この蜂起に対する十字軍を説いた。

この頑強な小民族に対して合計五回の十字軍が派遣され、そのすべてが失敗した。十三世紀にヨーロッパ中の無職の無頼漢がワルド派へけしかけられたように、十五世紀にはボヘミアへ向けられた。しかしワルド派と異なり、ボヘミアのチェコ人は武力抵抗を信じていた。ボヘミア十字軍は、フス派の荷車の音と、遠くから響く兵士の聖歌を聞いただけで崩壊し、戦場から散り散りに逃げ去った。戦おうとさえしなかったのである(ドマジュリツェの戦い、一四三一年)。一四三六年、バーゼルで開かれた新たな公会議はフス派と妥協を成立させ、ラテン教会の慣行に対する彼らの個別の異議を多数認めた。

ルターの肖像

(大英博物館所蔵の初期ドイツ版画より)

十五世紀には大疫病が発生し、ヨーロッパ全土に大きな社会的混乱を引き起こした。民衆の間には極度の窮乏と不満があり、イングランドとフランスでは領主や富裕層に対する農民反乱が起きていた。フス戦争後、ドイツの農民蜂起はさらに深刻になり、宗教的性格を帯びた。印刷術もこの展開に影響を与えた。十五世紀半ばまでには、オランダとラインラントで活字印刷業者が活動していた。この技術はイタリアとイングランドに広がり、一四七七年にはキャクストンがウェストミンスターで印刷を行っていた。直接の結果は、聖書の大幅な増刷と普及、そして民衆を広く巻き込む論争の飛躍的な容易化だった。ヨーロッパ世界は、過去のいかなる社会にも例がないほど、読者の世界となった。しかも一般人の精神に、より明晰な思想と、より入手しやすい情報が突然流れ込んだのは、まさに教会が混乱、分裂して効果的に自衛できず、多くの諸侯が、領内に教会が所有権を主張する莫大な富への支配を弱める手段を探していた時だった。

ドイツでは、教会への攻撃が、元修道士マルティン・ルター(一四八三~一五四六年)を中心に結集した。一五一七年、彼はヴィッテンベルクに現れ、正統的なさまざまな教義と慣行に反対する討論を提起した。当初はスコラ学者の流儀に従い、ラテン語で論じた。次いで印刷された言葉という新たな武器を手に取り、一般民衆に向けてドイツ語で自説を各地へ広めた。フスと同じように弾圧しようとする試みもあったが、印刷機が状況を変えていた。ドイツ諸侯の間には公然、非公然の友人があまりにも多く、彼が同じ運命をたどることはなかった。

思想が増殖し、信仰が弱まったこの時代、自国民とローマの宗教的絆を断つことに利益を見いだす支配者が大勢いた。彼らは、より民族化された宗教の首長に、自ら就こうとした。イングランド、スコットランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、北ドイツ、ボヘミアが相次いでローマ教会から分離した。その分離は今日まで続いている。

彩色マヨリカ焼の皿 異端者と異教徒に勝利する教会の寓意。イタリア、ウルビーノ、一五四三年

(ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)

関係した諸侯は、臣民の道徳的、知的自由などほとんど気にかけなかった。民衆の宗教的疑念と反抗を利用してローマに対抗する力を強めたが、決裂を果たし、王権の統制下に国教会を設けると、ただちに民衆運動を掌握しようとした。しかしイエスの教えには、常に奇妙な生命力がある。世俗的であれ聖職的であれ、あらゆる忠誠、あらゆる服従を超えて、正義と人間の自尊心に直接訴えかける力である。これら君主の教会は、どれも分離と同時に、幾つもの小宗派を生まずにはいなかった。そうした宗派は、人と神との間に、君主であれ教皇であれ、何者が介入することも認めなかった。たとえばイングランドとスコットランドには、聖書だけを生活と信仰の指針として固く守る多くの宗派があった。彼らは国教会の規律を拒んだ。イングランドでは、こうした反対派は非国教徒と呼ばれ、十七、十八世紀の同国政治で非常に大きな役割を果たした。彼らは君主が教会の首長であることへの反対を、国王チャールズ一世を斬首するところまで進めた(一六四九年)。その後、繁栄に満ちた十一年間、イングランドは非国教徒の統治する共和国となった。

北ヨーロッパのこの広大な地域がラテン・キリスト教世界から離脱した出来事は、一般に宗教改革と呼ばれる。しかし、この喪失がもたらした衝撃と圧力は、ローマ教会そのものにも、おそらく同じほど深い変化を引き起こした。教会は再編され、新たな精神がその生命に入り込んだ。この復興を主導した人物の一人が、若いスペイン人兵士イニゴ・ロペス・デ・レカルデ、世にロヨラの聖イグナチオとして知られる人物である。波乱に満ちた初期の遍歴を経て司祭となり(一五三八年)、イエズス会の創設を許された。それは、軍隊の規律が持つ寛大で騎士道的な伝統を、宗教への奉仕に直接導入しようとする試みだった。このイエズス会は、世界史上最大級の教育・宣教組織となった。キリスト教をインド、中国、アメリカへ伝え、ローマ教会の急速な崩壊を食い止めた。カトリック世界全体の教育水準を引き上げ、カトリック教徒の知性を高め、至るところでその良心を活性化し、プロテスタント・ヨーロッパにも対抗的な教育努力を促した。今日知られる精力的で攻勢的なローマ・カトリック教会は、主としてこのイエズス会による復興の産物である。

第五十一章 皇帝カール五世

神聖ローマ帝国は、皇帝カール五世の治世に一種の頂点を迎えた。彼は、ヨーロッパ史上まれに見る非凡な君主の一人である。一時は、カール大帝以来最大の君主と思われていた。

だが、その偉大さは彼自身が築いたものではない。大部分は祖父マクシミリアン一世(1459――1519年)が作り上げたものだった。戦って世界の覇権を手にした一族もあれば、策謀によってそこへ登った一族もある。ハプスブルク家は、結婚によって登った。マクシミリアンは、ハプスブルク家伝来の領地であるオーストリア、シュタイアーマルク、アルザスの一部その他を足場に出発し、結婚によって――相手の女性の名は、ここではさほど重要でない――ネーデルラントとブルゴーニュを手に入れた。最初の妻の死後、ブルゴーニュの大半は失ったが、ネーデルラントは保持した。次いでブルターニュとの婚姻を試みたものの、これは失敗した。1493年、父フリードリヒ三世を継いで皇帝となり、さらに結婚によってミラノ公国を得た。最後には、息子をフェルナンドとイサベル――コロンブスを後援した、あのフェルナンドとイサベルである――の知的能力に乏しい娘と結婚させた。この夫妻は、統一されたばかりのスペイン、サルデーニャ、両シチリア王国のみならず、ブラジル以西の全アメリカを支配していた。こうして孫のカール五世は、アメリカ大陸の大半と、トルコ人の手を免れたヨーロッパの三分の一ないし半分を相続したのである。1506年にはネーデルラントを継承した。1516年、母が心神喪失状態にあったため、祖父フェルナンドの死とともに事実上スペイン領の王となり、1519年に祖父マクシミリアンが死ぬと、翌1520年、まだ二十歳という若さで皇帝に選出された。

色白の青年で、顔立ちはあまり聡明そうではなく、厚い上唇と長く不格好な顎をしていた。彼を取り巻いていたのは、若く活力に満ちた人物たちの世界である。まさに輝かしい若き君主たちの時代だった。フランソワ一世は1515年、二十一歳でフランス王位を継ぎ、ヘンリー八世は1509年、十八歳でイングランド王となっていた。インドではバーブル(1526――1530年)、トルコではスレイマン大帝(1520年)が君臨しており、どちらも並外れて有能な君主だった。教皇レオ十世(1513年)もまた、ひときわ傑出した教皇である。教皇とフランソワ一世は、これほど大きな権力が一人の手に集中するのを恐れ、カールの皇帝選出を阻もうとした。フランソワ一世もヘンリー八世も、自ら皇帝候補として選帝侯に名乗りを上げた。しかし1273年以来、皇帝位はハプスブルク家が占めるという長い伝統があり、そこへ精力的な買収工作も加わって、カールの当選が決まった。

当初、若い皇帝は大臣たちに操られる壮麗な操り人形にすぎなかった。だが徐々に自己を主張し、実権を握り始めた。そして、自らの高位がはらむ脅威と複雑さを少しずつ悟っていった。その地位は、華麗であると同時に、きわめて不安定だった。

治世の当初から、ドイツにおけるルターの運動が生み出した情勢に直面した。教皇が自らの選出に反対したことを思えば、皇帝には改革派に味方する理由も一つあった。しかし彼は、カトリック信仰が最も強い国スペインで育っており、結局ルターに反対する道を選んだ。そのため、プロテスタント諸侯、とりわけザクセン選帝侯と対立した。彼の眼前には、すでに時代遅れとなったキリスト教世界の織物を二つの敵対陣営へ引き裂く亀裂が口を開けていた。その亀裂を閉じようとした彼の努力は、精力的かつ誠実だったが、実を結ばなかった。ドイツでは大規模な農民反乱が起こり、政治的・宗教的混乱と絡み合った。こうした内患に加え、帝国は東西双方から攻撃された。西には意気盛んな宿敵フランソワ一世、東には絶えず前進するトルコ人がいた。トルコ軍はすでにハンガリーへ入り、フランソワと同盟を結び、オーストリア領に対して滞納した貢納金の支払いを要求していた。カールはスペインの財力と軍隊を自由に使えたが、ドイツから実効的な資金援助を引き出すのは至難だった。社会的・政治的苦境に財政難まで重なり、破滅的な借金を強いられた。

ティツィアーノ作「カール五世像。」

*(マドリード、プラド美術館所蔵)

写真:アンダーソン*

全体として見れば、カールはヘンリー八世と同盟し、フランソワ一世とトルコ人に対して優勢だった。主戦場は北イタリアで、両陣営とも用兵は凡庸、進退は主として援軍到着の有無に左右された。ドイツ軍はフランスへ侵攻したもののマルセイユ攻略に失敗し、イタリアへ退却してミラノを失い、パヴィアで包囲された。フランソワ一世はパヴィアを長く包囲したが落とせず、新たに到着したドイツ軍に捕捉され、敗北して負傷し、捕虜となった。ところが、カールが強大になりすぎることへの恐れを捨てきれなかった教皇とヘンリー八世は、今度は彼に敵対した。ミラノにいたドイツ兵は、ブルボン大元帥の指揮下にあったが、給金を受け取れず、指揮官に従ったというより、むしろ指揮官を強いてローマ襲撃へ向かわせた。彼らは市を攻め落として略奪した(1527年)。殺戮と略奪が続く間、教皇はサンタンジェロ城へ避難した。最後には四十万ドゥカートを支払い、ドイツ兵を退去させた。十年に及ぶ混乱した戦争は、全ヨーロッパを疲弊させた。ついに皇帝はイタリアで勝者となり、1530年、ボローニャで教皇から戴冠を受けた。教皇に戴冠されたドイツ皇帝は、彼が最後である。

一方、トルコ軍はハンガリーで大きく進撃していた。1526年にはハンガリー王を破って殺し、ブダペストを占領し、1529年にはスレイマン大帝が危うくウィーンを陥落させるところまで迫った。皇帝はこの前進を深く憂慮し、トルコ軍を押し戻すため全力を尽くしたが、これほど強大な敵が国境目前に迫ってなお、ドイツ諸侯を団結させるのはきわめて困難だった。フランソワ一世はしばらく敵対姿勢を崩さず、新たな対仏戦争が起きた。しかし1538年、カールは南フランスを荒廃させた末、宿敵をより友好的な態度へ転じさせた。二人はここに対トルコ同盟を結んだ。ところが、ローマから離脱する決意を固めたドイツのプロテスタント諸侯は、皇帝に対抗してシュマルカルデン同盟を結成していた。キリスト教世界のためにハンガリーを奪回する大遠征どころではなく、カールはドイツ国内で激化する闘争へ目を向けねばならなかった。彼が目にしたのは、その闘争の最初の戦争だけである。それは主導権をめぐる、諸侯の流血と不合理に満ちた争いだった。ある時は戦争と破壊へ燃え上がり、またある時は陰謀と外交へ沈み込む。諸侯の政策が蛇袋のように絡まり合い、十九世紀に至るまで治ることなくのたうち続け、中部ヨーロッパを幾度も荒廃させることになる。

皇帝は、膨れ上がる騒乱の背後で働いていた真の力を、ついに理解しなかったようである。時代と地位を考えれば、彼は並外れて立派な人物だった。そしてヨーロッパを敵対する断片へ引き裂いていた宗教対立を、純粋な神学上の相違として受け止めていたらしい。和解を求めて帝国議会や公会議を招集したが、いずれも徒労に終わった。さまざまな信条文や信仰告白が検討された。ドイツ史を学ぶ者は、ニュルンベルク宗教和議、レーゲンスブルク帝国議会の協定、アウクスブルク仮信条協定などの細部と格闘せねばならない。ここでは、頂点に立ったこの皇帝の苦悩に満ちた生涯を彩る細部として、名を挙げるにとどめる。実際のところ、ヨーロッパにいた無数の諸侯や支配者のうち、誠実に行動していた者はほとんど一人もいなかったように見える。世界に広がる宗教的動揺、真理と社会正義を求める民衆の願い、知識の普及――そうしたものはすべて、諸侯外交の想像力の中では単なる駒にすぎなかった。異端を攻撃する書物で経歴を始め、教皇から「信仰の擁護者」の称号を授けられたイングランド王ヘンリー八世も、最初の妻と離婚してアン・ブーリンという若い女性を迎えたいと望み、さらにイングランド教会の莫大な富を略奪しようとして、1530年にはプロテスタント諸侯の仲間に加わった。スウェーデン、デンマーク、ノルウェーはすでにプロテスタント側へ移っていた。

ドイツ宗教戦争は、マルティン・ルターの死から数か月後の1546年に始まった。戦役の細部へ立ち入る必要はない。プロテスタントのザクセン軍はロッハウで大敗した。皇帝側に残る最大の敵、ヘッセン方伯フィリップは、背信に限りなく近い手段で捕らえられ、投獄された。トルコには毎年の貢納を約束して矛を収めさせた。1547年には、皇帝を大いに安堵させたことに、フランソワ一世が死んだ。こうして同年までに、カールは一応の決着へたどり着き、平和の存在しない場所で最後の和平工作を試みた。だが1552年、全ドイツは再び戦火に包まれ、カールはインスブルックから慌ただしく逃れて、辛うじて捕縛を免れた。同年のパッサウ条約によって、またも不安定な均衡が訪れた……。

以上が三十二年にわたる帝国政治の概略である。注目すべきは、ヨーロッパ人の関心がヨーロッパの覇権争いに完全に集中していたことだ。トルコ人もフランス人もイングランド人もドイツ人も、まだ巨大なアメリカ大陸に政治的利益を見いださず、アジアへ至る新航路の意味も理解していなかった。アメリカでは重大な出来事が進行していた。コルテスはわずかな兵でメキシコの大新石器時代帝国を征服してスペイン領とし、ピサロはパナマ地峡を越え(1530年)、もう一つの驚異の国ペルーを征服していた。だが当時のヨーロッパにとって、これらはスペイン国庫へ有用で刺激的な銀が流れ込む以上の意味を持たなかった。

パッサウ条約の後、カールは独特な精神の持ち主であることを示し始めた。帝国の栄華には、すっかり倦み、幻滅していた。ヨーロッパの抗争が耐え難いほど無益であるという思いに襲われたのである。もともと丈夫ではなく、生来怠惰で、痛風にもひどく苦しんでいた。そこで退位した。ドイツにおける主権のすべてを弟フェルディナントへ譲り、スペインとネーデルラントを息子フェリペへ渡した。そして壮大な憤慨を胸に、テージョ川流域北方の丘陵、オークとクリの森に囲まれたユステ修道院へ退いた。1558年、そこで死去した。

この隠退については、世に疲れた威厳ある巨人が世界を捨て、厳しい孤独の中で神との平安を求めたのだと、感傷的な筆致で多くが書かれてきた。だが、その隠棲は孤独でも禁欲的でもなかった。側には百五十人近い従者がいた。その暮らしには、宮廷の疲労だけがなく、華麗さも享楽もすべてそろっていた。フェリペ二世は孝行息子で、父の助言を命令として受け止めた。

ローマ、サン・ピエトロ大聖堂内部――主祭壇を望む

写真:アリナーリ

カールはヨーロッパ行政への生き生きとした関心こそ失っていたが、もっと身近に彼を動かすものがあった。プレスコットはこう記す。「キハーダまたはガステルと、バリャドリードの国務長官との間でほぼ毎日交わされた書簡には、皇帝の食事か病気に多少とも触れていないものがほとんどない。一方が他方への絶え間ない注釈のように、ごく自然に続いている。国務当局への通信が、このような話題で埋め尽くされた例はまれであろう。政治と美食が奇妙に混ざり合った公文書を読みながら、長官が真顔を保つのは容易ではなかったに違いない。バリャドリードからリスボンへ向かう急使は、途中でハランディーリャへ寄り道し、皇帝の食卓へ食料を届けるよう命じられていた。木曜日には、翌日の精進日に供する魚を運ばねばならなかった。近隣のマスは小さすぎるとカールが考えたため、より大きなものをバリャドリードから送ることになった。魚なら何でも好物であり、実際のところ、性質や習性が少しでも魚に近いものなら何でも好んだ。ウナギ、カエル、カキは、皇帝の献立で重要な位置を占めていた。魚の瓶詰め、とりわけアンチョビがお気に入りで、ネーデルラントからもっと多く持参しなかったことを悔やんでいた。中でもウナギのパイには目がなかった」……。[]

1554年、カールは教皇ユリウス三世から、断食を免除し、聖餐を受ける日にも早朝から食事を取ることを許す大勅書を得ていた。

食べることと、医者にかかること! 根源的な営みへの回帰だった。読書の習慣はついに身につかなかったが、カール大帝にならい、食事中に朗読させ、ある記録者が「甘美にして天上的」と評した講評を口にした。

機械仕掛けの玩具、音楽や説教を聴くこと、なお舞い込んでくる帝国の政務を処理することでも気を紛らわせた。深く愛していた皇后の死を契機に宗教へ傾き、その信仰は細則と儀式を重んじる形を取った。四旬節には毎週金曜日、他の修道士とともに、血が出るほど熱心に自らを鞭打った。こうした修行と痛風が、政策上の配慮によってそれまで抑えられていた頑迷な狂信を解き放った。すぐ近くのバリャドリードにプロテスタントの教えが現れると、激怒した。「異端審問所長と評議会に、私から伝えよ。持ち場を守り、この悪がさらに広がる前に、根元へ斧を打ち込め」。……これほど邪悪な事件なら、通常の司法手続きを省き、いっさい慈悲を示さぬほうがよいのではないかとも述べた。「赦された罪人が、再び罪を犯す機会を得ぬように」と。

模範として、自らがネーデルラントで採用した処置を勧めた。「誤りに固執する者は全員生きたまま焼き、悔悛を認められた者は斬首した」。

そして、歴史における彼の地位と役割を象徴するかのように、葬儀へ強く心を奪われていた。ヨーロッパでは何か偉大なものが死んでおり、埋葬を切実に必要としている、とうに書かれるべき「終」の一字を書かねばならない――彼にはそんな直感があったらしい。ユステで実際に営まれた葬儀にはすべて参列しただけでなく、遠方で死んだ者のためにも礼拝を行わせ、妻の命日には追悼葬儀を営み、最後には自分自身の葬儀まで挙行した。

「礼拝堂は黒布で覆われ、何百本もの蝋燭の炎も、闇を追い払うには十分でなかった。修道服姿の兄弟たちと、深い喪服をまとった皇帝家の者たちが、礼拝堂中央に設けられ、同じく黒布に包まれた巨大な棺台かんだいを囲んだ。死者埋葬の典礼が執り行われ、修道士たちの陰鬱な嘆きの中、故人の魂が祝福された者の住まいへ迎えられるよう祈りが捧げられた。悲嘆に暮れる従者たちは、主人の死を思い描いて涙を流した――あるいは、この哀れな弱さの露呈に、憐憫を催したのかもしれない。カールは暗色の外套に身を包み、火のついた蝋燭を手に、家臣たちの間へ交じって自らの葬儀を見守った。そして最後に、その灯火を司祭の手へ渡し、自らの魂を全能者へ委ねるしるしとして、悲痛な儀式を終えた。」

この仮装めいた儀式から二か月もたたぬうちに、彼は死んだ。神聖ローマ帝国の束の間の偉大さも、彼とともに死んだ。その領土は、すでに弟と息子の間で分割されていた。神聖ローマ帝国そのものは、確かにナポレオン一世の時代まで存続したが、病み、死につつある存在でしかなかった。埋葬されぬその伝統は、今日に至るまで政治の空気を毒している。

第五十二章 政治的実験の時代――ヨーロッパにおける大君主制、議会、共和主義

ラテン教会は分裂し、神聖ローマ帝国は極度に衰退していた。十六世紀初頭以降のヨーロッパ史とは、出現しつつあった新たな状況により適した統治方法を求め、人々が暗中模索する物語である。古代世界では、長い年月の間に王朝が交代し、支配民族や言語さえ変わったが、君主と神殿を軸とする統治形態はおおむね安定し、日常の生活様式はさらに安定していた。対して十六世紀以降の近代ヨーロッパでは、王朝交代そのものは重要でなくなり、政治的・社会的組織について多種多様な実験が重ねられ、その幅が拡大していくところに歴史の核心がある。

十六世紀以降の世界政治史は、すでに生じていた新たな条件へ政治的・社会的手法を適応させようとする、人類の、ほとんど無意識の努力だった。適応への努力は、条件そのものが加速度的に変化していたため、いっそう複雑になった。適応はおおむね無意識で、ほとんど常に不本意なものだった――人間一般は自発的な変化を嫌うからである――ため、条件の変化にますます遅れを取った。十六世紀以降の人類史は、政治制度と社会制度が時代に合わなくなっていくことが次第に明白となり、暮らしにくさと煩わしさが増す一方で、かつての生命経験にはなかった新たな必要と可能性を前に、人間社会の仕組み全体を意識的かつ計画的に再建せねばならないと、ゆっくり、不承不承に悟っていく物語である。

では、皇帝、聖職者、農民、商人の均衡を崩した、人間生活の条件の変化とは何だったのか。かつてこの均衡は、定期的に蛮族の征服によって更新されながら、一万年以上にわたり旧世界の人間社会を一種の実用的なリズムの中に保ってきた。

変化は多種多様である。人間社会は途方もなく複雑だからだ。しかし主要な変化はすべて、一つの原因を軸としているように思われる。すなわち、事物の本性に関する知識の成長と拡大である。それはまず少数の知的な人々の集団から始まり、当初はゆっくりと、そして過去五百年間にはきわめて急速に、一般大衆のより大きな割合へ広がっていった。

だが、人間生活の精神が変わったことによっても、人間の置かれた状況には大きな変化が生じた。この変化は知識の増大・普及と並行して進み、それと微妙に結びついている。ありふれた初歩的な欲求と満足に基づく人生を不十分と見なし、より大きな生命との結びつき、奉仕、参加を求める傾向が強まったのである。これは過去二十数世紀に世界へ広がった大宗教、すなわち仏教、キリスト教、イスラム教すべてに共通する特徴である。これらは、旧来の宗教にはなかった形で人間の精神に関わった。その性質も影響も、聖職者と神殿を中心とする古い呪物崇拝的な血の供犠の宗教とはまったく異なる。そうした旧宗教を一部では変容させ、一部では置き換えた。大宗教は次第に、個人の自尊心と、人類共通の事柄に参加し責任を負う感覚を発達させた。これは初期文明の民衆には存在しなかったものである。

政治的・社会的生活の条件に最初の重大な変化をもたらしたのは、古代文明における文字の簡略化と利用拡大だった。それにより、より大きな帝国と、より広範な政治的理解が可能となり、また不可避となった。次の前進は、輸送手段として馬が、後にはラクダが導入され、車輪付き車両が使われ、道路が拡張され、地表近くの鉄の発見によって軍事効率が高まったことで生じた。続いて、鋳造貨幣の発明と、この便利だが危険な慣習が債務、所有、交易の性質を変えたことで、深刻な経済的混乱が起きた。帝国は規模と範囲を拡大し、人間の観念もそれに応じて広がった。地方神が消え、神々が混交する時代が訪れ、世界宗教の教えが現れた。理性的に考察され記録された歴史と地理も始まり、人類は初めて自らの深い無知を悟り、体系的な知識探究へ乗り出した。

ギリシアとアレクサンドリアで華々しく始まった科学の歩みは、一時中断した。ゲルマン蛮族の襲撃、モンゴル諸民族の西進、宗教の激動的な再編、巨大な疫病が、政治秩序と社会秩序へ途方もない重圧をかけた。文明がこの抗争と混乱の時代から再び姿を現した時、奴隷制はもはや経済生活の基盤ではなかった。そして最初の製紙工場が、印刷物を通した集団的な情報共有と協力のため、新たな媒体を用意していた。各地で徐々に知識探究が、体系的な科学的方法が再開された。

そして十六世紀以降、体系的思考の必然的な副産物として、人々の意思疎通と相互作用に影響する発明や装置が、絶え間なく増え続けた。どれも行動範囲を拡大し、相互の利益あるいは損害を増大させ、協力を強化する方向へ働き、しかも登場の速度はますます増した。人間の精神には、このような事態への備えがまったくなかった。二十世紀初頭の大惨事が人々の思考を目覚めさせるまで、増大する発明の奔流が作り出した新条件へ、知的な計画をもって対処しようとした試みについて、歴史家が語れることはほとんどない。過去四世紀の人類史は、危険と好機を意識して目覚めた人間の物語というより、囚われた眠り人の物語に似ている。彼を閉じ込め、同時に守っている牢獄が燃え始めても、不器用に不安げに身じろぎするだけで目覚めず、火の爆ぜる音と熱を、古く場違いな夢の中へ取り込んでいるのである。

歴史とは個人の生涯ではなく共同体の物語である以上、史料に最も多く登場する発明が、通信・交通に関わるものとなるのは当然である。十六世紀に注目すべき新たなものは、印刷された紙と、航海用羅針盤という新装置を備えた、外洋航行可能な帆船の登場だった。前者は教育、公共情報、討論、そして政治活動の基本的な営みを安価にし、普及させ、根底から変革した。後者は丸い世界を一つにした。しかし、十三世紀にモンゴル人が西方へ初めて持ち込んだ銃と火薬の利用拡大と改良も、ほぼ同じほど重要だった。これによって城に籠もる諸侯と城壁都市の実質的な不可侵性が失われた。銃砲は封建制を一掃した。コンスタンティノープルは大砲によって陥落し、メキシコとペルーもスペインの銃砲の恐怖に屈した。

クロムウェル、長期議会を解散し、イングランド共和国の独裁者となる

(大英博物館所蔵の同時代の風刺画より)

十七世紀には、体系的な科学出版が発達した。目立ちはしなかったが、最終的にははるかに大きな成果を生む革新だった。この大きな前進を率いた人物の中でも際立つのが、後にヴェルラム男爵、イングランド大法官となったサー・フランシス・ベーコン(1561――1626年)である。彼はもう一人のイングランド人、コルチェスターの実験哲学者ギルバート博士(1540――1603年)の弟子であり、おそらくその代弁者だった。この第二のベーコンも、第一のベーコンと同じく観察と実験を説き、科学研究に奉仕する大組織の夢を、霊感に富み豊かな成果を生むユートピア物語『ニュー・アトランティス』という形で表現した。

やがてロンドン王立協会、フィレンツェの学会、さらに後には研究の奨励と知識の出版・交換を目的とする各国の組織が誕生した。ヨーロッパの科学協会は、無数の発明を生み出す泉となっただけでなく、何世紀にもわたって人間の思考を支配し、麻痺させてきた荒唐無稽な神学的世界史を、破壊的に批判する源ともなった。

十七世紀にも十八世紀にも、印刷物や外洋船ほど人間の生活条件を即座に一変させる革新はなかった。だが知識と科学的活力は着実に蓄積され、十九世紀に十分な実を結ぶことになる。世界の探検と地図作成は続き、タスマニア、オーストラリア、ニュージーランドが地図上へ現れた。十八世紀のイギリスでは、冶金に石炭コークスが使われ始めた。その結果、鉄はかなり安価になり、木炭で製錬していた時代より大きな部材として鋳造・使用できるようになった。近代機械の夜明けである。

天上の都の木々のように、科学は芽と花と実を同時に、絶え間なくつける。十九世紀の到来とともに、科学の真の結実が始まった――それは今後、途絶えることがないかもしれない。まず蒸気と鋼鉄、鉄道、巨大な外洋定期船、広大な橋梁と建築物、ほぼ無限の力を持つ機械が現れ、人類のあらゆる物質的必要を豊かに満たせる可能性が生まれた。続いて、さらに驚くべきことに、電気科学の隠された宝庫が人間の前に開かれた……。

十六世紀以降の人類の政治的・社会的生活を、周囲で牢獄が燃えているのに横たわって夢を見続ける囚人へたとえた。十六世紀のヨーロッパ精神は、なおラテン帝国の夢、カトリック教会の下に統一された神聖ローマ帝国の夢を見続けていた。だが人間の内なる制御不能な何ものかが、ときに夢の中へきわめて不条理で破壊的な要素を持ち込むように、この夢の中へ、眠たげな皇帝カール五世の顔と貪欲な胃袋が割り込んでくる。その一方で、イングランド王ヘンリー八世とルターが、カトリック世界の統一をずたずたに引き裂いていた。

ヴェルサイユ宮廷

(大英博物館所蔵、ヴァトー作品に基づく版画より)

十七、十八世紀になると、夢は個人君主制へ変わった。この時期のヨーロッパ諸国の歴史は、多少の違いはあれ、ほぼ同じ物語を語っている。君主制を強化して絶対化し、隣接する弱小地域へ権力を拡大しようとする試みと、王権による収奪と干渉へ向けられた着実な抵抗である。抵抗の担い手は、まず土地所有者、次いで外国貿易と国内産業の成長に伴って台頭した商工・金融階級だった。どちらか一方が普遍的な勝利を収めたわけではない。ある国では王が優位に立ち、別の国では私有財産を持つ人々が王を打ち負かした。一方では王が国民世界の太陽と中心になり、その国境のすぐ向こうでは、たくましい商人階級が共和国を維持していた。これほど幅広い相違が生じたことは、この時代の各種政府が、いかに徹底して実験的で、地方的な偶然に左右されたものだったかを示している。

こうした各国の劇に頻繁に登場するのが王の大臣である。なおカトリックにとどまった国々では高位聖職者であることが多く、王の背後に立ち、仕えながら、不可欠な奉仕を通じて王を支配した。

限られた紙幅で、各国の劇を詳しく語ることはできない。オランダの商業民はプロテスタントと共和主義へ転じ、皇帝カール五世の息子、スペイン王フェリペ二世の支配を脱した。イングランドでは、ヘンリー八世と大臣ウルジー、エリザベス女王と大臣バーリーが絶対主義の基盤を築いたが、ジェームズ一世とチャールズ一世の愚行によって崩壊した。チャールズ一世は人民への反逆罪で斬首された(1649年)。これはヨーロッパ政治思想の新たな展開だった。イギリスは十二年間、すなわち1660年まで共和国となった。その後も王権は不安定で、議会の影に大きく覆われていたが、ジョージ三世(1760――1820年)が王権の優位回復へ精力的に努め、部分的な成功を収めた。一方、フランス王はヨーロッパ諸王の中で、君主制を完成させることに最も成功した。リシュリュー(1585――1642年)とマザラン(1602――1661年)という二人の大宰相が王権を築き上げ、その過程を、長い治世と相当な能力を備えたルイ十四世、「大君主」(1643――1715年)が後押しした。

ルイ十四世は、まさしくヨーロッパの模範的な王だった。限界こそあったが、並外れて有能な王である。卑しい情欲より野心のほうが強く、意気盛んな対外政策と華麗な威厳を組み合わせて国を破産へ導いた。その姿には、今もなお感嘆を禁じ得ない。当面の望みは、フランス領をライン川とピレネー山脈まで固めて拡張し、スペイン領ネーデルラントを併合することだった。さらに遠い展望としては、再編された神聖ローマ帝国において、フランス王がカール大帝の後継者となる可能性を見ていた。彼は買収を、戦争以上に重要ともいえる国家的手法へ仕立て上げた。イングランド王チャールズ二世も、後に触れるポーランド貴族の大半も、彼から金を受け取っていた。彼の金――正確にはフランスの納税階級の金――は各地へ流れた。だが最大の関心事は華麗さだった。広間、回廊、鏡、テラス、噴水、公園、眺望を備えたヴェルサイユの大宮殿は、全世界の羨望と賛嘆の的となった。

フランス革命期の村落略奪

(カロ作『戦争の悲惨』より)

彼は世界中に模倣熱を巻き起こした。ヨーロッパの王や小諸侯は、臣民と信用が許す限り、身の丈を超えた自前のヴェルサイユを建設した。貴族は至る所で、新様式に合わせて城館を建て直し、増築した。美しく精巧な織物や調度品の一大産業が発達した。奢侈の芸術は各地で栄えた。雪花石膏の彫刻、ファイアンス焼、金箔木工品、金属細工、型押し革、豊かな音楽、壮麗な絵画、美しい印刷と装丁、上質な陶器、優れた銘酒。鏡と美麗な家具の間を歩くのは、背の高い粉かつらをつけ、絹とレースをまとい、高い赤い踵の上で均衡を取り、奇抜な杖にすがる、異様な「紳士」たちだった。そしてさらに驚くべき「淑女」たちは、粉を振った髪を塔のように高く結い、針金で支えた絹と繻子の巨大なスカートを身につけていた。そのすべての中で、偉大なルイは、自らの世界の太陽として誇らしげに振る舞った。だが、その陽光が届かぬ下層の闇から、痩せこけ、不機嫌で、怨恨に満ちた顔々が見つめていることには気づかなかった。

君主制と実験的政府が並立したこの時代を通じ、ドイツ人は政治的に分裂したままだった。多数の公爵・諸侯宮廷が、規模こそ違え、ヴェルサイユの華麗さをまねた。三十年戦争(1618――1648年)は、ドイツ人、スウェーデン人、ボヘミア人が目まぐるしく変わる政治的利益を争った破壊的な乱戦で、ドイツの活力を一世紀にわたって枯渇させた。この戦いがどれほど狂った継ぎはぎ模様を残したかは、ウェストファリア条約(1648年)後のヨーロッパ地図を見れば分かる。公国、大公国、自由国などがもつれ合い、帝国に一部だけ属する国もあった。読者が気づくように、スウェーデンの腕はドイツ奥深くへ伸びていた。帝国境内にあるわずかな飛び地を除けば、フランスはまだライン川から遠かった。この継ぎはぎの中でプロイセン王国――1701年に王国となった――が着実に台頭し、一連の戦争で勝利した。プロイセン王フリードリヒ大王(1740――1786年)はポツダムに自らのヴェルサイユを持ち、宮廷ではフランス語が話され、フランス文学が読まれ、その文化はフランス王の宮廷と競い合った。

1714年にはハノーファー選帝侯がイングランド王となり、帝国の内と外にまたがる君主国がまた一つ増えた。

カール五世の子孫のうちオーストリア系統は皇帝号を保持し、スペイン系統はスペインを保持した。しかし今や、再び東方にも皇帝が現れた。コンスタンティノープル陥落(1453年)後、モスクワ大公イヴァン大帝(1462――1505年)はビザンツ帝位の継承者を称し、紋章にビザンツの双頭の鷲を採用した。孫のイヴァン四世、すなわちイヴァン雷帝(1533――1584年)は、カエサルに由来する皇帝号「ツァーリ」を名乗った。だがロシアがヨーロッパ人の目に、遠くアジア的な国と映らなくなるのは、十七世紀後半になってからである。ツァーリ、ピョートル大帝(1682――1725年)がロシアを西方世界の舞台へ引き入れた。ネヴァ川沿いに帝国の新首都ペテルブルクを築き、ロシアとヨーロッパを結ぶ窓とした。さらに18マイル(約29キロメートル)離れたペテルゴフに、自らのヴェルサイユを建てた。フランス人建築家を雇い、テラス、噴水、滝、絵画廊、公園など、大君主制にふさわしい設備をすべて整えさせた。プロイセンと同じくロシアでも、フランス語が宮廷語となった。

オーストリア、プロイセン、ロシアの間に不運にも挟まれていたのがポーランド王国である。大土地所有者たちは、自らの威勢を守ることに嫉妬深く、選挙で選ぶ君主に名目以上の王権を認めなかったため、国家組織は脆弱だった。フランスが独立した同盟国として維持しようと努めたにもかかわらず、結局は三隣国に分割される運命をたどった。当時のスイスは共和政の諸州からなり、ヴェネツィアも共和国だった。イタリアはドイツの大半と同様、小公爵や諸侯の領地に分かれていた。教皇は教皇領を一君主として統治し、残るカトリック諸侯の忠誠を失うのを恐れるあまり、諸侯と臣民の間へ介入することも、キリスト教世界の公益を世に思い出させることもなかった。実際、ヨーロッパには共通の政治理念が一つも残っていなかった。完全な分裂と多様性に委ねられていたのである。

これら主権諸侯と共和国は、互いに領土拡張を企て続けた。それぞれが隣国への侵略と攻撃的同盟からなる「外交政策」を追求した。われわれヨーロッパ人は今日なお、この多数主権国家時代の最終局面に生き、それが生んだ憎悪、敵意、疑念に苦しんでいる。この時代の歴史は、現代の知性にとって、ますます明白に「噂話」と化し、無意味で退屈なものとなる。ある戦争は王の愛妾が引き起こし、別の戦争は大臣同士の嫉妬が原因だった、と聞かされる。賄賂と対抗心の雑談は、知的な学徒をうんざりさせる。より永続的に重要なのは、幾十もの国境に妨げられながらも、読書と思索が普及・発展を続け、発明が増加したことだ。十八世紀には、当時の宮廷と政策を徹底して懐疑し批判する文学が現れた。ヴォルテールの『カンディード』のような作品には、無計画に混乱するヨーロッパ世界への限りない倦怠が表現されている。

第五十三章 アジアと海外におけるヨーロッパ人の新帝国

中部ヨーロッパが分裂と混乱の中にとどまる一方、西ヨーロッパ人、とりわけオランダ人、スカンディナヴィア人、スペイン人、ポルトガル人、フランス人、イギリス人は、争いの舞台を世界中の海へ広げていた。印刷機はヨーロッパの政治思想を、巨大で当初は方向の定まらぬ発酵状態へ溶かし込んだ。だがもう一つの大革新、外洋帆船は、ヨーロッパ人の経験の範囲を、塩水の及ぶ最果てまで容赦なく押し広げていた。

オランダ人や北大西洋沿岸のヨーロッパ人が最初に築いた海外拠点は、植民ではなく交易と採掘を目的としていた。最初に進出したのはスペイン人で、アメリカという新世界全体への支配権を主張した。だが間もなくポルトガル人も分け前を求めた。教皇は――世界の支配者としてのローマが行った最後の行為の一つとして――この新大陸を両国の間で分割した。カーボベルデ諸島の西370リーグ(約2,060キロメートル)に線を引き、その東にあるブラジルその他をポルトガルへ、残りすべてをスペインへ与えたのである(1494年)。当時、ポルトガルは南方・東方へも海外事業を進めていた。1497年、ヴァスコ・ダ・ガマはリスボンを発し、喜望峰を回ってザンジバルへ、さらにインドのカリカットへ航海した。1515年にはポルトガル船がジャワ島とモルッカ諸島へ到達し、インド洋沿岸各地に交易所を設け、要塞化していた。モザンビーク、ゴアとインドの小領地二か所、中国のマカオ、ティモール島の一部は、本書執筆時にもポルトガル領である。

教皇の裁定によってアメリカから締め出された諸国は、スペインとポルトガルの権利をほとんど顧みなかった。イングランド、デンマーク、スウェーデン、やがてオランダも、北アメリカと西インド諸島で領有を主張し始めた。「最もカトリック的な陛下」であるフランス王も、プロテスタント諸国に劣らず教皇の裁定を無視した。ヨーロッパの戦争は、こうした領有権と植民地へも広がった。

長い目で見れば、海外領土をめぐるこの争奪戦で最も成功したのはイングランドだった。デンマークとスウェーデンは、ドイツの複雑な問題へ深く巻き込まれ、海外遠征を有効に継続できなかった。スウェーデンの力は、プロテスタントの「北方の獅子」、華々しい国王グスタフ・アドルフによってドイツの戦場で費やされた。

スウェーデンがアメリカに築いた小植民地はオランダが継承した。しかしオランダはフランスの侵攻に近すぎ、イギリスに対抗して自国の地位を守れなかった。極東で帝国を争った主要国はイギリス、オランダ、フランス、アメリカではイギリス、フランス、スペインだった。イギリスには、ヨーロッパとの間にイギリス海峡という水の国境、「銀の帯」があるという絶大な利点があった。ラテン帝国の伝統に最も縛られなかったのである。

インドでトラ狩りをするヨーロッパ人

(大英博物館所蔵、ゾファニーの絵画に基づく版画より)

フランスは常に、ヨーロッパを中心に考えすぎた。十八世紀を通じ、スペイン、イタリア、混乱するドイツを支配しようとして、西でも東でも海外発展の機会を浪費した。十七世紀のイギリスで宗教的・政治的対立が起きると、多くのイングランド人が恒久的な住まいを求めてアメリカへ渡った。彼らは根を下ろし、子孫を増やし、アメリカをめぐる争いでイギリスに大きな優位をもたらした。1756年から1760年にかけて、フランスはカナダをイギリスとそのアメリカ植民者へ奪われた。その数年後、イギリスの貿易会社がインド半島で、フランス、オランダ、ポルトガルを完全に圧倒する地位を得た。バーブル、アクバルとその後継者たちの大ムガル帝国は、すでに著しく衰退していた。ロンドンの貿易会社、イギリス東インド会社が実質的にその帝国を手中へ収めた物語は、征服史全体でも屈指の異例な出来事である。

ティプー・スルタン、最後の奮戦と最期

(大英博物館所蔵、シングルトンの絵画に基づく版画より)

東インド会社は、エリザベス女王治下で設立された当初、海上冒険商人の会社にすぎなかった。一歩ずつ、兵を募り、船を武装せざるを得なくなった。そして今、利益追求を伝統とするこの貿易会社は、香辛料、染料、茶、宝石だけでなく、諸侯の歳入と領土、さらにはインドの運命そのものを扱うことになった。売買のために来たはずが、途方もない海賊行為を成し遂げつつあった。それを阻む者はいなかった。この状況で、船長、司令官、役人、いや書記や一般兵士まで、戦利品を山ほど抱えてイングランドへ帰ったとして、何の不思議があろう。

豊かな大国を意のままにできる状況では、何をしてよく、何をしてはならないのか、人は判断できなくなった。インドは彼らにとって、陽光まで異なる奇妙な土地だった。褐色の人々は共感の範囲外にある別人種のように映り、神秘的な寺院は異様な行動規範を支えているように見えた。やがて将軍や役人が帰国し、互いの収奪と残虐行為を暗い言葉で告発し始めると、本国のイングランド人は当惑した。議会はクライヴへの譴責決議を可決し、彼は1774年に自殺した。1788年には、インド統治のもう一人の大立役者ウォーレン・ヘースティングズが弾劾され、1792年に無罪となった。世界史上、奇妙で前例のない事態だった。イングランド議会はロンドンの貿易会社を統治し、その会社が今度は、イギリス王冠の全領土をはるかに上回る、広大で人口の多い帝国を支配していたのである。大多数のイングランド人にとって、インドは遠く、幻想的で、ほとんど近づけない土地だった。貧しく冒険心に富む若者が出かけ、何年も後に大金持ちで癇癪持ちの老紳士となって帰る場所である。東方の陽光の下で暮らす、数え切れない褐色の人々の生活がどのようなものか、イングランド人には想像しがたかった。その想像力は課題そのものを拒絶した。インドは空想的で非現実的なままだった。したがって会社の行動を有効に監督・統制することも不可能だった。

西ヨーロッパ諸国が世界中の海で幻想的な海外帝国を争っている間、アジアでは二つの大規模な陸上征服が進んでいた。中国は1360年にモンゴルのくびきを脱し、在来王朝である明の下で1644年まで繁栄した。その後、別のモンゴル系民族である満洲人が中国を再征服し、1912年まで支配者であり続けた。一方、ロシアは東へ進出し、世界政治における大国へ成長していた。東洋にも西洋にも完全には属さない、旧世界中央部のこの大国の勃興は、人類の運命にとってきわめて重要である。その拡大の大部分は、キリスト教徒の草原民コサックの出現による。彼らは、西のポーランド・ハンガリーの封建農業地帯と、東のタタール人との間で障壁を形成した。コサックはヨーロッパの「荒れた東部」であり、多くの点で十九世紀半ばのアメリカ合衆国の「西部開拓地」に似ていた。ロシアにいられなくなった者は、犯罪者も迫害された無実の者も、反抗的な農奴、宗教的分離派、泥棒、浮浪者、殺人者も、南部草原に避難所を求めた。そこで再出発し、ポーランド人、ロシア人、タタール人のすべてを相手に、生命と自由のため戦った。東方のタタール人から逃げてきた者も、コサックの混成集団へ加わったに違いない。こうした辺境民は、スコットランド高地の氏族がイギリス政府によって連隊へ編成されたのと同様、徐々にロシア帝国の軍務へ取り込まれた。アジアに新領土を与えられ、衰退するモンゴル遊牧民に対する武器となった。最初はトルキスタン、次いでシベリアを横切り、アムール川まで進んだ。

十七、十八世紀にモンゴル人の活力が衰えた理由は、きわめて説明しにくい。チンギス・ハンとティムールの時代からわずか二、三世紀で、中央アジアは世界の覇者から政治的に極度の無力状態へ転落した。気候変動、記録に残らない疫病、マラリア型の感染症などが、この後退に一役買ったのかもしれない――もっとも、世界史的尺度で見れば一時的な後退にすぎない可能性もある。中国から広がった仏教の教えが、彼らを穏健化したと考える学者もいる。いずれにせよ十六世紀までには、モンゴル、タタール、トルコ系諸民族は外へ進出する側ではなくなり、西ではキリスト教国ロシア、東では中国に侵入され、征服され、押し戻されていた。

十七世紀を通じ、コサックはヨーロッパ・ロシアから東へ広がり、農耕可能な土地を見つけるたびに入植した。南方ではトルクメン人がなお強力で活発だったため、砦と拠点を連ねた防衛線が入植地とともに移動する国境を形作った。しかし北東では、太平洋へ到達するまでロシアに国境はなかった……。

第五十四章 アメリカ独立戦争

こうして十八世紀第三・四半期のヨーロッパは、著しく不安定な光景を呈していた。内部では分裂し、統一的な政治理念も宗教理念も失っていた。それでも印刷された書物と地図、そして新たな外洋船が人間の想像力を大いに刺激したため、無秩序で争いの絶えない形ながら、世界中の沿岸を支配できたのである。それは人類の他の部分に対して一時的かつほとんど偶然に得た優位から生じた、無計画でまとまりのない事業熱の噴出だった。この優位によって、なお大半が空白だったアメリカ新大陸には主として西ヨーロッパ系の人々が住み、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドも将来のヨーロッパ人居住地として目をつけられた。

コロンブスをアメリカへ、ヴァスコ・ダ・ガマをインドへ送った動機は、物事の始まり以来、あらゆる船乗りを動かしてきた第一の動機――交易だった。だが人口が多く生産力の高い東方では交易の動機が支配的なままであり、ヨーロッパ人居住者が稼いだ金を本国で使うため帰還する交易拠点にとどまったのに対し、生産活動の水準がはるかに低い共同体と接したアメリカのヨーロッパ人には、金銀探索という新たな定着理由が生じた。とりわけスペイン領アメリカの鉱山は銀を産出した。ヨーロッパ人は武装商人としてだけでなく、探鉱者、鉱夫、天然資源の探索者、やがて農園主としてアメリカへ渡らねばならなかった。北方では毛皮を求めた。鉱山と農園は入植地を必要とし、人々に恒久的な海外の住居を築かせた。さらに十七世紀初頭、イングランドの清教徒が宗教迫害を逃れてニューイングランドへ移住した例、十八世紀にオグルソープが債務者監獄の囚人をジョージアへ送った例、十八世紀末にオランダ人が孤児を喜望峰へ送った例などでは、ヨーロッパ人は新たな永住地を求めて明確な意図の下に海を渡った。十九世紀、とりわけ蒸気船の登場後、アメリカとオーストラリアの新しい空白地へ向かうヨーロッパ移民の流れは、数十年にわたって民族大移動の規模に達した。

こうして海外にヨーロッパ人の恒久的な住民集団が生まれ、ヨーロッパ文化は、それが発達した本来の地域よりはるかに広い範囲へ移植された。既成の文明を新天地へ携えた共同体は、いわば無計画に、気づかれぬまま成長した。ヨーロッパの為政者はその出現を予見せず、どう扱うべきかという考えも持たなかった。ヨーロッパの政治家と大臣は、住民が独自の社会生活への鋭い自覚を育てた後も長く、植民地を本質的には遠征拠点、歳入源、「領有地」、「属領」と見なし続けた。また住民が内陸へ広がり、海からの懲罰作戦が届かなくなった後も長く、母国へ無力に服従する存在として扱い続けた。

忘れてならないのは、十九世紀に至るまで、海外帝国を結びつけていたのが外洋帆船だったということだ。陸上で最速の移動手段はなお馬であり、陸上政治体制の結合と統一は、馬による交通の限界に縛られていた。

十八世紀第三・四半期末には、北アメリカ北部三分の二がイギリス王冠の下にあった。フランスはアメリカを放棄していた。ポルトガル領ブラジルと、フランス、イギリス、デンマーク、オランダ領の若干の島や地域を除き、フロリダ、ルイジアナ、カリフォルニアおよびその南の全アメリカはスペイン領だった。帆船では海外住民を一つの政治体制へ結びつけられないことを最初に実証したのは、メインとオンタリオ湖以南のイギリス植民地だった。

これら植民地は、起源も性格も実に多様だった。イギリス系だけでなく、フランス、スウェーデン、オランダ系の入植地があった。メリーランドにはイギリス系カトリック教徒、ニューイングランドにはイギリス系の急進的プロテスタントがいた。ニューイングランド人が自らの土地を耕し、奴隷制を非難した一方、ヴァージニアと南部のイギリス人は農園主となり、輸入され続ける多数の黒人奴隷を使っていた。これほど異なる植民地間に、自然な一体性はなかった。ある植民地から別の植民地へ行くにも、大西洋横断に劣らぬほど退屈な沿岸航海を要する場合があった。しかし多様な起源と自然条件が否定した統一を、ロンドンのイギリス政府の利己心と愚劣さが、アメリカのイギリス人へ強いることになる。植民地人は税の使途へ発言権を持たぬまま課税され、その交易はイギリスの利益のため犠牲にされた。利益の大きい奴隷貿易は、ヴァージニア人の反対にもかかわらず、イギリス政府によって維持された。ヴァージニア人は奴隷を所有し使役することには何ら反対しなかったが、増え続ける未開の黒人人口に呑み込まれるのを恐れていた。

ジョージ・ワシントン

(ギルバート・ステュアートの絵画より)

当時のイギリスは、より強度の高い君主制へ傾きつつあり、ジョージ三世(1760――1820年)の頑迷な性格が、本国政府と植民地政府の対立を決定的に促進した。

紛争の直接の引き金は、アメリカの海運業者を犠牲にしてロンドン東インド会社を優遇する法律だった。新条件の下で輸入された茶三隻分が、先住民に変装した一団によってボストン港へ投げ捨てられた(1773年)。戦闘が始まったのは1775年、イギリス政府がボストン近郊レキシントンでアメリカ側指導者二人を逮捕しようとした時である。最初の発砲はレキシントンでイギリス軍が行い、最初の戦闘はコンコードで起きた。

ボストン近郊、バンカー・ヒルの戦い

(大英博物館所蔵、ジョン・トランブルの絵画に基づく版画より)

こうしてアメリカ独立戦争が始まった。もっとも一年以上にわたり、植民地人は母国との絆を断つことにきわめて消極的だった。反乱諸州の大陸会議が「独立宣言」を発したのは、1776年半ばになってからである。

当時の植民地指導者の多くと同じく、対フランス戦争で軍事訓練を受けたジョージ・ワシントンが総司令官となった。1777年、カナダからニューヨークへ到達しようとしたイギリスのバーゴイン将軍は、フリーマンズ・ファームで敗れ、サラトガで降伏を余儀なくされた。同年、フランスとスペインがイギリスへ宣戦し、その海上交通を大きく妨げた。コーンウォリス将軍率いる第二のイギリス軍は、ヴァージニアのヨークタウン半島で包囲され、1781年に降伏した。1783年、パリで講和が成立し、メインからジョージアまでの十三植民地は、独立した主権州の連合となった。こうしてアメリカ合衆国が誕生した。カナダはイギリス国旗への忠誠を保った。

四年間、これらの州は連合規約に基づくきわめて弱い中央政府しか持たず、それぞれ独立した共同体へ分裂する運命に見えた。直ちに分裂しなかったのは、イギリスの敵意と、フランス側のある種の攻撃性が、分裂の目前の危険を痛感させたからだった。憲法が起草され、1788年に批准されると、相当強大な権限を持つ大統領を備えた、より効率的な連邦政府が成立した。弱かった国民的一体感は、1812年の第二次対英戦争によって強められた。それでも州の広がる範囲はあまりに広大で、利害もあまりに多様だった。当時利用可能な交通手段しかないなら、連邦がヨーロッパ諸国程度の大きさの独立国家へ分解するのは、時間の問題にすぎなかった。遠隔地の上院議員や下院議員にとって、ワシントンへ出席することは、長く退屈で危険な旅を意味した。共通の教育、文学、知的情報を普及させる物理的障害は、事実上克服不能だった。しかし、分化の過程を完全に止める力が世界では働き始めていた。やがて河川蒸気船、次いで鉄道と電信が登場し、合衆国を分裂から救った。散在する人々を再び織り合わせ、最初の近代的大国民国家へ変えたのである。

二十二年後、アメリカのスペイン植民地も十三植民地にならい、ヨーロッパとの結びつきを断った。だが大陸全域へ散在し、巨大な山脈、砂漠、森林、さらにポルトガル領ブラジルによって隔てられていたため、相互の連合を実現できなかった。共和政諸国が星座のように並び、当初は相互の戦争と革命を起こしがちだった。

ブラジルは、避けられない分離へやや異なる道をたどった。1807年、ナポレオン配下のフランス軍が母国ポルトガルを占領し、王室はブラジルへ逃れた。それ以降、分離するまで、ブラジルがポルトガルの属国だったというより、ポルトガルのほうがブラジルの属国に近かった。1822年、ブラジルはポルトガル王の息子ペドロ一世の下、独立帝国を宣言した。だが新世界は、君主制に好意的な土地ではなかった。1889年、ブラジル皇帝は静かに船でヨーロッパへ送られ、ブラジル合衆国は共和政アメリカの他国と足並みをそろえた。

第五十五章 フランス革命とフランスにおける君主制復古

イギリスがアメリカの十三植民地を失って間もなく、大君主制のまさに中心で深刻な社会的・政治的大変動が起き、世界の政治体制が本質的に暫定的なものにすぎないことを、ヨーロッパへさらに鮮烈に思い知らせた。

すでに述べたように、フランス君主制はヨーロッパの個人君主制のうち、最も成功したものだった。競い合う無数の小宮廷が羨望し、模範とした。だがその繁栄は不正義を土台としており、それが劇的な崩壊を招いた。華麗で攻撃的ではあったが、民衆の生命と財産を浪費した。聖職者と貴族は免税制度に守られ、国家の負担はすべて中下層階級へ押しつけられた。農民は重税に苦しみ、中産階級は貴族に支配され、屈辱を受けた。

1787年、フランス王国は財政破綻に陥り、不足する収入と過大な支出という難題について協議するため、国内の各身分の代表を招集せざるを得なくなった。1789年、貴族、聖職者、平民の代表からなり、初期のイギリス議会におおむね相当する三部会がヴェルサイユに召集された。1610年以来、一度も開かれていなかった。その間、フランスは絶対君主国だった。今や民衆は、長く煮えたぎっていた不満を表明する手段を得た。第三身分たる平民が議会の主導権を握ろうと決意したため、三身分の間で直ちに争いが起きた。この争いでは平民が優位に立ち、三部会は国民議会となった。イギリス議会がイギリス王権を統制するように、王権を統制する明確な決意を抱いていた。国王ルイ十六世は対決に備え、地方から軍隊を呼び寄せた。するとパリが、そしてフランス全土が蜂起した。

絶対君主制の崩壊は実に速かった。陰鬱な外観のバスティーユ牢獄がパリ市民によって襲撃され、反乱はたちまちフランス全土へ広がった。東部と北西部では、貴族の城館が農民に焼かれ、権利証書は念入りに破棄され、所有者は殺されるか追放された。一か月で、古び腐朽した貴族秩序は崩壊した。王妃派の有力な諸侯や廷臣の多くは国外へ逃れた。パリと大都市の多くでは臨時市政府が樹立され、これらの自治体は、王権の軍隊へ対抗することを明白な第一目的とする新たな武装組織、国民衛兵を生み出した。国民議会は、新時代のため新たな政治・社会体制を創設するという課題を負わされた。

それは議会の能力を極限まで試す仕事だった。議会は絶対主義体制の主要な不正を一挙に取り除き、免税、農奴制、貴族の称号と特権を廃止し、パリに立憲君主制を樹立しようとした。国王はヴェルサイユとその華麗さを捨て、パリのテュイルリー宮殿で規模を縮小した宮廷を維持した。

二年間、国民議会は有効な近代政府へどうにか到達できそうに見えた。その仕事の多くは健全で、実験的で後に撤回されたものも多いとはいえ、今なお残っている。効果を上げなかった施策も多かった。刑法は整理され、拷問、恣意的拘禁、異端迫害が廃止された。ノルマンディー、ブルゴーニュなどフランス古来の州は、八十の県に置き換えられた。軍の最高階級へ、あらゆる身分の者が昇進できるようになった。優れた簡明な裁判制度も設けられたが、裁判官が短期の民選となったため、その価値は大きく損なわれた。群衆が一種の最終上訴裁判所となり、裁判官も議員と同じく、大衆受けを狙わざるを得なくなったのである。教会の莫大な財産はすべて没収され、国家が管理した。教育や慈善事業に従事しない宗教施設は解体され、聖職者の俸給を国家が負担した。これは、裕福な高位聖職者に比べてしばしば恥ずべきほど薄給だったフランスの下級聖職者にとって、それ自体は悪いことではなかった。しかし司祭と司教まで選挙で選ぶことにしたため、すべてを教皇へ集中し、権威が上から下へ流れるローマ教会の根本理念を直撃した。国民議会は事実上、一撃でフランス教会を、教義はともかく組織上プロテスタント化しようとした。各地で、国民議会が作った国家聖職者と、ローマへの忠誠を守って宣誓を拒んだ聖職者との間に争いが起きた。

1791年、フランスの立憲君主制という実験は、国外の貴族・王党派の友人と連携した国王夫妻の行動によって、突如終わりを告げた。外国軍が東部国境へ集結し、六月のある夜、国王夫妻は子供たちとテュイルリー宮殿を抜け出し、外国軍と亡命貴族へ合流しようと逃走した。だがヴァレンヌで捕らえられ、パリへ連れ戻された。フランス全土は愛国的共和主義の情熱に燃え上がった。共和国が宣言され、オーストリア、プロイセンとの公然たる戦争が始まった。国王はイングランドがすでに示した先例にならい、人民への反逆罪で裁かれ、1793年一月に処刑された。

そしてフランス国民の歴史に、奇妙な時代が訪れた。フランスと共和国への巨大な熱狂が燃え上がったのである。国内でも国外でも、もはや妥協は許されない。国内では王党派とあらゆる不忠を根絶し、国外ではフランスがすべての革命家を守り助ける。ヨーロッパ全土、いや世界全体を共和国にするのだ。フランスの青年は共和国軍へ殺到した。驚くべき新しい歌、今も酒のように血を熱くする歌『ラ・マルセイエーズ』が国中へ広がった。その歌声と、躍進するフランス軍の銃剣隊列、熱狂的に操作される大砲を前に、外国軍は後退した。1792年末までに、フランス軍はルイ十四世が成し遂げた最大の領土拡張をはるかに越え、至る所で外国領へ進出していた。ブリュッセルに入り、サヴォイアを席巻し、マインツまで襲撃し、オランダからスヘルデ川を奪った。ところがフランス政府は愚かな行動へ出る。ルイ処刑に際してイングランドからフランス代表を追放されたことに憤激し、イングランドへ宣戦したのである。革命によって、熱狂的な新歩兵と、貴族将校や多くの束縛から解放された優秀な砲兵を得た反面、海軍の規律は崩壊しており、制海権はイングランドが握っていた。それゆえ賢明ではなかった。この挑発はイングランド全体を反フランスで団結させた。革命当初のイギリスには、それへ共感する相当大きな自由主義運動があったにもかかわらずである。

ルイ十六世の裁判

(大英博物館所蔵の版画より)

その後数年間、フランスがヨーロッパ連合軍と繰り広げた戦争を詳述する余裕はない。フランスはオーストリアをベルギーから永久に追い出し、オランダを共和国にした。テセル島周辺で氷に閉ざされたオランダ艦隊は、砲を一発も撃たず、わずかな騎兵隊へ降伏した。イタリア方面への進撃はしばらく停滞したが、1796年、新将軍ナポレオン・ボナパルトが、ぼろをまとい飢えた共和国軍を率い、ピエモンテを越えてマントヴァとヴェローナへ勝ち進んだ。C・F・アトキンソンはこう述べる。[]「連合軍を何より驚かせたのは、共和国軍の数と速度だった。この即席軍には、進軍を遅らせるものが実際に何もなかった。資金不足で天幕を調達できず、調達できても輸送に必要な膨大な荷車がなかった。そもそも天幕は不要だった。職業軍人なら大量脱走を招くような不便も、1793――94年の兵士たちは快く耐えた。当時としては空前の規模の軍隊に必要な物資を輸送隊で運ぶことはできず、フランス軍は間もなく『現地調達』へ慣れた。こうして1793年、近代戦争の方式が誕生した――迅速な移動、国力の全面投入、露営、徴発、強制である。慎重な機動、小規模な職業軍、天幕、十分な配給、策略とは対照的だった。前者は決着を強いる精神、後者はわずかな利益のためにわずかな危険しか冒さない精神を表していた……」

ぼろをまとった熱狂者の大軍が『ラ・マルセイエーズ』を歌い、ラ・フランスのため戦い、流れ込んだ国々を略奪しているのか解放しているのか自分たちでも明確に理解していなかった一方、パリの共和主義的熱狂は、はるかに不名誉な形で燃焼していた。革命は狂信的指導者ロベスピエールの支配下にあった。この人物を評価するのは難しい。虚弱な体格で、生来臆病、しかも独善的な優等生だった。だが権力に最も必要な資質、信念を持っていた。彼は自らが思い描く共和国を救おうとし、それを救えるのは自分以外にいないと思い込んだ。ゆえに権力の座へとどまることが、共和国を救うことだった。共和国の生命力は、王党派の虐殺と国王処刑から生まれたかのように見えた。各地で反乱が起きた。西部ヴァンデ地方では徴兵と正統派聖職者の追放に反対して民衆が立ち上がり、貴族と司祭が率いた。南部ではリヨンとマルセイユが蜂起し、トゥーロンの王党派がイングランドとスペインの守備隊を迎え入れた。これへの最も効果的な回答は、王党派を殺し続けることだと思われた。

革命裁判所が動き出し、絶え間ない殺戮が始まった。ギロチンの発明は、この時代の気分に実に都合がよかった。王妃がギロチンにかけられ、ロベスピエールの敵対者の大半がギロチンにかけられ、至高存在などいないと論じた無神論者もギロチンにかけられた。来る日も来る日も、何週にもわたって、この地獄の新機械は首を切り、さらに切り、また切った。ロベスピエールの支配は血によって生きているかに見えた。そして阿片中毒者がより多くの阿片を必要とするように、ますます多くの血を必要とした。

フランス王妃マリー・アントワネットの処刑、1793年10月16日

(大英博物館所蔵の版画より)

ついに1794年夏、ロベスピエール自身が失脚し、ギロチンにかけられた。その後を五人の総裁からなる総裁政府が継ぎ、国外では防衛戦争を続け、国内では五年間フランスをまとめ上げた。その統治は、この激変の歴史における奇妙な幕間だった。彼らは現状をそのまま受け入れた。革命の宣伝的熱意は、フランス軍をオランダ、ベルギー、スイス、南ドイツ、北イタリアへ進めた。各地で王が追放され、共和国が樹立された。しかし総裁政府の宣伝的熱意は、フランス政府の財政難を軽減するため、解放された諸国の財宝を略奪することを妨げなかった。その戦争は、自由のための聖戦という性格を失い、旧体制の侵略戦争へ近づいていった。フランスが捨てようとしなかった大君主制最後の特徴は、伝統的な外交政策である。革命などなかったかのように、総裁政府の下でも活力を保っていた。

フランスと世界にとって不幸なことに、このフランス的な国家利己主義を最も強烈に体現する人物が現れた。彼は国に十年の栄光と、最後の敗北という屈辱を与えた。総裁政府の軍を率いてイタリアで勝利した、あのナポレオン・ボナパルトである。

総裁政府の五年間を通じ、ナポレオンは出世のため策を巡らし、働き続けた。そして徐々に最高権力へ登りつめた。理解力には厳しい限界があったが、容赦なく一直線に進む性格と、巨大な活力を持っていた。ロベスピエール派の急進派として出発し、最初の昇進もその陣営のおかげだったが、ヨーロッパで働き始めた新たな力を本当には理解していなかった。その政治的想像力の限界は、西方帝国を時代遅れで安っぽい形で復活させようとするところまでだった。古い神聖ローマ帝国の残骸を破壊し、パリを中心とする新帝国に置き換えようとした。ウィーンの皇帝は神聖ローマ皇帝であることをやめ、単なるオーストリア皇帝となった。ナポレオンはフランス人の妻と離婚し、オーストリア皇女と結婚した。

1799年、第一統領として事実上フランスの君主となり、1804年にはカール大帝を直接まねてフランス皇帝を称した。パリで教皇による戴冠式を行ったが、カール大帝が命じたとされるように、教皇の手から冠を取り、自らの頭上へ載せた。息子はローマ王として戴冠した。

数年間、ナポレオンの治世は勝利の連続だった。イタリアとスペインの大半を征服し、プロイセンとオーストリアを破り、ロシア以西の全ヨーロッパを支配した。しかしイギリスから制海権を奪うことはできず、1805年、トラファルガーでネルソン提督率いるイギリス艦隊に決定的な敗北を喫した。1808年、スペインが蜂起し、ウェリントン指揮下のイギリス軍が、フランス軍を半島から徐々に北へ押し出した。1811年、ナポレオンはツァーリ、アレクサンドル一世と衝突し、1812年、六十万の混成大軍でロシアへ侵攻したが、ロシア軍とロシアの冬に敗れ、大部分を失った。ドイツが蜂起し、スウェーデンも敵へ回った。フランス軍は押し戻され、ナポレオンはフォンテーヌブローで退位した(1814年)。エルバ島へ追放された後、1815年に最後の試みとしてフランスへ帰還したが、ワーテルローでイギリス、ベルギー、プロイセン連合軍に敗れた。1821年、セントヘレナ島でイギリスの囚人として死んだ。

フランス革命が解き放った力は浪費され、尽き果てた。戦勝同盟諸国はウィーンで大規模な会議を開き、大嵐によって引き裂かれた旧秩序を、可能な限り復元しようとした。それから四十年近く、消耗し尽くした努力が生んだ一種の平和がヨーロッパに保たれた。

第五十六章 ナポレオン失脚後のヨーロッパ、不穏な平和

二つの主要因が、この時代に完全な社会的・国際的平和が訪れるのを妨げ、1854年から1871年にかけて続く一連の戦争への道を準備した。第一は、関係する王侯宮廷が不公正な特権を復活させ、思想・著述・教育の自由へ干渉しようとしたこと。第二は、ウィーンの外交官が引いた、維持不可能な国境線である。

君主制が過去の状態へ後戻りしようとする生来の傾向は、スペインで最初に、しかも最も顕著に現れた。異端審問所さえ復活した。大西洋の向こうでは、1810年にナポレオンが兄ジョゼフをスペイン王位へ据えると、スペイン植民地がアメリカ合衆国にならってヨーロッパ列強体制へ反乱を起こした。南アメリカのジョージ・ワシントンに当たる人物が、ボリバル将軍だった。スペインは反乱を鎮圧できなかった。戦争はアメリカ独立戦争と同じく長引き、ついに神聖同盟の精神に従って、ヨーロッパ君主がスペインを援助すべきだとオーストリアが提案した。ヨーロッパではイギリスが反対したが、計画された君主制復古へ決定的な警告を与えたのは、1823年のアメリカ合衆国大統領モンローの迅速な行動だった。西半球へヨーロッパ体制を拡張するいかなる試みも、合衆国は敵対行為と見なす、と宣言したのである。ここからモンロー主義、すなわちアメリカ大陸では域外政府の支配を拡張させないという原則が生まれた。これは百年近く列強体制をアメリカから締め出し、スペイン領アメリカの新国家が独自の道で運命を切り開くことを可能にした。

スペイン君主制は植民地を失っても、ヨーロッパ協調体制の保護下で、少なくとも欧州内では望むままに振る舞えた。1823年、スペインの民衆蜂起は、ヨーロッパ会議の委任を受けたフランス軍によって鎮圧された。同時にオーストリアも、ナポリの革命を鎮圧した。

1824年、ルイ十八世が死に、シャルル十世が即位した。シャルルは出版と大学の自由を破壊し、絶対政治を復活させようとした。1789年に城館を焼かれ、財産を没収された貴族を補償するため、十億フランが可決された。1830年、パリはこの旧体制の化身に対して蜂起し、恐怖政治下で処刑されたオルレアン公フィリップの息子ルイ・フィリップを王座へ据えた。他の大陸君主国は、イギリスが革命を公然と支持し、ドイツとオーストリアでも強い自由主義運動が起きていたため、この事件へ介入しなかった。何といってもフランスは、なお君主国だった。このルイ・フィリップ(1830――1848年)は十八年間、フランスの立憲国王であり続けた。

以上が、王党派の反動的政策によって引き起こされた、ウィーン会議後の平和の不穏な揺れである。ウィーンの外交官が引いた非科学的な国境線から生じる緊張は、よりゆっくり力を増したが、人類の平和にとってさらに危険だった。異なる言語を話し、異なる文学を読み、異なる一般観念を持つ人々の問題を一括して統治するのは、途方もなく不便である。宗教対立がその相違を悪化させているなら、なおさらだ。スイス山岳民が共通して抱く防衛上の必要のような、強力な相互利益がある場合にのみ、言語と信仰の異なる人々を緊密に結びつけることが正当化される。それでもスイスでは、最大限の地方自治が認められている。マケドニアのように、住民が村や地区ごとの継ぎはぎ状に混住するなら、州制度が不可欠である。だがウィーン会議が描いたヨーロッパ地図を見ると、この会議が地方的反感を最大限に高めるよう計画したかのようにさえ思える。

会議は、何の必要もないのにオランダ共和国を廃止し、プロテスタントのオランダ人と、旧スペイン領(オーストリア領)ネーデルラントのフランス語を話すカトリック教徒を一まとめにし、ネーデルラント王国を設立した。旧ヴェネツィア共和国だけでなく、ミラノまでの北イタリア全域を、ドイツ語を話すオーストリア人へ渡した。フランス語圏のサヴォイアをイタリアの一部と組み合わせ、サルデーニャ王国を復活させた。オーストリアとハンガリーはすでに、ドイツ人、ハンガリー人、チェコスロヴァキア人、ユーゴスラヴ人、ルーマニア人、そして今やイタリア人まで含む、対立する民族の十分に爆発的な混合体だった。それをさらに維持困難にしたのが、1772年と1795年にオーストリアが獲得したポーランド領の確認である。カトリックで共和主義精神を持つポーランド人の大半は、文明度の低いギリシア正教のツァーリ支配へ渡され、重要な地区はプロテスタントのプロイセンへ渡った。ツァーリが、まったく異質なフィンランド人を獲得したことも承認された。大きく異なるノルウェー人とスウェーデン人は、一人の王の下へ結びつけられた。ドイツは、とりわけ危険な混乱状態に放置された。プロイセンとオーストリアはいずれも一部だけドイツ連邦に属し、その連邦には多数の小国が含まれた。デンマーク王は、ホルシュタインにドイツ語圏の領地を持つためドイツ連邦へ加わった。ルクセンブルクもドイツ連邦に含まれたが、その君主はネーデルラント王を兼ね、住民の多くはフランス語を話していた。

ドイツ語を話してドイツ文学に思想の基礎を置く人々、イタリア語を話してイタリア文学に思想の基礎を置く人々、ポーランド語を話してポーランド文学に思想の基礎を置く人々は、それぞれの言語圏内で自らの言葉によって自らの問題を処理するほうが、はるかに幸福であり、人類の他の部分にも最も役立ち、最も害を及ぼさずに済む――この事実が完全に無視されていた。この時代のドイツで最も人気を博した歌の一つが、「ドイツ語の響く所、そこにドイツ祖国あり」と歌ったことに、何の不思議があろう。

ナポレオンの肖像(戴冠式)

(大英博物館所蔵の版画より)

1830年、フランス革命の新たな波に刺激されたフランス語圏ベルギーは、ネーデルラント王国のオランダとの連合へ反乱を起こした。列強は、共和国の成立またはフランスへの併合を恐れ、この状況を鎮静化するため急いで介入し、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド一世をベルギー王として与えた。1830年にはイタリアとドイツでも効果の乏しい反乱が起き、ロシア領ポーランドでははるかに深刻な蜂起が起きた。共和政府はワルシャワで、ニコライ一世――1825年にアレクサンドルを継承――を相手に一年間持ちこたえたが、激しい暴力と残虐さをもって抹殺された。ポーランド語は禁止され、ローマ・カトリック教会に代わってギリシア正教会が国教とされた……。

1821年には、ギリシア人がトルコへ反乱を起こした。ヨーロッパ諸国政府が傍観する中、六年にわたって絶望的な戦争を続けた。自由主義的世論は政府の不作為へ抗議し、ヨーロッパ各国から義勇兵が反乱軍へ加わった。ついにイギリス、フランス、ロシアが共同介入し、1827年のナヴァリノ海戦でフランス・イギリス艦隊がトルコ艦隊を壊滅させ、ツァーリもトルコへ侵攻した。アドリアノープル条約(1829年)によってギリシアは自由を宣言されたが、古代の共和主義的伝統の復活は認められなかった。バイエルン王子オットーというドイツ人の王がギリシアへあてがわれ、ドナウ諸侯国――現在のルーマニア――とセルビア――ユーゴスラヴ地域の一部――にはキリスト教徒の統治者が置かれた。しかしトルコ人がこれらの土地から完全に追放されるまでには、なお多くの血が流れねばならなかった。

第五十七章 物質的知識の発達

十七、十八世紀から十九世紀初頭にかけ、ヨーロッパでは列強と諸侯の抗争が続き、ウェストファリア条約(1648年)の継ぎはぎ模様が万華鏡のように変化してウィーン条約(1815年)の継ぎはぎ模様となり、帆船がヨーロッパの影響力を世界中へ広げていた。その間にも、ヨーロッパおよびヨーロッパ化された世界では、知識が着実に成長し、人々が自らの生きる世界について抱く観念が全般的に整理されていった。

この歩みは政治生活から切り離されて進み、十七、十八世紀を通じ、政治に目立った即時的成果を生まなかった。この時代には民衆思想へも、さほど深い影響を与えていない。その反応は後に訪れ、十九世紀後半になって初めて、十分な力を発揮する。歩みの中心となったのは、豊かで独立心に富む人々からなる小さな世界だった。イングランド人が「在野の紳士」と呼ぶ者がいなければ、科学的方法はギリシアで始まることも、ヨーロッパで復活することもなかっただろう。大学も役割を果たしたが、この時代の哲学・科学思想を主導したわけではない。基金に支えられた学問は、独立した精神との接触による刺激を欠けば、臆病で保守的、独創性に乏しく、革新へ抵抗しがちな学問となる。

1662年の王立協会設立と、ベーコンの『ニュー・アトランティス』の夢を実現しようとした活動については、すでに述べた。十八世紀には、物質と運動についての一般観念が大いに整理され、数学が進歩し、顕微鏡と望遠鏡における光学ガラスの利用が体系的に発達した。分類学的博物学が再び活気づき、解剖学も大きく復興した。アリストテレスが予示し、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452――1519年)が先取りした地質学は、岩石の記録を解読する大事業を開始した。

鉄道草創期のリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道の初期車両

物理科学の進歩は冶金へ影響した。冶金の改良によって、大量の金属その他の材料を、より大規模かつ大胆に扱えるようになり、それが実用的発明へ影響を返した。新たな規模と豊富さを備えた機械が登場し、産業を一変させた。

1804年、トレビシックがワット式蒸気機関を輸送へ応用し、最初の蒸気機関車を作った。1825年、ストックトンとダーリントンを結ぶ最初の鉄道が開業した。スティーヴンソンの「ロケット号」は13トンの列車を牽引し、時速44マイル(約71キロメートル)へ達した。1830年以降、鉄道は増え続け、世紀半ばまでにヨーロッパ全土へ鉄道網が広がった。

リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道の初期の旅、1833年

これは、人間生活で長らく固定されていた条件、すなわち陸上輸送の最高速度を突然変えた。ロシア遠征の惨敗後、ナポレオンはヴィルナ近郊からパリまで312時間で移動した。距離は約1,400マイル(約2,250キロメートル)である。考え得る限りの好条件で旅をしながら、平均速度は時速5マイル(約8キロメートル)未満だった。普通の旅行者なら、倍の時間でもこの距離を進めなかっただろう。これは紀元一世紀のローマとガリア間で実現できた最高速度とほぼ同じだった。そこへ突如、巨大な変化が訪れた。鉄道は一般旅行者にとっても、この旅を四十八時間未満へ短縮した。つまりヨーロッパの主要な距離を、従来の約十分の一にしたのである。それまで一つの行政で統治可能だった地域の十倍の広さでも、行政活動を行えるようにした。ヨーロッパでは、この可能性の全意義はいまだ認識されていない。ヨーロッパは今なお、馬と道路の時代に引かれた国境線へ絡め取られている。アメリカでは効果が即座に現れた。西へ拡大し続けるアメリカ合衆国にとって、国境が大陸のどこまで移動しようと、ワシントンへ継続的に到達できることを意味した。本来なら不可能だった規模で、統一を維持できるようになったのである。

蒸気船――アメリカのクラーモント号、1807年

初期段階では、蒸気船は蒸気機関車よりわずかに先行していたともいえる。1802年にはクライド湾運河に蒸気船シャーロット・ダンダス号があり、1807年にはフルトンというアメリカ人が、イギリス製機関を積んだ蒸気船クラーモント号を、ニューヨーク北方のハドソン川で運航した。最初に海へ出た蒸気船もアメリカのフェニックス号で、ニューヨークのホーボーケンからフィラデルフィアへ航海した。蒸気を使用して――帆も備えていた――初めて大西洋を横断した船も、アメリカのサヴァンナ号(1819年)だった。いずれも外輪船だが、外輪船は荒海に向いていない。外輪が壊れやすく、壊れれば航行不能になるからだ。スクリュー式蒸気船の登場はやや遅かった。スクリューを実用化するまでには、多くの困難を克服せねばならなかった。海上の蒸気船総トン数が帆船へ追いつき始めるのは、十九世紀半ばになってからである。その後、海上輸送の進化は急速に進んだ。人間は初めて、到着日をある程度確実に見込んで海洋を渡れるようになった。大西洋横断は、それまで数週間、時には数か月にも及ぶ不確実な冒険だったが、次第に高速化し、1910年には最速船なら五日未満となり、到着時刻まで事実上予告できるようになった。

陸海における蒸気輸送の発達と並行して、ヴォルタ、ガルヴァーニ、ファラデーによるさまざまな電気現象の研究から、人間同士の交流手段に新たな目覚ましい要素が生まれた。1835年、電信が誕生した。最初の海底ケーブルは1851年、フランスとイングランドの間に敷設された。数年で電信網は文明世界へ広がり、それまで地点から地点へゆっくり伝わっていたニュースが、地球全体で事実上同時に届くようになった。

蒸気鉄道と電信は、十九世紀半ばの人々の想像力にとって最も目覚ましく革命的な発明だった。しかしそれらは、はるかに広範な過程が生んだ、最も目立ち、最も不格好な最初の果実にすぎない。技術知識と技能は、過去のどの時代と比べても異例の速度と規模で発達していた。日常生活では当初あまり目立たなかったが、最終的にははるかに重要だったのが、各種構造材料に対する人間の支配力の拡大である。十八世紀半ば以前、鉄は木炭によって鉱石から還元され、小さな塊として扱われ、槌で叩き鍛造して形を整えた。職人のための材料だった。その品質と処理は、個々の鉄工の経験と判断力に大きく左右された。この条件で扱える最大の鉄塊は、十六世紀でもせいぜい二、三トンだった。したがって大砲の大きさには明確な上限があった。十八世紀に溶鉱炉が台頭し、コークスの利用とともに発達した。圧延鉄板(1728年)や圧延棒材(1783年)が現れるのも十八世紀である。ナスミスの蒸気ハンマーは、ようやく1838年に登場した。

古代世界は冶金技術が劣っていたため、蒸気を利用できなかった。鉄板が手に入るようになるまで、蒸気機関は原始的な揚水機関さえ発達できなかった。初期の機関は現代人の目には、実にみじめで不格好な鉄細工に見える。だがそれが、当時の冶金学にできる精一杯だった。1856年になってようやくベッセマー法が現れ、やがて1864年には平炉法が登場した。鋼鉄とあらゆる種類の鉄を、それまで前例のない方法と規模で溶解、精製、鋳造できるようになった。今日の電気炉では、何トンもの白熱した鋼鉄が、鍋の中の沸騰する牛乳のように渦巻くのを見られる。巨大な量の鋼鉄、その組織と品質を完全に支配するという人類の現在の達成は、過去のいかなる実用的進歩も、その影響において比較にならない。鉄道や各種の初期機関は、新冶金法が収めた最初の勝利にすぎなかった。やがて鉄と鋼鉄の船、巨大な橋、鋼鉄を用いた大規模な新建築法が現れた。人々は手遅れになってから、あまりに臆病な軌間で鉄道を計画してしまったこと、もっと大きな規模なら、はるかに安定して快適な旅を実現できたことに気づいた。

十九世紀以前、積載量2,000トンを大きく上回る船は世界に存在しなかった。今日では5万トン級の定期船も珍しくない。この種の進歩を「単なる大型化」と嘲る者がいるが、その嘲りは彼ら自身の知的限界を示しているにすぎない。巨大船や鉄骨建築は、彼らが想像するような、昔の小船や建築を拡大したものではない。本質的に異なる存在であり、より軽く、より頑丈に造られ、材料も精緻で強い。先例と経験則の産物ではなく、繊細で複雑な計算の産物である。古い家や船では、物質が支配者だった。材料とその必要へ奴隷のように従わねばならなかった。新しい建築と船では、物質は捕らえられ、変形され、強制される。土手や坑道から引きずり出された石炭、鉄、砂が、もぎ取られ、加工され、溶かされ、鋳造され、最後には鋼鉄とガラスの細く輝く尖塔となって、混雑する都市の上空600フィート(約183メートル)へ投げ上げられる光景を思い浮かべてほしい。

鋼鉄冶金についての人類の知識と、その成果の進歩を、ここでは一例として詳述した。銅と錫の冶金についても、また十九世紀の夜明け以前には知られていなかったニッケル、アルミニウムをはじめ、無数の金属についても、同様の物語を語れる。物質、さまざまなガラス、岩石、石膏その他、色彩と質感に対する、この巨大で成長し続ける支配こそ、機械革命がこれまで達成した主要な勝利である。だがこの面でも、なお最初の果実を得た段階にすぎない。力は手にしたが、その使い方をまだ学ばねばならない。科学から与えられた贈り物の初期用途には、低俗で、けばけばしく、愚劣、あるいは恐ろしいものが多かった。芸術家や応用者は、いま自由に使える無限に多様な物質を扱う仕事へ、まだほとんど取りかかってすらいない。

機械的可能性の拡大と並行して、新しい電気科学が発達した。この研究分野が一般人の心を動かす成果を生み始めたのは、十九世紀の1880年代になってからである。電灯と電気輸送が突如現れ、力を変換できるようになった。水を管で送るように、銅線を通じて動力を送り、それを望みのままに機械運動、光、熱へ変えられる可能性が、一般人の観念へ入り始めた……。

この知識の大増殖を当初率いたのは、イギリス人とフランス人だった。だがやがて、ナポレオンの下で謙虚さを学んだドイツ人が、科学研究へ並外れた熱意と粘り強さを示し、先行する両国へ追いついた。イギリス科学の大部分は、通常の学問中心地の外で活動したイングランド人とスコットランド人によって創り出された。

十八世紀の糸車

イプスウィッチ博物館所蔵

アークライトの紡績ジェニー模型、1769年

特許庁の明細書に基づく

当時のイギリスの大学は教育的退歩の状態にあり、おおむねラテン・ギリシア古典を衒学的に暗記することへ没頭していた。フランスの教育も、イエズス会学校の古典的伝統に支配されていた。そのためドイツ人が研究者集団を組織するのは難しくなかった。可能性に比べれば小集団でも、イギリスとフランスのわずかな発明家・実験家集団に比べれば大きかった。しかも研究と実験の仕事がイギリスとフランスを世界で最も豊かで強力な国へ変えていたにもかかわらず、科学者や発明家本人を豊かで強力にはしなかった。誠実な科学者には、必然的に世俗離れしたところがある。研究へ没頭しすぎて、そこからどう金を稼ぐか企てる暇がない。そのため発見の経済的利用は、ごく容易かつ自然に、より利得欲の強い人間の手へ落ちる。こうしてイギリスでは、科学技術の新段階が訪れるたびに富豪が大量に生まれた。彼らは、国の金の卵を産むガチョウを侮辱して殺したがる学者や聖職者ほど激しくはなかったにせよ、その利益を生む生き物を飢えさせて平然としていた。発明家や発見者は自然に生まれるものであり、その成果はもっと利口な者が利用すればよい、と考えたのである。

この点でドイツ人は、いくらか賢明だった。ドイツの「学者」は、新しい学問へ同じほど激しい憎悪を示さず、その発達を許した。ドイツの実業家や製造業者も、イギリスの競争相手ほど科学者を軽蔑しなかった。知識は肥料に反応する作物のように、栽培できると信じていた。そのため科学的精神へ一定の機会を与え、公費による科学研究への支出も相対的に多く、その支出は豊かな見返りをもたらした。十九世紀後半までには、ドイツの科学者の働きによって、専門分野の最新研究へ遅れずについていきたい科学徒にとって、ドイツ語が必須言語となった。特定分野、とりわけ化学では、ドイツは西方の隣国へ圧倒的な優位を得た。1860、70年代のドイツの科学的努力は80年代以降に成果を上げ始め、ドイツは技術的・産業的繁栄において、イギリスとフランスへ着実に追いついた。

1880年代、新型機関が使われるようになると、発明史に新局面が開かれた。爆発性混合物の膨張力で、蒸気の膨張力を置き換える機関である。これによって実現した軽量で高効率の機関は自動車へ応用され、ついには飛行――可能であること自体は古くから知られていた――を実用化できるほど軽く効率的になった。ワシントンのスミソニアン協会のラングレー教授は、1897年にはすでに飛行機械を完成させていた。ただし人間を乗せられるほど大型ではなかった。1909年までには、飛行機が人間の移動に利用可能となった。鉄道と自動車輸送の完成によって、人間の速度向上には一時停滞が訪れたように見えたが、飛行機は地表上の地点間における実質的距離を、さらに短縮した。十八世紀には、ロンドンからエディンバラまで八日を要した。1918年、イギリス民間航空輸送委員会は、地球を半周するロンドンからメルボルンまでの旅も、数年後には同じ八日間で可能になるだろうと報告した。

初期の織機

大英博物館所蔵、W・ヒンクスの版画より

ある地点から別の地点までの所要時間が目覚ましく短縮されたことを、過度に重視してはならない。それは、人間の可能性がはるかに深く重大な規模で拡大した、その一側面にすぎない。たとえば農学と農芸化学も、十九世紀に同様の進歩を遂げた。人間は土壌を施肥する方法を学び、同じ面積から十七世紀の四倍、五倍もの作物を得られるようになった。医学の進歩はさらに驚異的だった。平均寿命が延び、日々の活動能率が高まり、病気による生命の浪費が減少した。

これらを総合すると、人間生活には歴史の新局面を形作るほどの変化が生じたことになる。わずか一世紀余りで、この機械革命は成し遂げられた。その間、人類は生活の物質的条件において、旧石器時代から農耕時代までの長い全期間、あるいはエジプトのペピ王時代からジョージ三世時代までの全期間よりも、大きな一歩を踏み出した。人間社会のための新たな巨大な物質的枠組みが出現したのである。それが社会的、経済的、政治的手法の大幅な再調整を求めることは明らかだった。しかしこの再調整は、必然的に機械革命の発達を待たねばならず、今日なお、ようやく始まったばかりである。

第五十八章 産業革命

多くの歴史書には、ここで「機械革命」と呼んできたものと、起源をまったく異にする別の現象、すなわち「産業革命」と呼ばれる社会的・金融的発展とを混同する傾向がある。機械革命は、組織化された科学の発達から生まれた、人類史上まったく新しい出来事であり、農業の発明や金属の発見にも比すべき新たな一歩だった。一方、産業革命にはすでに歴史上の先例があった。二つの過程は並行して進み、絶えず相互に作用し合っていたが、根本も本質も異なっていたのである。石炭も蒸気も機械もなくても、何らかの産業革命は起きていただろう。ただしその場合、共和政ローマ末期の社会的・金融的発展を、はるかに忠実になぞったものになったに違いない。土地を奪われた自由農民、集団労働、大所領、巨万の金融資産、そして社会を破壊する金融過程――その物語を繰り返したはずだ。工場制でさえ、動力や機械に先立って現れている。工場を生んだのは機械ではなく、「分業」だった。

水車が工業用に使われるよりも前から、訓練され、酷使された労働者たちは、帽子飾り用の厚紙箱や家具を作り、地図や書籍の挿絵に彩色するなどの仕事に従事していた。アウグストゥス時代のローマにも工場はあった。たとえば新刊書は、書店の工房で何列にも並んだ写字生へ口述されていた。デフォーの著作やフィールディングの政治パンフレットを注意深く読めば、貧民を施設に集め、共同で働かせて生計を立てさせるという発想が、十七世紀末以前のイギリスですでに広まっていたことがわかる。さらに早く、モアの『ユートピア』(一五一六年)にさえその兆しがある。これは機械的発展ではなく、社会的発展だったのである。

十八世紀半ばを過ぎるころまで、西ヨーロッパの社会・経済史は、実のところ紀元前三世紀から一世紀にかけてローマ国家が歩んだ道をたどり直していた。だがヨーロッパの政治的分裂、君主制に対する政治的動乱、民衆の反抗、そしておそらくは西ヨーロッパ人の知性が機械的な着想や発明を受け入れやすかったこともあって、この過程はまったく新しい方向へ転じた。キリスト教のおかげで、人類の連帯という観念は新しいヨーロッパ世界に広く浸透していた。政治権力もそれほど集中していなかった。そのため富を得ようとする精力的な人間は、奴隷や集団労働という発想から、機械動力と機械そのものへ、進んで目を転じたのである。

機械革命、すなわち機械の発明と発見の過程は、人類にとって未経験の新事象であり、それが生み出す社会的・政治的・経済的・産業的帰結にはお構いなく進んでいった。一方、産業革命は、ほかの多くの人間的営みと同じく、機械革命によって絶えず変化する人間の条件により、ますます深く変容し、方向を変えられていった。共和政ローマ末期の数世紀に見られた富の蓄積、小農や小商人の消滅、大金融の時代と、十八・十九世紀に起きたよく似た資本集中との本質的な違いは、機械革命が労働の性格にもたらした根本的な変化にある。旧世界の動力は人力だった。すべては究極的に人間の筋力、すなわち無知で隷属させられた者たちの筋肉に依存していた。役牛や馬などによるわずかな畜力が、それを補っていたにすぎない。重い物を持ち上げる必要があれば、人間が持ち上げた。岩を切り出す必要があれば、人間が削り取った。畑を耕す必要があれば、人間と牛が耕した。蒸気船に相当するローマの乗り物は、汗まみれの漕ぎ手を何列にも並べたガレー船だった。初期文明では、人類の非常に大きな割合が、ひたすら機械的な苦役に使われていた。動力機械が登場した当初、それがこうした知性を要しない労苦から人間を解放するとは思われなかった。運河の開削、鉄道の切り通しや築堤工事などには、大集団の労働者が動員された。鉱夫の数も激増した。しかし設備の拡大と商品の生産量は、それ以上に増大した。そして十九世紀が進むにつれて、新しい状況の明白な論理が、いっそうはっきりと姿を現した。人間はもはや、単なる無差別な動力源として必要とされなくなった。人間が機械的に行えることなら、機械のほうが速く、しかもうまく行えたからである。人間が必要とされるのは、選択と知性を働かせなければならない場面だけになった。人間は、人間であるがゆえにのみ求められるようになったのである。それまでのあらゆる文明を支えてきた苦役者、ただ服従するだけの存在、頭脳を必要とされなかった人間は、人類の福祉にとってもはや不要となった。

奴隷貿易時代の一幕

大英博物館所蔵、モーランドの原画による版画から

これは、最新の冶金工程だけでなく、農業や鉱業のような古来の産業にも当てはまった。耕作、播種、収穫には、何十人分もの仕事を迅速にこなす機械が登場した。ローマ文明は、安価で卑しめられた人間の上に築かれていた。近代文明は、安価な機械動力の上に築き直されつつある。この百年間、動力は安くなり、労働は高くなってきた。鉱山で一世代ほど機械の導入が遅れたとすれば、それは単に、しばらくの間は機械より人間のほうが安かったからである。

コールブルックデールの初期工場

大英博物館所蔵の版画から

これは人間社会にとって、まさに根本的な転換だった。旧文明における富者と支配者の最大の関心事は、苦役者を絶やさず確保することだった。だが十九世紀が進むにつれ、指導的立場にある知識人には、一般人がもはや単なる苦役者以上の存在にならなければならないことが、いよいよ明白になった。たとえ「産業効率」を確保するためだけであっても、教育を受けなければならなかったのである。

労働者は、自分が何をしているのか理解しなければならなかった。初期キリスト教の布教以来、ヨーロッパでは民衆教育の火がくすぶり続けていた。それは、イスラム教が根を下ろしたアジアの各地でも同様だった。信者を救う信仰の内容を少しでも理解させ、その信仰を伝える聖典を多少なりとも読めるようにする必要があったからである。信徒獲得を競ったキリスト教諸派の論争は、民衆教育という収穫のために土を耕した。たとえばイギリスでは、十九世紀の一八三〇年代から四〇年代までに、宗派間の争いと、幼いうちに信徒を獲得する必要から、子供を対象とする競合的な教育組織が次々に生まれた。国教会の「ナショナル」学校、非国教徒の「ブリティッシュ」学校、さらにはローマ・カトリックの初等学校まであった。十九世紀後半は、西洋化した世界全体で民衆教育が急速に進歩した時代だった。上流階級の教育には、それに対応するほどの進歩はなかった。もちろん多少は進歩したが、比較にならない。その結果、それまで世界を読書階級と文字を読まない大衆とに分けていた大きな溝は、教育水準のわずかな差にすぎなくなった。この過程の背後にあったのは機械革命である。表面上は社会状況に無関心に見えながら、実際には、完全に非識字の階級を世界から一掃することを容赦なく要求していたのだ。

共和政ローマの経済革命は、ローマの民衆には決して明確に理解されなかった。普通のローマ市民は、自分が生きていた時代の変化を、今日のわれわれのように明晰かつ包括的に捉えることができなかった。しかし十九世紀末に近づくにつれ、産業革命は、それによって影響を受ける民衆自身から、ひとまとまりの過程としてますますはっきりと「見える」ようになった。人々がやがて読み、論じ、連絡し合えるようになり、かつてのいかなる庶民もなし得なかったほど各地を行き来し、物事を自分の目で見るようになったからである。

第五十九章 近代政治・社会思想の発展

古代文明の制度、慣習、政治思想は、誰かが設計したわけでも、予見したわけでもなく、時代を重ねてゆっくりと成長した。人間が互いの関係について明確に考え始め、確立された信念や法律、統治方法に初めて疑問を投げかけ、それらを変更し、組み替えようと提案し始めたのは、人類が青年期を迎えた偉大な世紀、すなわち紀元前六世紀になってからだった。

われわれは、ギリシアとアレクサンドリアに訪れた輝かしい知性の曙について、また奴隷制文明の崩壊と、宗教的不寛容および絶対主義的統治の暗雲が、その出発点に秘められていた希望をやがて覆い隠したことについて述べてきた。恐れを知らぬ思考の光がヨーロッパの闇を再び有効に貫いたのは、十五、十六世紀になってからである。アラブ人の旺盛な好奇心とモンゴル人の征服という大風が、ヨーロッパの精神の空を徐々に晴らすうえで果たした役割についても、いくらか示そうと努めてきた。当初、増大したのは主として物質に関する知識だった。人類が取り戻した成人性が最初に結んだ果実は、物質的成果と物質的な力だったのである。人間関係、個人・社会心理、教育、経済に関する科学は、それ自体がより繊細で複雑なだけでなく、多くの感情的問題と分かちがたく結びついている。そのため進歩は遅く、いっそう強い反対を受けながら進まざるを得なかった。人は星や分子についてなら、どれほど多様な説にも冷静に耳を傾ける。しかし生き方に関する思想は、周囲の誰もに直接触れ、その人々を批評するものにもなる。

ギリシアでは、プラトンの大胆な思索が、アリストテレスによる厳密な事実探究に先行した。それと同じくヨーロッパでも、新時代最初の政治的探究は、プラトンの『国家』と『法律』を直接模倣した「ユートピア」物語という形を取った。サー・トマス・モアの『ユートピア』はプラトンの風変わりな模倣作だが、イングランドの新しい救貧法という実を結んだ。ナポリ人カンパネッラの『太陽の都』は、それより空想的で、実りも少なかった。

十七世紀末には、政治・社会科学に関する相当量の、しかも増え続ける文献が生み出されるようになっていた。この議論の先駆者の一人がジョン・ロックである。イングランド共和主義者の息子であり、オックスフォードの学者だったロックは、当初、化学と医学に関心を向けていた。統治、寛容、教育に関する彼の論考には、社会再建の可能性に完全に目覚めた精神が表れている。イギリスのロックと並び、少し遅れてフランスに現れたモンテスキュー(一六八九――一七五五年)は、社会・政治・宗教制度を徹底的かつ根本的に分析した。フランスの絶対王政から魔術的な威信を剝ぎ取ったのである。人間社会を意図的かつ自覚的に再建しようとする試みをそれまで妨げていた多くの誤謬を一掃した功績は、ロックとモンテスキューの二人に帰せられる。

十八世紀半ばから後半にかけて彼に続いた世代は、モンテスキューが道徳と知性の領域に切り開いた空間で、大胆な思索を展開した。イエズス会の優れた学校から出た反逆精神の持ち主を中心とする才気あふれる著述家集団、「百科全書派」は、新世界の設計に取り組んだ(一七六六年)。百科全書派と並んで、経済学派ないし重農主義者たちが、食料や物資の生産と分配について、大胆ながら未熟な探究を進めていた。『自然法典』の著者モレリーは私有財産制度を非難し、共産主義的な社会組織を提唱した。彼は、十九世紀に「社会主義者」と一括して呼ばれるようになった、大規模で多様な集産主義思想家の先駆者だった。

社会主義とは何か。社会主義には百の定義があり、社会主義者には千の宗派がある。本質的に社会主義とは、公共の利益に照らして財産という観念を批判すること、それ以上でも以下でもない。その観念が時代を通じてたどった歴史を、ここでごく簡単に振り返ってみよう。財産と国際主義。この二つこそ、われわれの政治生活の大部分がその周囲を回っている二大思想である。

カール・マルクス

写真:リンデ社

財産という観念は、人類という種が持つ闘争本能から生まれた。人間がまだ人間になるはるか以前から、その祖先である類人猿は所有者だった。原始的な財産とは、動物がそのために闘うもののことである。骨を守る犬、巣穴を守る雌虎、咆哮しながら群れを守る雄鹿――そこには所有者意識が燃え上がっている。社会学において、「原始共産制」ほど馬鹿げた表現は考えにくい。

旧石器時代初期の家族部族の「老人」は、妻や娘、道具、そして目に見える世界全体に対する自らの所有権を主張した。ほかの男がその世界へ入り込めば戦い、可能なら殺した。アトキンソンが『原始法』で説得的に示したように、部族は長い年月をかけて成長した。「老人」が若い男たちの存在を徐々に容認し、彼らが部族外からさらってきた妻、彼らの作った道具や装飾品、彼らの仕留めた獲物に対する所有権を認めるようになったからである。人間社会は、こちらの財産とあちらの財産との妥協によって成長した。それは、本能との妥協であり、ほかの部族をその目に見える世界から追い払う必要に迫られて成立したものだった。丘や森や川が「あなたの」土地でも「私の」土地でもなくなったのは、それが「われわれの」土地でなければならなかったからである。誰もが「私の」土地にしたかっただろうが、それではうまくいかなかった。そんなことをすれば、ほかの者たちに滅ぼされてしまう。したがって社会とは、その成立当初から「所有権の緩和」である。動物や原始的な野蛮人における所有意識は、今日の文明世界よりはるかに強烈だった。それは理性よりも、本能に深く根差している。

自然状態の野蛮人にも、今日の無教育な人間にも、所有の範囲に制限はない。戦って手に入れられるものなら何でも所有できる。女、助命した捕虜、捕らえた獣、森の空き地、採石場、その他何であれ同じである。共同体が成長すると、同胞同士の争いを抑える一種の法が生まれ、人々は所有権を決めるための簡便な方法を発達させた。最初に作ったもの、捕らえたもの、権利を主張したものは、その人が所有できた。返済できない債務者が債権者の所有物となるのは、自然なことだと思われた。同じように、土地の一区画に権利を主張した者が、それを使いたい者から支払いを取り立てるのも当然とされた。組織的生活の可能性を人々が理解するにつれ、何に対しても無制限の財産権を認めることが迷惑だと気づき始めたが、それはゆっくりとした過程だった。人々は、宇宙のすべてがすでに誰かに所有され、権利を主張されている世界に生まれてきた。それどころか、自分自身まで所有され、権利を主張された状態で生まれてきたのである。初期文明の社会闘争を今となってはたどりにくいが、先に述べた共和政ローマの歴史には、債務が公共の不利益となることがあり、その場合は帳消しにすべきだという観念、そして土地の無制限な所有も不利益だという観念に目覚める共同体の姿が見える。後期バビロニアでは、奴隷に対する財産権が厳しく制限されたこともわかっている。そして最後に、かつてないほど激しく財産を攻撃した偉大な革命家、ナザレのイエスの教えが現れる。大きな財産を持つ者が天国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうが容易だ、とイエスは語った。許される財産の範囲に対する着実で絶え間ない批判は、過去二十五世紀ないし三十世紀にわたって世界で続いてきたらしい。ナザレのイエスから千九百年後、キリスト教の教えを受けた世界全体が、人間を財産として所有することは許されないと確信するに至った。また、ほかの種類の財産についても、「自分の物をどうしようと自分の勝手だ」という考えは大きく揺らいでいた。

しかし十八世紀末の世界は、この問題についてまだ問いを発する段階にすぎなかった。行動に移せるほど明確なものはなく、まして確定したものなどなかった。当時の根本的な衝動の一つは、王の貪欲と浪費、そして貴族の山師たちによる収奪から財産を守ることだった。フランス革命も、主として私有財産を課税から守るために始まった。ところが革命の平等主義的な定式は、守るために蜂起したはずの財産そのものを批判するところまで革命を進めた。多くの人々が立つ土地も食べ物も持たず、所有者が彼らを働かせないかぎり食事も住居も与えないのに、どうして人間が自由で平等であり得るのか。しかも働かせすぎだ、と貧者は訴えた。

この難問に対して、ある有力な政治集団が出した答えは、財産を「分割する」ことだった。

彼らは、所有権を強化し、万人に行き渡らせようとした。同じ目的を別の道から目指したのが、原始的社会主義者――より正確には共産主義者――であり、私有財産そのものを「廃止」しようとした。国家――当然ながら民主国家を想定していた――が、すべての財産を所有することになっていた。

自由と幸福という同じ目的を求める人々が、一方では財産権を可能なかぎり絶対化し、他方ではそれを完全に廃止しようと提案したのは逆説的である。しかし実際にそうだった。この逆説を解く鍵は、所有権が一つのものではなく、多数の異なるものから成るという事実にある。

十九世紀が進んで初めて、人々は財産が単純な一つのものではなく、価値も影響も異なる多数の所有権から成る巨大な複合体だと理解し始めた。身体、芸術家の道具、衣服、歯ブラシなどは、きわめて深く、動かしがたく個人の財産である。一方、鉄道、各種機械、住宅、耕作された庭園、遊覧船など、私有をどこまで、いかなる制限の下で認めるべきか、またどこから公共領域に属し、共同の利益のため国家が管理し貸し出すべきかを、一つ一つ慎重に検討しなければならないものも非常に幅広く存在する。実際面では、こうした問題は政治、そして効率的な国家行政を構築し維持する問題へつながっていく。また社会心理学上の論点を開き、教育科学の探究とも相互に作用する。財産批判は、いまだ科学というより、巨大で情熱的な発酵状態にある。一方には、現在われわれが所有物に関して享受する自由を守り、拡大しようとする個人主義者がいる。他方には、多くの分野で所有物を共有化し、所有者としての行為を制限しようとする社会主義者がいる。実際には、政府を支えるための税をほとんど一切認めない極端な個人主義者から、あらゆる所有を否定する共産主義者まで、あらゆる中間段階が存在する。今日の一般的な社会主義者は、いわゆる集産主義者である。相当範囲の私有財産は認めるが、教育、運輸、鉱山、土地所有、主要な必需品の大量生産などは、高度に組織された国家の手に委ねようとする。今日では、理性的な人々が、科学的に研究・計画された穏健な社会主義へ徐々に収斂しつつあるように見える。教育を受けていない人間は、大事業で容易かつ有効に協力できないこと、より複雑な国家へ一歩進むたび、また国家が民間企業から機能を一つ引き継ぐたびに、それに見合う教育の進歩と、適切な批判・監督制度の整備が必要になることが、ますます明確に認識されている。現代国家の報道機関も政治手法も、共同活動を大規模に拡張するには、あまりに未熟である。

しかし一時期、雇用者と被雇用者、特に利己的な雇用者と働くことを嫌う労働者との緊張が、マルクスの名と結びついた、きわめて苛烈で初歩的な共産主義を世界中に広めた。マルクスは、人間の精神は経済的必要によって制限され、現代文明では、裕福な雇用者階級と被雇用者大衆との利害対立が不可避だという信念に理論を据えた。機械革命が必要とした教育の進歩につれ、被雇用者である大多数は階級意識を強め、同じく階級意識を持つ支配的少数者への敵対で、ますます固く結束する。やがて階級意識を持つ労働者が何らかの形で権力を奪取し、新たな社会体制を開始するだろうと彼は予言した。敵対、蜂起、起こり得る革命までは十分理解できる。しかしその後に新たな社会体制が生まれるとはかぎらず、社会を破壊する過程しか生じない可能性もある。ロシアで試されたマルクス主義は、後述するように、驚くほど創造性を欠くことが明らかになった。

炭鉱の科学――移動式電動積み込みコンベヤー

写真:ジェフリー製造会社、オハイオ州コロンバス

マルクスは、国家間の敵対を階級間の敵対に置き換えようとした。マルクス主義は、第一、第二、第三の労働者インターナショナルを相次いで生み出した。しかし近代個人主義思想を出発点としても、国際主義的な観念へ到達することはできる。イギリスの偉大な経済学者アダム・スミスの時代以来、世界的繁栄には、地球全体を自由に、妨げられずに行き交う貿易が必要だという認識が高まり続けている。国家に敵意を抱く個人主義者は、関税や国境、そして国境を根拠として正当化される自由な行為と移動へのあらゆる制約にも敵対する。マルクス主義者の階級闘争的社会主義と、ヴィクトリア朝イギリス実業家の個人主義的自由貿易思想。精神も内容もこれほど異なる二つの思想潮流が、その根本的な相違にもかかわらず、既存国家の境界と制約を越えて人類の問題を世界規模で扱う新しい秩序を、ともに予示する方向へ進んでいくのは興味深い。理論の論理に、現実の論理が勝利したのである。大きく異なる出発点から生まれた個人主義理論と社会主義理論が、実は共通の探究の一部だと理解できるようになる。それは、人間が協働するための、より広大な社会的・政治的思想と解釈を求める探究である。神聖ローマ帝国やキリスト教世界という観念への信頼が衰え、大航海時代が人々の地平を地中海世界から全世界へ広げるにつれて、この探究はヨーロッパで再び始まり、いっそう盛んになった。

社会・経済・政治思想が練り上げられ発展してきた過程を、今日の議論にまで引き寄せて叙述するなら、この本の範囲と目的にはあまりに論争的な問題を持ち込むことになる。しかし世界史を学ぶ者の広大な視野からこれらを眺めるなら、人間精神を導く思想の再建がいまだ未完の仕事であることを認めざるを得ない。どれほど未完なのかさえ、まだ見積もれない。確かに、いくつかの共通信念が姿を現しつつあり、今日の政治的事件や公的行為に及ぼす影響もはっきり感じられる。しかし現時点ではまだ明確さも説得力も足りず、人々をその実現へ向けて確実かつ組織的に動かすほどではない。人々の行動は伝統と新思想の間で揺れ、全体としてはむしろ伝統の側へ引き寄せられている。それでも、ほんの一世代前の思想と比べれば、人間社会の新秩序の輪郭が形を取り始めているように見える。それはまだ粗い素描であり、ところどころ曖昧さの中へ消え、細部や定式も揺れ動いている。それでも着実に鮮明さを増し、主要な線は次第に変わらなくなっている。

フォース橋の構造細部

写真:ベイカー&ハーツィグ

多くの点で、しかもますます広い領域において、人類が一つの共同体になりつつあり、そうした問題には世界共通の統制がますます必要だということが、年を追うごとに明白になっている。たとえば地球全体が今や一つの経済共同体であり、その天然資源を適切に利用するには統一的かつ包括的な指揮が必要だということは、いよいよ確かな事実となっている。発見によって人間活動の力と範囲が増大した結果、現在のように分断され、互いに争う形でそれらを管理することは、ますます浪費的で危険になっている。財政・通貨政策もまた、世界規模でなければ適切に処理できない世界共通の利害となる。感染症、人口増加、人口移動も、明らかに世界的な問題である。人間活動の力と範囲が増したことで、戦争は不釣り合いなほど破壊的で秩序を乱すものとなり、政府と政府、民族と民族の問題を決着させる不器用な手段としてさえ役に立たなくなった。これらすべてが、従来のいかなる政府よりも広範で包括的な統制と権威を求めている。

だがこれらの問題が、征服や既存政府の合併によって成立する全世界の超政府によって解決されるとはかぎらない。既存制度からの類推により、人々は「人類の議会」、世界会議、地球の大統領や皇帝を思い描いてきた。最初の自然な反応はそうした結論へ向かうが、半世紀に及ぶ提案と試みの議論・経験は、全体として、この最初に浮かぶ明白な着想への信頼を弱めた。その道を通って世界統一へ至るには、抵抗が大きすぎる。現在の思想の流れは、むしろ多数の専門委員会や組織を設け、既存政府が問題ごとに世界規模の権限を委任する方向へ向かっているように見える。天然資源の浪費や開発、労働条件の均等化、世界平和、通貨、人口、保健などを扱う機関である。

世界は、世界政府が存在することに気づかないまま、自らの共通利益がすべて一つの事業として管理されていることを発見するかもしれない。しかしそれほどの人類統一に達するより前に、またそのような国際的取り決めが愛国的な疑念や嫉妬を乗り越えるより前に、人類共通の精神が、人類統一という観念をわがものとしなければならない。人類は一つの家族だという思想が、万人に教えられ、理解されなければならないのである。

二十世紀かそれ以上にわたって、偉大な普遍宗教の精神は、人類普遍の同胞愛という観念を維持し、広げようと苦闘してきた。しかし今日なお、部族・国家・人種間の摩擦が生む悪意、怒り、不信が、すべての人を全人類への奉仕者にするはずの広い視野と寛大な衝動を妨げ、しかも実際に封じ込めている。人類同胞という思想は今、人間の魂を捉えようと苦闘している。それは、キリスト紀元六、七世紀の混乱と無秩序の中で、キリスト教世界という思想がヨーロッパの魂を捉えようと苦闘したのと同じである。こうした思想を広め、勝利させる仕事は、献身的だが名もなき多数の伝道者に委ねられなければならない。その仕事がどこまで進み、どんな収穫を準備しているのか、同時代の著述家に推測する資格はない。

社会・経済問題は、国際問題と分かちがたく入り交じっているように見える。どの場合も解決は、人間の心に入り、それを奮い立たせ得る同じ奉仕の精神に訴えることにある。国家の不信、強情、利己心は、共通善を前にした個々の所有者や労働者の不信、強情、利己心を映し、また逆に映し返されてもいる。個人の過度な所有欲は、国家や皇帝のむさぼるような貪欲と並行し、同質のものである。それらは同じ本能的傾向、同じ無知と伝統の産物なのだ。国際主義とは、国家の社会主義である。これらの問題と格闘した者なら誰でも、人間の交流と協力という難題に真の最終解決を与えるだけの深さと力を備えた心理科学も、十分に計画された教育方法と組織も、いまだ存在しないと感じるだろう。今日のわれわれが真に有効な世界平和機構を計画する能力は、一八二〇年の人々が電気鉄道網を計画する能力と変わらない。だがわれわれの知らないところで、それは同じように実現可能であり、同じほど間近に迫っているかもしれない。

誰も自らの知識を越えることはできず、いかなる思想も同時代の思想を越えて届くことはできない。全歴史が指し示しているように見える大いなる平和――心の平和と世界の平和――が、浪費的で目的のない生の夜を終わらせるまで、人類があと何世代、戦争、浪費、不安、悲惨の中で生きなければならないのか、われわれには推測も予言もできない。提案されている解決策は、まだ曖昧で未熟である。激情と疑念が周囲を取り巻いている。知的再建という大事業は進行中だが、いまだ完成していない。われわれの概念は、ゆっくりと、あるいは急速に――どちらなのか判断しにくいが――いっそう明晰で正確になっている。そして明確になるにつれ、人間の精神と想像力を支配する力を集めていくだろう。現在、人心を捉えきれないのは、確信と厳密な正しさが不足しているからである。さまざまな形で混乱を招くように提示されるため、誤解されているのだ。しかし精密さと確実さを得れば、新たな世界像は人を動かさずにはおかない力を帯びる。その力は、まもなく急速に増すかもしれない。そしてより明晰な理解に伴い、必然かつ論理的に、教育の大規模な再建が続くだろう。

第六十章 アメリカ合衆国の拡大

新しい交通の発明が、最も早く、最も目覚ましい成果を示した地域は北アメリカだった。政治的に見れば、アメリカ合衆国は十八世紀半ばの自由主義思想を体現し、その憲法はそれを結晶化したものだった。国教会も王冠も持たず、爵位を認めず、自由を実現する手段として財産をきわめて慎重に保護し、当初は州ごとに具体的な制度が異なったものの、ほぼすべての成人男性市民に選挙権を与えた。投票方法は野蛮なほど未熟で、そのため政治生活はたちまち高度に組織された政党機構に支配された。それでも、新たに解放された国民が、同時代のどの国民をもはるかに上回る活力、進取の精神、公共心を発揮することは妨げられなかった。

そこへ、すでに述べた移動速度の加速が起きた。奇妙なことに、この加速から最大の恩恵を受けたアメリカが、それを最も意識していない。合衆国は鉄道、河川蒸気船、電信などを、自国の成長に元から備わっていた自然な一部のように受け止めてきた。しかしそうではない。これらはちょうど間に合う時期に登場し、アメリカの統一を救ったのである。今日の合衆国を最初に作ったのは河川蒸気船であり、次いで鉄道だった。それらがなければ、現在のアメリカ合衆国という広大な大陸国家は、まったく成立し得なかった。人口の西進ははるかに鈍くなり、中央の大平原を越えなかったかもしれない。海岸から、大陸を半分も横断しないミズーリまで実効的な入植が達するのに、ほぼ二百年かかった。川の向こうで最初に成立した州は、一八二一年の「蒸気船州」ミズーリだった。しかしそこから太平洋までの残りの距離は、わずか数十年で踏破された。

もし映画という手段を使えるなら、一六〇〇年以後の北アメリカの地図を一年ごとに映し、一つにつき百人を表す小さな点と、人口十万の都市を表す星を付けて見せると興味深いだろう。

最初の二百年間、読者は点の群れが海岸地帯と航行可能な水域に沿ってゆっくり進み、インディアナ、ケンタッキーなどへさらに緩慢に広がっていくのを見るだろう。ところが一八一〇年ごろ、変化が起きる。河川沿いが活気づき、点は増殖しながら広がる。蒸気船の登場である。開拓者を示す点はやがて、大河沿いのいくつもの出発地点から、カンザスやネブラスカへ広がっていくだろう。

次いで一八五〇年ごろから、鉄道を示す黒い線が現れる。その後、小さな黒点は這うのではなく、走り始める。点の現れる速度は、まるで何らかの噴霧器で吹きつけられているかのようになる。そして突然、ここに一つ、あちらに一つと、人口十万の最初の大都市を示す星が現れる。初めは一つか二つ、それから無数の都市が現れる。それぞれが、成長する鉄道網にできた結び目のようである。

アメリカ合衆国の成長は、世界史に先例のない過程であり、新種の出来事である。このような共同体は、以前なら成立し得なかった。仮に成立していても、鉄道がなければ、今よりはるか以前に確実にばらばらになっていただろう。鉄道も電信もなければ、カリフォルニアをワシントンから統治するより、北京から統治するほうがはるかに容易だったはずだ。ところがアメリカ合衆国の膨大な人口は、途方もなく増えただけでなく、均質性を保ってきた。それどころか、ますます均質になっている。今日のサンフランシスコ人はニューヨーク人に、一世紀前のヴァージニア人がニューイングランド人に似ていた以上によく似ている。同化の過程は妨げられずに続く。合衆国は鉄道と電信によって、いよいよ巨大な一体へと織り上げられ、言葉、思考、行動を調和させつつある。やがて航空もこの仕事を助けるだろう。

アメリカ合衆国というこの巨大共同体は、歴史上まったく新しい存在である。過去にも人口一億を超える大帝国はあったが、それらは異質な諸民族の集合体だった。これほどの規模を持つ単一の民族は、かつて存在しなかった。この新しい存在には、新しい呼び名が必要である。われわれはフランスやオランダを国と呼ぶのと同じように、アメリカ合衆国も国と呼んでいる。しかし両者は、自動車と一頭立ての馬車ほど違う。異なる時代、異なる条件から生まれたもので、異なる速度とまったく異なる仕方で動いていく。規模と可能性において、アメリカ合衆国は、ヨーロッパの一国家と全世界の合衆国との中間に位置している。

しかし現在の偉大さと安定に至る途中で、アメリカ国民は凄惨な対立の時期を経験した。河川蒸気船、鉄道、電信、それらに付随する設備は、連邦南部と北部の州の間で深まりつつあった利害と思想の対立を避けるには、登場が遅すぎた。南部諸州は奴隷州であり、北部諸州ではすべての人が自由だった。鉄道と蒸気船は当初、合衆国の二地域にすでに存在した相違を、いっそう鋭く衝突させたにすぎない。新しい交通手段が統一を進めるにつれて、南部の精神と北部の精神のどちらが優位に立つのかという問題は、ますます切迫した。妥協の余地はほとんどなかった。北部の精神は自由で個人主義的だった。南部の精神は大所領を育て、暗い肌の隷属的大衆を、紳士であることを自覚した階級が支配する体制へ向かっていた。

人口の波が西へ押し寄せるにつれ、州として組織された新しい領土、急速に成長するアメリカ体制へ加わる新たな地域はことごとく、二つの思想の戦場となった。自由市民の州となるのか、それとも大所領と奴隷制の体制が支配するのか。一八三三年以後、アメリカ反奴隷制協会は、単に奴隷制の拡大に抵抗するだけでなく、その完全廃止を求めて全国的な運動を展開していた。テキサスの連邦加入問題をめぐって、この対立は公然たる衝突へ燃え上がった。テキサスは元来メキシコ共和国の一部だったが、奴隷州出身のアメリカ人によって盛んに植民され、メキシコから離脱して一八三五年に独立を樹立し、一八四四年に合衆国へ併合された。メキシコ法の下ではテキサスの奴隷制は禁止されていたが、南部はテキサスを奴隷制のために要求し、実際に獲得した。

一方、外洋航海の発展により、ヨーロッパから増え続ける移民が押し寄せ、拡大する北部諸州の人口を膨らませた。また、いずれも北部の農業地帯であるアイオワ、ウィスコンシン、ミネソタ、オレゴンが州へ昇格したことで、反奴隷制の北部は、上院と下院の双方で優位に立つ可能性を得た。綿花栽培を行う南部は、奴隷制廃止運動の脅威が高まることに苛立ち、連邦議会で北部が優勢になることを恐れて、連邦からの脱退を口にし始めた。南部人は、メキシコや西インド諸島など南方の領土を併合し、北部から分離してパナマまで延びる巨大奴隷国家を夢見るようになった。

一八六〇年、奴隷制の拡大に反対する大統領としてエイブラハム・リンカーンが選出されたことで、南部は連邦分裂を決断した。サウスカロライナは「脱退条例」を可決し、戦争の準備を始めた。ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスがこれに加わった。アラバマ州モンゴメリーで会議が開かれ、ジェファーソン・デイヴィスをアメリカ「連合国」の大統領に選出し、「黒人奴隷制という制度」を明確に擁護する憲法を採択した。

アメリカ最初期の河川蒸気船の一隻

偶然にもエイブラハム・リンカーンは、独立戦争後に成長した新しい国民を完全に代表する人物だった。若いころの彼は、西へ向かう人口の大きな流れに漂う一粒のように過ごした。ケンタッキーで生まれ(一八〇九年)、少年時代にインディアナへ移り、その後イリノイへ移った。当時のインディアナ奥地の暮らしは厳しく、家は荒野に建つ粗末な丸太小屋にすぎず、学校教育も貧弱で断片的だった。しかし母から幼くして読み方を教わり、貪るように本を読むようになった。十七歳のときには、大柄で運動能力に優れた若者に育ち、相撲と競走の名手だった。一時期は商店員として働き、酒飲みの共同経営者と商店を始め、負った借金を完済するまで十五年かかった。一八三四年、まだ二十五歳のとき、イリノイ州議会下院議員に選出された。とりわけイリノイでは奴隷制問題が燃え上がった。連邦議会における奴隷制拡大派の大指導者が、イリノイ州選出のダグラス上院議員だったからである。ダグラスは非常に有能で威信のある人物だった。リンカーンは数年にわたり演説とパンフレットで彼と戦い、着実に地位を高め、ついには最も手強く、最後には勝利する対抗者となった。二人の闘争が頂点に達したのは一八六〇年の大統領選挙だった。そして一八六一年三月四日、リンカーンは大統領に就任したが、南部諸州はすでにワシントンの連邦政府の支配から積極的に離脱し、戦争行為に及んでいた。

アメリカのこの内戦は、急造された軍隊によって戦われた。その兵力は数万人から数十万人へ着実に増え、最後には連邦軍だけで百万人を超えた。戦域はニューメキシコから東海岸までの広大な地域に及び、ワシントンとリッチモンドが主な攻略目標だった。テネシーとヴァージニアの丘陵や森林を行きつ戻りつし、ミシシッピ川を下って展開した、この叙事詩的闘争の高まる熱量を詳しく語る余裕はない。人命は恐るべき規模で浪費され、奪われた。攻撃には反撃が続き、希望は絶望に取って代わられ、再び戻ってはまた裏切られた。ワシントンが南軍の手中に落ちそうなこともあれば、連邦軍がリッチモンドへ迫ることもあった。数で劣り、資源もはるかに乏しい南軍は、卓越した能力を持つリー将軍の下で戦った。北軍の指揮能力ははるかに劣っていた。将軍が解任され、新たな将軍が任命された。やがてシャーマンとグラントの指揮下で、ぼろをまとい、消耗しきった南部に対する勝利が訪れた。一八六四年十月、シャーマン率いる連邦軍は南軍左翼を突破し、テネシーからジョージアを経て海岸まで、南部連合領を横断して進撃した。それからカロライナ両州を北上し、南軍の背後へ迫った。その間、グラントはリッチモンド前面でリーを釘づけにし、シャーマンが包囲を閉じるのを待った。一八六五年四月九日、リーとその軍はアポマトックス・コートハウスで降伏した。一か月以内に、残るすべての脱退派軍も武器を置き、南部連合は消滅した。

エイブラハム・リンカーン

この四年間の闘争は、アメリカ国民に甚大な肉体的・道徳的重圧をもたらした。州の自治という原則は多くの人々にとって非常に大切であり、実質的に北部が南部へ奴隷制廃止を押しつけているようにも見えた。境界州では、兄弟や従兄弟、さらには父と息子さえ敵味方に分かれ、対立する軍隊で戦うことになった。北部は自らの大義を正しいと考えたが、非常に多くの人々にとって、それは完全無欠で異論の余地のない正義ではなかった。しかしリンカーンには疑いがなかった。大いなる混乱のただ中で、彼は頭脳明晰な人物だった。連邦を支持し、アメリカ全土の平和を支持した。奴隷制には反対だったが、それを二次的な問題と見なした。第一の目的は、アメリカ合衆国を性格の異なる不和な二つの断片に引き裂かせないことだった。

開戦当初、連邦議会と連邦軍の将軍たちが性急な奴隷解放へ乗り出したとき、リンカーンはこれに反対し、その熱意を和らげた。彼が支持したのは、段階的かつ補償を伴う解放だった。一八六五年一月になってようやく、憲法修正によって奴隷制を永久に廃止する案を連邦議会が提出できるほど状況が成熟した。そして各州がこの修正条項を批准したときには、戦争はすでに終わっていた。

戦争が一八六二年、一八六三年と長引くにつれ、当初の激情と熱狂は薄れ、アメリカは戦争疲れと戦争嫌悪のあらゆる段階を味わった。大統領の背後には敗北主義者、裏切り者、解任された将軍、狡猾な党派政治家、疑念を抱いて疲弊した国民がいた。前面には、士気を鼓舞できない将軍と意気消沈した兵士たちがいた。唯一の慰めは、リッチモンドのジェファーソン・デイヴィスも大差ない境遇にあることだったに違いない。イギリス政府は不当な振る舞いに及び、イギリスにいた南軍の工作員が三隻の高速私掠船を進水させ、乗組員を配置するのを許した。最もよく記憶されているのは アラバマ 号である。これらの船は合衆国船舶を海上から駆逐した。メキシコのフランス軍はモンロー主義を踏みにじっていた。リッチモンドからは、戦争を打ち切り、争点の解決を後日に回し、連邦軍と南軍が同盟してメキシコのフランス軍を攻撃しようという巧妙な提案も届いた。しかしリンカーンは、連邦の優越が維持されないかぎり、そうした提案に耳を貸さなかった。アメリカ人がそれを行うなら、一つの国民としてでなければならず、二つに分かれていてはならなかった。

何か月にも及ぶ逆境と実りのない努力、分裂と挫けかけた勇気の暗い時期を通じて、リンカーンは合衆国を一つに保った。目的を前に一度でも揺らいだという記録はない。何もできないときには、ホワイトハウスで黙して身じろぎもせず、決意の厳めしい記念碑のように座っていた。またあるときには、冗談や庶民的な逸話で心を休めた。

リンカーンは連邦の勝利を見届けた。降伏の翌日にリッチモンドへ入り、リー降伏の報を聞いた。ワシントンへ戻り、四月十一日に最後の公開演説を行った。主題は和解と、敗北した州における忠実な政府の再建だった。四月十四日の夜、ワシントンのフォード劇場へ出かけ、舞台を見ていたところ、気づかれずにボックス席へ忍び込んだブースという俳優に後頭部を撃たれ、命を落とした。ブースはリンカーンに何らかの恨みを抱いていたという。しかしリンカーンの仕事は終わっていた。連邦は救われたのである。

開戦時、太平洋岸まで通じる鉄道はなかった。戦後、鉄道は急成長する植物のように広がり、今ではアメリカ合衆国の広大な領土全体をつかみ、結びつけ、解きがたい精神的・物質的一体へと織り上げている。中国の庶民が読み書きを身につけるまで、世界最大の真の共同体である。

第六十一章 ドイツの台頭とヨーロッパにおける優位

フランス革命の激震とナポレオンの冒険の後、ヨーロッパが不安定な平和を一時的に取り戻し、五十年前の政治状況を近代化して復活させたような状態に落ち着いたことは、すでに述べた。十九世紀半ばまで、製鋼技術の新たな発達や鉄道、蒸気船は、目立った政治的帰結をもたらさなかった。しかし都市工業主義の発達による社会的緊張は高まった。フランスは依然として際立って不安定な国だった。一八三〇年革命に続いて、一八四八年にも革命が起きた。その後、ナポレオン・ボナパルトの甥ナポレオン三世が、まず大統領となり、次いで一八五二年に皇帝となった。

彼はパリの再建に着手し、絵画的ではあるが不衛生な十七世紀の都市を、今日見られるような、広々としてラテン的な大理石の都市へ変えた。またフランスの再建にも取り組み、外観の華麗な近代的帝国主義国家へ変えた。そして十七、十八世紀にヨーロッパを無益な戦争へ駆り立てた列強間の競争を、復活させようとする姿勢を示した。ロシア皇帝ニコライ一世(一八二五――一八五六年)も攻勢を強め、コンスタンティノープルを狙いながら、トルコ帝国へ向けて南下していた。

十九世紀に入ってから、ヨーロッパでは新たな戦争の連鎖が始まった。主として「勢力均衡」と覇権をめぐる戦争だった。イギリス、フランス、サルデーニャは、トルコを守るためクリミア戦争でロシアを攻撃した。プロイセンはイタリアを同盟国としてオーストリアとドイツの主導権を争った。フランスはサヴォイアを代価に北イタリアをオーストリアから解放し、イタリアは徐々に一王国へ統一された。その後、ナポレオン三世は判断を誤り、アメリカ南北戦争中のメキシコで冒険を試みた。彼はマクシミリアンを皇帝に立てたが、勝利したアメリカ連邦政府が牙をむくと、慌てて見捨て、運命に委ねた。マクシミリアンはメキシコ人に銃殺された。

一八七〇年、長く予想されていたヨーロッパの覇権をめぐるフランスとプロイセンの戦いが起きた。プロイセンは以前からこの戦争を予見し、準備していたが、フランスは金融腐敗で内部から朽ちていた。敗北は迅速かつ劇的だった。八月にドイツ軍がフランスへ侵攻し、九月には皇帝が率いるフランスの大軍がスダンで降伏、十月には別の軍がメスで降伏した。一八七一年一月、包囲と砲撃を受けたパリがドイツ軍の手に落ちた。フランクフルトで講和条約が結ばれ、アルザスとロレーヌがドイツへ割譲された。オーストリアを除くドイツは帝国として統一され、プロイセン王はドイツ皇帝として、ヨーロッパに群れ集うカエサルたちの一員となった。

その後四十三年間、ドイツはヨーロッパ大陸の主導的な列強となった。一八七七――七八年には露土戦争が起きたが、その後はバルカン半島で多少の再調整があった以外、ヨーロッパの国境は三十年間、不安定ながら固定された。

第六十二章 蒸気船と鉄道による新たな海外帝国

十八世紀末は、帝国が分裂し、膨張主義者が幻滅した時代だった。イギリスやスペインとアメリカ植民地との長く退屈な旅は、本国と分国との真に自由な往来を妨げた。そのため植民地は、独自の思想、利害、さらには話し方まで持つ、新しい別個の共同体へ分かれていった。成長するにつれ、それらは本国とを結ぶ脆弱で不安定な海運の鎖を、ますます強く引っ張った。カナダにおけるフランスの拠点のような荒野の弱小交易所や、インドにおけるイギリスの施設のような巨大な異民族共同体内の交易施設なら、自らを支え、存在理由を与える国家に、生き延びるためしがみつくのも当然だった。十九世紀初頭の多くの思想家にとって、海外支配の限界はそこまでであり、それ以上ではないと思われた。一八二〇年までに、十八世紀半ばの地図を勇ましく飾っていたヨーロッパ諸国の粗描された「大帝国」は、ごく小さな規模に縮小していた。アジアに以前と変わらず広々と横たわっていたのは、ロシアだけだった。

一八一五年の大英帝国は、人口希薄なカナダの沿岸・河川・湖沼地帯と、その背後に広がり、まだハドソン湾会社の毛皮交易所しか入植地のない大荒野、東インド会社の支配下にあるインド半島の約三分の一、黒人と反抗心の強いオランダ系入植者が住む喜望峰沿岸地方、西アフリカ沿岸のいくつかの交易所、ジブラルタルの岩山、マルタ島、ジャマイカ、西インド諸島にある奴隷労働を用いた少数の小領地、南アメリカの英領ギアナ、そして地球の反対側にあるオーストラリアのボタニー湾とタスマニアの二つの流刑地から成っていた。スペインはキューバとフィリピン諸島の少数の入植地を保持していた。ポルトガルはアフリカに古い領有権主張の名残をいくらか残していた。オランダは東インド諸島とオランダ領ギアナにさまざまな島や領地を持ち、デンマークは西インド諸島に一、二の島を領有していた。フランスは西インド諸島の一、二の島と仏領ギアナを持っていた。ヨーロッパ列強が世界の残りの部分に必要とする、あるいは獲得できそうな領土は、それがすべてに見えた。拡張の意欲を示したのは、東インド会社だけだった。

ヨーロッパがナポレオン戦争に忙殺されている間、歴代の総督が率いる東インド会社は、かつて北方から来たトルコマン人などの侵略者がインドで演じたのとほぼ同じ役割を果たしていた。ウィーン講和後も、会社は歳入を徴収し、戦争を行い、アジア諸国へ大使を送り続けた。それは半独立国家でありながら、富を西方へ送り出す顕著な傾向を持っていた。

イギリス東インド会社が、時にはこの勢力、時には別の勢力と同盟し、最後にはすべての征服者となって覇権を確立した過程を、ここで詳しく述べることはできない。その勢力はアッサム、シンド、アウドへ広がった。インドの地図は、今日のイギリスの学童にもなじみ深い輪郭を帯び始めた。イギリスの直接統治下にある大州が、藩王国の寄せ集めを包み込み、一つにつなぎ留める形である……。

一八五九年、インド人部隊の深刻な反乱を受け、東インド会社のこの帝国はイギリス王室へ併合された。『インド統治改善法』と題する法律により、総督は君主を代表する副王となり、会社に代わって、イギリス議会に責任を負うインド担当国務大臣が置かれた。一八七七年、ビーコンズフィールド卿はこの事業を完成させるため、ヴィクトリア女王をインド皇帝として宣言させた。

この異例の仕組みによって、インドとイギリスは現在も結びついている。インドは依然として大ムガル帝国だが、大ムガルはイギリスという「王冠を戴く共和国」に置き換えられた。インドは独裁者なき独裁国家である。その統治は、絶対王政の欠点と、民主的官僚制の非人格性・無責任性とを併せ持つ。不満を訴えたいインド人にも、目に見える君主という訴え先はない。皇帝は黄金の象徴にすぎない。イギリスでパンフレットを配布するか、イギリス下院で質問を取り上げてもらわなければならない。議会がイギリス国内の問題に忙殺されるほど、インドへの関心は薄れ、インドは少数の高級官僚の意のままになる。

南ローデシア、ザンベジ川ヴィクトリア瀑布峡谷に架かる鉄道橋

写真:英国南アフリカ会社

インドを除けば、鉄道と蒸気船が本格的に活動を始めるまで、ヨーロッパ諸帝国に大きな拡張はなかった。イギリスの政治思想家には、海外領土を王国の弱点の源と見る有力な一派があった。オーストラリアの入植地は、一八四二年に価値ある銅山が、一八五一年に金が発見されて新たな重要性を得るまで、ゆっくりとしか発展しなかった。輸送の改善により、オーストラリア産羊毛もヨーロッパでますます販売しやすい商品となっていた。カナダも一八四九年までは、目覚ましい発展を遂げなかった。フランス系住民とイギリス系住民の不和に悩まされ、深刻な反乱も何度か起きた。一八六七年、カナダ連邦自治領を創設する新憲法によって、ようやく内部の緊張が緩和された。カナダの展望を変えたのは鉄道だった。鉄道により、カナダはアメリカ合衆国と同じく西方へ拡張し、穀物その他の産物をヨーロッパで販売し、急速かつ広大に成長しながらも、言語、共感、利害を共有する一つの共同体であり続けることができた。鉄道、蒸気船、電信海底ケーブルは、植民地発展の条件を一変させていたのである。

一八四〇年以前、ニュージーランドではすでにイギリス人の入植が始まり、島の可能性を開発するためニュージーランド会社が設立されていた。一八四〇年には、ニュージーランドもイギリス王室の植民地領へ加えられた。

すでに述べたように、新しい輸送方法が開いた経済的可能性に、最初に豊かな反応を示したイギリス領はカナダだった。やがて南アメリカの共和国、とりわけアルゼンチン共和国も、畜産とコーヒー栽培においてヨーロッパ市場が近づいたことの効果を感じ始めた。それまでヨーロッパ列強を未開で野蛮な地域へ引きつけた主要商品は、金などの金属、香辛料、象牙、奴隷だった。しかし十九世紀最後の四半世紀になると、ヨーロッパの人口増加により、各国政府は主食を海外に求めざるを得なくなった。また科学的工業主義の成長が、あらゆる種類の油脂、ゴムなど、それまで顧みられなかった新原料への需要を生んだ。熱帯・亜熱帯産物の相当部分を支配していたイギリス、オランダ、ポルトガルが、大きく、しかも増大し続ける商業的優位を得ていることは明白だった。一八七一年以後、ドイツ、次いでフランス、さらに後にはイタリアも、まだ併合されていない原料供給地や、利益の上がる近代化が可能な東洋諸国を探し始めた。

こうして、モンロー主義がこの種の冒険を阻んでいたアメリカ地域を除き、政治的保護を欠く土地を求める新たな争奪戦が世界各地で始まった。

ヨーロッパのすぐ近くには、未知の可能性に満ちたアフリカ大陸があった。一八五〇年のアフリカは黒い謎の大陸であり、知られていたのはエジプトと沿岸部だけだった。アフリカの闇へ初めて分け入った探検家や冒険家、その後に続いた政治工作員、行政官、商人、入植者、科学者の驚くべき物語を語る余裕はない。ピグミーのような驚異的な民族、オカピのような奇妙な動物、見事な果実・花・昆虫、恐るべき病気、森林と山岳の圧倒的な景観、巨大な内海、大河、瀑布が次々に明らかになった。まったく新しい世界である。ジンバブエでは、記録されることなく消滅した文明、古代人による南方進出の遺跡さえ発見された。この新世界へヨーロッパ人が入ると、そこにはすでにアラブ人奴隷商人の手に銃があり、黒人社会は混乱状態にあった。

一九〇〇年までの半世紀に、アフリカ全土は地図に描かれ、探検され、価値を査定され、ヨーロッパ列強の間で分割された。この争奪戦では、原住民の福祉はほとんど顧みられなかった。アラブ人奴隷商人は追放されるよりは抑制されたが、ベルギー領コンゴでは、原住民に強制採取させる野生ゴムへの貪欲と、経験不足のヨーロッパ行政官と現地住民との衝突が相まって、凄惨な残虐行為を引き起こした。この問題について、手の完全にきれいなヨーロッパ列強は一つもない。

一八八三年にイギリスがエジプトを占領し、形式上はトルコ帝国領だったにもかかわらず居座った経緯を、ここで詳しく述べることはできない。また一八九八年、西海岸から中央アフリカを横断してきたマルシャン大佐が、ファショダでナイル上流を占拠しようとした際、この争奪戦がフランスとイギリスの戦争寸前まで行った経緯も同様である。

さらに、イギリス政府が当初、オレンジ川地方とトランスヴァールのボーア人、すなわちオランダ系入植者に南アフリカ内陸部で独立共和国を建設させながら、後に思い直し、一八七七年にトランスヴァール共和国を併合した経緯も詳述できない。トランスヴァールのボーア人が自由のために戦い、マジュバ・ヒルの戦い(一八八一年)後に勝ち取った経緯も同じである。マジュバ・ヒルは、執拗な報道運動によってイギリス国民の記憶に癒えない傷として刻まれた。一八九九年には両共和国との戦争が勃発した。イギリス国民に莫大な負担を強いた三年戦争となり、最後は二共和国の降伏で終わった。

その服従期間は短かった。一九〇七年、二共和国を征服した帝国主義政権が倒れると、自由党が南アフリカ問題に取り組んだ。かつての二共和国は、ケープ植民地、ナタールとともに南アフリカ全諸邦の連邦を形成し、イギリス王室の下にある一つの自治共和国として、自由で、おおむね自発的な構成員となった。

四半世紀でアフリカ分割は完了した。併合されずに残ったのは、比較的小さな三国だけだった。西海岸に解放黒人奴隷が築いた入植地リベリア、イスラム教徒のスルタンが支配するモロッコ、そして古く独特な形のキリスト教を持つ未開の国アビシニアである。アビシニアは一八九六年のアドワの戦いでイタリアを破り、独立を守ることに成功していた。

第六十三章 ヨーロッパのアジア侵略と日本の台頭

アフリカの地図をヨーロッパ諸国の色で性急に塗り分けたことを、世界情勢の恒久的な新秩序として本当に受け入れた人が多数いたとは信じがたい。しかし歴史家は、それが実際に受け入れられたと記録しなければならない。十九世紀ヨーロッパ人の精神には、歴史的背景についての理解が浅く、物事を深く批判する習慣もなかった。西洋の機械革命が旧世界の他地域に対してヨーロッパ人へ与えた、きわめて一時的な優位は、モンゴルの大征服のような出来事すらまるで知らない人々によって、人類に対するヨーロッパの指導権が恒久的かつ確実だという証拠と見なされた。科学とその成果が移転可能だという感覚を欠いていたのである。中国人やインド人が、フランス人やイギリス人に劣らぬ能力で研究を続けられるとは理解していなかった。西洋には生来の知的推進力があり、東洋には生来の怠惰と保守性があって、それがヨーロッパ人に永遠の世界支配を保証していると信じていた。

この思い上がりの結果、ヨーロッパ各国の外務当局は、世界の未開発地域をめぐってイギリスと争うだけでなく、人口が多く文明化したアジア諸国まで、あたかも住民が搾取用の原料にすぎないかのように切り分け始めた。内面は不安定ながら外見は華麗だった、インドにおけるイギリス支配階級の帝国主義と、東インド諸島におけるオランダの広大で有益な領地は、競合する列強に、ペルシア、崩壊しつつあるオスマン帝国、インドシナ、中国、日本で同様の栄光を手にする夢を抱かせた。

一八九八年、ドイツは中国の膠州湾を奪取した。イギリスは威海衛の占領で応じ、翌年にはロシアが旅順を占領した。ヨーロッパ人への憎悪の炎が中国全土を席巻した。ヨーロッパ人やキリスト教改宗者が虐殺され、一九〇〇年には北京のヨーロッパ公使館区域が攻撃・包囲された。ヨーロッパ諸国の連合軍が懲罰遠征で北京へ進み、公使館員を救出し、莫大な価値を持つ財物を略奪した。続いてロシアが満州を占領し、一九〇四年にはイギリスがチベットへ侵攻した……。

しかしここで、列強の争いに新たな大国、日本が登場した。これまで日本が本書の歴史で演じた役割は小さい。閉ざされた文明は、人類全体の運命形成に大きく寄与してこなかった。多くを受け取りながら、与えたものは少なかったのである。本来の日本人はモンゴル系人種に属する。その文明、文字、文学・芸術の伝統は中国から派生した。日本の歴史は興味深く、浪漫に富む。西暦初期の数世紀に封建制度と騎士道制度を発達させた。朝鮮や中国への攻撃は、イングランドがフランスで行った戦争の東洋版に当たる。日本がヨーロッパと初めて接触したのは十六世紀である。一五四二年、数人のポルトガル人が中国のジャンク船で到着し、一五四九年にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を始めた。一時期、日本はヨーロッパとの交流を歓迎し、キリスト教宣教師は多数の改宗者を得た。ウィリアム・アダムズという人物は、日本人から最も信頼されるヨーロッパ人顧問となり、大型船の建造法を教えた。日本で建造された船で、インドやペルーへ航海することもあった。その後、スペイン人ドミニコ会士、ポルトガル人イエズス会士、イギリス・オランダのプロテスタントの間で複雑な争いが起き、それぞれが日本人に対し、他派の政治的企図を警告した。優勢となった時期のイエズス会士は、仏教徒を激しい敵意をもって迫害し、侮辱した。ついに日本人は、ヨーロッパ人は耐えがたい厄介者であり、特にカトリックは、すでにフィリピン諸島を領有する教皇とスペイン王家の政治的野望を覆い隠す外套にすぎないと結論した。キリスト教徒への大迫害が起こり、一六三八年、日本はヨーロッパ人に対して完全に閉ざされ、その状態は二百年以上続いた。その二世紀、日本人はまるで別の惑星に住んでいるかのように、外界から完全に切り離された。沿岸航行用の小船より大きな船の建造は禁止され、日本人は海外へ出られず、ヨーロッパ人も入国できなかった。

十八世紀の日本兵

(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵)

二世紀にわたり、日本は歴史の主流から外れていた。人口の約五パーセントを占める 、すなわち武人と、貴族およびその家族が、残りの国民を無制限に圧迫する、絵画的な封建社会のまま生き続けた。その間、外の大世界は、より広い展望と新たな力へ進んでいた。日本の岬を通過する見慣れぬ船は次第に増え、ときには難破し、船員が上陸させられた。外界との唯一の接点だった出島のオランダ商館を通じ、日本が西洋世界の力に追いついていないという警告も伝わった。一八三七年、見慣れぬ星条旗を掲げた船が江戸湾へ入り、太平洋で漂流しているところを救助した日本人船員数名を乗せてきた。しかし船は砲撃で追い払われた。この旗はやがて別の船にも掲げられて再び現れた。一八四九年には、難破したアメリカ人船員十八名の解放を要求する船が来航した。そして一八五三年、ペリー提督率いる四隻のアメリカ軍艦が現れ、追い払われることを拒んだ。禁じられた海域に投錨し、当時日本の支配権を分け合っていた二人の統治者へ書簡を送った。一八五四年、ペリーは十隻の艦隊を率いて戻った。蒸気で進み、大砲を備えた驚異の船である。そして日本側に拒む力のない通商・交流案を提示した。条約調印のため、五百人の護衛を伴って上陸した。外界から来た一行が町を行進するのを、信じられない思いの群衆が見守った。

ロシア、オランダ、イギリスがアメリカに続いた。領地から下関海峡を支配するある大名が外国船への砲撃を命じると、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの軍艦から成る艦隊が砲撃し、砲台を破壊して剣士たちを四散させた。最後には、一八六五年、京都沖に停泊した連合艦隊が、日本を世界へ開く諸条約の批准を強要した。

これらの出来事によって日本人が味わった屈辱は激烈だった。日本は驚くべき活力と知性をもって、自らの文化と組織をヨーロッパ列強の水準へ引き上げる仕事に取り組んだ。人類史上、当時の日本ほど大きな飛躍を遂げた国民はない。一八六六年、日本人は中世的な民族であり、極端に浪漫化された封建制の奇怪な戯画だった。一八九九年には完全に西洋化され、最先端のヨーロッパ列強と肩を並べる国民となっていた。アジアが何らかの不可逆的な理由で、絶望的にヨーロッパから遅れているという思い込みを完全に打ち砕いたのである。日本と比べれば、ヨーロッパのあらゆる進歩が鈍重に見えた。

一八九四――九五年の日清戦争をここで詳しく語ることはできない。それは日本の西洋化の程度を証明した。日本には効率的に西洋化された陸軍と、小規模だが堅実な海軍があった。しかし日本の再生が持つ意味は、すでに日本をヨーロッパ国家同様に扱っていたイギリスとアメリカには理解されたものの、アジアで新たな「インド」を追い求める他の列強には理解されなかった。ロシアは満州を通って朝鮮へ南下していた。フランスははるか南方のトンキンとアンナンにすでに足場を築き、ドイツは何らかの植民地を求めて空腹な獣のように徘徊していた。三国は結託し、日本が日清戦争の成果を得るのを妨げた。戦争で疲弊していた日本を、三国は戦争で脅した。

東京の街路

日本はひとまず屈服し、力を蓄えた。十年以内にロシアと戦う準備を整えた。この戦いはアジア史の一時代を画し、ヨーロッパの傲慢な時代を終わらせることになる。ロシア国民はもちろん、地球を半周した先で自分たちのために引き起こされていたこの紛争について何も知らず、責任もなかった。賢明なロシア政治家は、こうした愚かな進出に反対していた。しかし皇帝は、従兄弟である大公たちを含む金融投機家の一団に取り囲まれていた。彼らは満州と中国の略奪を見込んで巨額を賭けており、撤退を認めようとしなかった。こうして日本兵の大軍が海を越えて旅順と朝鮮へ運ばれ、ロシア農民を満載した列車が、遠い戦場で死なせるためシベリア鉄道を延々と走ることになった。

指揮が悪く、補給でも不正が横行したロシア軍は、海でも陸でも敗れた。ロシアのバルチック艦隊はアフリカを回航した末、対馬海峡で全滅した。この遠隔地での理由なき殺戮に激怒したロシア民衆の革命運動により、皇帝は一九〇五年に戦争終結を余儀なくされた。一八七五年にロシアが奪った樺太の南半分を返還し、満州から撤退し、朝鮮を日本に委ねた。ヨーロッパによるアジア侵略は終わりに近づき、ヨーロッパの触手が縮み始めていた。

第六十四章 一九一四年の大英帝国

ここで、蒸気船と鉄道が一つに結びつけた一九一四年の大英帝国が、いかに多様な構成要素から成っていたかを簡単に見ておこう。それは当時も今も、まったく独特な政治的結合体であり、類例は過去に存在しない。

全体の中心にあったのは、アイルランド人のかなりの部分の意思に反してアイルランドを含む、連合ブリテン王国という「王冠を戴く共和国」だった。イングランドおよびウェールズ、スコットランド、アイルランドの三議会を統合して構成されたイギリス議会の多数派が、内閣の首班、性格、政策を決定する。その判断の大部分はイギリス国内政治上の事情に基づいていた。この内閣こそ、帝国の残りすべてに対して講和権と交戦権を持つ、実質的な最高政府だった。

政治的重要性でイギリス本国に次ぐのは、オーストラリア、カナダ、ニューファンドランド――最古のイギリス領、一五八三年――、ニュージーランド、南アフリカという「王冠を戴く共和国」だった。いずれも事実上独立した自治国家で、イギリスと同盟関係にあったが、それぞれに時のイギリス政府が任命する王室代表が置かれていた。

次いでインド帝国があった。これは大ムガル帝国を拡張したもので、属国と「保護国」を含み、今やバルチスタンからビルマまで広がり、アデンも含んでいた。この帝国全域で、イギリス王室と、議会の統制下にあるインド省は、元来のトルコマン王朝の役割を演じていた。

次いで曖昧な領有地エジプトがあった。名目上はなおトルコ帝国の一部で、ヘディーヴという独自の君主も保持していたが、実際にはほとんど専制的なイギリス官僚の支配下にあった。

その次には、さらに曖昧な「英埃領」スーダンがあり、イギリス政府と、イギリスの支配下にあるエジプト政府が共同で占領・統治していた。

次に、マルタ、ジャマイカ、バハマ、バミューダのような、一部はイギリス系、一部はそうでない半自治的共同体があった。選挙で選ばれる立法府と、任命制の行政府を備えていた。

次いで王室植民地があった。そこでは植民地省を介するイギリス本国政府の支配が、専制に近づいていた。任命制評議会を持つセイロン、トリニダード、フィジー、総督が置かれたジブラルタル、セントヘレナなどである。

ジブラルタル

写真:C・シンクレア

最後に、主として熱帯に広がる広大な土地があった。原料供給地域であり、政治的に弱く文明化の遅れた現地共同体が存在し、名目上は保護領とされた。バストランドのように現地首長を監督する高等弁務官によって統治される場合もあれば、ローデシアのように特許会社によって統治される場合もあった。この最後の、最も不明確な部類に属する領地の獲得には、外務省、植民地省、インド省のいずれかが関与していたが、この時点では大部分について植民地省が責任を負っていた。

したがって、大英帝国を全体として把握した単一の官庁も、単一の頭脳も、一度として存在しなかったことは明白である。それは、かつて帝国と呼ばれたどの存在ともまったく異なる、成長物と蓄積物の混合体だった。広大な地域に平和と安全を保証した。それゆえ「被支配」民族の多くも、官僚の圧政や無能、本国民の甚だしい怠慢にもかかわらず、帝国を受忍し、支えたのである。アテナイ帝国と同じく、それは海外帝国だった。その道は海路であり、共通の絆はイギリス海軍だった。あらゆる帝国と同じく、その結合は物理的に通信手段へ依存していた。十六世紀から十九世紀にかけての航海術、造船、蒸気船の発達が、この平和体制――「パクス・ブリタニカ」――を可能かつ便利なものにした。しかし航空や高速陸上輸送がさらに発達すれば、いつでも不便なものになり得た。

香港の街路

写真:アンダーウッド&アンダーウッド

第六十五章 ヨーロッパ軍備時代と一九一四――一八年の大戦

アメリカという巨大な蒸気船・鉄道共和国を生み出し、不安定なイギリス蒸気船帝国を世界へ広げた物質科学の進歩は、ヨーロッパ大陸にひしめく諸国にはまったく異なる作用を及ぼした。諸国は、人間生活が馬と街道に依存していた時代に定められた国境内へ閉じ込められ、海外への拡張でもイギリスに大きく先を越されていた。東方へ自由に拡張できたのはロシアだけだった。ロシアはシベリア横断鉄道を敷設して日本との紛争に巻き込まれ、南東へはペルシアとインドの国境へ迫り、イギリスを苛立たせた。他のヨーロッパ列強は、ますます過密化していた。人間生活の新装置が持つ可能性を完全に実現するには、何らかの自発的連合、あるいは一つの優勢な大国が強制する連合によって、より広い基盤の上に諸問題を再編しなければならなかった。近代思想の傾向は前者へ向かっていたが、政治的伝統の力はすべて、ヨーロッパを後者へ押しやった。

ナポレオン三世の「帝国」の崩壊と、新生ドイツ帝国の成立は、ドイツ主導で統合されたヨーロッパという観念へ、人々の希望と恐怖を向けた。不安定な平和が続いた三十六年間、ヨーロッパ政治はこの可能性を中心に展開した。カール大帝の帝国分割以来、ヨーロッパの覇権をめぐってドイツと競ってきたフランスは、自国の弱点を補うためロシアと緊密な同盟を結んだ。ドイツはオーストリア帝国――ナポレオン一世の時代に神聖ローマ帝国ではなくなっていた――と密接に結びつき、新生イタリア王国とも、やや不完全ながら同盟した。当初、イギリスはいつものように大陸の問題へ半ば関与し、半ば距離を置いていた。しかしドイツが巨大海軍を攻撃的に建設したため、次第に仏露陣営との緊密な連携へ追い込まれた。皇帝ヴィルヘルム二世(一八八八――一九一八年)の誇大な想像力は、ドイツを時期尚早な海外進出へ駆り立て、最後にはイギリスだけでなく、日本とアメリカまで敵国の輪へ加える結果となった。

メニン街道の戦いにおけるイギリス戦車――戦闘の合間、乗員が新鮮な空気を吸いに出てきたところ

写真:イギリス政府公式写真

すべての国が軍備を増強した。国家生産のうち、大砲、装備、戦艦などの製造へ回される割合は年々増えた。情勢の均衡は毎年のように戦争へ傾きかけ、そのたびに戦争は回避された。そしてついに戦争が始まった。ドイツとオーストリアはフランス、ロシア、セルビアを攻撃した。ドイツ軍がベルギーを通って進軍すると、イギリスはただちにベルギー側で参戦し、同盟国として日本も加わった。ほどなくトルコがドイツ側で参戦した。一九一五年にはイタリアがオーストリアに宣戦し、同年十月にはブルガリアが中央同盟国へ加わった。一九一六年にはルーマニア、一九一七年にはアメリカと中国が、ドイツとの戦争へ引き込まれた。この巨大な破局について、誰にどれほど責任があるかを厳密に定めることは、本書の範囲外である。より興味深いのは、なぜ大戦が始まったかではなく、なぜ予見され、防止されなかったのかという問いである。少数の人間が積極的に戦争を引き起こしたかもしれないことより、何千万人もの人々があまりに「愛国的」で、愚かで、あるいは無関心だったため、率直で寛大なヨーロッパ統一運動によってこの惨事を防げなかったことのほうが、人類にとってはるかに重大である。

イープルの廃墟(かつては美しいフランドルの古都だった)――近代戦争の徹底した破壊力を示す

写真:トピカル

近代戦争の荒廃――前景には鉄条網

写真:フォトプレス

ここで許された紙幅では、戦争の複雑な細部をたどることはできない。数か月のうちに、近代科学技術の進歩が戦争の性質を根本から変えたことが明らかになった。物理科学は力を与える。鋼鉄を支配し、距離を克服し、病気を制する力である。その力が善用されるか悪用されるかは、世界の道徳的・政治的知性にかかっている。憎悪と疑念に満ちた時代遅れの政策に動かされたヨーロッパ諸政府は、破壊と抵抗の双方について、前例のない力を手にしていることに気づいた。戦争は世界の内外を焼き尽くす火となり、争点とは不釣り合いなほど大きな損失を、戦勝国にも敗戦国にも与えた。第一段階では、ドイツ軍がパリへ猛進し、ロシア軍が東プロイセンへ侵攻した。どちらの攻撃も阻止され、押し返された。その後、防御側の力が発達した。塹壕戦は急速に高度化し、一時期、対峙する両軍はヨーロッパを横断する長大な戦線に立てこもり、甚大な損失なしには前進できなくなった。軍隊は数百万の規模に膨れ、その背後では、前線へ食料と弾薬を供給するため全住民が組織された。軍事作戦へ貢献するものを除き、ほぼあらゆる生産活動が停止した。ヨーロッパの働ける男性はすべて陸海軍、あるいはそれらへ奉仕する急造工場へ動員された。産業では、男性から女性への大規模な労働力交代が起きた。ヨーロッパの交戦国では、おそらく国民の半数以上が、この巨大な闘争の間に職業を完全に変えた。社会的に根を抜かれ、別の場所へ移植されたのである。教育と通常の科学研究は制限され、あるいは当面の軍事目的へ転用された。ニュースの伝達は軍の統制と「宣伝」活動によって損なわれ、腐敗した。

軍事的膠着の段階は、食料供給の破壊と空からの攻撃によって、前線後方の交戦国民を攻撃する段階へ徐々に移った。また使用される大砲の口径と射程は着実に増大し、毒ガス弾や、戦車と呼ばれる小型移動要塞のような巧妙な装置も、塹壕内の兵士の抵抗を打ち破るために使われた。新戦法のうち最も革命的だったのは航空攻撃である。戦争を二次元から三次元へ拡張した。人類史上、それまで戦争は軍隊が進み、衝突する場所でしか起きなかった。今や戦争はあらゆる場所で起きるようになった。まずツェッペリン飛行船、次いで爆撃機が前線を越え、背後へ戦争を運び、民間活動を襲う範囲を絶えず広げた。文明的な戦争で維持されてきた民間人と戦闘員の区別は消滅した。食料を生産する者、衣服を縫う者、木を切り倒す者、家屋を修理する者、あらゆる鉄道駅、あらゆる倉庫が、正当な破壊目標と見なされた。航空攻撃の範囲と恐怖は、戦争が続く月ごとに増大した。ついにはヨーロッパの広大な地域が包囲状態となり、毎夜の空襲にさらされた。ロンドンやパリのような無防備な都市は、爆弾が炸裂し、高射砲が耐えがたい轟音を立て、消防車と救急車が暗く無人となった街路を猛烈な速度で走り抜けるなか、眠れぬ夜を幾晩も重ねた。老人や幼い子供の精神と健康に及ぼす影響は、特に痛ましく、破壊的だった。

戦争に付きまとう古くからの疫病は、一九一八年、戦闘の最末期まで現れなかった。四年間、医学は全面的な流行を食い止めた。その後、世界規模のインフルエンザ大流行が起き、数百万人の命を奪った。飢饉もしばらくは防がれた。しかし一九一八年初頭までに、ヨーロッパの大部分は緩和・統制された飢餓状態にあった。農民たちが前線へ徴集されたため、世界の食料生産は大幅に減少した。生産された食料の流通も、潜水艦がもたらした破壊、国境閉鎖による従来の輸送路の断絶、世界輸送網の混乱によって妨げられた。各国政府は減少する食料供給を掌握し、程度の差はあれ、国民への配給に成功した。四年目までには、全世界が食料だけでなく、衣服、住宅、通常の生活用品の大部分の不足に苦しんでいた。商業と経済生活は根底から混乱した。誰もが不安を抱え、大多数の人々が、かつてないほど不自由な生活を送っていた。

実際の戦闘は一九一八年十一月に終わった。同年春、ドイツ軍はパリへ届きかねない最後の大攻勢を行ったが、その後、中央同盟国は崩壊した。士気も資源も尽き果てたのである。

第六十六章 ロシアの革命と飢饉

しかし中央同盟国が崩壊する一年以上前に、ビザンツ帝国の後継を自称していた半東洋的なロシア君主制が崩壊していた。帝政は開戦の何年も前から深刻な腐敗の兆候を示していた。宮廷はラスプーチンという奇怪な宗教詐欺師に支配され、文民・軍事双方の行政は、極度に非効率で腐敗した状態にあった。開戦時のロシアでは、愛国的熱狂が激しく燃え上がった。大規模な徴兵軍が召集されたが、十分な軍備も有能な将校も欠いていた。この補給不足で指揮の悪い大軍が、ドイツとオーストリアの国境へ投げつけられた。

一九一四年九月、ロシア軍が早くも東プロイセンへ出現したことで、パリへ向かうドイツ軍最初の勝利の進撃から、その力と注意がそらされたことに疑いはない。指揮の悪いロシア農民兵数万人の苦痛と死が、この重大な緒戦でフランスを完全な敗北から救い、西ヨーロッパ全体を、この偉大で悲劇的な民族の恩人とした。しかしこの広大で組織の悪い帝国にとって、戦争の重圧は力に余った。ロシアの一般兵は、支援砲もなく、小銃弾すらないまま戦場へ送られた。将校と将軍たちは軍国主義的熱狂に酔い、彼らを浪費した。一時期、兵士たちは獣のように黙って苦しんでいるように見えた。しかしどれほど無知な者にも、忍耐の限界はある。裏切られ、使い捨てにされた兵士たちの間に、帝政への深い嫌悪が広がっていった。一九一五年末以降、ロシアは西側連合国にとって深まる不安の源となった。一九一六年を通じてほぼ防御に回り、ドイツとの単独講和の噂も流れた。

一九一六年十二月二十九日、修道僧ラスプーチンがペトログラードの晩餐会で殺害され、手遅れながら帝政を立て直す試みがなされた。三月までに情勢は急速に動いた。ペトログラードの食料暴動は革命的蜂起へ発展した。代議機関ドゥーマの弾圧、自由主義指導者たちの逮捕が試みられた。リヴォフ公を首班とする臨時政府が成立し、皇帝は三月十五日に退位した。一時は、穏健で統制された革命が可能に見えた。おそらく新皇帝の下での革命である。しかしロシアでは、民衆の信頼がすでに破壊されすぎており、そのような調整は不可能だと明らかになった。ロシア国民は、皇帝、戦争、列強というヨーロッパの旧秩序に心底うんざりしていた。耐えがたい苦難から、一刻も早く解放されることを望んでいた。連合国はロシアの現実を理解していなかった。外交官たちはロシア語も知らず、ロシアそのものより宮廷へ関心を向ける上流人士で、新情勢への対応を一貫して誤った。彼らは共和主義にほとんど好意を持たず、新政府をできるかぎり困らせようとする姿勢を露骨に示した。ロシア共和国政府を率いたのは、雄弁で華のある指導者ケレンスキーだった。しかし国内では、より徹底した革命運動である「社会革命」の勢力から攻撃され、国外では連合国政府から冷遇された。同盟国は、ロシア農民が切望する土地を与えることも、国境の外に平和をもたらすことも許さなかった。フランスとイギリスの報道機関は、疲れ果てた同盟国へ新たな攻勢をしつこく要求した。ところがほどなく、ドイツ軍が海陸からリガを激しく攻撃すると、イギリス海軍本部は救援のためバルト海へ遠征する展望にひるんだ。新生ロシア共和国は支援なしで戦わなければならなかった。海軍力で優勢にあり、イギリスの偉大な提督フィッシャー卿(一八四一――一九二〇年)が激しく抗議したにもかかわらず、イギリスと連合国は、少数の潜水艦攻撃を除き、戦争中を通じてドイツにバルト海の完全な制海権を委ねたことは記憶されるべきである。

しかしロシア民衆は、どんな犠牲を払ってでも戦争を終わらせる決意を固めていた。ペトログラードには、労働者と一般兵士を代表する機関であるソヴィエトが成立し、ストックホルムでの社会主義者国際会議を要求した。当時ベルリンでは食料暴動が起き、オーストリアとドイツでも戦争疲れが深刻だった。その後の出来事に照らせば、この会議が開かれていれば、一九一七年に民主的原則に基づく合理的な講和とドイツ革命を誘発した可能性がきわめて高い。ケレンスキーは西側同盟国に会議開催の容認を懇願した。しかし世界規模で社会主義と共和主義が爆発することを恐れた連合国は、イギリス労働党のわずかな多数が賛成したにもかかわらず拒否した。同盟国から道義的にも物質的にも援助されないまま、不幸な「穏健派」のロシア共和国はなお戦い続け、七月には最後の絶望的な攻勢を試みた。初めは多少の成功を収めたが、結局は失敗し、ロシア人が再び大量に殺戮された。

ロシアの忍耐は限界に達した。ロシア軍、とりわけ北部戦線で反乱が相次いだ。一九一七年十一月七日、ケレンスキー政府は倒され、レーニン率いるボリシェヴィキ社会主義者が主導するソヴィエトが権力を握った。彼らは西側列強の意向を顧みず講和することを約束していた。一九一八年三月二日、ロシアとドイツの単独講和がブレスト=リトフスクで調印された。

ボリシェヴィキ支配下のペテルブルク――薪にするため木造家屋が取り壊されている

ホダー&ストートン社の厚意による

このボリシェヴィキ社会主義者たちが、ケレンスキー時代の雄弁な立憲主義者や革命家とはまるで異なる性質の人間であることは、すぐに明らかになった。彼らは狂信的なマルクス主義共産主義者だった。ロシアでの権力掌握は世界的社会革命の幕開けにすぎないと信じ、絶対的な信念と完全な未経験者ならではの徹底ぶりで、社会・経済秩序の変革に取りかかった。西ヨーロッパとアメリカの諸政府は無知で無能すぎて、この異例の実験を導くことも助けることもできなかった。報道機関は新政権の信用を失墜させようとし、支配階級は自らとロシアにどれほどの犠牲が出ようとも、この簒奪者たちを破滅させようとした。忌まわしく不快な捏造による宣伝が、世界の報道機関で野放しに行われた。ボリシェヴィキの指導者は、血と略奪品を貪り、放蕩生活を送る信じがたい怪物として描かれた。それに比べれば、ラスプーチン時代のロシア宮廷の実情さえ、純白に見えるほどだった。疲弊しきった国へ遠征軍が送り込まれ、反乱者や襲撃者が奨励され、武器と資金を与えられた。怯えたボリシェヴィキ政権の敵にとって、卑劣すぎる攻撃手段も、残虐すぎる手段もなかった。一九一九年、五年にわたる激しい戦争ですでに疲弊・混乱した国を治めるロシアのボリシェヴィキは、アルハンゲリスクのイギリス遠征軍、東シベリアの日本軍、南部のフランス・ギリシア部隊を伴うルーマニア軍、シベリアのロシア人コルチャーク提督、フランス艦隊の支援を受けたクリミアのデニーキン将軍と戦っていた。同年七月、ユデーニチ将軍率いるエストニア軍は、ペテルブルクへあと一歩のところまで迫った。一九二〇年にはフランスに扇動されたポーランドがロシアを攻撃した。新たな反動的襲撃者ウランゲリ将軍がデニーキン将軍の任務を引き継ぎ、自国への侵攻と破壊を続けた。一九二一年三月にはクロンシュタットの水兵が反乱した。レーニンを首班とするロシア政府は、これらさまざまな攻撃をすべて生き延びた。驚くべき粘り強さを示し、ロシアの民衆も極度の困窮に耐えて、揺るがず政府を支えた。一九二一年末までに、イギリスとイタリアは共産主義政権を一種の形で承認していた。

しかしボリシェヴィキ政府は、外国の干渉と国内反乱との戦いには成功したものの、共産主義思想に基づく新たな社会秩序をロシアに築く試みでは、はるかに不首尾だった。ロシア農民は土地を渇望する小所有者であり、思想と行動様式の両面で、鯨が空を飛ぶことから遠いのと同じほど共産主義から隔たっていた。革命は大地主の土地を農民へ与えたが、換金可能な通貨以外のものと引き換えに食料を生産させることはできなかった。しかも革命は、とりわけ通貨の価値を事実上破壊していた。戦争の負担による鉄道の崩壊ですでに大きく乱れていた農業生産は、農民が自家消費用の食料を栽培するだけの状態まで縮小した。都市は飢えた。共産主義思想に従って工業生産を作り変えようとする性急で無計画な試みも、同じように失敗した。一九二〇年までにロシアは、近代文明が完全に崩壊するという前例のない光景を呈していた。鉄道は錆びて使われなくなり、都市は廃墟と化し、至る所で膨大な死者が出た。それでも国は、国境に迫る敵と戦い続けた。一九二一年には干ばつが起き、戦争で荒廃した南東部諸州の農民を大飢饉が襲った。数百万人が餓死した。

しかしロシアの苦難と再建の可能性という問題は、現在進行中の論争にあまりに近いため、ここで論じることはできない。

第六十七章 世界の政治的・社会的再建

本書の構想と規模では、第一次世界大戦を終結させた諸条約、とりわけヴェルサイユ条約をめぐる複雑で険悪な論争に立ち入る余裕はない。あれほど凄惨かつ巨大だったにもかかわらず、あの戦争は何一つ終わらせず、何一つ始めず、何一つ解決しなかった――今や私たちは、そのことに気づきつつある。戦争は幾百万もの命を奪い、世界を浪費し、貧困に陥れた。ロシアを完全に打ち砕いた。せいぜいそれは、危険で人間に無関心な宇宙のなかで、私たちがろくな計画も先見の明もなく、愚かしく混乱した生を営んでいることを、鋭く恐ろしい形で思い知らせたにすぎない。人類をあの悲劇へと追いやった、粗雑に組織された国家的・帝国的貪欲の利己心と激情は、ほとんど傷つかぬまま戦争をくぐり抜けた。そのため、世界が戦争による消耗と疲弊からいくらか立ち直れば、同じような災厄が再び起こる可能性はきわめて高い。戦争も革命も何一つ生み出さない。人類に対してなしうる最大の貢献は、ひどく粗暴で苦痛に満ちた方法によって、時代遅れで進歩を妨げるものを破壊することだけである。大戦はヨーロッパからドイツ帝国主義の脅威を取り除き、ロシア帝国主義を粉砕した。いくつもの君主制を一掃した。しかしヨーロッパには依然として無数の国旗が翻り、国境はなお人々の感情を逆撫でし、大軍は新たな装備を蓄積し続けている。

ヴェルサイユ講和会議は、戦争における対立と敗北を論理的な帰結まで押し進める以上の仕事には、まことに不向きな集まりだった。ドイツ人、オーストリア人、トルコ人、ブルガリア人には審議に加わることが許されず、ただ一方的に下された決定を受け入れることだけが求められた。人類の幸福という観点からすれば、会議場所の選定もことのほか不幸だった。新生ドイツ帝国が勝利者の俗悪さをこれでもかと誇示して宣言されたのは、ほかならぬ一八七一年のヴェルサイユだったからである。同じ鏡の間で、その光景を芝居がかった形で逆転させたいという誘惑は、抗しがたいものだった。

大戦初期に見られた寛容の精神は、とうに尽き果てていた。戦勝国の国民は、自分たちの損失と苦難を痛切に意識する一方、敗戦国も同じ代償を払ったという事実にはまったく頓着しなかった。この戦争は、ヨーロッパ諸国の競争的ナショナリズムと、それらの競争力を調整する連邦的機構の欠如から、自然かつ不可避に生じたものだった。狭すぎる地域に強大すぎる軍備を抱えて共存する、独立した主権国家群が行き着く必然的・論理的な結末こそ戦争なのである。大戦が実際の形で起きなかったとしても、似たような形で起きたはずだ。そして政治的統合によって先回りし、阻止しないかぎり、二十年後か三十年後には、さらに壊滅的な規模で必ず再来するだろう。戦争のために組織された国家が戦争を起こすのは、雌鶏が卵を産むのと同じほど確実である。しかし苦しみ、戦争に疲れ果てた諸国の感情はこの事実を無視し、すべての敗戦国民に対して、あらゆる損害の道義的・物質的責任を負わせた。戦争の結果が逆であれば、敗者となった側も、勝者となった国民を同じように扱ったに違いない。フランス人とイギリス人はドイツ人が悪いと考え、ドイツ人はロシア人、フランス人、イギリス人が悪いと考えた。ヨーロッパの分裂した政治構造そのものに責任があると考えたのは、知性ある少数者だけだった。ヴェルサイユ条約は、見せしめと報復を意図したものだった。敗者に途方もない罰を科し、すでに破産している諸国に巨額の債務を負わせることで、傷つき苦しんだ戦勝国に補償を与えようとした。そして戦争防止を掲げる国際連盟を設立し、国際関係を再構築しようとした試みも、明らかに不誠実かつ不十分なものだった。

ノースホルト上空を飛行する旅客機

(セントラル・エアロフォト社の別の飛行機から撮影)

ヨーロッパだけに任せていたなら、恒久平和を目指して国際関係を組織しようとする試みなど、そもそも一切なされなかったのではないかと思われる。国際連盟構想を現実政治の舞台に持ち込んだのは、アメリカ合衆国大統領ウィルソンだった。最大の支持基盤もアメリカにあった。この新しい近代国家アメリカは、それまで、新世界をヨーロッパの干渉から守るモンロー主義を除けば、国際関係について独自の理念を何一つ育んでこなかった。ところが今、時代の巨大な難問に対し、突如として知的貢献を求められたのである。しかし、アメリカには何の備えもなかった。アメリカ国民は本来、恒久的な世界平和を望んでいた。だがそれと同時に、旧世界の政治に対する根強い不信と、旧世界の紛争から距離を置く伝統的習慣も抱えていた。アメリカ人が世界問題に対する独自の解決策を考え始めたばかりのころ、ドイツの潜水艦作戦によって、反ドイツ同盟側として戦争に引きずり込まれた。ウィルソン大統領の国際連盟構想は、いかにもアメリカ的な世界計画を急ごしらえしようとする試みだった。それは粗雑で、不十分で、危険な構想だった。しかしヨーロッパでは、成熟したアメリカの見解として受け止められた。一九一八年から一九年にかけて、一般の人々は戦争に疲れ果て、ほとんどいかなる犠牲を払ってでも、その再発を防ぐ障壁を築きたいと切望していた。しかし旧世界の政府のなかに、その目的のため主権的独立をほんのわずかでも放棄しようとするものは一つもなかった。世界的な国際連盟構想へと至るウィルソン大統領の公的発言は、一時、各国政府の頭越しに世界の人々へ直接訴えかけるかに見えた。それはアメリカの熟慮された意思を表すものと受け取られ、巨大な反響を呼んだ。不幸にも、ウィルソン大統領が交渉しなければならなかった相手は民衆ではなく政府だった。彼は時として驚異的な洞察を閃かせる人物だったが、いざ実行を迫られると自己中心的で視野が狭かった。彼が呼び起こした熱狂の大波は、やがて過ぎ去り、むなしく消えた。

ディロン博士は著書『講和会議』で次のように述べている。「大統領がヨーロッパの岸辺に降り立ったとき、ヨーロッパは創造者たる陶工を待つ粘土のようだった。戦争が禁じられ、封鎖も存在しない、長く約束されてきた地へと導いてくれるモーセに、諸国民がこれほど熱烈に従おうとしたことはかつてなかった。そして人々の目には、大統領こそ、その偉大な指導者と映った。フランスでは、人々は畏敬と愛情をもって彼の前に頭を垂れた。パリの労働運動指導者たちは、彼を前にして喜びの涙を流したと私に語った。仲間たちは彼の崇高な構想の実現を助けるためなら、火の中、水の中も辞さないだろう、と。イタリアの労働者階級にとって、その名は、ひとたび鳴り響けば大地を一新する天上の喇叭だった。ドイツ人は、彼とその教義を、自分たちの安全を守る最後の頼みの綱と見なした。恐れを知らぬミューロン氏はこう語った。『ウィルソン大統領がドイツ人に呼びかけ、厳しい判決を下したとしても、彼らは諦念をもって一言の不平も漏らさず受け入れ、ただちに働き始めるだろう』。ドイツ領オーストリアでは、彼は救世主として名を馳せ、その名を口にするだけで、苦しむ者には癒やしが、悲嘆に暮れる者には安らぎがもたらされた……」

ウィルソン大統領が呼び起こした期待は、それほど圧倒的なものだった。その期待を彼がいかに徹底して裏切ったか、また彼が作り上げた国際連盟がいかに弱体で無力なものだったかを語るには、あまりに話が長く、あまりに痛ましい。彼は、私たち人間すべてに共通する悲劇を、その一身に極端な形で体現した。夢においてはあれほど偉大でありながら、実行においてはあまりに無能だったのである。アメリカは自国大統領の行為に同意せず、ヨーロッパが彼から受け入れた国際連盟への加盟を拒んだ。アメリカ国民は、自分たちが何の準備もない事態へ性急に巻き込まれたのだと、徐々に悟っていった。これに呼応してヨーロッパも、窮地にある旧世界へ差し出せるものを、アメリカが何一つ用意していなかったことに気づいた。早産で生まれ、誕生時から不具となった国際連盟は、精緻ではあるが非現実的な規約と、明白な権限上の限界ゆえに、国際関係を実効的に再編するうえで重大な障害となってしまった。国際連盟がまだ存在していなければ、問題はかえって明瞭だっただろう。それでも、この構想を最初に迎えた世界的な熱狂の炎、地球上のあらゆる場所の人々――すなわち政府とは区別された一人ひとりの人間――が、戦争を世界的に統制することへ示した積極的な意思は、いかなる歴史書にも強調して記録されるべき事実である。人類の営みを分断し、誤って管理する近視眼的な政府の背後では、世界の統一と秩序を求める真の力が存在し、成長している。

一九一八年以降、世界は会議の時代に入った。そのなかで最も成功し、最も示唆に富んだのは、ハーディング大統領が招集したワシントン会議(一九二一年)である。ジェノヴァ会議(一九二二年)も、ドイツとロシアの代表が審議に参加した点で注目に値する。こうした延々と続く会議と試行錯誤の列を、ここで詳しく論じることはしない。大戦のような激変と世界的大虐殺が、次第に勢いを増しながら繰り返されるのを避けるには、人類が巨大な再建事業に取り組まねばならない――そのことは、ますます明白になっている。国際連盟のような性急な即席の仕組みも、あたかもすべてを解決したように装いながら何一つ変えない、あちらの国家群とこちらの国家群との間の継ぎはぎだらけの会議制度も、私たちの前に広がる新時代の複雑な政治的要請には応えられない。人間関係の科学、個人心理学と集団心理学、金融・経済科学、教育学――いずれもなお幼年期にある科学――を体系的に発展させ、体系的に応用することが必要である。狭隘で時代遅れの、すでに死んだ、あるいは死につつある道徳的・政治的観念を捨て、人類共通の起源と運命について、より明快で簡潔な理解へと置き換えねばならない。

イングランドの静かな庭園 人類に英知さえあれば、誰もがこのような庭園で暮らせるだろう

今日、人間に押し寄せる危険、混乱、災厄が、過去のいかなる経験をも超えて巨大なのは、科学が人間にかつてない力を与えたからである。そして、恐れを知らぬ思考、余すところのない明晰な記述、徹底した批判を経る計画立案という科学的方法――今なお制御しきれないこれらの力を人間にもたらした方法――は、同時に、それらを制御できるという希望をも与えている。人間はまだ青年期にあるにすぎない。その苦悩は老衰と消耗から生じるのではなく、増大しながら、なお規律を知らぬ力から生じている。本書でしてきたように、全歴史を一つの過程として眺め、生命が洞察と支配を目指して着実に上昇してきた歩みを見るならば、現代の希望と危険を真の尺度で捉えられる。私たちはまだ、人類の偉大さが明け初める、その最初の曙にさえほとんど達していない。しかし花や夕焼けの美しさ、若い動物たちの幸福で完璧な身のこなし、千差万別の風景がもたらす喜びのうちに、生命が私たちのために何をなしうるか、その予兆を見ることができる。また、造形芸術や絵画芸術のいくつかの作品、偉大な音楽、わずかながら存在する気高い建築物や心地よい庭園のうちに、人間の意思が物質的可能性を用いて何をなしうるか、その予兆を見ることができる。私たちには夢がある。今はまだ規律を欠いているとはいえ、絶えず増大する力がある。ならば、私たちの種族がやがて最も大胆な想像すら超えて実現し、統一と平和を達成することを、どうして疑えよう。私たちの血と生命を受け継ぐ子供たちが、私たちの知るどの宮殿、どの庭園よりも壮麗で美しい世界に生き、冒険と達成の輪を限りなく広げながら、力からさらなる力へと進んでいくことを、どうして疑えよう。人間がこれまでになしたこと、現在の段階におけるささやかな勝利、そして本書で語ってきたこの全歴史は、人間がこれからなすべきことへの序曲にすぎない。

年表

紀元前一〇〇〇年ごろ、アーリア諸民族はスペイン、イタリア、バルカンの各半島に定着しつつあり、北インドにはすでに定着していた。クノッソスはすでに滅び、トトメス三世、アメンホテプ三世、ラムセス二世が治めたエジプトの雄大な時代は、三、四世紀前のものとなっていた。ナイル川流域では、第二十一王朝の弱体な君主たちが支配していた。イスラエルは初期の王たちのもとで統一され、サウル、ダビデ、あるいはソロモンさえ統治していたかもしれない。アッカド=シュメール帝国のサルゴン一世(紀元前二七五〇年)は、バビロニア史における遠い記憶となっていた。今日の世界から見たコンスタンティヌス大帝より、さらに遠い過去の人物だった。ハンムラビの死からは一千年が過ぎていた。アッシリア人はすでに、軍事力で劣るバビロニア人を圧倒していた。紀元前一一〇〇年、ティグラト・ピレセル一世はバビロンを占領した。しかし恒久的な征服には至らず、アッシリアとバビロニアはなお別個の帝国だった。中国では、新たな周王朝が栄えていた。イングランドのストーンヘンジは、すでに数百年を経ていた。

続く二世紀には、第二十二王朝のもとでのエジプト復興、ソロモンの短命なヘブライ王国の分裂、バルカン半島・南イタリア・小アジアへのギリシア人の拡大、中央イタリアにおけるエトルリア人優勢の時代が見られた。確認可能な年代の一覧を、以下から始める。

紀元前
800年 カルタゴ建設。
790年 エチオピアがエジプトを征服(第二十五王朝を創始)。
776年 第一回オリンピア祭。
753年 ローマ建設。
745年 ティグラト・ピレセル三世がバビロニアを征服し、新アッシリア帝国を建国。
722年 サルゴン二世がアッシリア軍に鉄製武器を装備。
721年 サルゴン二世がイスラエル人を強制移住させる。
680年 エサルハドンがエジプトのテーベを占領(エチオピア系第二十五王朝を打倒)。
664年 プサメティコス一世がエジプトの独立を回復し、第二十六王朝を創始(前610年まで)。
608年 エジプト王ネコがメギドの戦いでユダ王ヨシヤを破る。
606年 カルデア人とメディア人がニネヴェを占領。
カルデア帝国成立。
604年 ネコがユーフラテス川まで進出するが、ネブカドネザル二世に敗れる。
(ネブカドネザルがユダヤ人をバビロンへ連行。)
550年 ペルシア人キュロスがメディア人キュアクサレスの後継者となる。
キュロスがクロイソスを征服。
ブッダはこのころ生きた。
孔子と老子も同時代。
539年 キュロスがバビロンを占領し、ペルシア帝国を建国。
521年 ヒュスタスペスの子ダレイオス一世が、ヘレスポントスからインダス川までを支配。
スキタイ遠征。
490年 マラトンの戦い。
480年 テルモピュライおよびサラミスの戦い。
479年 プラタイアおよびミュカレの戦いにより、ペルシア軍の撃退が完了。
474年 シチリアのギリシア人がエトルリア艦隊を撃破。
431年 ペロポネソス戦争始まる(前404年まで)。
401年 一万人隊の退却。
359年 フィリッポスがマケドニア王となる。
338年 カイロネイアの戦い。
336年 マケドニア軍がアジアへ渡る。フィリッポス暗殺。
334年 グラニコス川の戦い。
333年 イッソスの戦い。
331年 アルベラの戦い。
330年 ダレイオス三世殺害。
323年 アレクサンドロス大王死去。
321年 パンジャーブでチャンドラグプタが台頭。
ローマ軍がカウディウムの隘路の戦いでサムニウム人に完敗。
281年 ピュロスがイタリアへ侵攻。
280年 ヘラクレアの戦い。
279年 アスクルムの戦い。
278年 ガリア人が小アジアへ侵入し、ガラティアに定住。
275年 ピュロスがイタリアを去る。
264年 第一次ポエニ戦争。(アショーカ王がビハールで統治を開始――前227年まで。)
260年 ミュライの戦い。
256年 エクノモス岬の戦い。
246年 始皇帝が秦王となる。
220年 始皇帝が中国皇帝となる。
214年 万里の長城の建設始まる。
210年 始皇帝死去。
202年 ザマの戦い。
146年 カルタゴ滅亡。
133年 アッタロスがペルガモンをローマに遺贈。
102年 マリウスがゲルマン人を撃退。
100年 マリウスの凱旋。(中国がタリム盆地を征服中。)
89年 全イタリア人がローマ市民となる。
73年 スパルタクス率いる奴隷反乱。
71年 スパルタクス敗北、反乱終結。
66年 ポンペイウスがローマ軍をカスピ海とユーフラテス川まで率い、アラン人と遭遇。
48年 ユリウス・カエサルがファルサロスでポンペイウスを破る。
44年 ユリウス・カエサル暗殺。
27年 アウグストゥス・カエサルがプリンケプスとなる(紀元後14年まで)。
4年 ナザレのイエスの実際の誕生年。
紀元後 西暦紀元始まる。
14年 アウグストゥス死去。ティベリウス即位。
30年 ナザレのイエス、磔刑に処される。
41年 カリグラ殺害後、クラウディウス(軍団が擁立した最初の皇帝)が近衛兵によって皇帝に擁立される。
68年 ネロ自殺。(ガルバ、オト、ウィテリウスが相次いで皇帝となる。)
69年 ウェスパシアヌス即位。
102年 班超、カスピ海に達する。
117年 ハドリアヌスがトラヤヌスの後を継ぐ。ローマ帝国最大版図。
138年 (このころインド・スキタイ人が、インドに残るギリシア支配の最後の痕跡を一掃。)
161年 マルクス・アウレリウスがアントニヌス・ピウスの後を継ぐ。
164年 大疫病が始まり、マルクス・アウレリウスの死(180年)まで続く。アジア全域も荒廃。
(ローマ帝国で一世紀近くにわたる戦争と混乱が始まる。)
220年 漢王朝滅亡。中国で四百年に及ぶ分裂時代が始まる。
227年 アルダシール一世(ササン朝初代シャー)が、ペルシアのアルサケス朝を滅ぼす。
242年 マニが布教を開始。
247年 ゴート人が大規模な襲撃でドナウ川を渡る。
251年 ゴート人が大勝。皇帝デキウス戦死。
260年 ササン朝第二代シャー、シャープール一世がアンティオキアを占領し、皇帝ウァレリアヌスを捕虜とするが、小アジアからの帰途、パルミラのオダエナトゥスに軍を壊滅させられる。
277年 マニ、ペルシアで磔刑に処される。
284年 ディオクレティアヌス即位。
303年 ディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害。
311年 ガレリウスがキリスト教徒迫害を中止。
312年 コンスタンティヌス大帝即位。
323年 コンスタンティヌスがニカイア公会議を主宰。
337年 コンスタンティヌス、死の床で洗礼を受ける。
361-363年 背教者ユリアヌスがキリスト教をミトラ教に置き換えようとする。
392年 テオドシウス大帝が東西両帝国の皇帝となる。
395年 テオドシウス大帝死去。ホノリウスとアルカディウスが帝国を再分割し、スティリコとアラリックがそれぞれの実権者・保護者となる。
410年 アラリック率いる西ゴート人がローマを占領。
425年 ヴァンダル人がスペイン南部に定住。フン人はパンノニア、ゴート人はダルマチアに進出。西ゴート人とスエビ人はポルトガルとスペイン北部に定住。イングランド人がブリテンへ侵入。
439年 ヴァンダル人がカルタゴを占領。
451年 アッティラがガリアを襲撃し、トロワでフランク人、アレマン人、ローマ人に敗れる。
453年 アッティラ死去。
455年 ヴァンダル人がローマを略奪。
470年 諸ゲルマン部族の混成集団を率いる王オドアケルが、コンスタンティノープルに「西方には皇帝がいない」と通告。西ローマ帝国終焉。
493年 東ゴート人テオドリックがイタリアを征服して王となるが、名目上はコンスタンティノープルに従属。(イタリアのゴート王国。ゴート人は守備隊として、没収された特別領地に定住。)
527年 ユスティニアヌス即位。
529年 ユスティニアヌスが、千年近く栄えたアテネの学園を閉鎖。ベリサリウス(ユスティニアヌスの将軍)がナポリを占領。
531年 ホスロー一世即位。
543年 コンスタンティノープルで大疫病。
553年 ユスティニアヌスがゴート人をイタリアから追放。ユスティニアヌス死去。ランゴバルド人が北イタリアの大半を征服(ラヴェンナとローマは東ローマ領として残る)。
570年 ムハンマド誕生。
579年 ホスロー一世死去。
(ランゴバルド人がイタリアで優勢。)
590年 ローマで疫病流行。ホスロー二世即位。
610年 ヘラクレイオス即位。
619年 ホスロー二世がエジプト、エルサレム、ダマスカスを領有し、ヘレスポントスにも軍を置く。中国で唐王朝始まる。
622年 ヒジュラ[訳注:ムハンマドのメッカからメディナへの聖遷]。
627年 ヘラクレイオスがニネヴェでペルシア軍を大破。太宗が中国皇帝となる。
628年 カワード二世が父ホスロー二世を殺害し、その後を継ぐ。
ムハンマドが世界のすべての支配者に書簡を送る。
629年 ムハンマドがメッカへ帰還。
632年 ムハンマド死去。アブー・バクルがカリフとなる。
634年 ヤルムークの戦い。イスラム教徒がシリアを占領。ウマルが第二代カリフとなる。
635年 太宗がネストリウス派宣教師を迎える。
637年 カーディシーヤの戦い。
638年 エルサレムがカリフ・ウマルに降伏。
642年 ヘラクレイオス死去。
643年 ウスマーンが第三代カリフとなる。
655年 東ローマ艦隊がイスラム軍に敗北。
668年 カリフ・ムアーウィヤが海路コンスタンティノープルを攻撃。
687年 宮宰ピピン二世がアウストラシアとネウストリアを再統一。
711年 イスラム軍がアフリカからスペインへ侵攻。
715年 カリフ・ワリード一世の領土が、ピレネー山脈から中国まで広がる。
717-718年 ワリードの子で後継者のスライマーン、コンスタンティノープル攻略に失敗。
732年 カール・マルテルがポワティエ近郊でイスラム軍を破る。
751年 ピピンがフランク王として戴冠。
768年 ピピン死去。
771年 カール大帝が単独の王となる。
774年 カール大帝がランゴバルド王国を征服。
786年 ハールーン・アッ=ラシードがバグダードのアッバース朝カリフとなる(809年まで)。
795年 レオ三世が教皇となる(816年まで)。
800年 レオ三世がカール大帝を西ローマ皇帝として戴冠。
802年 かつてカール大帝の宮廷へ亡命していたイングランド人エグバートが、ウェセックス王となる。
810年 ブルガリアのクルムが皇帝ニケフォロスを破り、戦死させる。
814年 カール大帝死去。
828年 エグバートが初代イングランド王となる。
843年 ルートヴィヒ敬虔王が死去し、カロリング帝国が崩壊。九六二年まで神聖ローマ皇帝の正規の継承はなく、称号だけが断続的に現れる。
850年 このころ、北方人リューリクがノヴゴロドとキエフの支配者となる。
852年 ボリスがブルガリア最初のキリスト教徒の王となる(884年まで)。
865年 ルーシ人(北方人)の艦隊がコンスタンティノープルを脅かす。
904年 ルーシ人(北方人)の艦隊がコンスタンティノープル沖に出現。
912年 歩行公ロロがノルマンディーに地歩を築く。
919年 ハインリヒ捕鳥王がドイツ王に選出される。
936年 オットー一世が父ハインリヒ捕鳥王の後を継ぎ、ドイツ王となる。
941年 ルーシ艦隊が再びコンスタンティノープルを脅かす。
962年 ドイツ王オットー一世が、ヨハネス十二世によって皇帝(初代ザクセン朝皇帝)として戴冠。
987年 ユーグ・カペーがフランス王となる。フランスのカロリング朝断絶。
1016年 クヌートがイングランド、デンマーク、ノルウェーの王となる。
1043年 ルーシ艦隊がコンスタンティノープルを脅かす。
1066年 ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服。
1071年 セルジューク・トルコのもとでイスラム勢力が復興。マンジケルトの戦い。
1073年 ヒルデブラントが教皇グレゴリウス七世となる(1085年まで)。
1084年 ノルマン人ロベルト・グイスカルドがローマを略奪。
1087-1099年 ウルバヌス二世、教皇。
1095年 ウルバヌス二世がクレルモンで第一回十字軍を呼びかける。
1096年 民衆十字軍が虐殺される。
1099年 ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムを占領。
1147年 第二回十字軍。
1169年 サラディンがエジプトのスルタンとなる。
1176年 フリードリヒ・バルバロッサがヴェネツィアで教皇アレクサンデル三世の優位を承認。
1187年 サラディンがエルサレムを占領。
1189年 第三回十字軍。
1198年 インノケンティウス三世が教皇となる(1216年まで)。シチリア王フリードリヒ二世(四歳)がその被後見人となる。
1202年 第四回十字軍が東ローマ帝国を攻撃。
1204年 ラテン人がコンスタンティノープルを占領。
1214年 チンギス・ハンが北京を占領。
1226年 アッシジの聖フランチェスコ死去。(フランシスコ会。)
1227年 チンギス・ハン死去。カスピ海から太平洋までを支配したハンの後を、オゴデイ・ハンが継ぐ。
1228年 フリードリヒ二世が第六回十字軍に出発し、エルサレムを獲得。
1240年 モンゴル軍がキエフを破壊。ロシアはモンゴルに朝貢。
1241年 モンゴル軍がシレジアのリーグニッツで勝利。
1250年 ホーエンシュタウフェン朝最後の皇帝フリードリヒ二世死去。ドイツは一二七三年まで大空位時代。
1251年 モンケ・ハンが大ハンとなる。フビライ・ハンが中国総督となる。
1258年 フレグ・ハンがバグダードを占領し、破壊。
1260年 フビライ・ハンが大ハンとなる。
1261年 ギリシア人がラテン人からコンスタンティノープルを奪回。
1273年 ハプスブルク家のルドルフが皇帝に選出。スイス人が永久同盟を結成。
1280年 フビライ・ハンが中国に元王朝を創始。
1292年 フビライ・ハン死去。
1293年 実験科学の先駆者ロジャー・ベーコン死去。
1348年 大疫病、黒死病。
1360年 中国でモンゴル系の元王朝が倒れ、明王朝が成立(1644年まで)。
1377年 教皇グレゴリウス十一世がローマへ帰還。
1378年 教会大分裂。ローマにウルバヌス六世、アヴィニョンにクレメンス七世。
1398年 フスがプラハでウィクリフ主義を説く。
1414-1418年 コンスタンツ公会議。
フス、火刑(1415年)。
1417年 教会大分裂終結。
1453年 ムハンマド二世率いるオスマン・トルコがコンスタンティノープルを占領。
1480年 モスクワ大公イヴァン三世がモンゴルへの臣従を脱する。
1481年 スルタン・ムハンマド二世、イタリア征服の準備中に死去。
1486年 ディアスが喜望峰を回航。
1492年 コロンブスが大西洋を横断し、アメリカへ到達。
1498年 マクシミリアン一世が皇帝となる。
1498年 ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドへ航海。
1499年 スイスが独立共和国となる。
1500年 カール五世誕生。
1509年 ヘンリー八世がイングランド王となる。
1513年 レオ十世が教皇となる。
1515年 フランソワ一世がフランス王となる。
1520年 バグダードからハンガリーまでを支配したスレイマン大帝がスルタンとなる(1566年まで)。カール五世が皇帝となる。
1525年 バーブルがパーニーパットの戦いに勝利し、デリーを占領してムガル帝国を建国。
1527年 ブルボン大元帥麾下のドイツ軍が、イタリアでローマを占領・略奪。
1529年 スレイマンがウィーンを包囲。
1530年 カール五世が教皇から戴冠される。
ヘンリー八世が教皇庁との対立を始める。
1539年 イエズス会創設。
1546年 マルティン・ルター死去。
1547年 イヴァン四世(雷帝)がロシアのツァーリを称する。
1556年 カール五世退位。アクバルがムガル皇帝となる(1605年まで)。イグナチオ・デ・ロヨラ死去。
1558年 カール五世死去。
1566年 スレイマン大帝死去。
1603年 ジェームズ一世がイングランドおよびスコットランド王となる。
1620年 メイフラワー号遠征隊がニュープリマスを建設。最初の黒人奴隷がジェームズタウン(ヴァージニア)に上陸。
1625年 チャールズ一世がイングランド王となる。
1626年 フランシス・ベーコン卿(ヴェルラム男爵)死去。
1643年 ルイ十四世、七十二年間に及ぶ治世を開始。
1644年 満洲人が明王朝を滅ぼす。
1648年 ウェストファリア条約。これによりオランダとスイスは自由共和国として承認され、プロイセンが重要性を増す。条約は皇帝権にも諸侯にも完全な勝利を与えなかった。
フロンドの乱。フランス王権の完全な勝利に終わる。
1649年 イングランド王チャールズ一世処刑。
1658年 アウラングゼーブがムガル皇帝となる。クロムウェル死去。
1660年 チャールズ二世がイングランド王となる。
1674年 条約によりニューアムステルダムが最終的にイギリス領となり、ニューヨークと改称。
1683年 ポーランド王ヤン三世が、最後のトルコ軍によるウィーン攻撃を撃退。
1689年 ロシアのピョートル大帝。(1725年まで。)
1701年 フリードリヒ一世が初代プロイセン王となる。
1707年 アウラングゼーブ死去。ムガル帝国が崩壊。
1713年 プロイセンのフリードリヒ大王誕生。
1715年 ルイ十五世がフランス王となる。
1755-1763年 イギリスとフランスがアメリカとインドをめぐって争う。フランスはオーストリア、ロシアと同盟し、プロイセン、イギリスと戦う(1756~1763年)。七年戦争。
1759年 イギリスの将軍ウルフがケベックを占領。
1760年 ジョージ三世がイギリス王となる。
1763年 パリ条約。カナダがイギリスに割譲される。インドでイギリスが優勢となる。
1769年 ナポレオン・ボナパルト誕生。
1774年 ルイ十六世が治世を開始。
1776年 アメリカ合衆国が独立宣言。
1783年 イギリスと新生アメリカ合衆国との間で講和条約。
1787年 フィラデルフィア憲法制定会議が、アメリカ合衆国の連邦政府を樹立。フランスの国家財政破綻が明らかとなる。
1788年 アメリカ合衆国の第一回連邦議会がニューヨークで開かれる。
1789年 フランス三部会召集。バスティーユ襲撃。
1791年 ヴァレンヌ逃亡事件。
1792年 フランスがオーストリアに宣戦。プロイセンがフランスに宣戦。ヴァルミーの戦い。フランスが共和国となる。
1793年 ルイ十六世斬首。
1794年 ロベスピエール処刑。ジャコバン共和国終焉。
1795年 総裁政府成立。ボナパルトが反乱を鎮圧し、総司令官としてイタリアへ赴く。
1798年 ボナパルトがエジプトへ遠征。ナイルの海戦。
1799年 ボナパルトがフランスへ帰還。巨大な権限を持つ第一統領となる。
1804年 ボナパルトが皇帝となる。フランツ二世は一八〇五年にオーストリア皇帝を称し、一八〇六年には神聖ローマ皇帝の称号を放棄。こうして「神聖ローマ帝国」は終焉。
1806年 イエナでプロイセン軍が壊滅。
1808年 ナポレオンが兄ジョゼフをスペイン王とする。
1810年 スペイン領アメリカが共和制となる。
1812年 ナポレオン、モスクワから退却。
1814年 ナポレオン退位。ルイ十八世即位。
1824年 シャルル十世がフランス王となる。
1825年 ニコライ一世がロシア皇帝となる。最初の鉄道、ストックトン――ダーリントン間で開業。
1827年 ナヴァリノの海戦。
1829年 ギリシア独立。
1830年 動乱の年。ルイ・フィリップがシャルル十世を追放。ベルギーがオランダから分離。ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルドが、新国家ベルギーの王となる。ロシア領ポーランドの反乱は失敗。
1835年 「社会主義」という語が初めて用いられる。
1837年 ヴィクトリア女王即位。
1840年 ヴィクトリア女王がザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバート公と結婚。
1852年 ナポレオン三世がフランス皇帝となる。
1854-1856年 クリミア戦争。
1856年 アレクサンドル二世がロシア皇帝となる。
1861年 ヴィットーリオ・エマヌエーレが初代イタリア王となる。エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に就任。南北戦争始まる。
1865年 アポマトックス・コートハウスで南軍降伏。日本が世界に開かれる。
1870年 ナポレオン三世がプロイセンに宣戦。
1871年 パリ降伏(一月)。プロイセン王が「ドイツ皇帝」となる。

フランクフルト講和条約。 | | | 1878年 | ベルリン条約。西ヨーロッパで四十六年間に及ぶ武装平和が始まる。 | | | 1888年 | フリードリヒ二世(三月)、ヴィルヘルム二世(六月)が相次いでドイツ皇帝となる。 | | | 1912年 | 中国が共和国となる。 | | | 1914年 | ヨーロッパで第一次世界大戦始まる。 | | | 1917年 | 二度のロシア革命。ロシアにボリシェヴィキ政権成立。 | | | 1918年 | 休戦。 | | | 1920年 | 国際連盟第一回総会。ドイツ、オーストリア、ロシア、トルコは排除され、アメリカ合衆国も代表を送らず。 | | | 1921年 | ギリシアが国際連盟を完全に無視し、トルコに戦争を仕掛ける。 | | | 1922年 | 小アジアでギリシア軍がトルコ軍に大敗。 | |

公開日: 2026-07-21